02 「こりゃまた随分と男前になっちゃって」氷の追憶アイスデビモン!
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運命なんて、クソ喰らえ。
ここに灯緒がいるというのも、全ては偶然と偶然が折り重なり合って形成された、いわゆる成り行きというものだった。
それを一言で「運命」などと呼ぶには灯緒にとって嘲笑するような言葉足らずさがある。
だから彼女はこう叫ぶ。
――運命なんて、クソ喰らえ。
最後に灯緒が東京――光が丘を過ごしたのは今から三年前のこと。
当時灯緒は小学生高学年だが、実に背格好はあまり変わらない風貌であった。なかなか伸びない背に成長を見せない小柄な体型、元の顔つきも所謂童顔の部類で実年齢より幼く見られるのは常日頃のことだった。
今でこそ己の風貌を気にしはじめた灯緒であったが、当時は全くといって関心が無かった。それもこれも、常日頃が忙しく人と話すことが極端に少なかったことが一番に挙げられる。
話は戻り、光が丘での最後の日。
最後となることなど誰にもわからなかった、灯緒の生活を一変させることとなる境目の日。
夕陽が辺りを鮮やかなオレンジ色に染め上げる時間帯、いつものように数時間後の夜に帰宅するだろう父親を待っていたある日のこと。
幼いながらも食事の用意をして、洗濯物も取り入れて畳む。そして時間が余ればできる範囲でやる掃除は随分と手慣れたものだ。
物心ついた頃からそれらをやってきた灯緒と父との二人の親子生活は悲しいかなそれで成り立っている。
ボロ雑巾のようにくたびれて帰ってくる父を何不自由なく迎えること。
それが年端も行かない灯緒が賢くない頭で一生懸命考えた、父にしてあげられる最大限の感謝だ。
それを父が良しとはしていたとは到底思えないが、少なくとも当時の灯緒自身ははそれでも足りないと思う程には独り善がりではあったが満ち足りていたのだ。
美味しそうにご飯を頬張るのを見届けて、他愛のない会話を交わしながら、隣で一緒に寝るまでが灯緒と父が一緒にいられる限りなく少ない時間。
そして早朝になると既に家にら父の姿はなく、薄暗いうちから起きて洗濯などの家事をこなし、時間になると一人で学校へと向かう。
一日を学校でやり過ごすと、その日の終了のチャイムと同時に駆け足で家へと急ぐ。
それが幼い灯緒の疑いもしない平和な生活だった。
――だが、その日を境目にその上辺だけでも平和であった日常は音を立てて崩れ落ちる。
既に夕陽は地平線に姿を隠し、街の灯りと星空だけが光る時間帯。夜が更けても父は一向に帰ってこない。
いつもの帰宅時間はとうに過ぎている。仕事が長引いているのか、どこかに寄っているのか、理由は思いつくくらいには度々起こる出来事ではある。
だがその度々と比べても余りにも遅い。
父の心配もあったが、何より寂しかった。父の姿を探すように窓へ近付いて眼下に見える灯りのつきはじめた道路や公園、住宅を眺める。
――そういえば、夕方にそこらじゅうの宙を漂っていた無数のシャボン玉は、既に何もなかったかのように消えていた。
あれは一体何だったのか。どこからそんなに大量に漂ってきていたのか。その時懸命に家事に専念していた灯緒は今更ながらに思考を巡らせる。
今日は変わったことが起きる日だとぼんやりと思う。
そうして日が没した頃から待って、待って、待ち続け、とうとう一日が終わりを告げる。
それからも灯緒は部屋の片隅でじっと帰りを待つ。時計の針はとうに頂点を過ぎていた。
既に冷えきってしまった料理を前に、どんどん重たくなっていく瞼を必死に開こうと力を込めながら待ち続ける。
それでもまだ姿を見せない一番近しい人。
きっと、何も変わらない様子でへらへらと笑いながら帰ってくる。馬鹿みたいな冗談をこれでもかと出任せに言って、根拠もない自信と威勢で胸を張るのだ。
本当は人一倍傷つきやすくて弱いくせに、いつも笑っているあの顔を引っさげて。
そのいつもの顔が瞼の裏にしっかりと焼き付いているから、じっと待ち続けられる。
そんな日がこれからもずっと続くと思っていた。いつの間にか眠ってしまって眩しさに目を開けて迎えるであろう明日も、そのまた次の日も、それから先の日々もずっと。
同じように父の隣で父の背を見ていくのだと信じて疑わない。
それが「世界」であると、その時までは。
待って、待って、待って、ついに抵抗できずに一瞬瞼が閉じかけたその時、
――ドオォォォンッ!
「――――ッ!?」
突然の破壊音に、酷く重たかった瞼が覚醒する。
今の音は一体なんだろうか。
鈍く重たく、脳を震わす程の爆音。通常、生活していればまず聞かないような鋭い破裂音。
体が震えた。悪寒が、寒気が全身を走り、考える間もなく体が勝手に動く。
眠気がとうに吹き飛んだ眼を限界まで開きながら弾かれるように走り出す。
今の音は爆発音だ。
玄関の扉を開け、何段も飛ばしながら階段を駆け下りていく。青く無機質な集合住宅の敷地から出て、先程の音が聞こえた方へと足を懸命に走らせる。
文字通り力を出しきって、肩で大きく息をしながら辿り着いたそこには、
「――――」
一体何が起きたというのだろうか。
絵空事めいた目の前のこの光景を前にして唖然と立ち竦む。
道路のあちこちに大きくひび割れたクレーター群。そこからは黒く燻った煙がもうもうと立ち昇り、思わず顔を顰めるような酷く焦げた臭いが立ち込めていた。それもそのはず、まだ所々でそこそこの大きい火が残っている。
だがそれに驚くのも束の間、灯緒はあるものに視線を奪われる。
道端で一際大きく燃え盛っている巨大な鉄の塊。
どこか見覚えのあるそれに気付くと、灯緒は覚束ない足取りで一歩一歩と近づく。
本当はこの時既に薄々気付いていたのだが、幼い灯緒には理解出来なかったし、この年にしては大人びていた灯緒は理解したくなかった。
結局のところ、灯緒は目の前の光景が信じられなかった。
だってそれは、
「――――ッ!!!」
横転した炎上するトラックの中に、父の姿があった。
――その突然の事故で父が入院し、そして数日後に亡くなった。
『事故』と称されたそれが原因で重体となった父に現実味を感じなかった。その間、灯緒はどのように生活したのか記憶にない。
ただ突然ぽっかりと空いた胸の内の穴に、呆然としながらも穴の存在に気付いていた事だけは覚えている。
茫然自失の数日間に大人達の間で話が進められていたのだろう。
父が亡くなってしばらくして、灯緒は一度も会ったことのなかった遠く離れた田舎に住む祖父母に引き取られることになった。
反対どころか少しの意見さえ言う事もなく、無言ですんなりとそれを受け入れた。きっと初めて私と祖父母が会った時、随分と感情の薄い暗い子供だと思ったことだろう。
それも仕方ないことだ。本当の祖父母といってもそれまで存在も知らなかったし、初めて会うのだから灯緒にとって赤の他人同然の人達でしかない。
都会の街中から風景は一変し、私の居場所は緑豊かな自然に囲まれた田園風景に変わった。
そんな劇的な変化にさえはじめは動揺すら見せなかったが、一変した何不自由ない生活となった灯緒はとあることに思い至る。今までずっと他人との関係を疎かにしてきた灯緒にとって、ここでようやく己の過ちに気付く。
何事も常に父を再優先にしてきた灯緒にとって、父が全てだった。何の疑いもなく世界が父とその他で構成されていた。
なにせ生まれてこの方、灯緒は祖父母も母も親戚も友人も知らない。いつだって隣にいたのは父だけであった。その父でさえ、日頃共に過ごす時間は極僅かなもので。
だから今の歳になっても、こうして他人との干渉に対して何から何まで根本から分からないのだ。
どう言葉を紡げばいいのか、投げかければいいのか、どう反応していいのか、何も明確な答えが何かわからない。
もちろん会話に正解だの不正解だの人によって違うなんてことぐらいは理解できる。だが理解しているのとそれを実行に移せるかは人によっては雲泥の差があるものである。
兎にも角にも灯緒にとっては他人とのコミュニケーションだの距離感だの、そんなことは無縁だったのだから。否、結局のところ灯緒はいつも一人だったのだから。
そして父がいなくなった今、灯緒は本当の意味でもひとりになってしまった。
もう彼はいないのだ。幸福な日々は、世界は崩れてしまったのだ。
いつだって知っていたはずだ。
――ひとりだ。
「――灯緒、灯緒!クソッお前ら何しやがった……っ!」
いくら呼びかけても反応を示さない灯緒。
アイスデビモンのオーラのような技を当てられてから、灯緒は体に積もる冷たい雪にも全く気付く素振りもせずに朧げな瞳をしたまま微動だにしない。
おそらくアイスデビモンのあの禍々しい凍てつくオーラのような技は精神に干渉する攻撃では、と目をつけた。
それもただの干渉ではなく、灯緒の様子から察するに肉体には影響がないものの精神をまるで汚染されているかのような、最悪精神破壊の部類だろう。
「ふざけやがって……!」
「――――」
随分と厄介で嫌らしい技を持っているものだ、と内心舌打ちしながら唾を吐く。
忌々しい二体を射抜くように睨みつけるが、それにアイスデビモンは答えず、反応さえ示さない。どこまでも忌々しい奴だ、と過去に相対した『アイツ』も含めて見る。
直後、前振りもなく突如その内の一体がゆらりと行動を起こす。それを逃すまいと目で追うが、
「な、んだっ!?……――ッ!?」
途端、焦点が急にぶれ、ぐらりと体が傾く。
頭も視界もなにもかも、世界が歪んでいくような吐き気のする感覚。それを感じてすぐにしまったと舌打ちする。
どうやらアイスデビモンのあのオーラにあてられたらしい。
その動作の意味をごちゃごちゃと考える暇もなく、歪む景色の中とにかくアイスデビモンを視界から逃すまいと慌てて敵を振り返る。だが既にそこに二体の姿はなくなっていた。
そこにあったのは、
「……これは……?」
まさかこれと同じものを、灯緒も見せられているというのだろうか。
ついさっき、瞬きを一度する前まで辺りを包んでいた雪景色は跡形もなく消え、そこにはいつか見慣れた森林が広がっている。
この光景はおそらく、と言わずとも直感でわかる。デジタルワールドだ。
「一体なにをしでかそうってんだ……悪趣味な」
気が付けばその森にいたことを意識した幼年期の頃から、他のデジモン達と共にデジヴァイスを持ち、いつか現れるそれぞれのパートナーを待つ。その様子が眼の前に映し出される。
そして、出会いを果たした時までも第三者の目線でそこに現れた。
そんなものご丁寧にわざわざ見せられなくったって、自分が一番鮮明に覚えている。
場違いにもそう苛立ちが募る。
「――――」
めまぐるしく次々にどこかで目にしたことのある場面が切り替わっていく。
今まで旅をしてきた中で、自分が見たもの全てが、記憶の奥底に沈んでいたものが目を張るほどに鮮やかに再現されている。
こんな生々しいものを見せて一体ヤツらはどうしようってんだ。
そうこう思っている内にも目の前の光景は自分を置き去りに、まるで古びたフィルムが巻戻るように変わっていく。
そして、己の立つ場所がふと暗くなる。それもそのはず、景色は冷たい岩肌が剥き出しの洞窟に変わったからだ。はっきりと見たことのある場所に、思わず息を呑む。
薄暗い洞窟内、自分の別の姿――デビモンとなった己と、怪我のせいで酷く体を重たそうにしている灯緒が相対している。
あの時の灯緒の顔は、きっといつまでも忘れない。
――それは酷く、彼女には似合わない表情だ。そのことだけは、この胸の内にしっかりと。
「――――それが、どうしたって?」
幾度と立ちはだかった聳え立つ壁。
何度も叩きつけられた現実。
その度に膝を尽きそうになる絶望。
振り返ってみれば、決して楽な道を歩いてきた訳ではなかった。できるなら目を背けて蓋をしたくなるような場面も何度あったことか。
そしてその過ぎ去ったそれらを、今でも簡単に笑って許容できるほどの精神を自分が持ち合わせているとは思えない。
何度、独り善がりな苦渋の選択をしてきたか。
何度、打ちのめされたか。
だけど、その場面にはいつも、あいつの姿があった。
だから、屈せずに自分は前を向いて茨の道を歩けたのだ。
彼女の隣を、歩くことができたのだ。
「こんなものでオレがくたばるとでも思ったのか?その記憶はな、苦しかったと同時にオレを最も奮い立てる記憶でもあるんだよッ!!」
こんなこと、簡単に試してくれるな。とうに覚悟は決めていた。
孤独も苦しみも悲しみも、パートナーが抱える苦しみは等しく全てオレのもの。あいつがそれを全部背負うなら、その苦しみごとオレが支えてやる。
その自分一人で勝手に取り付けた約束は、この胸になお炎を絶やさず燃やしている。
それが己の、「パートナー」の姿だと。記憶のままのあいつ、「パートナー」が記憶のままの眩しい表情で言葉を紡ぐ。
それが今の己の原動力だ。
「――フレイウィザーモン、超進化!」
体の底から湧き上がるものを、思うがままに吠えた。
灯緒の持つデジヴァイスから、溢れんばかりの眩い光線が走る。それは絶え間なく降り積もる極寒の氷雪を溶かしていき、表情のなかったアイスデビモン達の顔をも強張らせる。
そして同時にデジヴァイスと同じ光を放つのは、灯緒の胸元に下がる「紋章」。その光は燃えるようであり温かく力強いもので、素直に身を任せられる安心感を含む光だ。
デジヴァイスと紋章の光が螺旋状に合わさり、それは力強い鼓動を脈打つように降り注ぐ。
眩い進化の光と共に、どこからか現れた幾千幾万の札が姿を覆い隠し、それらの塊は緩やかに長身の人の輪郭を象っていく。
この世の理を事細かに記された数えきれない札の中からの再び姿を現したのは、内側に護符をつけた白いマントを纏う博識の魔人。
「――バアルモン」
光を帯びて降り立ったのは、二度目の進化を遂げた姿。
バアルモンはぎょろりと額の第三の目と共にアイスデビモン達を見据える。その動作だけで、力の差を感じ取ったらしいアイスデビモンは逃げる訳でもなく、むしろバアルモンに対して出方を伺うように体を縮ませるように構えをとる。
それを見たバアルモンはふん、と鼻を鳴らす。
「もう遅いってんだよ、散々虚仮にしやがって。――狡賢いお前らなら、これからどうなるかもう分かってるだろ?」
「……バ、アル……?」
「とっとと失せろ――カミウチ!」
胸元の温かさに気付き、そこでようやく私は意識を浮上させる。というよりアイスデビモンの意識がバアルモンへ移ったことでオーラによる拘束が解かれたのだ。
意識が戻る直前の微かな咆哮を探すように重い頭を上げると頭上に積もっていた雪が落ちて溶ける。目の前の頭上では長身の影がその手の打神鞭を振りかぶり、まずは一体のアイスデビモンを捕まえる。すると捕らえられたアイスデビモンは、
「――――……!」
「どこを見てんだよ、オレの心臓はここだ!カミウチ!」
瞬く間にアイスデビモンが全身に鋭い衝撃を浴びる。文字通り体を貫くような激情を具現化させたかのような鞭裁きは、アイスデビモンの抵抗なんてないかのように靭やかに唸る。
一瞬にして戦闘不能になった一体から瞬時に残る一体にも同じくその鞭で宙に舞う。
「――――!」
声にならない悲鳴を虚空に響かせながら、二体のアイスデビモンは同時に力なく崩れ落ちる。それを待っていたかのようにいつの間にか雪は止み、私達の上空が明るく照らされていたことに気付く。
どうやらアイスデビモンの力がなくなったことでその影響を受けていた天候が元に戻ったらしい。
全身を圧迫していた束縛感も同じくようやく失われて、夏らしい熱風が体を撫ではじめると途端にぶわっと汗が吹き出す。
「えっと、バアルモン……だったっけ」
「ああ。それよりお前こそ身体の方は大丈夫か?」
「おおともよ、全然平気!ホントありがとう、助かったよ」
「まぁな。お前が寝ててもオレ一人で全然余裕だったな」
クールな外見に合わないような、いつもの憎まれ口をたたきながら空中を滑るように降りてきたバアルモンに駆け寄る。
側まで近寄ると、年齢標準よりも背の低い灯緒からすればバアルモンをかなり頭を上げて見なくてはならない。インプモンの時と比べると随分と背が高くなってしまった。まあ、他のみんなのデジモンに比べれば普通の人間サイズではあるが。
「こりゃまた随分と男前になっちゃって」
「お、オトコマエ……」
「あ!なにあれ!?」
頭の半分を布で覆われたバアルモンをまじまじと見ていた視線を少し上にずらすと、そこには眩い光の塊が浮いている。
「アイスデビモンが吸い込まれていく……?」
見上げると私達の真上で眩しく光るものは、力を無くしてぐったりとしている二体のアイスデビモンと周りの瓦礫や廃品をまるで回収するかのようにどんどん吸い込んでいく。そのままアイスデビモンの姿が謎の光の中に消えると、同じように呻き声も聞こえなくなる。
ブラックホールというよりゲートのようなものように見えるが、一体どうしてこんな所出来たのだろうか。デジモンがいる所に出るとしたら、
「UFOみたいに吸い込まれてるけど、そんなわけないよね。もしかして、あれデジタルワールドに繋がってるんじゃ……」
「ああ、多分そうだ。向こうへ送り返されているんだ」
「ってことは手間が省けたってこと?そうと決まれば早く行こう、みんなの元へ!レッツラ――」
「の前に、ちょっと待て灯緒。教えろよ」
その一言だけで分かってしまい、ギクリと口角を引きつらせる。
バアルモンはアイスデビモンの精神攻撃の内容について聞いているのだ。過去を見せられるものであることには気付いているらしく、それに少なからず拒絶反応を見せた灯緒に真っ直ぐ瞳を向ける。それは避難などの目ではなく、ただ知りたいと思っているだけの、裏のない眼だ。
そんな目を見てしまえば断れないし、元々嫌だと言う理由もない。頭上の光を浴びながら、どこからどう話そうかと一瞬思案して口を開く。
灯緒は大都会東京から転校してくるとあって、はじめてこちらの田舎の学校へ顔をのぞかせた時はどうやら学校は灯緒のことで話が持ちきりだったようだ。
だが、実際に彼女を目にしてみればどうだろうか。
日に焼けた元気な田舎っ子の中に一人だけ、色白の小柄で無口な少女がどこからか迷いこんだようにさえ見える。ここでも灯緒は異質だった。
どんなものでも集合体というものは須らく異分子を排除したい傾向になるものである。
大人しい灯緒なら尚のこと、その傾向は急加速し排除に至るまでそう時間はかからなかった。いじめなんて直接的な事象も起こることなく、まるでそこには居ないかのような、そんな扱いであった。
父を亡くしたことによって酷く無気力になった灯緒は真面目に学校へは行くものの、常日頃は一人を貫いた。学校だけは祖父母へ心配事を増やさないように考えた結果の譲渡の現れだ。
だからそれ以外のことにはとことん無気力を発揮し、家にも居場所がないと思い込んでいた灯緒は家からも逃げ出し、最終的に秘密基地――ジャンク置き場の隅へと必然的に追いやられた。
ゴツゴツとした無機質な機械ばかりが転がる人知れず廃れた寂しい掃き溜めの場所。灯緒の心をどこか安らがせるような温かみのある冷たいものの寄せ集め。
そこだけが唯一灯緒を優しく受け入れる都合のいい箱庭だ。更に言うと、自分の家の墓――父の墓とも行き来しやすい近い場所にあったことでも、灯緒は無意識に選んでいた。
そうして己にとっては穏やかに過ごしていくうちに、灯緒はまたふと気付く。
父の死という痛みに歪んでいた心が時々軽くなることに気が付いたのだ。いわゆる、歳月というものがいつしか心を癒やしてくれる。そんな現象だった。
灯緒はいつでも考える時間だけは有り余っていた。常に一人であれば学校でも家でも秘密基地でも、熟考できる時はいくらでもあった。
そういう時に思い出すのは、限って父を、父のあの顔だった。大好きだと豪語していた、あの何も思っていないようで限りなく相手のことを思って笑っている顔だった。
私は、好きだったはずじゃないのか。ああなりたいと思っていたのはいつだったのか。いつでも強く優しく弱さを見せず、常に前を向き続けるひたむきさを持ったあの心が、好きだったはずじゃないのか。
今の私にそれがあるのか。少しでも、一歩でも近付けているのか。
そんなもの質問に値しない愚問だ。近付こうなんて努力、全くしていないじゃないか。
今はまだ全部が全部分からなくていい。今からでも少しづつ、少しでも近付けるように前を向こう。周りの人達と真剣に向き合おう。
人との距離の取り方なんてとことん分からない。だけどそれを分からない、のままで済ませてはいけない。やらなければいけない。やればそれだけ父の姿勢に近づけるのだから。
目標はもっと高く持つべきだと言いそうな父の、また軽薄な笑みが思い出される。それでも、私は。
今までの私は捨てていこう。
その人知れず一大決心の後、灯緒の周りはまた劇的に変化を遂げる。
そのとある日を境目に、傍観の姿勢をやめたのだ。彼女自身を全面に押し出した結果だったそれを今度は奥底に閉じ込めた。
常に笑顔を顔に貼り付けて絶やさず、いつも元気に明るく子供らしく。喜怒哀楽は激しく、何事も素直に誠実で、相手に対して全力で向き合う。
彼女の思い描く理想の姿を、また灯緒も全力で再現しようと努力したのだ。
それらは何事も父の真似事の域から出てはいなかったが、それでも明るく振る舞えば振る舞うほど、周りもまた明るくなる。それに味を噛みしめるように灯緒は文字通り人が変わったかのように振る舞い続けた。言わずもがな相対する他人の向こうに、ずっと父の姿を追っていた。
そうして笑顔を貼り付けていれば、自然とその顔に凝り固まっていくのも必然ではあったが、その裏にきちんと変化は起こっていた。
いつしか私は「笑う」ことが出来るようになっていた。貼り付けて作っていた虚像のものではなく、本当の閉じ込めていた灯緒が作ったものだった。
そして同時に、私は過去が記憶の奥底に消えていくのを感じた。それは過去との決別を意味するものではない。
それはつまり、私が幸せな日々を過ごせていたことの証拠に他ならない。笑い合える今日を。笑顔で過ごせる明日を。こんなにも沢山の世界があったのだと。
こんな幸せで良いのだろうかと心の中で問い質すことだって幾度かあった。それほどに、己が変われば周りも変わった。いや、周りを見る目が変わったのだ。その目はきっと、父と同じものだ。
――そんな幸福の日々を過ごしてしまう灯緒が唯一毎年、ある日が来る度に弱い本当の自分を思い出す。
「今日がね、命日だったんだよ。お父さんの」
いつも父の背を追ってきた。
父のようになりたいと、父のようにならなければと、父が亡き後父の代わりのようになるのだと。いつでも盲信に駆られたこの心は凝り固まっている。
それはきっと、無意識の自責の念が複雑に絡み合ってしまって解けなくなった沢山のか細い糸。幾年の想いの蓄積もあって、更にぐしゃぐしゃになって、もうどうにもならなくなった筈の塊。
そのどうしようもない塊が、まさかこうして再び動き出そうとするなんて誰が思っただろうか。
父のようになりたいのなら、弱音を吐いてはいけない。誰よりも、パートナーにそれをこぼすなんてできない。
頑なに信じていたそれを、いとも容易くパートナーの方から否定されてしまった。
自分を頼れと、お前を守らせろと、そう言われてしまった。寄りかかればいいのだと言われてしまった。
少し前からわかっていたことじゃないか。側にいてくれた相棒は既に進化を意のままにできるだけでなく、心も強くなっていたのだと。抱え込まずに曝け出してしまって寄りかかればいいのだと。
その都合の良すぎる耳障りのいい言葉に、無意識に過去に凝り固まっていた心が揺り動かされてしまった。
そうなってしまえば、この温もりを知ってしまえば、もう今は情けないところなど見せられない。
「そんな私が、一足先にお父さんのお墓参りに行ってたってワケ。――ありがとうバアルモン。吐き出せたらなんかスッキリしたよ。なんていうか、言葉にするのって大事だねえ〜」
「……そうやって露骨に安心された顔されると、なあ……」
「いいじゃないの。寄りかからせて、守って、安心させてよ」
「……勝手にしろよ」
孤独な日々を、悲しみを引き連れたって大丈夫。同時に隣に引き連れる君の姿があるのだから、隣にさえ居てくれればきっと己を見失わない。いつだって叱咤して激励して、君が見ていてくれるのなら手加減なんていらない。
父ではない、君がこうあって欲しいと思うような私らしい私に、少しでも近付けるように。
今度こそ、今度こそ。弱い私は心の中で弱い私を奮い立たせる。
今度こそ、私は私らしく変わってみせる。誰でもない私自身の世界は私の中にあるのだから。
気を失う前の叫びはちゃんとバッチリ聞こえてましたよ、と掘り返せばバアルモンは罰が悪そうにプイッとそっぽを向く。顔全体を覆う布のお陰で顔色の変化は分からないが、その様子がインプモンの時の姿とそっくり重なって、そこでもまた心の中でこっそり笑った。
きっとお互い、そんな姿を見せ合うのはお互いだけなのだろう。
「行こう、バアルモン!」
「ああ!」
さあ、小休憩は終わりだ。一度立ち止まったなら再び歩き出そう。
目指すはみんなのいるデジタルワールドだ。
隣に立つバアルモンを視界の端に捕らえながら、どちらが言うでもなく同時に二人で地を蹴る。
そのまま私達の体は重力を無視して宙にふわりと浮かび上がると、上空にぽっかりと口を開けているデジタルワールドへのゲートへ突入した。
そして、再び世界は未来へ加速する。
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