懇望




「最近すっかりご無沙汰だったじゃないか、No1」

雪国だと見間違えるような、何処までも白い空間だった。見知らぬ人までか、そこに馴染みのある者ですら排他するような冷徹な雰囲気を持つその中に、2人の人間が立っていた。1人の人間はアスクレピオスの仮面を被っていてその顔は解らなかったけど、もう1人の人間は何も被らずにその顔を惜しみなく露にしている。癖のある白髪に、粉雪が積もったかのような睫毛、些か細く尖った形の少し淀んだ赤色の瞳。彼は背景と同化してしまいそうな、真白な患者服を着衣していた。

「裏切りを目の前にして逃げたくなったのかと思ったよ」
「…大日本帝国に行く、と云った筈だ」
「ああ、そうだった。私もその地には多少思い入れがあるよ…。…古い記憶だがね」
「……」
「して、どうだった? 日本は」

No1と呼ばれた男は露骨に返事をしたくなさそうな顔をしたが、漸く「進む事を忘れた国だった」と云った。その言葉を聞いた仮面の人物は唸るように仮面の口元に右手を当て、

「ああ…西に行ったのか。東は君達の国よりも更に文明が発達しているよ」
「……」
「今度行ってみると良い。…さあ、メンテナンスをしよう。云った通りにちゃんと薬の服用を?」

仮面の人物がそう尋ねた時、奥の扉が開く音がした。此処の扉は全てが人間の体温に反応して自動で開く仕組みになっているのだが、この部屋に他の誰かが入ると云う事は、No1からしたら初めての経験だった。訪問者が気になりそちらに顔を傾けるが、その人物は今まで見た事もない人間だった。四方に備え付けられた監視カメラが、機械音を出しながらその人物に焦点を当てる。No1と同じくして患者服を着た人間だった。然しその髪色の所為か今にも壁だか床だかに溶けてしまいそうなNo1と違い、地面に根付く大木のよう、1人の人間として強く存在しているようだった。

「ああ、来たかい。紹介しようと思っていたんだよ…No1、こちらはNo78だ」
「78…?」
「期待の新星だよ! 彼は今に最高の兵器になる…」

No78と番号が振られた彼は未だ子供だった。No1と比べて体格が二回りも小さく、少女のようにも見える。No78は大きな瞳でNo1を見つめたが、コミュニケーションの用途を持ち合わせている唇は飾りであるかの如く、動かす気配がない。仮面の人物はパントマイムをするかのようにその人形の肩に手をやると、

「彼は未だ話す事も、読み書きも話も出来ないんだ。君のように哲学を諳んじるなんてましてや。だから一応教育係をつけたのだけど、」
「…教育係…」
「多分『知能を犠牲に』するから、あまり意味はないだろうなあ」

No1の眉が顰められた時、自動扉が再び開く。扉の奥から姿を現したのは、一人の女性だった。妖艶と云った形容がよく合うような、目鼻立ちの整った細面の女性だ。彼女は2人とは異なって患者服を着ておらず、連れて来られたままの姿なのか、この国では見ないような民族的な派手な色の衣服を身に纏っていた。
彼女はNo1に向かって会釈をし、

「…初めまして」
「…ああ」

そう挨拶するなりNo78の肩に手をやって、仮面の人物を射るような目つきで睨む。恐らく望まず連れて来られた人間だった。仮面の人物が肩を竦め、「もう帰って良い」と云うと、女性はNo78と共にその部屋を後にする。
再びNo1と仮面の人物だけの空間になると、仮面の人物は「さて」と云ってNo1を見る。No1の肩が微かに恐怖で震えた。
何時からだったか――とNo1は思う。この拷問が始まったのは、自分が幼い頃だった。人間兵器の存在に感銘を受けた莫迦な両親が己を実験材料として提供してからだった。否、実のところ人間兵器なんてどうでも良かったのだ、彼等は自分達の手に負えない叡智を持った息子を何でも良いから離したかっただけだった。その頃は仮面の人物も仮面をつけておらず、胡散臭い顔で父親と肩を並べながら「共に人類の繁栄の為に頑張ろう」と手を差し伸べた。実験で血に塗れたままの右手を。
何が人類の繁栄だ、と歯を食い縛る。彼等が望むものは人類の滅亡だ。愚かにも、国から昔発せられた命令を今でも忠実に成し遂げようとしている。飼い主はとうに死んだのに、或は手綱を離されて見捨てられたのに、それでも尻尾を振り主人の帰りを待っている。
――それは目の前の仮面の人物だって同じだった。命令を受けた父親はとうに亡くなったのに、未だに父親の遺した任務を遂行しようとしている。

「…愚かだな、」

無意識にその言葉が出て、意識した時にはもう遅かった。No1が仮面の人物を見ると、仮面の人物は組んだ腕の右手の人差し指を上下に小さく動かした。それが何かが気に喰わない時のこの人物の癖であると云う事は、No1はこれまでの経験から痛いほど解っている。

「…私に云ったのか?」
「……」
「…。本当にケルト人は傲然な奴等ばかりで厭になる…ッ、…まあ良い、」

仮面の人物は声を荒げ、右手で壁を強く押す。するとその場所がボタンだったのか、床に丸く穴が開き、手術台が下から音を立てて上がり出す。手術台があるべき場所で止まった時、No1の眼窩が非道く疼いたような気がした。仮面の人物は仮面を外し、乱暴に床に放り投げる。

「どうせもう少しで死ぬんだ。…君も、コーカス軍の奴等も。君の花で、殺すんだ…!」


…その後数分もせず、No1は自分の悲鳴がまるで人事のように耳の奥で鳴り続けるのを聴く。
そして自分と向き合う人物の顔とは、愉しいような、苦しいような、どうしたら良いのか解らないような、そんな何処か悲痛に満ちた顔であったのだが、No1は何も考えられはしなかった。






――メアリがコーカス軍2軍に所属するようになってから、およそ2年の年月が経過した。その間に変化したものと云えば特になく、1軍隊長や副隊長を始め上官の階級にも一切の変動がなかった。然しそれは昨日までの話である。

そして或る夏の本日、状況が大きく変化する。

1軍に所属していたと或る軍人が、両足を失って帰還した。大きな抗争で生じた出来事だった。日頃から怠慢の多かった彼は油断してはならぬ状況で油断し、そして二度と返らないものを喪失してしまった。木の義足を嵌め、車椅子に乗る彼を見て、皆はかける言葉が見付からないでいた。
男が軍を辞めてケルト人の住む村へと帰ったのは、その事故の3日後であった。車椅子の車輪の跡が轍のように叢の上に残留し、その跡をまるで戒めのように、1軍隊長は見つめていた。1軍の責任者である彼からしたら部下の失態は己の責任でもあったから、また思うところが人よりも多かった。
然し、何時までも呆ける事を許してくれる世の中ではなかった。彼が感傷に耽る間もなく、現実は問題を突き付けて来る。まるで人生を足掻きながら生きる人間共を、その運命の大きさで圧死させると云わんばかりに。


「…で、スナークの代わりはどうします?」

不健康な紫煙が空中に浮かんでは惑うように蕩揺する。煙と共に吐き出されたその億劫そうな言葉に、ラビは首は動かさずに目だけを動かして反応する。スナークとは先程記述した負傷兵の事であり、抜けた1軍の穴を誰で埋めるか、と云う事だった。
ラビはドードーから手渡された書類を左手で持ちながら、

「…妥当なところでリリー…、いや、2軍副隊長」
「…そっすね。後者を推します」
「ならばそうしよう。ドードーに話を…」

話は何の問題もなく、呆気なく進んで行く。ラビが席を立って後ろを振り向くと、何時の間にかそこには両手にトレーを持ったメアリが立っていた。トレーの上にクロワッサンとハムエッグ、熱々の珈琲が載っているところから、これから朝食のところだったのだろう。ラビが挨拶もそこそこにして去ろうとすると、

「ま。待って下さい、隊長」
「…何だい、メアリ」
「1軍に誰か1人を入れる、と」

ラビの危惧した通りの回答だった。この言葉が出るのを心配し、ラビは早々にメアリの元から離れようとしたのだが、そう物事は上手く運んでくれないようだ。そしてその話を無論傍聴していたビルは煙草を口元から離し、大きく身を乗り出して、

「…何考えてんだ。坊主」
「立候補は可能でしょうか」
「それは…、」
「駄目に決まってんだろ!」

ラビの言葉を遮って強く発したのはビルだった。それにはメアリだけでなくラビも驚いたようで、思わずと云ったように左手から落ちそうになった書類を何とか持ち直す。ビルは普段の気怠そうな表情とは打って変わり、怒りを孕んでいるようにも見えるような凄まじい剣幕で、メアリの顔を睨んでいる。然しメアリはそれにたじろぎはせず、寧ろ想定内だとでも云わんばかりに自分もビルを強く見据えた。

「坊主、お前自分が何を云っているのか」
「解っています。実力があれば――」
「そこだ。お前には未だ実力がない」
「ッそんな事…」
「ある! お前の母親だって1軍に入るには7年かかったし、父親は1軍にも入ってない!」
「自分は親とは違う!」
「違わねえよ!」

メアリはトレーを机上に乱暴に置き、ビルは煙草の火をそのトレーの上で揉み消した。両者の意見が次第に口論のようになり始め、物事をよく解っていないギャラリーが出来始め、ラビは頭が痛そうに右手を額に置いた。
メアリは逸早く1軍に入りたがっていたし(その願望は入隊時よりも更に膨らんでいるようだ)、ビルは未だ後2年は待つべきだと思っている。それは1軍の仕事が2軍以下と比べると格段に重いものばかりで、それこそ両足どころか命を持って行かれるような仕事だって幾つもあるからだ。未だ経験のないメアリでは荷が重すぎたし、そんなに早く「死に急ぐ」ような行動を取らなくても良い、と云う事だった。有り体に云えば、ビルがメアリの身を案じるが故だった。
甘い考えだし不要だとも思えたが、それはまたラビも持っているものだった。実力なら、或は天性の才能だけで云えば、1軍に居ても問題はないかも知れない。然し若すぎる。今は未だ時ではない、と云うのがラビとビルの意見が一致するところであった。
それを正直に吐露するべきであろうか。否、そんな事を云えばメアリは益々尖る事だろう。何をそんなに急く事があるのかも、意固地になる必要があるのかもラビには解らなかったが、(ましてや自分の存在の所為だとは)メアリはそう云う人間だった。
好い加減ギャラリーが煩くなってきたところで、ラビが書類の平面でビルとメアリの頭を軽く叩く。完全に油断していた2人は呆気に取られてラビを見上げたが、ラビはビルの顔を一瞥だけするとメアリへと視線を遣り、

「…1軍を希望するのかい」
「! はい」
「ラビ隊長っ…」
「なら、こうしよう。メアリ、チミに実力があるかを見せて貰う」
「…!」

メアリの顔付きが真剣なものと化し、次のラビの言葉を待つ。対してビルはどんな『怪物』が次に出て来るのだろうと、気が気でないような顔でラビの顔を見る。
ラビはそんなビルの顔を指差して、

「ビル。…ビルが相手だ」
「…へっ…」
「ビルとメアリに第三倉庫でペイントボールで闘って貰う。特製ゴーグルとフェイスマスク装着、時間制限はなし、相手の急所に当てた方の勝利だ」

そう云うとラビは自分の心臓や頭部を指差して、「足や腕等の致命傷でないものは除く」と云った。
ビルとメアリはお互いの顔を見て、それから心臓から腹にかけてを無言で眺めた。自分が今からこの身体を撃つと云う。ビルはメアリの腹部を数秒眺めた後で、

「…いや、納得行きません。そんなチャンスは…」
「不安かい」
「…何ですって?」
「メアリの1軍昇格に不満があるのなら、ビルが砦となれば良いだろう」
「ッ…」
「それが出来ない、と弱音を? 副隊長の癖をして」

珍しく揶揄するような、否、叱咤でありながら、鼓舞にもなる物言いだった。ビルはその一言で覚悟を決めたのか、ラビから視線を外すと踵を返して大股でその場から離れて行く。その背中を慌てて見るメアリに、前を向いたままで、

「坊主、1時間後に第三倉庫だ! 逃げるなら今の内だぞ!」
「っ誰が…!」

メアリが反抗しようと大きく口を開きかけたその時に、ラビがメアリの肩を叩く。ラビの方を振り向くメアリのまなこに入るは己を見据えるラビの射るが如き炯眼で、メアリは刹那五感の全てを奪われた心持ちになった。ラビは呼吸すら忘却した相手に向かって、

「人事を尽くして天命を待つように」
「…え、」
「どうなるかは本官も運命に任せよう」

ラビはそう云うと「健闘を祈る」とだけ云い、階段を降りて行く。階段を何段か降りたところで、階段を上がるパットと出くわした。
パットはラビと目が合うと直ぐに視線を逸らしたが、ラビは逆にパットを構いたくて仕方がないとでも云うように階段を降りて距離を詰め、

「パットも来るかい」
「何に…」
「メアリとビルの陣中見舞いだ、2人が闘う」

パットは理由も場所も聞く事なく、口を噤んだままで首を横に振る。ラビはそれ以上強く誘う事もなく、「なら仕方ない」とだけ云って階段を降りようとしたが、その前にパットがラビの右手を掴んで動きを制した。
止むを得ず静止したラビがパットの顔を覗く。彼の赤色の瞳は非道くくすんでおり、こんなに鈍い色をしていたろうか――と思った。それに何処かしら表情も優れない。
そしてパットは鉛の如き重々しい口を開く。

「もしも、メアリとビルのように私が貴方と闘うとしたら…、貴方は、私に勝てると思いますか」

相手の心中を忖度しかね、ラビの顔が一瞬怪訝なものとなる。然し直ぐにその真意を推断する事が出来たのか、平生と何ら変わらぬ調子で「当然」と云った。パットの右手の指が軽微に動き、恐る恐ると云った様で漸く自分もラビの顔を見る。自分のした悪戯が、教師か親に見付かった時の子供のように。
ラビはこの時確かにこう云ったし、実際彼の言葉に嘘はなかった。

「本官はモグラ叩きが得意でね」

その言葉を聞くと、パットは思わず息を呑む。ラビはもうそれ以上云う事はないとでも云うようにパットの横を抜け、踊り場に立つと「ああ」と思い出したように後ろを振り向いて、

「何、叩くと云っても可愛いものだ。二度と本官に刃向かえない程度に痛め付けるだけで」
「…相当でしょう、それ」
「はは。安いものだろう、その後はまた可愛がるんだから」

パットが踊り場を見た時にはもうラビの姿はなく、階段を降りる音が少しするとそのまま音が遠くなって消えた。パットは手摺りに背中を預け、そうして小さく息を漏らす。見上げた天井が非道く遠く感じ、明かりが明滅しているようにも見えた。頭も目も身体も何もかもが重く感じたが、特に重いのは腹だった。腹部に凄まじい程の違和感があり、油断すると張り裂けるような程の圧迫感。石を腹に詰められた狼とは、こんな感覚だったろうか。このまま井戸の中に落ちてしまいそうにも思えた。
腹に左手を当て、嗚咽するように言葉を口にする。

「…救えない程お人好しで…莫迦な人だ」



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