大日本帝国U




そして日と場所は変わり、大日本帝国。一同はあれから手続きを済ませ、飛行機と汽車を使って無事に異国の地へと降り立った。
ラビやビルは初めて見る変わった国に、好奇心に満ちた目で辺りを見回すが、メアリにはそんな余裕がない。すっかり疲労し切った顔で、背を丸めて曲げた膝に手を置いてと満身創痍な様子である。そんなメアリの様子を見たビルは、煙草の煙を溜息と共に大きく出して、

「おい坊主。長旅で疲れちまったか?」
「…まさか汽車まで使うとは思わず…」
「仕方ねぇだろ、西にゃ飛行機も飛行場もねーんだ」

メアリはてっきり飛行機で一瞬なのかとも思ったが、文明の拒否をしている大日本帝国には飛行場がないと云うので随分と古い汽車を使う羽目になった。しかもラビ達は異人だったので、何回か許可証を見せて確認を済ます事を余儀なくされた。
最初はあまりの仰々しさに何の冗談かと思ったが、然しその事もこの国を見たら納得出来る。ラビ達の居るアイルランドを始めとした欧州とは違い、発達した文明のようなものは何もなかった。改めてメアリは周りを見てみる事にする。
高い建物は一切無く、小さな家々が所狭しと並んでいる。からからと回る水車からはとぽとぽと水が溢れ、子供や商人がその手に様々なものを持ちながら声を出し、色鮮やかな着物に身を包んだ女達は口元を抑えながら笑い、そんな人々を遠くから美しい山が囲んでいる。自国に居ては永遠に見られなかったであろう、不思議な光景だった。こんな国がある事自体がメアリからしたら驚きで、今もこれは本の中の出来事なのではないかと疑ってしまう。ラビはミニチュアだと云ったけど、確かに自分達がジオラマの中かドールハウスの中にでも迷い込んだような、そんな錯覚すら覚えるようだった。
何も驚くべきものは自然や家だけではない。人々の姿もまた摩訶不思議だった。闇のような黒色の髪と瞳、小さくて丸い体躯。自分達の民族とは異なるそれらは怖くもメアリを魅了して、掴んだまま離さない。初めて見る東洋人だったから、まして感動は多い。自分が昔の航海者にでもなったかのようだった。
すっかり圧倒されているメアリに、ラビは2枚の紙を手渡して、

「それじゃあ今から本官とパットは総司令官の元へ行く。メアリとビルは適当にそこら辺を回っておいてくれ」
「…えっ。俺達は駄目なんすか」
「先方が必要以上の人数と会う事を望んでいない」
「それじゃあ俺達が来た意味、」
「旅行、と云った。…すまないとは思っているが、どうせなら2人に羽を伸ばして貰おうと思って連れて来た。仕事は忘れて適度に遊んでおいて欲しい」

ラビから渡されたのは、メアリとビルの分の許可証であった。朱色の判子が押されたそれを見てビルは不服そうに顔を曇らせたが、然し何を云っても無駄だと解っているのか素直に「…解りました」と云う。ラビは「すまない」と云うと、パットを引き連れて総司令官室のある大日本帝国軍の方へと向かって行く。
許可証を見つめるメアリは、ビルも本来ならば総司令官の元へ行くのが許される存在であるのだと思った。然しラビが彼を連れて行かなかったのは、恐らくメアリが1人になる事を避ける為だ。メアリが許されざる存在である事は実力や経験からして明らかであったし、何より彼は「見聞を広めては」と云った。メアリの見聞を広める為にラビはメアリを連れてきたし、ビルを犠牲にした。
自分の見聞の為にビルが話し合いに参加出来なかった事を、メアリは申し訳なくなって押し黙る。そんなメアリの落ち込みようを見たビルは困ったように頬を掻き、それからわざとらしく咳をするとメアリの頭を軽く叩き、

「…ま、俺は感情的だから話し合いには向かない事を、隊長はしっかり解っているってこった。流石隊長だ」
「え…」
「お前にはみっともないところを見せたな。許可が下りたんだ、隊長達が帰って来るまで遊ぼうぜ」
「ってちょっと待ったビルさ、」

メアリを励ますべく気丈に振る舞うと、商店のある方に向かってビルは突然駆け出した。メアリは慌てて彼を追おうと走り出すが、周りを見ていなくて1人の少年とぶつかってしまう。両者共強く身体をぶつけてしまい、地面に叩き付けられた。

「…わっ!」
「……ッ、」

メアリは直ぐに起き上がるが、少年は余程痛んだのか中々起き上がろうとしない。メアリは慌てて彼の右手の手首を掴み、地面から身体を起こさせた。

「すみません、大丈夫…」

顔全体を隠していた黒髪がはらりと動き、その顔をメアリの前へ曝け出す。その顔にメアリは思わず赧顔し、赤色の瞳は釘付けになった。――柔らかくて細い肩までの黒髪に、自分を映すピオーネのような黒色の瞳。惚けて開いた唇は微かに桃色で、まさかこれが同じ少年かとメアリは疑うが、それでも彼は矢張り少女では有り得なかった。
手首を掴むメアリの力が思わず強くなり、その痛みに少年は少し痛んだ顔をすると困ったように眉を下げる。その一々の表情にメアリは目を離せないでいたが、少年の唇が動いたのに、まるで人形が言葉を発した時のような衝撃すら受けた。

「…あの、離して頂けませんか…」
「…? ごめん、何て…」
「? …日本語、」
「何?」
「通じない…?」

少年は日本語しか話せなかったし、メアリは英語と少しのアイルランド語しか話せなかった。言語が通じない事を悟った少年は腕を離して欲しいと思って、メアリの左手にそっと触れる。メアリは少年の細くて白い指が自分の手に触れたのに益々顔を赤くしたが、そこで少年の困った顔とその指から 自分が彼の手首を掴んだままでいたのに漸く気が付いて、「ごごめん!」と謝ると直ぐに手を離す。メアリは自分でも、不思議な程に上がっているのが解る。
手を離して貰えた少年は漸く安堵したように小さく息を吐くが、今まで気が付かず彼の手を強く握っていた事にメアリは一気に罪悪感に苛まされる。彼の手首は男のものとは思えない程に細かったが、メアリが握ってしまっていた所為で赤くなっている。
罪滅ぼしと彼に対する少しの下心故に優しくしたいと云う気持ち、それらを持て余してどうしようかとメアリが困惑した時に、軍服のポケットに入れていたラビのチョコレートを思い出す。
メアリは急いでチョコレートを取り出すと少年の前に差し出して、

「あげるよ、これ」
「…? これ…」
「チョコレートって云うんだ」

通じない事は解っていたけれど、メアリは少年の手を取ると彼の掌にそれを置き、そうして大切そうに握らせる。少年は初めて見るものと異人の行動に戸惑いを覚えたけれど、メアリの優しそうな笑みを見て害はないと思ったのか、大人しく受け取る事にする。
真っ直ぐ自分を見てくるメアリに何となく恥ずかしさを覚え、少年は顔を色付いた桜のようにほんのりと染めると照れたように俯いた。その動作に堪らなく愛おしさを覚えた時、少年の肩を叩く者がある。少年の顔は一気に蒼白なものになり、小さな身体は震えた。

「アリス、早く立たんか」
「す、すみません…」
「散々待たされて溜まっとるんだ。早く茶屋に戻ってするぞ」
「…は、はい」

アリスと呼ばれた少年は急いで立ち上がり、メアリに礼をすると男の側に寄って共に歩く。男は大分年を取っていて、髭を好きに生やしたような 清潔感のない者だった。男はアリスの腰を無遠慮に掴み、そのまま手を臀部の方へと落として品なく摩る。アリスは怯えた顔で肩を震わしたけれど、俯くだけで抵抗は何もせず、大人しく男の横に着いている。
取り残されたメアリの元にビルがやって来て、屈んでメアリの耳に煙を吹きかけるとメアリの身体が飛び跳ねた。文句を云われる前にビルも立ち上がり、前を歩くアリスと男を見ながら煙を吐くと、

「何だお前、ああ云うのが好みか」
「見、てたんですか?!」
「ふーん。年下好きの可愛いより綺麗派ね」
「放っておいて下さい!」
「気に入ったなら買うか?」
「買…?! あ、なたって人は、」

煙草の煙と共に出された人でしな言葉に、メアリは愕然として言葉をなくす。ビルは然し実に至って冷静に、アリスと男の後ろ姿を眺めている。2人の姿が民家の裏へと消えた時、煙草を口へと戻し、

「あれは男娼だ」
「男娼…?」
「男娼婦だな。此処では案外居るらしい。だからお前も金を払えば堪能出来る」
「そ、んな事――」
「お前より幼いし無垢に見えるが、ああ見えてテク持ちだぞ? お高いがその分快感だ、どうせなら初めては好みな奴で――」
「…黙れッ!」

メアリの怒声にビルは呆気に取られ、思わず煙草を落としそうになる。業腹のまま行ってしまうメアリを後ろ姿を見て、ビルは頭をそっと掻きながら、

「…マジギレだよ」

冗談が過ぎたか、とビルは少し反省する。自分は昔上官とこんな話で距離をなくしたりしたものだが、どうやら真面目なメアリには逆効果であったようだ。あのラビですら上手く躱すものだがとビルは思ったが、似ているとは云え中身は大分異なるようだった。確かに見目が幾ら似ていようが、他人は所詮他人でしかない。
初めて見るタイプの人間にビルはどうするべきかと対応に困ったが、取り敢えずは追い掛けるべきかとメアリの後を追い掛ける。民家の裏の方で行われたアリスと男のやり取りは、メアリもビルも見る事がなかった。





「アリス、何を握っておる」

民家の裏の物陰へと消える前、男は固く握られたアリスの拳を不審がってそう尋ねた。アリスは一瞬躊躇ったが、逆らうと乱暴にされるか茶屋に告げ口をされて非道い仕打ちを受けたので、大人しく拳を開いて中の物を男に見せる。鉱石のように光る水色の紙で包まれた、小さな1粒のチョコレートだった。

「先程、異人から渡されたのですが…」
「ああ、アリスに見とれておったしなあ。気に入られたかの。今から奴も入れて三人で気持ち良くなるか?」
「ご冗談を…」

男の品のない笑いにアリスは嫌悪感を感じながら、何とか愛想笑いで誤魔化した。男は民家の裏へと入り、壁に身体を凭れさせるとアリスの手の中のチョコレートを奪う。アリスはそれを返して欲しく思ったが無論云える訳もなく、その間に男は包を乱暴に開けてチョコを口に含んだ。
男は口を動かして、「おお」だとか「うむ」だとか感動したような声を出す。彼の顔は恍惚なものへと変わる。

「大層甘くて美味い。そこらの菓子とは比にならん」

包にはもう何もない。甘いものを好んだアリスは彼の口内のチョコを羨んで、男の口をじっと見つめた。アリスは今まで贔屓にしてくれる客からお菓子を貰う事もあったけど、外国のお菓子は未だかつて食べた事がない。
男は羨望の目で見つめるアリスの小さな頭を突然掴み、そうして無理矢理アリスの唇を奪う。予期しなかった口付けにアリスは苦しがって小さく声を漏らしたが、割り入れられた舌の甘さにたちまち蕩けそうになる。

「ん、ふぅっ…」

唾液と共に落ちてくる液体は大層甘く、思わずアリスは自分からも積極的に舌を絡めた。茶色の液体が喉を通る度に舌と脳が痺れるようで、必死に喉を動かしては唾液もろとも嚥下する。母の母乳を欲しがる赤子のように懸命に暫く舌を吸っていたが、やがて唇が離れると、

「…どうじゃ、甘かろう」
「は、い…」
「お前さんがこんなに積極的に口吸いをしてくれるとは、異人も気の利くものを渡してくれたものじゃ。のう?」

その言葉を聞いて、アリスは顔を赤くしてそのまま俯いた。それは自分がはしたなく口吸いを行った事も勿論だし、あの異人に対して申し訳なくも思ったからだ。彼は勿論、こんな事をさせる為にあのお菓子をくれた訳ではないだろう。彼がこんな光景を見たらどう思うか。それを申し訳なく思う気持ちと自分の浅ましさに唇を噛んで哀しさを堪えていると、男はアリスの顔を掴んで上げさせて、

「安心せい、こんなに可愛いアリスを異人なんぞに抱かせはせん。お前さんはわしのものじゃ」
「あ、の…」
「さて、茶屋に帰るとしよう」

男はアリスの身体を抱き締めて、そうしてまたさきと同じように臀部をなぞり、着物の下に手を滑り込ませて股を執拗に弄りだす。アリスは恐怖と嫌悪感を覚えながらもわざとらしい嬌声を小さく出して、男の背に縋って甘えるように肩に顔を埋めた。
何時までこんな日が続いてしまうのだろう、価値がなくなるまでか、それとも買われるまでか? 価値がなくなればどうすれば? それ以前に自分はそれまで耐えるのか、この悍ましい行為に?
アリスは確かな恐怖を覚えながら、舌に未だ残る甘い味にそっと目を閉じる。瞼を閉じると何故か泣きたくなってきて、それを堪えようとまたそっと唇を噛む。それでも噛み切る事が出来ない男達の為のこの唇が、鬱陶しくて邪魔で仕方なく、大嫌いだとアリスは思った。





「断る」

大日本帝国軍西館四階、総司令官室。そこでパットが一通り協定の条件及びそうする事でのお互いのメリット、戦争に対する見方や今の状況について日本軍の総司令官に説明を行ったが、全てを聴き終わった後の彼の第一声はそれだった。パットは少し怯んだが、然しと反論を試みる。だが総司令官は、頑強な意志をその瞳に映し出していた。狂いなく真っ直ぐに切り揃えられた髪を鬱陶しげに掻き上げて、

「何を云われても協定を結ぶ気はない」
「…ッ何故です。条件が不服とでも…」
「如何なる条件でも決して結ぶなと、天皇陛下から仰せつかった」
「……どうしても?」
「くどい。我等はどの国とも結ばない、武力を以てと云うのなら我々も武力を以て応じる所存だ」

それを聞いたパットは総司令官からラビへと視線を遣って、「無理です」と云って首を横に振る。ラビは何も云わず総司令官と目を合わせたが、彼の射るような眼の色は揺らぐ事がなかった。暫し睨み合うとラビの方から視線を外し、そうして席を立つ。パットも同じくして立ち上がると、全ての会話を記録していた軍人が動きを止めた。

「…交渉決裂ですね。失礼します」

記録紙の最後は、『交渉決裂ニテ終ワル』と云う文字で綴じられた。




厳かな扉を背に、ラビは口から小さく息を吐く。パットは最初から無理だと踏んでいたので落胆もしなかったし、寧ろ納得も行ったが――勿論ラビからしたらそうではないだろう。ラビは額に手をやると髪を掻き上げて、そうして心から悲嘆するように、

「…残念だ」
「そうですか? 私は良かったと」
「何故」
「少なくとも爆弾を抱える危惧はなくなりました。それに」
「…それに?」
「彼等は何処とも協定を結ぶ気はありません。如何なる強国だったとて、1つの国だけでは限度が。此処は島国、何れ供給難に陥ります」

ラビはその話を聞き、確かに――と思う。然しそれなら敢えて好条件でもあったあの協定を意固地に拒否する妥当な理由が果たしてあるだろうか。ラビはそれを考えてみたが、生憎何も浮かばない。協定が叶う事ない今となっては、最早意味をなさない考えでもあった。
軍から外に出てみると、無邪気に鞠で遊ぶ子供達の姿が目に入る。それを見るラビの足が止まったので、パットは不思議に思って どうしました と尋ねた。ラビは子供達から視線を離し、パットと肩を並べて歩く。

「…本官は守ろうと思った」
「? …ええ」
「だが、その守る事は結局他者を壊す事を意味する」
「仕方ありませんよ、守る為には…」
「だから思う」

緑と橙の色合いが綺麗な鞠が、ラビの足元に転がって来る。黒色の革靴に軽く当たると、鞠は小さな体を震わせた。子供達は初めて見る異人に少し顔を強張らせたが、ラビが微笑んで鞠を手渡すと子供達は喜んだ。世界に共通するその笑顔を見た時、パットはラビの云いたい事が何となく解ってしまった。

「…守らなければならない状況が、なくなれば良いと」

それを耳にした時、パットは己の双眸を薄く細めた。――この人は軍人には向かない――初めてそう思ったが、それでもそんな彼こそが誰よりも上にある強さを持ち、それを皆がありがたがって崇めてしまうのは、皮肉なものでもあった。

風が吹く中でパットはラビの背中を見つめながら、ゆっくりと言葉を口にする。


「…ええ、何時か…、そんな日が」



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