閉幕V




アリスの姿が消えゆくのを、小鳥遊は黙って見守っていた。そして突然咳き込んで、口元を手で押さえた。…手套を嵌めた左手の手の平に、大量の血が付着していた。
これをアリスに見られなくて良かった、小鳥遊が安堵しつつ衣嚢から手布を出そうとした時だった。

「――駄目でしょう、止まりませんなぁ」
「…!」
「がぶがぶ湧いているですからなあ」
「ッ五百蔵、」

海軍大学校生徒である五百蔵は小鳥遊の前に立ち、自分の手布を差し出した。然し小鳥遊はそれを受け取らず、自分のそれを取り出すと口元を乱暴に拭う。五百蔵と小鳥遊の関係性は、何年経とうと変わる事はなかった。
五百蔵は呆れたように肩を竦め、

「莫迦だな、お前」
「何がだ」
「お前が今結核にかかっていて、もう治らないだろう事を云えば、アリスさんも最期まで側に居たろうに」
「…同情で居てもらってどうする」

小鳥遊は気に喰わなさそうにそう吐くと、視線を外して歩き出す。何処に、と五百蔵は尋ねたが、それに対して小鳥遊は何も答えなかった。けれども五百蔵は、小鳥遊がこれから何処に行くかなんて解っている。彼が行く先は何時だって一つだ。
山奥に住む、エディスの元だった。






人里離れたその山奥に、逝羽家の神社があった。然し、エディスが住んでいるのはその神社ではなかった。その神社を更に奥に進んだ、一軒の小さな山小屋であった。小鳥遊が此処に通うようになってから大分経つが、未だに此処の辺りを誰か他の者が歩いているのを見た事がない。
山小屋の扉を叩き、返事も聞かずに扉を開ける。中にはエディスが一人で居て、囲炉裏に置いた鍋の中の豚汁を掻き回しているところだった。銀の髪は床につくまで伸ばされて、身体は昔よりも随分と成長している事が伺える。小鳥遊は扉を占め、靴を脱ぐと勝手知ったる我が家のようにお邪魔する。

「貴女が云った通り、アリスさんが帰っていた」
「変わりはなく?」
「ええ、あの人だった」

小鳥遊の言葉を聞き、エディスは「そうですか」とだけ云うと少し寂しそうにした。会わないのか、と小鳥遊は聞かなかった。何故ならもう既に聞いた質疑であったからだ。そしてエディスは遠慮した。
小鳥遊はエディスの前に座り、エディスの顔を見る。正しくは頭の上を見た。エディスはその視線に気が付くと、「ああ、里に下りた時に収納してから、忘れておりましたわ」と不思議な言葉を云う。
――次の瞬間、エディスの頭部に真っ白な狐の耳が生え、臀部からは尻尾が生えた。小鳥遊は最初見た時こそ驚きはしたが、今はもう慣れてしまって何の反応も示さない。ごくごく普通であると云ったよう、エディスから差し出された豚汁を貰い受ける。
…無論、エディスが雌狐であった事を、最初は狐疑してやまなかった。確かに学者が妖怪の存在を唱えてもいたが、小鳥遊はそういったまやかしの類は信じていない人間だった。
然し、エディスが雌狐であるというのなら、銀髪や水色の瞳、不可思議な能力全てに納得が行くのだ。――ロリナが死に、山奥に住むようになってから少しして、エディスは己の正体を小鳥遊に打ち明けた。彼女の母が狐であり、罠に引っかかっているところを助けた神主と恋に落ち、そしてエディスが生まれたのだ。だから正しくはエディスは純粋な妖怪ではなかったが、妖怪の濃い血が受け継がれてしまった。
エディスはもう人里に戻る気はないと云う。そしてアリスに会う気もないのだと。彼女が未だアリスの事を恋慕しているのは小鳥遊は解っていたが、彼女は以前小鳥遊に云ったのだ。「妖狐は時代にそぐわない生き物ですわ。此処で一家の血筋を滅ぼすべきとも云えます」と。詰まりアリスに会うとその決意が揺らいでしまうから、彼女は会わない、と云ったのだった。

小鳥遊が咳き込むと、また口から血が出てしまう。豚汁を置き、苦しそうに口を拭った。その様を淡々と見つめながら、

「初めてお会いした頃と比べると、随分病気が進行しましたわね。…持って後数ヶ月…でしょうか」
「…」
「…小鳥遊様。貴方の病気、妾の力をもってすれば生き長らえさせる事もできますわ」

初めて聞く情報だった。そしてそれを疑いはしなかった。小鳥遊はそれに非道く惹かれたが、然し食い付くように聞きもしない。エディスとこうして会うのはアリスへの義理であったから、彼女を信頼している訳ではなかった。
何よりも、種族が違う事は、原動力や価値観も異にさせる事を、小鳥遊は聡くも知っていた。

「…何年?」
「そうですわね、…最高で十年…でしょうか」

喉から手が出てしまう程、魅力的な数字だった。十年。それだけあれば長寿だと思った。
然し小鳥遊は首を横に振る。それに対してエディスは不可解そうに眉を顰め、小鳥遊の事を気に喰わなさそうな目で見つめた。

「断る」
「…どうしてですの」
「化け物の力を借りてでも、生きようとは思えない。又、病気で死のうとも思わない。残り数ヶ月の内に、戦地で散華すると決めている」

小鳥遊らしい言葉だと思ったが、エディスにはその感情が解らなかった。エディスは今まで何人もの人間を見てきたが、小鳥遊とロリナは格段、特殊な人間だと感じていた(アリスはまた別の意味で、変わっていると思ったが)。彼女の人間像と上手く合わない。
エディスの尻尾が揺れて、耳が少し擡げた。

「…化け物、ですか。…妾からしたら、小鳥遊様も十分化け物ですわ」
「…何?」
「普通の人間は、こういった提案に直ぐに飛びつきますの。死は怖いものですわ。それを心から恐れない小鳥遊様は、普通の人間とは思えません」

皮肉らしく聞こえたが、小鳥遊は突っかかる事もなく再び豚汁を口に入れる。血の味が口内に広がって小鳥遊は厭な顔をしたが、そのまま怯まずに食事を進める。彼の病気を何とも思わないような態度には、医師は「自ら死にに行くようなものだ」と云っていた。
エディスは溜め息を吐くと、

「…ともあれ、この日本をもう少し日本でいさせたいと思うなら、生き長らえる方が得策ですわ」
「…俺一人の存在が、日本を変える事はないだろう」
「何を仰しゃいますの? 歴史を変えるのは妾のような人外ではなく…何時だって、一人の人間ですわ。この時代においては小鳥遊様、貴方がその人ですの」
「……」
「国なんてそもそも存在しないし、国の意思も存在しませんの。人間の集合体が国であり、国を動かす意思もまた人間のものでしかない」

小鳥遊は豚汁を食べ終わり、器を戻すと何も云わず立ち上がる。軍帽を被り、エディスを一瞥だけすると踵を巡らせた。
小鳥遊が靴を履いている間、エディスはその場から動かずに、背中に向かって言葉を投げ掛ける。

「少なくとも五十年は、小鳥遊様の力で日本が日本であり続ける。よく考えておいて下さいまし」

その言葉は妖怪のものと云うよりは、悪魔の囁きか。小鳥遊が外に出ると、激しい風が吹いて全身を殴られた。然しその時にも、後ろからのエディスの声が鮮明に聞こえて来る。…その声は何時までも耳の中に残り、身体へと侵食し、体内を流れる血と混じって毒となるようだった。

「…同じ化け物同士として、待っておりますわ」




秀才日本人科学者、纜エンプソン、ノーベル平和賞受賞。そんな見出しが大きく書かれた新聞が、リビングに置かれてある。リビングで、今日の日付で届けられたウイキョウの花束を抱えたオッドアイの青年――エンプソンは、その花束をじっと見下ろしていた。顔に大きな丸眼鏡もかかっていなければ、前髪も邪魔そうに伸ばされていなかった。彼の端正な顔はその研究内容の功績を更に輝かせるようで、「彼の細君になる者は果報者だ」と取材に応じた人は云ったが、彼に浮いた話は一つも存在しなかった。
エンプソンは溜め息を吐き、整理された部屋には誰も居ないにも関わらず、玄関に向かって大きな声を出す。傍から見れば変な行動であったが、彼の気が触れた訳ではない。無論、毎日やれそれと来る取材やパーティへの招待から、ほとほと疲れてはいるのだが。

「あのっ。普通、ウイキョウを花束にする人なんて居ませんよ」

勿論返事なんてない。そこにあるのは、只の静寂だけだった。然しエンプソンはめげなければ諦めもせず、玄関に向かって歩き出す。大股で玄関までの距離を一気に縮めると、再び玄関に向かって声を投げる。

「花言葉は、賞賛に値する。…こーんな偉そうな花言葉、選ぶの、やっぱり貴女だけです」

エンプソンは花束を左手に持ったまま、玄関のドアノブに勢い良く手をかける。然しよく見れば彼の手は震えていたし、声だって消え入りそうになっていた。それでも振り絞るように、吐き出すように、エンプソンは必死に声を出す。声を出さなければ死んでしまうと云ったように。

「…いきなり消えちゃって、職場なくしたんですよ? せめて何か云ってから居なくなって下さいよ。そうだ、あの時の給料だって未だ、貰ってない」

エンプソンの色違いの瞳から、ぼろぼろと涙が零れて行く。こんなに泣くのは何年ぶりで、何の出来事以来だろう、と思った。そして、構うものか、とも思った。エンプソンの感情は爆発し、利発そうな事なんて何も考えられなかった。彼のこの姿を見たら、ニュースでしか彼を知らない人々は皆驚愕してしまうだろう。
エンプソンは扉をとうとう開けて、怒鳴るように声を出す。


「ッ悔しいけど、父さんが亡くなった時と同じ位、貴女が消えた時に沢山泣いたんです! 部屋だって広いし、電気点いてないし! …でも、許した訳じゃないんです! そうですよ、貴女は当方だけじゃない、色んな人に許されない事をしたんです!」

――何時しか泣き声がエンプソンのものだけでなく、もう一人の泣き声も増えていた。それはか細く、高く、苦しそうな声だった。
聞き覚えのある声だ、とエンプソンは思った。その懐かしい声を聴き、涙の量は更に増えた。エンプソンは鼻を啜り、涙を拭きもしないで続ける。

「…だから、勝手に消えたりしないで、死ぬまでッ。贖罪をするべきなんです。もう逃がしませんから。当方の隣で、一生、人類の平和に貢献して貰うんですから!」

エンプソンは開いた扉に向かって、震える右手を差し出した。エンプソンの目は強い意思を宿していて、涙で緩いだりはしない。
彼は7年前、何時かこの台詞を吐いてやる事を決めてその為に此処まで頑張ったのだから、それは当然の話だった。彼女が犯した罪を、平和と云う文字の元で二人で償うと決めたのだ。その為には彼女だけでなく、自分も血反吐を吐く覚悟だった。
だって彼女がかつて自分に云ったのだ、「自分達のオッド・アイは一心同体の証なのだ」と。一心同体なら、地獄までも何処までも着いて行ってやろうじゃないか。


――白くて細い女性の手が向こうからそっと伸び、遠慮がちにエンプソンの手を取った。



true end


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7年前までの書類は、研究所に残されていた書類を原文のまま保管した。恐らく研究責任者である彼女が綴ったものと思われる。
尚、今現在のこの記入は、当事者達の話から私が書いたものである。あまりにも個人的な要素が多過ぎる為、世間に公表されず此処に留まるに至る。又、人間兵器に必要な情報だけは抜粋済みである。


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