閉幕U




次の日、アリスは朝早く部屋を出た。遣り手は外へ出ようとしているアリスの姿を見て、落ち着いた色の着物を引っ掛けたままでアリスに声をかける。

「お客さん、もうお帰りに」
「ええ」
「良ければまた居らして下さい」

若いのに躊躇いもなく遊女屋に来てお金を支払ったのだ、彼の羽振りが良く、これからも贔屓にしてくれれば良い客になる事は違いなかった。アリスは苦笑して、それから遣り手の顔をじっと見つめる。その時、遣り手は不可解そうに目を細めた。よく見ると、アリスには何か見覚えのあるように思えたのだ。
何処で、と遣り手が記憶を辿らせた時、遊女屋の戸が開いた。入って来た者を見て、アリスは目を見開いた。何年経とうと忘れる事はない、未だに彼の悪夢だって見る。
男は自分を見ているアリスを見ると同時、呆気に取られた顔をする。然しその顔には単純な驚きだけしかなく、アリスのような動揺や焦燥は何一つ感じられなかった。そんな男に対し、母親である遣り手は笑顔を作る。

「ああ、お帰り」
「…母さん、コイツ…」
「? お客さんだよ、初めての人だけど」
「母さん、忘れてるの」

――男はアリスの兄だった。髪はかつてよりも短くなり、顔立ちも大人のものになっていたが、底意地の悪いような目付きや歪んだ顔は一切変わっていなかった。
アリスの心臓の音が、鐘を打つように早く大きくなって行く。自分の後に生まれた妹の様子を見に来ただけでなく、兄である彼を克服しにも来た積もりが、身体はあの時の陵辱を覚えているのか、震えて思うように動けない。
顔を蒼白にして目を合わせないアリスを見て、兄は昔のように情もなく笑う。そうしてアリスを畜生を見るような目で見据えながら、かつてと同じよう、母親に真相を告げてやった。

「コイツ、アリスだよ」
「アリ…、…?! 何ですって…?!」
「お前何しに来たの? …十年以上経つけど、驚いた、何も変わらないな。相変わらず気持ち悪い」

アリスは思わず口元を抑える。昔と全く変わらぬ冷罵が頭から足までを刺し、自分をその場に縫い付けてしまうようだ。
吐きそうだ、とアリスは思った。ぐるりと頭が回る感覚がして、呼吸すら苦しい。

「黙るなよ。死んだと思っていたのに、生きていたなんて。男に貰われでもしたか?」
「ッ違、俺、は」
「…ちゃんと喋れよ、葛」
双眸に涙が浮かぶようだった。情けない、とアリスは思った。ハートに指摘された髪もあれから切ったのに、自分の弱さは何にも変わっていなかった。強い振りをして、弱虫ではないか、そう思うと死んでしまいたくなる程だった。

その時だった。開かれたままの戸から、一人の男が入って来た。アリスは彼を視認した瞬間、気分の悪さが全て吹き飛んで、彼から目を離せなかった。アリスだけではなく、アリスの兄や母も彼を凝視した。――大日本帝国陸軍大学校の制服に身を包んだ、背の高い、泣き黒子のある短髪の青年。彼はアリスの記憶より、随分と成長していた。その背はグリムやジャバウォックよりも高く、鍛えられた体格は力強い。森厳な様は更にその厳粛さを増したようだ。
彼――小鳥遊はアリスと目を合わせると、優しく目を細めて「お久し振りです」と云った。彼の声は聞き馴染んだ当時の声よりも、更に男らしくなっていた。

「…何で、此処に」
「貴方の姿を見たと聞きまして。飛んできました」
「だって、お前、俺を…恨んで、」
「…此処では何です、外でゆっくり話しましょう」
「え、わ、」
「積もる話もありますし」

小鳥遊は強引にアリスの右腕を掴み、自分の方へ寄せると遊女屋を出ようとする。何がどうなっているのか全く解らず何も云えなかったアリスの兄は、大声を張り上げて小鳥遊を制した。小鳥遊は機嫌が悪そうに振り向いて、

「軍人っ。お前、コイツの何だよ」
「…何だ、貴様は」
「何だって良いだろ、こんな芥虫が軍人と知り合いなんて――」

刹那、兄の顔が引きつった。小鳥遊が軍刀を抜刀し、兄の首筋にその刀身を当てたのだ。兄の目は刀身と小鳥遊の両方を彷徨ったが、その小鳥遊の顔がまるで修羅の如く強く己を睨んでいたものなので、気圧されて情けない声を漏らす。小鳥遊は睨んだまま、それだけで人を殺せそうな低い声で、

「…アリスさんは、貴様のような葛が貶して良いような人間ではない」
「な、なな、」
「次何か云ったら殺すぞ」

小鳥遊はそう云うと踵を巡らせて、アリスを引いて遊女屋を後にする。最後に見た兄の顔は、初めて見るような莫迦のようなものだった。歩きながら段々と可笑しくなり、アリスは思わず笑い、とうとう声を出してしまう。小鳥遊は振り返り、可笑しそうにしているアリスに向かって微笑んだ。肩を並べても、アリスの右腕は掴んだままだった。

「何楽しそうに笑っているんです?」
「わ、悪い。…あの人のあんな顔、初めて、見たから」
「…貴方の励みになったなら、良かったです」

小鳥遊の声の調子や表情や挙措は愛に満ちたもので、アリスは変わったな、と思った。そしてその変化は喜ばしいものだった。自分の幸福しか考えられなかったような彼が、こうしてアリスの幸福を喜んでいる。何処か居心地が良い、とアリスは感じた。
小鳥遊と並んで向かったのは、河原にある並木通りだった。それはかつて寝ているアリスを、小鳥遊が見付けた場所だった。アリスと小鳥遊は大木の下に腰を下ろし、

「帰って来られるなら、連絡でも下されば良かったのに。俺、唯一の友達なんでしょう?」
「わ、悪い。忙しいかと…」
「貴方の為なら無理もしますよ。…ロリナ殿が、亡くなられたから、来たんですか?」

その知らせは英国で聞いていた。然し小鳥遊の口から聞くと真実味が現実となり、重たくアリスの身体にのしかかった。自分を拾い、育ててくれたロリナが、戦死したのだと聞いた時、夢でも見ているのかと思った。彼が死ぬだなんて考えも寄らなかったからだ。
小鳥遊はアリスの顔を見ないまま、立派な死を遂げたそうです、と云った。軍の者を守る為に犠牲になったと、と。彼らしくない最期だと思いながら、最後まで自分が世話になった事のお礼を述べられなかった事を悔いた。悔いて、顔を足に埋めた。小鳥遊は何も云わず、黙って前を見たままだった。少しして、小鳥遊が口を開く。

「墓に、行きますか。…近くなので」
「…ああ」
「途中で線香と花を買いましょう」





線香の煙が揺曳する中、長い事手を合わせていたアリスは目を開けて、隣で同じく黙祷していた小鳥遊に声をかけた。小鳥遊とアリスは墓場から去り、ややしてアリスが小鳥遊の近況を尋ねた。小鳥遊が今は自分は陸軍大学校に入っている事を聞いた時、アリスは自分の事のように嬉しそうにした。

「凄いな、これで益々陸軍はお前の占めるものが大きくなる。やっぱり今も首席か」
「まあ、勉強は怠りませんから」
「流石だな。なら、卒業の時には天皇の前で発表するんだな、立派だ」

アリスがあまりにも褒めるものだから、小鳥遊は照れ臭そうに軍帽を深く被ると「俺は置いておいて」と日本の現状等を話し始める。昨今の政治形態や町の変化、また、ロリナが戦死してから日本の軍内部に混乱が生じたが、今は別の者が総司令官をしている事も話した。
小鳥遊が今度はアリスの話を聞きたがると、アリスは少し迷ってから自分の話を始める。小鳥遊はその話を興味深そうに聞いていた。彼にこんな話が出来るような時が来ようとは、と感慨深く思う。話は弾み、気が付けば夕暮れになっていた。
暗くなった辺りを見回しながら、

「…すっかり暮れましたね。アリスさん、明日はどうなさるんですか」
「あ、その…。…もう、帰ろうかと」
「急ですね、もっと居るのかと」
「あまり外せなくて」

これまでかれこれ三週間も休んでいるから、きっとクイーンの怒りは凄かろう。アリスは想像してほとほと嫌気がさしたが、何せ自分が彼と共にあると誓ったのだから、その責務は果たさなければならない。けれど何処か寂しくて、もう少し小鳥遊と居たいと思ってしまったのも、また事実だった。愛郷というやつか、とアリスは思った。小鳥遊もまた、アリスからしたら故郷の一部だった。

「そうだ、最後に」

そこでアリスの言葉が途切れた。アリスの眼前には小鳥遊の顔があり、え、と思った時には――唇を奪われていた。
何が起こったのか解らずに反応が遅れたが、惚けたアリスの口内に小鳥遊の舌が入り、舌を絡め取られると、その熱さと激しさに背筋が少しぞくりとした。

「ん、ふぅっ…、ッ」

歯列をなぞられて、唇の傾きが変わる。アリスの肩が震え、小鳥遊の制服の袖を掴んだ。情熱的な口付けにアリスは一瞬流されかけたが、直ぐに小鳥遊の唇を思い切り噛んだ。小鳥遊は痛そうに顔を顰めたが、それでも離そうとせずに、深くまで舌を入れてくる。息苦しさにアリスの瞳に涙が浮かんだ時、漸く小鳥遊は唇を離した。

「噛まなくても」
「ッな、にするんだ、莫迦! からかうのも大概に――」
「からかう? まさか。…ずっと、したかった」
「は…?」
「初めて会った時から、貴方が好きだった。…今も変わらず、好きだ」

小鳥遊の顔は真摯そのもので、アリスは思わず顔が赤くなる。然し小鳥遊の言葉が気になって、恥ずかしいと云うよりは、信じられないと云うような顔になった。…小鳥遊と初めて会った時から、十年近く経っている。十年も、しかも会わない期間の方が圧倒的に多いのに、今も愛されているなんて、俄に信じる方が難しかった。そしてその言葉を口にする。

「…お前、あれから、何年経っていると、思って」
「十年ですよ。そうだ十年だ、だから口付けなんて許されるでしょう、犬宜しく大人しく待っていたんだ」
「それは可笑しいけど…、」

アリスは呆れながら、本当にそうだとしたら、何て事をしてしまったのだろう、と胸を痛めた。彼を歩ませる事もなく昔のまま閉じ込めたのは自分だった、そうした小鳥遊も小鳥遊だが、自分の過失も認めたアリスは顔を歪め、小鳥遊の頬にそっと触れた。

「…莫迦だな、お前。さっさと忘れて、幸せになってしまえば良いのに」
「…良いでしょう、貴方以外考えられないんだ。自分で好きにしているんです」
「でも俺は…」

お前と一緒には居られない、アリスはその先を紡げなかった。アリスは此処で生まれたが、今居るべきはもう向こうの方だった。居場所があり、愛する人も居る。だからこそ小鳥遊に申し訳なくもあり、幸せも願った。
然し小鳥遊は傷付いた素振りも見せないで、どころかそれが予想内の範疇であったかのように、微笑むとアリスの手に自分の手を重ねる。自分の居場所がなければ或はと思えるような、魅力的な言行だった。

「…解っています、好きな人が居るんでしょう」
「あ、…その…」
「俺も成長しました。…貴方の幸せを願うから、今日は見逃します」
「…ん?」
「只、一杯一杯で見逃すんです。…次、貴方を見たら、全力で捕まえて、監禁します」
「かっ…」

アリスは開いた口が塞がらなかった。まるで子供のように笑う小鳥遊が、成長しても根底は変わらない事が解る。それが少し嬉しくなり、懐かしくなったのもまた事実だから、自分こそ救えない、とアリスは思った。

「だから、振られたら来て下さいね。何時でも俺、空いてますから」
「解った解った! …そうだ、お前に聞きたい事が」
「愛の台詞ですか?」
「違う! …エディスの事だけど、」

小鳥遊の顔が少し曇った。それを見たアリスは動きを止め、まさかエディスも、と身体が冷えるようだった。然し小鳥遊の次の言葉で予感が外れた事を知り、それに非道く安堵した。

「彼女は親の元に戻りました。…そのまま親と共に他県に移動したそうです。俺はそれ以上知りません」
「…そ、うか。…ありがとう」
「…調べさせましょうか」
「いや、良い。…勝手過ぎるから。…ただ、もし会う事があれば、ごめん、と伝えておいてくれ」
「…解りました」

その懺悔は「置いてしまってごめん」と云う事だったが、小鳥遊は聞かずともよく解った。アリスは少しだけ救われたような顔をして、小鳥遊から距離を取ると「それじゃあ」と云う。
その際、小鳥遊は右手を少し上げた。本当はアリスの身体を今直ぐ抱き締めて、抵抗されても泣き出されても無理矢理連れ去って、自分のものにしたかった。
然しその右手でアリスの腕を掴むのではなくて、代わりに曲げると額のところに持って行き、美しく敬礼した。

「――髑蠱アリス殿! 道中お気を付けて!」

アリスは面喰らって目を瞬かせたが、相好を崩すと自分も右手を曲げ、敬礼の姿勢を取る。小鳥遊はその姿を見て、彼がもしも軍人だったなら――と思わずにはいられなかった。きっと誰よりも、戦場の花となり、希望ともなるんだろう。

「ああ、行ってくる!」


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