君へ奏でる五重奏。




…帽子屋は瞳を開けて、真っ直ぐとアリスの姿を見る。自分やクイーンとは違って一切両親に期待されず、捨てられたアリスに対し、帽子屋は同情心を持っていた。それは持てる者が持たない者に対して抱く普遍的な感情なのだろうか、帽子屋からしたら親の愛が何よりの行動力だったから、その同情が一層強いものだった。

「…何で、そんな事を、したんだ」
「…国に頼まれたからだよ」
「…っ国に頼まれたら、何でもするのか! お前は、関係ない人を殺してるんだぞ!」

最早アリスの瞳には、疑う色なんて存在しなかった。その強い眼(まなこ)がもう自分に微笑みかけない事を知り、帽子屋は少しだけ目を伏せる。然し端から見てみても、彼女の顔に慨嘆の色は一切見られない。それどころか、一層強く反抗心があるようだ。

「…じゃあ聞くけど、人殺しをこの世から失くせるのか? …無理だろ」
「ッだからと云って…、」
「犯罪は機能も持つ。正常な社会では、犯罪が存在してしかるべきだ、とデュルケームも唱えている」
「そんなの…っ、犯罪と人体実験は、また別問題だ! …このままじゃ他国も人間兵器を作り、人間が人間を人として見なくなり、それが当然になるだろ!」

アリスは道具として人が扱われるのを誰よりも厭う存在だったから、声を張り上げてその主張をする。
そしてだからこそ、帽子屋が綽然として次のように云ったのに耳を疑ったし、思わず絶句した。帽子屋の目はあまりにも冷たく、頭の悪い子供に向ける大人のような視線を向けていた。

「『だから?』」
「なっ…」
「それが進化かも知れない。あるべき姿になるかも知れない」
「まさか…そんな事、」

人が人を利用して人を殺す事に対して、まるで何の疑問も抱いてないような云い方だった。それがどう云う事か、どのような悲劇を産み阿鼻叫喚となるのかを、全く理解出来ていないかのようだった。
アリスが何も云えず呆然としている姿を見て、帽子屋は微笑んだ。そうして窓のある壁に寄り掛かると窓の鍵を開けて開放する。外から冷たい風が入り、その風にアリスは目を細め、帽子屋は靡く髪を抑えた。

「そもそも、戦時中は平気で人体実験なんてあったろ? 追求、進化、革命、殺戮…全て我々の宿命なんだ、国家がある限り…否、生物がある限りはね」
「っ…」
「戦争が終わったら手のひら返し、今までの英雄は弾劾され、国家は叩かれる。でも、戦争が始まるとまたその基準は変わる。どちらが可笑しいんだろうな、何が可笑しいんだろうな?」
「…それは、」
「100万人殺せば英雄、といった言葉がある。何がそれを正当化する、数か、時代か、その正当性の基準とは果たして?」

アリスが押し黙ったのを、帽子屋は退屈そうに髪を指に巻き付けて見守っている。髪を弄りながら、或る被験者の白の混じった髪をピンク色に面白がって染めた事をぼんやりと思い起こす。黒髪だった彼の髪は、精神的緊張により子供にも関わらず白髪が生えるようになった。
それを「チェシャ猫みたいだ」と云ってピンク色に染めて笑いながら遊んでいた時、彼の教育係が自分を自棄に睨んでいた。頭の可笑しい犯罪者を見るような目つきで、明らかな殺意を持って何時までも睥睨していた。
誰が聞いても帽子屋の意見の方が有り得ないものだったが、アリスはそれを上手く道破する事が出来ない。帽子屋は暫くその姿を見ていたが、やがて諦めたように右手を上げる。そして言葉を続けた。

「良いか、人間兵器は戦時中において有用なんだよ」
「何、を…」
「長期戦になると物資が無いだの、食料が無いだのと云った問題が出て来る。…でもメインの武器が人間そのものなら?」
「…!!」
「この問題は解決。…人間は産めば出て来る、合理的で懸命だろ? 捨てて吐くほどの人間を持つ民族も居るんだ。それに人間兵器は見目が普通の人間と変わらない、容易に基地に潜入も出来ればスパイだって簡単になる」
「っふざけるな!」
「はは、解りやすい悪となると途端に反論出来るなんてね!」

アリスの顔が歪み、悔しさか怒りで肩が震えるのを、帽子屋は目にした。そんな姿を見ながら、ああ、何処かで何度もこんな顔を見た、と帽子屋は思った。自分と向き合う時のパットだろうか、擦れ違う時のケイティの教育係だろうか、父親を思い出す時のエンプソンだろうか。そこで解る、その眼は他でもなく、目の前の誰かを譴責する時のそれであるのだと。
何だかなあ、と思ったが、それを表に見せる事はない。帽子屋は肩を竦めて笑った。

「…なーんて、可愛くて愚かな女王様にも、吹きこませて頂きました」

彼女のこの言葉で、アリスはクイーンが時計塔に向かった原因を理解した。然し原因は解っても、理由や心情のある程度の推測は出来ても、その詳しいところまでは解らなかった。故に、非道く焦燥した。

「クイーンはっ、」
「…なら仮に、自分が悪で貴殿等が正義だとしよう」
「な、に」
「それなら貴殿等は人を生かし、自分は人を殺す存在と云う事になるが」

帽子屋は淡々とそんな事を云いながら、窓の方を向き、身を乗り出すと淵へと座る。後ろに重心を置けば、真っ逆さまに落ちて死んでしまうような、危うい体勢だった。帽子屋の背中や後頭部に風が強く辺り、服や髪が靡く。帽子屋は目を細め、何時もと変わらぬ調子でその言葉を口にした。

「…問題です。自分が此処で、今正に死んだら、貴殿等は悪になるんでしょーか。それとも正義であり続けられるんでしょうか」

アリスの背中に、何か不気味なものが這うような感触がした。アリスは何も考えられず、気付けば制するような言葉を叫んでいた。それが何の合理的なものに基づいたものでもなくて、只の一個人の感情に基づいたものである事が、帽子屋には痛いほど解ってしまった。
そんな自分とは真反対の彼を、莫迦だな、と思った。

「っやめろ!」
「…はは。自分はあの難き黒幕だぞ? 貴殿等が血眼になって探したあの殺人鬼」
「だ、からと云って、この場で…」
「…はあ? 何それ? じゃあ捕まえて何がしたかったの?」

完全に虚仮にしたような口調だった。然しその言葉には、本気の侮蔑も含まれていたが、本当に軽微に、安堵のような、解放感のような色も含まれているようだった。
自分は狡くて醜い、と彼女は思った。自分の罪なんて何も知らず、救済を望むなんて、許される事ではなかった。
それが苦しくなるほど解っているのに、彼女は最初で最後の、一人の女としての言葉を発した。

「…そして、例えば、私が本当はこんな実験なんてしたくなかったなあって云ったら。…アリスは許すの?」

初めて聞くような、気取りのない、女性らしい声色だった。アリスの顔色が変わった様を見て、帽子屋は唇を噛んだ。アリスに苛立ちを感じた訳ではない。誰でもない自分に腹が立ったし、父親に申し訳ないとも思った。個人を捨てて殺人鬼になったのだと思ったが、彼女は只の人間のまま、狂った者にはとうとうなれなかった。かつて老人に云ったように、帽子でその罪の正当化をしようとしたにも関わらず。
そして帽子屋は、最後にはまた、帽子屋としてアリスに向き合った。それこそが彼女の矜持であり、決意でもあった。


「…貴殿のそう云う甘いところ、反吐が出るほど嫌いだったよ」


――帽子屋の身体が後ろに傾いて、頭から下へと落ちて行く。消えゆく帽子屋の身体を見て、アリスは焦燥して窓側まで走り、窓の淵を掴んで身を乗り出した。どれほど下を見ても、帽子屋の姿は見当たらない。只そこには生い茂る木々があるだけだった。この高さから落ちてしまっては、先ずは助からないだろう。
アリスは窓から身体を離し、自分の額に手を当てると悔しそうに唇を噛んだ。然し彼は此処で立ち止まる訳には行かなかった。彼は此処に、クイーンを迎えに来たのだから。

アリスは無言で階段へと向かい、その階段を上に向かって歩いて行く。彼はもう殆ど最上部に居た。隣で動く巨大なゼンマイも柱も見ず、前だけを見て歩いて行く。
階段を上り終えると、そこにはクイーンが背中を向けて立っている。その背中が自棄に小さく、頼りなく見えたのは、恐らく初めての事だった。アリスは意を決したように、クイーンに向かって声を投げかける。

「…クイーン」
「……」
「侵入者が来てるんだ、皆それを食い止めて…だから、お前の力が、必要なんだ」
「…解らないよ」

振り向いたクイーンの右手には、何時も持っているような禍々しい形状の槍が握られていた。真っ赤な柄の先で銀色の矛先が鈍く光る、十文字槍であった。クイーンの顔色は決して良くはなかったが、それはこの時計塔の内部が薄暗いからだけではないだろう。
見ればクイーンの小さな肩は震え、声だって震えているように聴こえる。帽子屋が一体何を彼に云ったのか、アリスはその全てを忖度は出来なかった。

「僕、僕は、自分が正しい事をしているんだと思っていた」
「…そうだろ、そうだよ。止めなきゃ、被害は大きくなるんだ。また戦争が始まって、止められなくなる」
「そりゃ、綺麗な事ばかりじゃないよ。正義だと思った事なんてない、でも――」
「…罪のない人を、助けるんだろ。兵器にされる人も、兵器の所為で死ぬ人も、助けたいって、云ったろ」

クイーンは頭が混乱しているようだった。研究長が帽子屋であった事も混乱の一因なのだろう、そもそも今まで「父親に与えられた仕事を全うする」と云う考えだけで此処まで来たから、考えるなんてした事がなかったのだ。
然しアリスは、矢張り帽子屋の口八丁には騙されない、と思っていた。アリスは大日本帝国に居る時点で、帽子屋の在り方に反感を抱き、クイーンの在り方に同調した。そして今でもその気持ちは変わらない。ならばこれで合っていた。
クイーンはそれでも迷っているようだった。アリスは声を張り上げて、クイーンの名前を呼ぶ。クイーンの肩が小さく震え、エメラルド色の双眸は動揺を映していた。

「お前は、女王だろっ…! 皆、お前を待ってるんだぞ、お前を」
「…ッ知らないよ、もう知らない!」
「何を、…ッ?!」

――突然クイーンが駆け寄って、アリスに向かって槍の先を向けた。アリスは反射的に抜刀し、己の日本刀でその攻撃を迎える。刃同士が乱暴に当たる音がしたその直ぐに、クイーンは再び槍を戻し、もう一度アリスに向かって槍の先を向ける。その攻撃は考えのないものばかりで容易に日本刀で防げたが、その攻撃には何れも重みがあった。日本刀で防ぐ度に、アリスの右腕が痺れるようだった。

「僕だって、万能じゃないんだ! でも、指示をしなきゃならなくて、でも、僕――」
「…クイーン」
「…僕は、間違ってるなんて思わない。国が僕を罰するって云うなら、それだって受け入れたって良い、でも、やっぱり、解らなくてっ、只の、愚行でしかないのか、もう、」

肺腑を突くような、重々しい言葉達だった。全てクイーンが披瀝したもので、そこには嘘も偽りも存在しなかった。
クイーンの双眸から一粒の涙が落ちた時、アリスは日本刀を手から離した。それに気が付かなかったクイーンの右手は止まる事なく――槍を振り、アリスの右肩をどすん、と突いた。

鈍い音と肉を突いた感触で漸く気が付いた。クイーンは自分の槍とアリスの肩を見比べて、突如泣き出してしまいそうな顔をした。慌てて槍を抜き、地面にカラン、と槍を落とす。声が大きく震え、アリスの顔を見た。今やもうクイーンの姿は女王のように気高いものではなく、等身大の子供にしか見えなかった。

「ご、ご、ごめん――その、僕、そんな…」
「俺こそ、悪かった」
「…え?」

聞き取る事が出来なくて、聞き返した。次にはアリスがクイーンの身体を抱き締めて、クイーンは驚いて目を見開いた。



TO BE CONTINUED


人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -