君へ奏でる五重奏。








「マクベス、マクベスーったら」

ハートの部屋で呼び鈴を何度も鳴らす音が聴こえるが、メイドが走って来る音は全くせず、どころか辺りからは何の音もしない。ハートはそれでも車椅子を動かして自分で紅茶を淹れるなんて『労働』をする考えなんて浮かばなかったので、仕方なくテーブルの上のミルクパズルで時間を潰そうかとハンドリムに手を置いた。ミルクパズルはクイーンが飽きて物置に置いていたものであるが、ハートはその事を全く知らなかった(知っていたら恐らく興味なんて微塵も湧かなかっただろう)。
ハンドリムを動かす正にその直前に、部屋の外からガタン、と大きな物音を聴いた。次いで男の叫び声や走るような音が聴こえ、どう聞いても「メイドが急いで主人の元に来る音」ではない音にハートは訝しむと同時興味をそそられて、パズルなんてもうすっかり忘れ、扉の方を穴が開くように見つめる。
その時突然扉が破られて、見知らぬ男が血塗れの状態で、膝からと云うよりは頭からその場に崩れ落ちようとする。然しそれを阻止したのは――ハートが心待ちにしていた、『メイド長であるマクベス』その人だった。
彼女の両手には錘が先に付けられたメジャーが存在し、左手のメジャーでは男の両手を後ろで拘束し、そして右手のメジャーは今し方男の首に巻かれ、百合のように頭を擡げようとした男の頭を、強く上に上げた。額から頭を流す男は血眼でいたが、マクベスは至って冷徹な目で男を見下していたし、彼女の身体には傷が一つもなかった。マクベスは息一つ乱さずに、

「…遅れて申し訳ありません、ハート様。然し今、不届き者が館におりますので、どうか暫くお待ち下さい」
「ハートっ…? …ッ!」

男は息も絶え絶えで、呼吸すら苦しいようだったが、マクベスの発した名前に鋭く反応する。そして退屈そうに自分を眺める少年がハートだと判断するや否や、必死と云う表現が適切な様子で前のめりになって、首にメジャーを食い込ませながらも懸命に声を出す。

「助けてくれ、助けてくれたら礼をするっ!」
「…はあ…? 何云ってんの、アンタ」
「お前に力をやるっ、クイーンを凌駕する力をっ!」
「!」
「ッハート様…!」

ハートが鋭き炯眼で男を見つめると、マクベスは心底から焦燥したように顔を蒼白にさせる。恐らく研究者である男が云うのは「ハートを兵器にする」と云う事だったが、それを此処でハートが解るのかはマクベスには図りかねたし、又、マクベスは主人の弟の考えが手に取るほど良く解っていたから、この男の「申し出」もとい「悪足掻き」は耳にさせてはならぬものだと判断した。
マクベスが一気に右手を上に上げると、男は悲鳴を一層大きくあげる。自分が一生奉仕しようと決めたクイーンの命に背くのは自分の腕を削がれるのよりも辛かったが、主人を守る為ならば腕など惜しくない、と考えた。

マクベスの腕が男を殺すよりも先に、とすん、と男の額に何かが刺さった。マクベスが思わず惚けた声を出して見てみるとそれはナイフであり、マクベスの手の力が一気に緩んだ。
男の身体が床に崩れ落ち、ハートはそれを見ると左手を下ろして「虫が煩かった」と云った。マクベスの心臓が鐘のように大きく鳴り、そこでマクベスはハートの人格の一端を、理解出来たような気がした。
――ハートの目があの時鋭くなったのは、その話題に興味を抱いたからではない。そうではなく、非道く矜持を傷つけられたのだった。ハートはクイーンを確かに恨んでいるし、何時かひれ伏させようとその心に決めているが、それは間違っても他者が踏み込んで良いものではなかった。
例え頻繁に世話を焼いているマクベスが同じ事を云っても、恐らくハートはマクベスに刃の切っ先を向けて殺意を露にするだろう。マクベスはハートの怨恨の大きさを知り、無意識にメジャーを持つ手を強く握る。彼女のクイーンに対する忠誠の精神が、ハートを此処でどうするべきか、審判をし出した。

ハートがそんなマクベスの様子に気が付かなかったのは、目の前に蝿が飛んで机上に止まったからだ。ハートは不機嫌そうに左手で蝿の羽を掴むと、マクベスに屋敷に蝿を入れないように云おうとした。
然しその前に、ハートは息を呑んで蝿を凝視する。その不思議な光景にマクベスも直ぐ気付き、自分の恐ろしい考えを急いで振り払うとハートの元に歩み寄る。

「どうかなさいましたか」
「……この蝿…、」
「…はい?」
「……有り得ない。こんな、超小型カメラ…こんな時代に…」

マクベスはハートの独り言が理解出来なかったが、ハートはお構いなしに「いや、或は一つだけ可能性が」「もしかしなくとも」と独り言を続ける。マクベスはとうとう困り果て、男の死体に視線を遣るとどう処分したものかと考えを巡らし始めたが、その数秒後に高笑いを始めたハートに肩を震わせた。
ハートは脈絡もなく大きく笑い出し、本当に可笑しそうに腹部を抱えて身体を仰け反らす。マクベスはどうしたものか解らずに、只その姿を見ていたが、それは異常者のようで――、マクベスはこの日で一番彼に恐怖した。眼間で高らかに笑う彼は、研究者よりも、人間兵器よりも、何よりも恐ろしいものに思えたのだ。

「『ざまあだクイーン』、お前はずっと監視されていた…! お前等は、敵の手の中で、踊り続ける駒だったんだ…!!」






白兎の時計塔は、敷地内で一番の高さを誇る建物だった。決まって深夜と昼の12時にその鐘を鳴らし、それ以外は沈黙を守る存在だった。普段近付く者はなく、精々年に数回の点検に専門家が入るだけで、時計塔の壁には蔦が茂っている程だった。
そんな忘れ去られた時計塔を登り続けてから、一体どれ程の時間が経過したのかアリスには解らなかった。そしてそれ程登ってもクイーンの姿が全く見えないのは不可解だったし、だとすれば最上階まで――或はその付近まで居るのだろうが、何故そこまで上に居るのか、考えれば考える程漠然とした不安に陥った。否、漠然とした、とではなく、最早明瞭に直覚し得るものだったのだろう。アリスは無自覚に間に合え、と呟くと、再び足を動かして無数にも見える階段を登り詰める。
階段を登り続けていると、窓のある小さな踊り場に出る。そこに人が立っているのが見え、アリスはクイーンかと期待したが、直ぐにそれが彼のものではない事に気が付く。踊り場に立つ人間の身体は、何処をどう見ても女性の体躯だった。
アリスは踊り場に立つと、その人物に声をかける。

「帽子屋。何でお前が此処に…、…ジャバウォックは?」
「……。エレベーター。使わなかったのかい?」
「え?」
「わざわざ階段を登るなんて。階段の奥にエレベーターがあるの、気が付かなかったのか」

彼女が一人で此処に居る事に気を取られ、アリスよりも先に此処に居る事を大して気にも留めなかったが、成る程それで合点が行く。然し彼女はアリスの質問には答えていない。
もう一度聞こうかと口を開きかけてから、帽子屋が艶然と笑んでいるのに、口を噤む。彼女が意図的に質問に答えなかったと悟ったからだ。帽子屋は何も云わず自分を見るアリスに口角を上げ、そうして舞台役者のように両手を上げると、突拍子もない事を口にする。

「なあ、アリス。…実は自分が黒幕でした、とか。云っちゃったら、どうする?」
「…は?」

アリスは彼女の言葉の意味が解らずに、彼女の質疑に答える事が出来ない。帽子屋は相変わらず顔色一つ変えないで、アリスの返答を待っている。
黒幕が彼女だと云う事を、俄にどころか重々考えても信じられない。アリスは彼女の言葉に小さく笑い、それから呆れたような、或は誰かを諭すような、或は逃げるように言葉を口にする。それは実にアリスらしい返答で、帽子屋の左目だけが不快そうに歪んだ。

「…こんな時に、変な冗談云うなよ」
「………」
「今から、そうだ…ラビとか呼ぶから、館に…」

アリスが自分の端末を胸ポケットから出すよりも前、帽子屋はスカートのポケットから小型録音再生機器を取り出した。そうして再生ボタンを押すや否や、アリスに聞き覚えのある女性の甲高い声が聴こえる。アリスは彼女と一度しか会った事がなかったが、印象的であるが故によく耳に残っていた。

『いやあああああ! 痛い、痛いいいっ!』
『はは。厭かね、助かりたいかい』
『厭、死にたくない…ッ!』
『なら、さきに云った「ヒーロー」の名を呼んでご覧? …何か変わるかも、』

東の日本で話をした、エンプソンと同じ高校の少女だった。然し彼女の声には今や爛漫な響きなどはなく、まるで拷問に必死に耐えているような声で、喘ぐ悲痛な吐息すら鮮明に聴こえて来た。
対するもう一人の声は、聴き馴染んだ帽子屋の声だったが、録音再生機器に入れられた彼女の声には何時も包含されているような明るさなんて一切なく、本当に帽子屋なのかさえも狐疑したくなるようなものだった。
そして再生機器が、最後の一言を発する。

『アリスくん、助け…おべっ』

声の背景から何か厭な音がして、それから音がしなくなった。アリスは自分の全身が氷のように冷えて行くのを感じたが、それでも一筋の藁に縋るように、不出来に笑って声を絞り上げる。それは神に祈る行為にも酷似して、人間らしい行動とも云えるのだろう。

「…本当、何の、冗談だよ。…どうせ合成だろ? 好い加減に…」
「…冗談? ああ、そう? じゃああれか、死体を用意したら作り物? 目の前で殺人したらドッキリ?」
「……」
「貴殿こそ、冗談、だろ。…お人好しも大概にしろよ、ってね」

非道く落ち着きながら話をする帽子屋を見て、アリスは黙って彼女を睨んだ。彼女が嘘を吐いているようには見えないが、彼女の言葉が真実だとしたら、彼女こそ人間兵器の研究責任者だった。
突然、アリスは目の前の彼女をどうしたら良いのかが解らなくなった。捕えるべきには違いないが、ではその後は? 対処に迷うと同時、彼女のこれまでの姿が全て虚偽だったのかと、そんな考えまでが頭を過ぎる。
当惑して何も出来ないアリスの姿を見ながら、帽子屋は録音再生機器をゴミのように床に落とす。カツン、と大きな音がしたが、それは何の火種にもなりはしなかった。
後ろで蝿の蠕動する音を聴きながら、帽子屋は幽遠な過去を思い返していた。


MURDER'S PAST

「お嬢さんを、研究の後継者にするとお聞きしましたが。…正気ですかな?」

よく晴れた夏の正午の事だったか。私は緑陰で葉の上の虫を眺めながら、父と男の会話をそっと聞いていた。私達の居る庭は叢生と様々な緑が入り乱れ、館を訪問する人間は決まってこの庭を称賛した。無論、今居る男も例に漏れる事はなかった。
庭に置かれた白色のテーブルの上に、私の読みかけのテオクリトスの本がある。その本の上に、一匹のてんとう虫が止まっている。私がそれを眺めていると、父の声が聴こえて来る。

「ええ。そこに居る娘に、全てを任せる積もりです」
「未だ幼いではないですか…。名は…」
「マーダーです」
「は…」
「殺人者。…良い名でしょう、彼女は殺戮する為に生を受けたのだと、よく解る名前だ」

草いきれが非道く、私は額に浮かんだ汗を右手の甲で拭う。鬱勃と雲が青空を覆っている。男の顔は見えないが、きっと良い顔はしなかったろう。父の研究にもあまり賛同していない者だった。

「然し、そんな名前…許されたのですかね」
「ああ、一応Madder…、マッダーで通ってはいますがね。然し本当のスペルはMurderなのですよ」
「……」

葉の上に、綺麗な青色の蝶蝶が止まった。私は蝶蝶の羽を掴み、後ろに立つ父と男の方を振り向いた。
男は良くない顔色で私を眺めたが、私が手中の蝶蝶を握り潰すと、思わずと云ったように視線を背けて俯いてしまった。父は笑いながら、期待に満ちた目で私を見つめている。
男は何故視線を逸らすのか。男が普段食べている食事も、否、生きる事こそ、弱者を糧にして生きていると云うのに。狩りの時代と違うのは、自分達が手を汚していないと云う事だけなのに、まるで自分は善人であるかのように振る舞っている。
私の手からは死骸が落ち、それに蟻が群れをなしてやって来る。世界とはそう云うものだったし、私は目を背けたりはしなかった。


幼い頃からあらゆる本を読まされた。物理学書、数学書、医学書、哲学書、食事の最中にも本を読んでいた。それが父親の望みだった。母は物心ついた時には居なかった。既に亡くなっているのか、或は何処かで生きているのか、それは大人になってからも解らなかった。
父親は私に期待し、そしてそれが重くあれば非人道的なものであったにも関わらず、不思議と私には反発心が存在しなかった。父親が云った通り、殺戮する為の人間だからだろうか。

人の解剖は、8歳の時には既に行なっていた。最終的な目標である人間兵器の実験とはまた全く違い、只解剖するだけだったり、或は戦時中行われていたような人体実験が主だったが、今まで解剖してきた鼠や蛙と違い、異常に気味が悪かった事を今でも覚えている。
父に人間兵器を依頼した国は、私達が生まれた東日本ではなかった。好奇心から「何故他国に奉仕するのですかな」「結果として貴方の母国は敗戦するかも知れんのに」と云う人間も少なからず居た。そんな時、父は決まって云っていた。
「どの宗教を信仰しても良いように、どの国の王を敬っても良いのでは? 私には愛国心なんてないし、象徴でしかない、我が国の天皇を、敬う事は出来ませんなあ」
愛国心なんてなかった父には、恐らく今居る国に対しての忠誠心なんてものもないだろう。父は多分、自分の研究で何処まで出来るのかを知りたく思い、或は人類の滅亡を見たがった。それは父の目を通してではなくて、私の目を通してでも良かったに違いない。父は寧ろ自分が研究を成功させると云うよりは、私に成功させたがっていたようにも思う。それは居なくなった私の母にも関係があるのかも知れなかったが、そこまで忖度してもどうにもなるものではなかった。
父は哀れな人だった。人並みに感情がある訳ではなく、所謂欠如がある人間で、故に何時も一人で館に篭っては研究を続けていた。だからかは解らない、私が父の意思を継ごうと考えたのはその憐憫が起因していたからかなど、私には解らない。
その頃、人体実験とは別に私は或る実験に成功した。研究室に居た蜘蛛に薬を投与し続けた結果、蜘蛛はその身体を何百倍もに膨らませた。そうして生まれたのが、巨大蜘蛛のラッセルだった。父は私の成果を見て、この実験も大いに役に立つだろう、お前はエスプリに富んだ子だ、と私を頻りに褒めた。

私が二十歳の冬に父は死に、葬儀の夜、私は雪の積もる父の墓場を見つめていた。葬儀と云っても参列者なんて居なかった。学問だけが友の父だったが、その学問も貴方を友と見做したかどうか。私には、父が嘲笑れていたようにも思う。
それから何十年が経過したのか最早覚えていない。人間兵器の研究途中、人間の身体を極力若返らせる方法を発見した。私はそれにより若い時の身体を手に入れたが、それで得をした事と云えば実験が楽になった事くらいか。美貌にも永遠の命にも興味がなかったから、その実験はそれ以上発展させなかった。
愛する者も居たような気がする。然し遥か昔の事のようで、今となっては覚えていない。薬指に与えられた指輪は何処に消えたのだろう。そもそもあれは愛と云えたのだろうか、私の愛とは人の愛と一致しているのか。実験No.0として夫を犠牲にしたような畜生の私は愛なんて理解していたんだろうか。実験は全て地下で行われていたから、夫の悲鳴が地下全体に鳴り響き、その日の夜は何時までも耳に残っていた。


私達の研究は水面下で静かに行われていたが、世界大戦のいざこざや混乱によって噂される事も多くなった。そしてそれは、研究が本格的に進められるようになった事も意味する。そのような或る夜、イギリスの貴族の話を聞いた。キングレットと云う名の男が私の研究を知り、息子にその意思を継がせようとしている事を知った。まるでかつての私達のようだ、と思った。
彼等は私を止められるのだろうか。どうしてふとこのような考えが過ぎったのだろう。古い記憶がなくなり、作業が淡々とこなされて行くから、変な事も考えるようになったのだろうか。
テンプル騎士団を意識して作られた組織と云う。ならば、例えばタンプル塔なんてどうだろう。彼等なら気が付くのではないだろうか。今居る地下なんてより、此処だと近い内に見付けてくれるのではないだろうか。
そこからの自分の行動を、あまり覚えていない。只、地下を脱出し、テンプル騎士団の旗である十字架を意識し、タンプル塔を中心として4つの研究所を作るようにした。何時か解ってくれるように、そんな願いを込めるように。

何故だったんだろう。



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