君へ奏でる五重奏。




お願いがある、と自分に云った女が居た。肉親ではなく、物心つく前からと云う訳でもなかったが、それでも何年も側に居た、切っても切れないような大切な存在だった。彼女は近過ぎたし、彼女の役割からも男女の関係になるような事はなかったが、誰が親かと聞かれれば、肉親よりも先に彼女が思い浮かぶだろう。そもそも両親が自分を実験材料として手放して以来、親を親とみなす気なんて全く起きなかったのだから。
彼女が自分に願い事をしたのは、それが最初で最後だった。何時も通り部屋で楮紙を折っている時、ふと彼女が口を開いたのだった。彼女の唯一の友人とこの先会うような事があれば、彼を守って欲しいと。
彼女に友が居た事をこの時自分は初めて知ったのだが、質問をする前に彼女から様々な事を教えてくれた。彼女の生い立ちや昔の働き口、此処に今居る事の契機など全てを余す事なく。聞けば聞くほど自分が何故今まで彼女について興味を持たなかったのか不思議で仕方なくなったが、そこに生えている花が何故あるのか考えないのと同じように、居る事が当然であり、彼女の過去なんて存在せず、過去と切り離し、今現在の彼女が彼女の全てであるとでも云うような考え方をしていたからだ、と思った。彼女は今居る彼女の以下でも以上でもなかったのだ。
唯一の友について、語らいが始まる。お人好しで、泣き虫で、頼りないが、誰よりも優しい人なのだ、と。彼女は友人の話をする時、幸せそうな顔をしていた。本当に大切な人なのだ、と解り、同時にそのお願いだけは守らなければならない、と思った。
泣き虫だから、今でもきっと何処かで泣いているに違いないのだ、と彼女は云う。だから守って欲しい。力を与えられた貴方が、壊すだけの力を持った貴方が、その手でどうか助けてやってくれと。
そして彼女は、その名前を口にする。…綺麗な名前だったし、数年後に実際に会ってから、よく合った名だと思った。自分が守るべき彼は泣き虫ではなかったが(否、自分が知らないだけだろうか)彼女の云った通りの人間だった。自分は彼以上に慈愛に満ちた人間を知らない。
自分の意思が介在する使命だった。

だから、他の誰を殺める事になったとしても、彼だけは守らなければならない、と何時だって思っていた。






煙が引いてから、何秒が経っただろう。同胞である筈のラビとケイティが対峙する姿を見て、その空気に耐え切られなくなったのか、沈黙を破ったのはエンプソンだった。一種の願望を抱くよう、頭を掻きながら無理におどけて笑い、

「っ…やだなあ、どうしたんですか! ケイティさん、寝ぼけて…」
「…違うでありんす」
「え…」
「……」

ケイティの瞳は強い敵対心を持ちながらラビを見据えている。希望を打ち砕かれ笑顔を失くしたエンプソンの前に、ラビが庇うようにして右手をそっと上げる。その右手に驚いてエンプソンはラビを見たが、ラビはエンプソンの方に視線を遣る事もなく、

「…下がった方が良い」
「ラ、ビさん…」
「後ろに誰か居る」

ケイティの部屋の扉の影から、一人の人間が歩み出る。その人物は白衣を着た細身の男であった。
初めて見る顔である。然し男は怪訝するラビやエンプソンに余裕のある笑みを浮かべ、ケイティの肩に無遠慮に左腕を載せて「やあ」と2人に向かって若干高めの声を出す。そうしてラビの方に興味があるのか、彼の赤色の目と自分の目を合わせると眼鏡の奥の双眸を細め、

「初めまして、その髪と目は…ケルト人だ」
「……」
「全ての人間が『アルビノ』と云う、非常に稀有な民族。…何時の時代からそうなったのか未だ判明しておらず、悪魔と契約したのでは、と云う童話もある摩訶不思議な存在だ」

研究内容としても大変興味深い。男はそう云うと、ケイティの首輪を割れ物を扱うかのように上から優しく撫でる。エンプソンはこの状況が解らずに、困惑したままの表情でラビの顔を見上げているが、表面には出ていないだけでこの状況に当惑しているのはラビとて恐らく同じであった。ラビは左手に持ったS&W500を握ったままで、

「本官の素性を知っているのなら、そちらも名乗るのが礼儀では?」
「うん? はは、君は面白い事を云うね」
「?」
「君、だって本当は『砥炉跿ラビ』じゃないだろう」

ラビの左目が見開かれ、エンプソンもたじろぐが、ケイティと男だけは顔色一つも変えずに鷹揚としたものだ。男はそんな風に自分の言動の一つ一つに驚愕する彼等の反応を貪りながら楽しむように、ケイティの首輪の留め具の銀色に手をかける。

「…まあ、正体なんてそのように嘘も吐ける。実に下らない、だから」
「ッ…」
「僕が誰で、そしてこの子が本当は誰なのか、なんて、矮小な事実だ。だろう?」
留め具が外されて、カタン、と首輪が地面に落ちる音がする。――ケイティがどんな時でも外さなかったその大きな首輪の下には、直接肌に痛々しく彫られた「78」と云う赤黒い文字がある。
パズルのピースが全て埋まったかのように、ラビの脳内で今まで不可解だったもの全てが形を露にして目の前に現れたような気がした。この状況で牙を向く存在は最早一つしかない。白衣を着た男、かつて突然白兎にやって来たケイティ、78と云う実験ナンバーの人間が居ると云っていたフランスの男、そして78と云うケイティの首の文字。これを隠す為に今までケイティが肌を見せなかったとしたのなら、全てに合点が行く。
――…肌を見せない? そう云えば、己の軍隊にもそう云った人間が一人居た。本が好きな、一軍の人間…。彼の肌は幾多もの手術跡に塗れていた。 もしかしたら彼も、と考えたところで思考を止める。今は昔の事を考えている場合ではない。自分の憶測(そして最早これは憶測と云う域ではない)が当たっているとするならば、眼前の少年は殺す気で自分に襲いかかって来るだろう。
ラビは覚悟を決めたように迷わず進み出て、

「エンプソン。逃げるんだ」
「は…えっ?! ラビさ、」
「早く…、」

その時右から風を切る音を聞き、ラビは反射でケイティの蹴りをガードする。腕が痺れるような、凄まじい威力の蹴りだ。到底この華奢な体躯から繰り出されるものとは思えなかったが、『人間兵器として改造されている』なら全て話は別だ。然し今まで味方として力強く思っていた力が、こうして自分へと矛先を向けられる事になろうとは思ってもみなかった。
休ませる暇もなく左足が床を踏むと同時、今度はナックルを嵌めたままの右手を思い切り顔面目掛けて振り翳して来る。この刺のあるナックルがこれ程凶悪だと感じた事は初めてだろう、ラビはその場から引いて右手を避けたもののその回避行動がお見通しであると云わんばかり、ケイティはラビの腹部目掛けて容赦なく右足で蹴りを繰り出した!
重たいブーツの蹴りを直接的に喰らい、ラビは怯みながらも体勢を整えようとする。然しケイティが素早く懐に入って来ようとしている、ラビは舌打ちをすると銃を構えてケイティの額に銃を突き付けた。
ピタリ、とケイティの動きが止まりはしたものの、その顔は無表情のままラビの顔を見つめている。若干息が荒いだラビがこの状況を如何に打破するか考えながら、ゆっくりと口を開く。

「…詰まり、ケイティは人間兵器であり、白兎にスパイしに来ていた、と?」
「……その事実確認に、一体何の意味があるでありんす」
「…冷たいものだ。然しそれならどうなるんだい」
「何が」
「アリスは」

ケイティは誰に対しても無口で無感動で居たが、アリスだけは例外だった。アリスに関してのみ心を開いている模様は、恐らく彼のスパイと云う任務からしたら不要なものだった。故にそのアリスを裏切る行為は許されたものなのか? と純粋な疑問を深い意味もなく尋ねてみた次第であるが、これが予想以上にケイティの心を揺さぶったようだった。
ケイティのさきまでの無表情な様は何処に行ったのか、突如感情的なものになってラビの顔を見つめている。揺れるような、結論の出ていないような苦渋の矛盾を包含した顔。実のところラビはケイティがアリスに懐柔されている理由も要因も何一つ見当たりはしなかった(彼の人間性、と云う魅力だけでそれが説明出来たものかは疑問だった)のだが、恐らく2人の間で何か特別な事があったのだろう。
ラビが口を開く前にケイティは銃を持ったラビの左手を掴み、

「ラビには、関係ないでありんす…ッ!」
「…いや、仲間として――って、」

ラビが言葉を云い終わる前、ケイティはそのままラビの懐に入るとぐるりと回転し、勢い良くラビの身体を投げる! 身長も体格も大きく異なるケイティにまさか簡単に背負投げをされるとは思わなかったラビは動揺こそはしたものの、隙を作らぬよう素早く受け身を取るとケイティから離れて体勢を整える。その一連の動作で左手から銃が離れ、カシャン、と高い音を立てて銃が離れて床に落ちてしまう。
一方ケイティの目的は隙を作る事ではなかったようで、ケイティの右手には何時の間に盗ったのかラビの『ヒップホルスターが』存在する。それを惜しみなく後ろに投げて、今や丸腰状態のラビに改めて向き合った。
最早武器を持たないラビが武闘派である自分に敵う事はないと信じているのだろう、ケイティの目には「早く投降しろ」と云ったような色が窺える。後ろに居るエンプソンも絶体絶命を悟ったのだろう、色違いの双眸に薄く涙を滲ませた。

…然しこのような絶体絶命の状況下でも、ラビの顔は余裕の色を失う事が無い。平生のよう喰えぬ笑みを見せたまま、スーツのボタンに手を掛ける。
そして怪訝な顔をするケイティの前で、

「残念」

――まるで素敵なレディーを口説き落とす時に使うような声色で開けたスーツの下には、『ショルダーホルダーにインサイドホルスター』。さながら歩く兵器を目の当たりにし、初めてそれらの存在を知ったケイティの顔が大きく引き攣った。それと同時ラビはインサイドホルスターからS&WのM66を取り出し、ケイティの足を一発撃つ。
ケイティの顔が痛みに歪み、身体を崩して傷口を庇うようにその場に蹲る。人間兵器と云う響きから治癒能力や生体防御能力も高いものかとラビは思ったが、ケイティはそれに当て嵌まらないようだった。人並みの出血が見られるばかりか、ケイティの強さからしたら些か不自然に思える程、痛みには弱いモデルに思えた。
決着が着いたかのような空気にエンプソンは安堵しきったのか、

「よよ良かった! …ラビさん、そんなにホルスターあったんですね…!」
「アンクルホルスターもある」
「……まじですか…」

ぱん、と乾いた音がした。
緩和されていた空気を打破したその至極厭な音の方向を2人が見ると、今の今まで沈黙を貫き通して来た男の右手には、銃口から煙を出す銀色の銃が存在した。そしてその銃口の先には、肩から鮮血を流し、痛みに呻きながら床に転がるケイティが居る。
男は肩を竦めると、挨拶の時と同様にラビだけを見る。そうして目を細めると徐に口を開き、

「…潜在能力…。そもそもの個体能力の差か」
「……何が?」
「この実験体は特別な環境も、ケルト人のように優れた身体能力もなかった。それ故生じた結果がこれだ」

男はそれでも今一つ理解し切れていないのか、首を傾げながら宙を見て言葉を続ける。それはラビに対して話していると云うよりは、最早独り言に非常に近かった。

「然し当時、あのケルト人でも駄目だったな。…相手が悪かったのか、違う、実験の段階が早過ぎたんだ。我々の研究が及ばなかった…」
「……」
「ならば今、この生き残りのケルト人を材料にすれば――」

…ぱん、と乾いた音がもう一度鳴り響く。エンプソンは、人がこんなに間近で頭を貫かれて死んだのを、初めて見た気がした。真っ直ぐ額を銀色に貫かれ、その身体がゴムのようにぐにゃりと曲がって床に意思なきまま倒れ込んだのが、まるで何かの映画のようにも思えたが、然しそれは隠しようもなく現実味を帯びていた。
ひん剥かれた目玉と赤色が同時に目に入り込んでから、反射的にエンプソンは口を抑えた。そして男の「ラビではない」と云う言葉が突然脳内で反響し、自分の隣に立つ異次元の存在をまじまじと眺めた。硝煙が非道く自分を苦しめるようだ。

「ラビさ…、あ、……」

エンプソンが当惑し始めたのは眼前で殺人が行われたからだけでは無い事に、ラビは聡くも気が付いた。そして今尚ラビで在り続ける事が隣人との溝を益々大きくさせる事も、また痛いほど解っていた。
故にラビは喜劇を演じ続ける事を辞め、舞台を降り、ベールを脱ぐ事に決めた。基よりそれが自然であり、時間としては寧ろ遅い方だったんだろう。
…そしてラビは、否、此処では『メアリ』と書くべきか。メアリが微笑んだ瞬間、エンプソンはどきりとした。顔は全く一緒で変わるところがなく、確かに同一人物であるにも関わらず、全くの別人と見えたのだ。
そしてメアリが口を開くと、その考えは更に深くなる。

「…まあ、話せば長くなるし。色々と片付いてから、またゆっくり話そう」
「…は。あ、あの…、」
「あ、これ僕の端末。医務室は直ぐ下だから、電話して迎えに来て貰うと良いよ」
「え? あの、貴方は?」
「僕は時計塔に。…兵器であるケイティが居たんだ、もう此処には敵は居ない」

今までとは打って変わった、年相応の青年らしい物腰の柔らかい話し方だった。益々状況が把握出来なくなるエンプソンを余所にメアリは右目の包帯を外し、長い前髪で右の傷跡を覆う。然しその前髪は傷跡を隠すにはあまりにも頼りなく、包帯を巻いている時のように強固な意思はない。
ピアスを乱暴に外して惜しみなく床に捨てゆくメアリの姿をエンプソンは只黙って眺めていたが、その前髪から覗く歪な傷跡すら美しく思え、漸く彼の本当の姿に出会えたようで静かに高揚した。派手なピアスも、右の顔面を大きく覆う包帯も存在しない方が、遥かに圧倒的な存在感があるように見えた。
メアリはショルダーホルスターからCz75を外し、エンプソンに向かって情に満ちた笑みを向ける。エンプソンには解らなかったが、この銃だけは砥炉跿ラビのものではなく、メアリを象徴する持ち物だった。

「それじゃあまた」
「あっ。き…気を付けて! ま、またお菓子一緒に食べましょう!」
「ああ、糖分は控え目で頼むよ!」

走って遠ざかる彼の後ろ姿を眺めながら、エンプソンは覚醒したように慌ててラビの携帯を触り医務室に電話をかけようとする。然しその前に何時の間にか立ち上がっていたケイティが、ラビの携帯を掴んで無理矢理に剥ぎ取った。
エンプソンは驚き思わず身構えたが、ケイティの姿はどう見ても満足に動けたものではない。本当にケイティの能力からしたら違和感がある程に、出血の量も憔悴も多かった。そう云えばケイティが傷付く姿を見たのはこれが初めてだが、力を得た代わりに脆弱な身体なのだろうか。
ケイティは無言のままラビの携帯を見つめていたが、口を噤んだまま思い切りその端末を床に投げ捨てる。精密機械は当然呆気無く壊れたが、恐らく憂さ晴らしか八つ当たりだったのだろう。ケイティはその壊れた様を見ると足を引き摺って、肩を抑えながら歩き出す。エンプソンは急いで立ち上がり、

「な、何してるんですか! 医務室の人に来て貰って…」
「…行かないと」
「…え?」
「約束、したでんす」

約束とは何の事だろう。何処に行かなければならないのだろう。エンプソンは解らなかったが、ケイティの横顔があまりにも悲痛に満ちていて、呼吸する事すら忘れる程だった。
ケイティの身体から血が落ちて、床に小さく色を付けて行く。その様が何かに酷似しているような気がしたが、それが何かは今のエンプソンには解らなかった。ふと間近で見たケイティの髪に、白髪が混じっているのを見た。よく見ると、メッシュの入ったピンク色の上の方が、明かりの元で白く光っている。エンプソンは彼が染めた髪の理由を、漠然と理解出来た気がした。
ケイティの唇から、溶けるように言葉が落ちて行く。

「『世界を殺しても、怪物になっても、あの子を守って』って」

何処からその想いが出て来たのか他人からは忖度出来ないような、深くて重く、鎖のような情愛の言葉だった。



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