君へ奏でる五重奏。




「そんな顔するなよ。ソイツのピアノはすげぇって評判だぞ」
「…俺、ピアノ解らないし」
「何事も経験だ。わざわざフランスから来てくれるんだ、行くべきだ」

その少年の名をグリムと云う。フランス貴族として有名な彼の名だけならば、ジャバウォックも知っていた。


素材のみを見るとジャバウォックのコンサート用の衣装は一番非道くあったけど、着こなしや工夫で他の観客のものと劣らないばかりか人目すら引けるものだった。良い衣服もまともに買えない労働者ではあったけど、ちょっとしたアレンジや組み合わせで人を唸らせるのがこの頃から上手かった。鎖骨まで伸びた真っ直ぐのブロンドも、同年代の少年より高い身長も雰囲気を助長させてくれており、彼の素材そのものより良く見させた。
その才能で周りから浮かず済んだコンサート会場で、グリムは人生で最初で最後の恋をした。まさか自分が貴族を好きになるとは夢にも思わなかったけど、自分と同年代の少年のピアノは美しくて透明で、何もかもが感動的であり、ジャバウォックに大きな衝撃を与えた。
愛と云うよりは尊敬と呼ぶべきか。人の指があんな幻想を織り成すとは思わなかったし(彼の周りは労働をするか鞭を振るうかだけだったから)、その人間が自分と同じ程しか生きていないとなれば尚更だ。ピアノの事は解らなかったけど、この音色が本物で素晴らしいとだけ解ったジャバウォックは、一つ一つの粒をまるで宝石を手にするように大切にその耳に刻んで行った。時には情熱的に、時には静かな海のように動く指を見る為の目に瞬きをさせるのが惜しい程だった。彼の耳も目も、否、全身全てがその瞬間から小さなピアニストの虜になったのだ。


会場を出た時、ジャバウォックはまるでサーカスに来たような、或は魔法にかけられたようなそんな感覚に陥っていた。自分とは明らかに世界の違う人間に心臓を囚われると同時、貴族に対する憎悪も一緒に根こそぎから奪われてしまった。そしてこんなにも彼のピアノに感銘を受けたのも、ジャバウォック只1人であった。






それから6年が経過した。あれから両親の離婚があり、再婚があり、フランスへの移住があった。然し生活の環境は(勿論家庭内の環境は大きく変わったが)依然として変わらなかったし、ジャックもまた当たり前のようにジャバウォックの中に住んでいて、彼の身体を乗っ取る事が度々あった。孤独で深遠な海の中に放り込まれた後のジャバウォックは、自分の手が知らぬ間に赤く染まっている感覚に、何時までも慣れる事は無かった。大きなものへの反抗心からと云うよりは、生理的にそう云った過激なものが無理だったのかも知れない。
非道く冷える或る冬の日の事だった。ジャバウォックが目を開けた時は既に辺りが暗く、丸一日身体を奪われていた事実を理解すると同時、頭に激痛が走ってその場に膝をついた。然し裏通りを歩く者は、くすんだ髪色の少年がまるで祈りを捧げるように地べたに跪いたその光景には、一瞥もくれやしなかった。ジャバウォックはその時に、足元に一枚の紙切れが落ちていたのに気が付く。またジャックのものだろう、そう思って拾い上げたジャバウォックの水色の双眸に赤色の血文字が明瞭に印刷された。
『次の獲物は今までのものとは全然違うぞ。何だと思う?』
ジャック、と云う異常者の名前が綴られて終わっている。これまでに身体の持ち主であるジャバウォックに質疑をしてきた事があっただろうか。ないな、とジャバウォックは思いながら、多少苛立ってメモを裏返す。工場で働く中年の男から誕生日に気まぐれで渡されたボールペンをポケットから取り出して、乱雑に紙の上に文字を書き殴った。
『警察犬』
そのメモを乱暴に握り潰すとポケットの中へと入れて、反対側のポケットからライターを取り出すと煙草を銜えて赤色を先端に燈す。空中に溶け込む煙を細めた目で見上げながら、 自分の住む世界は何と下らないものなんだろう と思った。




翌朝ジャバウォックが目を覚ますと、イタリアに住んでいた頃と違って粗末なベッドの中に小さなメモがある。ジャックの獲物などどうでも良く感じたが、それでも自分の身体が何を殺めるのかは知っておく義務がある。ジャバウォックは紙切れを見て――、そして、息を詰まらせた。
『外れだ。今度は昨日会話した人間だ。一目見て解ったよ、お前も知っているだろう。ピアノ(下らないお遊戯)がお上手な、フランスの名高い貴族様だ。ソイツの名前は――』
その先に書かれた名前を見て、ジャバウォックは突然吐き気を催すと勢い良くトイレへと駆けて行った。そして内側から込み上げて来る吐瀉物を出し、枯渇するまでそこで喘いだ。身体全体が大きく揺れ、心の臓が痛くなる。胸を必死に押さえ、数十分の後で漸く立ち上がってペンを握る。彼の顔は親を目の前で殺された子供のように、怨恨が詰まりに詰まったものになっていた。
ジャバウォックはあのコンサート以来、グリムの姿を見た事がない。それでも彼を依然として敬愛していたし、彼の音を愛おしく思っていた。その彼がもしも、この汚れきった労働者の手で殺されたとしたらどうだろう? 想像するだけで今直ぐにも窓から飛び降りたい衝動に駆られた。己は取るに足りない、何の価値もない人間だったが、グリムは違った。神に愛され、人々から崇められるべき特別な存在だった。彼を守らなければ、とジャバウォックはその時誓った。紙にはこう書き綴った。
『お前がそうする積もりならば、俺はこの身をナイフで掻っ切る』
そこで意識が途切れた。



次の日の朝になると、再びベッドの中にメモが置かれていた。ジャバウォックはジャックが神に背く行為をしていないか不安で仕方がなく、紙を掴む手が震えたが、紙の文字を見て安堵する。
『それは困る。それでは俺も死んでしまう。そうだな、それじゃあ賭けをしないか? 貴族様の命を賭けたゲームだ。だがお前に拒否権はない。お前が拒否を決意した途端、お前が自殺をする前に、俺はアイツを殺しに行く。』
然し安堵も束の間だった。ゲームだって? ジャバウォックはいよいよジャックの異常さに気味が悪くなる。メモを裏返すと、何時もジャバウォックが返事を書くそこに賭けの詳細が記されていた。それはジャバウォックがこれから10年以内にグリムの心を手に入れる事が出来たなら、殺すのを止めてやると云うものだった。10年。随分と先の事だった。今にも人の肉の感触を知りたくて疼いているだろうジャックの心中が解らずにジャバウォックは当惑するが、そこには更に続きがある。
『その間に俺は大きな猫を被ってアイツを落とすだろう。詰まり、お前はアイツを略奪するんだよ。然し出来るだろうか、あの純粋な貴族様が何人も同時に好きになるなんて器用で不道徳的な事を?』
相手の事を血と肉の塊としか見ていないくせをして、平気で愛着してみせる。そこには人情と云うものが存在しなかった。
自分に出来るだろうか、とジャバウォックは思った。確かに自分はグリムを愛していた。然しそれは一方的なものであり、恋人のような愛なのかもまた解らなかったし、そもそも自分と彼では身分が違い過ぎるのではないだろうか、と威圧感にも似た感情に苛まれる。然しジャックがこうして賭けをしてきた以上、それに乗らなければならない。グリムを守る為だった。そこに愛は確かにあった。
だが、どうやって自分がジャックと違う存在で彼を恋に落としてみせるのか?
――ジャバウォックはかつてのコンサートでのピアノの魔術を思い出す。彼は何よりも神聖なものだった。
『お前の思い通りにはさせない』
文字を綴ったボールペンのインクが、一杯一杯だとでも云わんばかりに先端から零れて紙を滲ませた。






「…後は、グリム坊やも知っての通りだ。お前は俺の算段通りに俺に惚れ、ジャバウォックを撥ね付けた。結局アイツは賭けに敗れたよ」

一言も口を利かずに聞いていたグリムの目は、明らかに動揺で揺れていた。その様子を眺めるジャックは非道く愉快げで、苺の多く載ったケーキを前にした餓鬼のようでもあった。
何か云ったらどうだ、とでも云わんばかりに肩を竦めたジャックの前で、漸くグリムは口を開く。

「…詰まり、私が好きになったジャックは…」
「俺が演じた『ジャバウォック』だ」
「ッ…、そして、貴方は私を…」
「ああ。好きじゃなかったぜ、そもそも何かを愛するなんて感情がてんで解らない。俺には全てが殺す為のものに見える」

ジャックの顔に嘘は僅かにも見て取られなかった。グリムはそれ以上何も云う事が出来ず、まるで今にも溢れて来そうな感情を押し殺すように息を止めて唇を強く噛んだ。
グリムの脳内で、ジャックに対する怨憎やジャバウォックに対する罪悪の感情が激しく渦巻き合う。自分が強く拒絶する度に、笑顔の裏でジャバウォックは何を思っていたのだろう。只の殺人願望者に恋する自分を見て、何を感じていたのだろう。
グリムの右手からレイピアがずるりと落ちて床に音を立てた時にはもう、ジャックが眼前まで静かに歩み寄っていた。彼の手にはこれまで見た事もない、双子ですら持たないサバイバルナイフが握られていたが、グリムは逃げる気も抵抗する気も全く湧かなかった。ナイフのセレーション部をグリムの首元に当て、殺人鬼は艶然と笑む。

「…誤解のないように云っといてやるよ、ジャバウォックはお前が好きだった」
「……」
「賭けとか関係なしにな」

ジャックはグリムの手首を掴み、床に押し倒すと馬乗りになる。グリムは為されるがままでいたけれど、ジャックの水色と目が合うと、口を小さく震わせた。その姿を見下ろしていたジャックはまるで子供をあやす優しい母親か、はたまた悩める人間を誘導する神父のように、砂時計が時を刻むかの如く心地好い言葉を上からそっと落とす。

「…あばよ、グリム坊や」

ジャックがナイフを振り翳すのを視認して、それから目蓋を閉じる。最後に誰にも聞こえぬよう頭の中で、「ごめんなさい」とだけ呟いた。それは誰でもない、ジャバウォックに対する謝罪だった。どれ程苦しんだのか知る由などなかったが、それでも確かにすまないと感じた。無論、謝って済まされるものでもない事は承知していたが――。
数秒が経った。然し身体中の何処にも激痛が走らない。死んだとも思えない。不審に思って目を開ける前に、ぽたりと液体が垂れる音と腹部に生ぬるい何かが落ちた感触がした。
そしてグリムが目を開けるとそこには、

「……駄目じゃない、グリム。どうして諦めるの…」
「…ジャバウォック…?!」

――自分に馬乗りになっている男の顔は非道く優しい。ジャバウォックだ、とグリムは直ぐに確信した。瞬時にジャバウォックの口から血が沸き出して、グリムは悲鳴にも似た声を出す。ジャバウォックの腹部には深々とナイフが刺さっていて、自分の腹部には彼の血が溢れてくる。
恐らくグリムを刺そうとしたジャックの身体を、ジャバウォックが支配してそのナイフの切っ先を自分へと向けた。その行為はグリムを刺さない為だけではなく、もしもジャックが再びジャバウォックの身体を乗っ取ろうとした時に、深手を負う事で彼の殺人行為を邪魔すると云う考えもあっての事だった。
グリムの双眸から、ダイヤのような涙が溢れた。床に崩れたジャバウォックの身体を急いで抱え、それから肩を抱いて必死に声を投げ掛ける。

「どうして、こんなっ…」
「…決まってるじゃない。グリムが、好きだから…ッ、」
「…っ貴方は、莫迦だ…!」

グリムの涙がジャバウォックの頬へと滴り落ちる。自分の為に彼が涙を流す事が信じられず、また、何処か可笑しい心持ちがした。
グリムは全身を震わせながら、何とか胸ポケットの中の小型無線機を取り出して、兎の形をしたそれの鼻を押す。スピーカー部分の耳からは間延びした小さな幼女の声が聞こえて来た。

「もしもしトルイユ、至急礼拝堂に! 重症なんだ、」
『…グリムお兄たん? でも今こっちも手が――』
「良いから早く!」

これ程までに捲し立てるグリムの姿を見た事がない。自分の腹部からは止めどなく血が溢れていると云うのに、自棄に冷静なら痛みもあまり感じないジャバウォックは本当に死ぬのかも知れない、と思った。グリムの頬に手を伸ばし、彼の涙を拭う。グリムはその行為を咎めるように眉を力なく吊り上げたけど、何かを云う前にジャバウォックが口を開く。

「グリムも莫迦だよ。…死のうとするなんて。こんな、俺の為に…」
「っ…貴方は。私に、当時の私に、貴方が、一体どれ程大切だったか知らないでしょう…?」
「……」
「貴方が唯一の光だった。貴方が居てくれたから、私は…。なのに、どんなにか、貴方を…傷付けて…」

言葉にならない声が漏れたけど、グリムはその声を己の中に留めてジャバウォックの手を握る。当時、無知だった自分に世界を教えてくれた彼がどんなに眩しかったろう。世界に対する知識は誰でも持っていたかも知れない。然しグリムが出会ったのは他でもない彼だったし、只の偶然を運命と名付ける事は、果たして許されない事なのだろうか。例え許されないとしても、純粋なグリムは運命を信じたかった。
そしてグリムはその手を口元に持って行き、心底からの懇願する。

「もう、喋らないで…」

そのグリムの姿はまるで祈りを捧げているみたいで美しいと、ジャバウォックは閉じ行く意識の中で思った。


今や礼拝堂の中に彼等の姿しかなく、帽子屋の姿はなかった。



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