君へ奏でる五重奏。








「実は強いと云うオチはないのかい」
「そんなのあったら今頃自慢げにアピールしているかな…」
「だよなあ…」

礼拝堂に向かう途中の道のりで、ジャバウォックの否定に絶望した帽子屋が溜め息を吐く。責めるようにも聞こえるそれに先程から肩身が狭く、次第に縮こまり過ぎて消えて失くなってしまいそうでもある。ちょっとお洒落なブランド物のバッグを手で持つようにチェンソーを提げた帽子屋に、「せめて盾にはなるから許してよ」とジャバウォックは云った。帽子屋はそれに瞬時に眉を潜めたが、地面を叩くブーツを止める事はない。

「…随分と簡単に自己犠牲するんだな。敵を何とか仕留めてみせる、と云わないのかね」
「血が苦手なんだ。特に人のはね」
「……成る程」

帽子屋が意味ありげに頷くと同時、突然茂から何者かが姿を現した。ジャバウォックはそれを見て――驚愕に開いた口が塞がらない。そのものとは大量に手術痕のある皮膚が焼けたように爛れ、髪は殆ど生えておらず、目は血走りぽかんと開けられた口の中に舌はない。悪魔のようなそれと侵入者がこんな「異形」だった事にジャバウォックは怯んだが、その一瞬の隙に化け物は帽子屋を襲おうと人間じみてない獣のような動きで走り寄る。然し宣言通り彼女を庇おうとした彼が盾になるよりも早く、帽子屋は手中のチェンソーの電源を入れて一切の躊躇もせず――悪魔を一刀両断した。
悪魔が頭から真っ二つに割れて朱殷色を飛沫のように飛び散らせる中で、チェンソーは唸り声をあげて激しく奮えている。脳みそや眼球が爆発したかの如く細かくなりながら飛んだ様を直接見てしまったジャバウォックは気持ち悪さに思わず口を手で覆ったが、帽子屋はそんな彼を見ると嫣然と笑み、そうして淑女宜しく上品な口で云う。

「…大丈夫。自分は『血には慣れている』から」

ジャバウォックは吐き気をさせながら、ひっくり返ったトマトの缶詰めの中身を全身に浴びた虫のような塊を見下ろした。人間とは思えないが元が人間としかも思えないそれを、実験材料にされた兵器なのだろうかと思った。痛ましく金色の眉を下げた彼に帽子屋は赤色に塗られたバッグを右手に提げたまま、それからトマトの付着した頬を左手で拭う。まるで悪魔が唇の上に付着した人間の血を舐め取るように。
「まるで戦争のようだとは思わないかね」
「…何…?」
「責め立ててくる敵軍と守ろうとする自軍。戦争と云わず何と云おう」
「……」

ふざけて放たれた言葉ではない事位、ジャバウォックは理解した。黙りこくるジャバウォックにまるで子守唄を聴かせるよう、両者間に虫の死骸を挟みながら帽子屋は話を続ける。

「ところで戦争はどちらが悪いと思う」
「…それは、」
「宣戦布告した方? 負けた方? 違うな。戦争に加担した瞬間から、どちらも悪になる。そこで正義や悪の話をするのは可笑しい」

吐き気が大分マシにはなってきた。然し這う蛇のように気味の悪さはその力を増し、眼球の奥で煙と化してジャバウォックを苦しめる。
血の匂いと刺すような赤色が、何時までも離れない。

「…だから、此処で正義の話は出来やしないな」





入口はバンディやスナッチを始めとした白兎のメンバーが一体となってガードしている筈なのに、こうして侵入者と鉢合わせる事になった。これは入口が突破された事を意味するのか、はたまた入口以外からやって来たのか。何れにせよ不安材料には違いない、急ごうとジャバウォックは礼拝堂の扉を開ける。
中は静かで涼しかった。大きなステンドグラスから優しい光が射し、教壇へと降り注ぐ様子は非道く幻想的で、戦争を幾度と無く繰り返す人間の創ったものとは思えない程だった。ジャバウォックはその空気に圧倒されながらも礼拝堂の中を見渡す。グリムは1番前の長椅子に座っていて、その姿を見た事でジャバウォックは安堵した。扉の開放音に反応して立ち上がったグリムにジャバウォックは彼の名前を呼び、急いで駆け寄ろうとする。然しそれを制したのは、他でもなくグリム本人だった。

「来ないで下さい」

ジャバウォックの足が止まる。自分へと強く向けられたグリムの拒絶を含んだ水色に怯んだが、平生のように笑顔を作ってふざけて肩を竦めてみせる。それを見たグリムの双眸が辛さか憎さで歪んでしまったのを、ジャバウォックが気付いたか否かは解らない。

「…意地を張っている場合じゃないんだ。グリム」
「…意地? 拒絶を意地と仰しゃるのですか」
「…侵入者が現れたんだよ。だから、」
「知ってます」

ジャバウォックの口が止まる。礼拝堂にはベルの音は聴こえない筈だし、誰かが知らせに来た気配もない。なればグリムが侵入者の話を知っているのは奇妙なのだ、ジャバウォックは厭な感じがしたが、直ぐにその考えを排斥してきっと意地でそう云ったのだろうと己を納得させる。
然しその甘い考えは、直ぐにグリム本人によって否定されてしまう。グリムが右手にレイピアを構えるのを見て、ジャバウォックの顔が一瞬にして強張った。その姿を信じたくない一心でジャバウォックが彼の名を呼ぶと、グリムは自分の唇を噛む。それが苦しさから来ていると云う事は、誰にだって解るものだった。

「…私は貴方に、いえ、『白兎に』剣を振るう。…そう約束しました」
「…?! 約束って、まさか、」

その相手が侵入者の――即ち今まで対峙してきた人間兵器の研究者である事はこの場の状況からして明瞭な事実ではあったけど、その意味が解らずにジャバウォックは当惑する。いや、実は意味なんて薄々とは解っていたのかも知れないが、それから視線を逸らしたかったのかも知れない。然し今となってはそれから逃げる事など許されず、眼前のグリムはジャバウォックに事実を突き付ける。そのレイピアで身体を鋭く刺すように。

「そうしたら、『ジャック』について一切の情報を与えると…ッ」
「…ッ! グリム、」
「貴方が、何時までも彼の事を教えて下さらないから!」

泣きそうな悲痛な声だった。それが解ってしまったから、ジャバウォックは顔を歪めた。グリムは白兎に「ジャックの情報を得る為に」入った。そしてジャバウォックはその情報を与える為に此処に居た。然しジャバウォックは何時まで経っても彼に情報を与える事はせず、どころかリリスのように蠱惑ばかりする。それがグリムにとっては耐え難く、とうとう限界を迎えてしまったのだ。ジャバウォックの苦痛とも云える顔には気付かずに、グリムは己の感情を投げ付ける。

「私はジャックについて知りたいし、彼を愛している…!」
「……ッ…」
「彼に会いたい、私はその為なら何だって――」

その時だった。礼拝堂に『初めて聞く男の声』が、とても良く響き渡った。


「…嬉しいぜ、グリム? そんなに俺に会いたかったなんてなあ」


ジャバウォックのように愛に満ちた声色でも、グリムのように気品に溢れた声色でもない。冷徹で下劣さを持った声だった。
グリムは一瞬自分の目か耳が可笑しくなったのではないかと疑ったが、自分の気が触れたのでなければ確かに『ジャバウォックがその声を発した』。礼拝堂には自分達を覗いて帽子屋以外誰も居ない。絶句しながらジャバウォックの顔を見ると、何時からかそうなったのかは解らないが、まるで別人の形相をしていた。否、最早別人でしかない。彼の何時も纏っている緩やかな空気はそこになく、身の毛のよだつような恐怖すべき空気、そして『今にも人を殺しそうな猟奇的な表情』。戦争で見てきた決死の表情とも違う、この世の醜悪さを全て集めては喜悦するかのような異常な顔立ちに、グリムはレイピアを持つ指先が一気に冷えるのを感じた。
着ている紺色のジャケットも髪型も指に嵌められた大きなカレッジリングも全て一緒だが、それらを以てしても彼がジャバウォックだとは俄には信じ難い。手品のように入れ替わったのではないのかとグリムが愚かにも狐疑した時、今まで沈黙を貫いていた帽子屋が重々しく口を開いた。

「『二重人格者』か」

今のこの状況を矛盾なく説明し得るその言葉に、グリムの心臓が強く跳ねる。然し今まで考える事も出来なかったその事実を、単簡に受け入れられる訳もない。そんなグリムを嘲笑うかのように、目の前の男――ジャック――は下品に口角を上げる。そしてジャバウォックには見られないコックニー訛りのある英語で、

「良いねえその顔。…昔から変わらない」
「…貴方が、ジャック…?」
「ああ、そうだ。混乱するか? 無理もない。事細かな説明も欲しいだろ」

ジャックと名乗る男は然し、あまりにも記憶と違い過ぎる。昔のような温厚さや親切みは何処にもなく、嘘を吐いているのではないかと期待したくなる程だ。
そしてそんなグリムがまるで可笑しくて堪らないとでも云うように、ジャックは薄気味悪さを感じさせる声で彼とジャバウォックについて語り出す。胡散臭い詐欺師が、その獲物を影から喰らおうとしているかのように。

「…話を始めるぜ? グリム坊や」





JABBERWOCK'S PAST


ジャックは血が好きだった。最初に殺したのは猫だった。


未だ両親が離婚していなかった、イタリアに住んでいた頃の事だ。酒癖の悪い父親からの虐待と、幼子から続いた労働者としての過酷な生活どちらも起因したのだろう。死んだ方が楽だとすら思える日々を痣だらけの身体で懸命に生きていた或る日の夜、ジャバウォックは自分の足元に血だらけの猫の死体が横たわっている事に気が付いた。
工場から帰って来て煤だらけだった両の手の平が、赤黒い血で汚れている。猫の死体の先には血塗れのナイフが落ちている。ジャバウォックが帰りに何時も頭を撫でている白色の幼い野良猫だった。
ぼんやりとその場に立ちすくみながら、自分が猫を殺したのだろうか、とジャバウォックは思った。然し記憶がなかったし、幾ら追い詰められていると云っても自分が猫を殺すとは思えない。母親や自分の血をよく見ていたから血は大嫌いだったし、父親や鞭を振るう職場の人間のように力で何とかする人間にはなるまいと常日頃から思っていた。
ジャバウォックは少し離れた川の側まで行って、地面を掘って猫を埋めた。小さくて頼りない両手を合わせ、猫の為に祈った。すっかり遅くなった事に恐怖を感じながらジャバウォックが家の扉を開けると同時、大きくて厳つい右手がジャバウォックの頭を掴む。父親はそのまま息子の身体を地面へと叩き付け、靴を履いたままで腹部を何度も蹴る。それから大人しくなったジャバウォックの身体を掴み、縄で縛って吊るし上げる。身体が冷たくなって行く息子の姿を見て、父親は酒のつまみにして楽しんだ。この家には酒のつまみを買う金銭的余裕がなかったのである。


それから3日経った夜の事、今度は少し遠く離れた家の飼い犬の死体が足元にあった。ジャバウォックの利き腕でない『左手』には前と同じメーカーのナイフが握られていた。真っ二つに切られた犬の腹部から覗く内臓と辺りに散漫する血の匂いに気分が悪くなり、ジャバウォックはその場に膝を付く。

ジャックと云う自分の中に住むもう1人の人格をジャバウォックが知ったのは、誰から貰ったかも解らない煙草をズボンのポケットから見付けた早朝の事だった。この頃既にジャバウォックは親の目を盗んで煙草を吸っていたが、その煙草の種類はジャバウォックが好むものと全然違っていた。ジャバウォックが普段寝かせられている壁の隅っこに、血文字で何かが書かれたメモを発見する。そこには自分は労働階級のイギリス人で、ジャバウォックよりも年上で、血を何より好むのだと云う人格が端的に書いてある。文章は「ジャック」と云う彼の名前で閉じられていた。自分とは全く違う癖のある文字を見ながら、動物の死体や覚えのない煙草は彼の所為だったのだとジャバウォックは理解した。ジャック、ジャバウォックの名前のスペルを略しただけのものだった。
紙切れを丸めてズボンのポケットに入れる。爪の間に固まった赤黒い血が見えた。頭の揺れる感覚がした。


ジャックが誕生してから一ヶ月近くが経過した或る日の事。年上から好かれる傾向にあったジャバウォックは、何時も一緒に煙草を吸っている同じ工場の男から「この間利子の代わりにこんなものを手に入れたんだが要らないか」と或る一枚のチケットを渡された。それはピアノコンサートのもので、丁度久々に貰える一日だけの休暇と被っていた。
ジャバウォックはピアノをまともに聞いた試しがなかったが、ピアノを弾くのが自分と同じ年齢の少年なのだと知らされて若干の興味を持った。然し少年が貴族だと聞くと、ジャバウォックは顔を曇らせる。労働者の自分からしたら、良い身分の貴族など好きになれない。然し男はそんなジャバウォックの心情を重々理解してか、諭すようにゆっくりと云う。



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