医者は二度ベルを鳴らす




紅茶で濡れたスーツを脱ぎ、ガンホルダーの着けられた白いシャツ姿になるとエレベーターの前に立つ。スーツ同様紅茶で汚れてしまったネクタイを片手で外し、シンプルな黒色無地のそれをポケットの中に押し込んだ。
エレベーターを待つ最中重みを持つ髪を鬱陶しげに掻き上げていると、通路の前方から人影が現れる。その人物はずぶ濡れのラビを見ると驚いたような顔をして、そうして慌ててラビの方へと駆け寄った。彼は本当に心配しているような調子の声で、

「…ラビ。お前どうしたんだ、その。非道い姿だぞ」
「正直これで済んで有り難いが」
「…は?」
「いや。気にしないでくれ」

アリスはラビの言葉の意味がよく解らなかったけど、外は雨が降っていない事とシャツの襟首に付いた色、そして腕に掛けられたスーツを汚す色からもそれが紅茶だと解ったのだろう。まさか紅茶を頭からかけてしまうお転婆なメイドが白兎に居る訳もなかったが、ハンカチは何処にやったかと自分のスーツのポケットを探る。それを制したのは他でもなくてラビだった。右手を上げた後に発した「構わない」と云う言葉で遠慮の態度を示す。
そんな訳にもいかない、とアリスが云おうとした時だ。ラビは「ところで」とまるでアリスの言葉を遮るような調子で云うとアリスの顔を見る。その真っ直ぐに向けられた左の赤色と言葉の調子にアリスは少し怯み、云いかけた言葉を呑んだ。

「今からシャワーを浴びるから、それが終わったら一緒に食事でもどうだい」

これが友人や仲間に対する好意以上の感情があって放たれた言葉だと云う事は、アリス以外でも直ぐに解る事だった。誘われた側のアリスは増してそれが解ったから、反応が遅れてしまった。
エレベーターが止まり、扉が開くと誰も居ない空間が現れる。ラビはアリスの左手を掴むとエレベーターへと引っ張って行く。その際手首に有る未だに癒えぬ傷口が痛み、アリスは痛みに顔を少しだけ顰めた。ラビはエレベーターに乗ると自分の部屋の階のボタンだけを押す。それを視認したアリスは焦ったような声色で、

「お、お前とは付き合えないって…」
「ああ。でも簡単には諦められない。アリスだって少なくとも好意は持ってくれている筈だ」
「――…っそっちの意味でお前に好意を持っていたのは過去の事で…!」
「ならまた振り向かせてみせる」

アリスはこの間走って逃げはしたが、それでも明確な謝罪と拒絶をしたのだから、この話はもう失くなったものだと思っていた。然し彼は未だ諦める気はないと云う。流石に予想出来なかった事態にアリスは己がどうするべきか解らなくなってしまった。
アリスの左手首を掴む力が強くなり、アリスは痛みに小さな呻き声を漏らす。ラビはアリスの背中をエレベーターの壁に押し当てて、右手の手首も壁に無理矢理抑え付けた。アリスはラビを睨み上げると掴まれた手に力を込めて抵抗するが、抑えこむ側のラビの力の方が強く、束縛からは離れられない。彼が左手を選んだのは故意なのだと解ったが、気が付いたところで出来る事は何もない。ラビはそんな彼を嘲るかのように、

「…それに『過ち』で一晩を共に過ごしてくれたのだから、攻め続ければ心だってくれるかも知れない」
「なっ、……!」

虚仮にされたような心持ちがして、アリスは忸怩たる思いに思わず顔を赤くする。その時エレベーターが場違いにも軽快な音を立てて止まり、扉が開いた。アリスは扉が全て開く前にラビの束縛から逃れ、そうして急いで扉から出ようとしたが、扉の前に居た予期せぬ人物に足が止まる。エレベーターの上部で光るランプを確認すると、そこはラビの部屋がある階ではなくて、その2つ上の医務室のある階だった。
エレベーター前のハートはアリスを見ると、クイーンとお揃いの大きなエメラルドを厭らしく細め、小鳥のような上機嫌な高めの声で云う。

「アリス。丁度良かった、話したい事が」
「ハート…。お前、もう大丈夫…」
「すっかり。あ、ラビも居るじゃない。ねえラビ、『君のお気に入り』を今から借りるけど」
「…」
「良いよね」

尋ねると云うよりは断定だった。ハートは外側のハンドリムを前に回して左に旋回すると、アリスと並んで「早く」と急かす。アリスは一瞬躊躇ったが少なくともラビから逃れる好機だとも思ったのだろう、大人しくハートの横に並ぶと後ろを振り向いた。エレベーターの中のラビはアリスに手を振ると、惜しいとも何とも思っていないような顔でボタンを押して扉を閉める。その余裕綽々な様子にアリスは何だか狐につままれたような気持ちになったけど、直ぐに前の方に向き直った。
隣を車椅子で移動するハートは奥まで来ると、ブレーキをかけて「ねぇ」とアリスを見上げる。アリスもそれに合わせて止まり、次のハートの言葉を待つが、…その言葉とは想像だにしないもので、アリスは言葉を失った。

「君、此処では髑蠱って名乗っているようだけど。本当は鬼梗と云うのだってね」
「……!」
「鬼梗。少し頭の可哀想な家だ」

突如アリスの頭に今まで封印していた忌々しい記憶が蘇る。兄に虐待を受けた事、親に売られた事、身を売った事。水栓をして閉じていた浴槽の水が突然穴から溢れ出して来て、その浸水が止まらずに足元を覆う。凍り付いたアリスの表情を喜悦した表情で見ると、ハートは水栓をしてやるどころか蛇口すら捻ってどんどん水を溢れさせる。

「男娼生活は苦しかったろう」
「ッ…何で、知って…、」
「云ったでしょう、君に好意を抱いたと。だから君の事を知りたくて、さっき医務室で電話したんだよ」
「電、話…」
「違法に大日本帝国を離れたりするのは君だけじゃないんだよ。その内の一人の僧と交流のある知り合いが居てね。君の事を知っているかと尋ねて貰った」

奇遇にも君をよく知っているようだったよ、とハートは云う。アリスの名前は珍しいから同姓同名の確率は無かったし、現にハートの云う事は全て真実だ。僧と云われてもアリスの脳裏に特定の誰かが浮かぶ訳でもなかったが、それでも僧に関しての心当たりならある。陰間茶屋に僧の客は多かったし、恐らくその中の一人だった。…かつてしてきた情事の数々を鮮明に思い出し、アリスは吐き気にその場に膝をついて口元を押さえる。然しハートは息をする口に水が達するまで、そして窒息してしまうまで、言葉をやめる気はないようだ。

「最低なお兄さんだったそうだね」
「…黙、ッ…」
「暴行を受けたなんて可哀想に」

ハートは自分よりも下の位置にあるアリスの髪の房を左手に取ると、それを気持ち良さそうに撫でる。普段見下ろされる側のハートは今は逆に相手を見下ろしながら、着飾った紳士がパンケーキにメープルを上からかけるように、

「君の髪って男にしてはちょっと長いよね」
「……っ…」
「過去に引き摺られている良い証拠さ。忌々しい過去はトラウマになって君を離さない。君だって自分で切る勇気がない。君は過去をその身に纏わせたまま、成長が出来ないでいる。…女のままだ」

アリスは何も云う事が出来ず、髪をハートに触れさせたまま身動き一つしない。只苦しそうに、喉を詰まらせたように息をするだけのアリスを見て、憐れだな、とハートは思った。今なら恐らくアリスは何をされても喘ぎながら途切れ途切れの呼吸をするだけだろう。それは彼の精神的外傷があまりにも大きい事を意味しが、だからこそハートは少し苛めてみたくもなった。

「…今からその僧を呼んでみる?」
「……?! な、に…」
「君に会いたがっていたよ。どんな風に成長したろうかって。厭?」
「や、やめっ…」
「なら代わりに白兎中に云い触らしてみようか、君が娼婦だったって。皆どんな顔をするだろうね。君を愛したクイーンやラビでさえ、君を見る目が変わるかも知れない」

顔を上げたアリスの口元の左手や足が震えていたのをハートは見逃す事もなく、喜悦の感情も隠さずに極上の笑みをアリスへと向ける。此処までの反応は予想外だったが、この怯えからもアリスが白兎での生活を何よりも大切にしていると云う事も窺える。然しハートは別にアリスをどうこうしたい訳ではなかったし、彼が漸く得た平穏を壊す積もりもなかったので、両者共する気はないのだが。
アリスの髪から手を離すと、今までの空気とは打って変わる明るいそれを纏って、

「なんて、ね。僕は只君と仲良くしたいだけさ。僕等通じるものがあるだろ」
「……」
「解らない? 僕等は兄に怨恨を持つ弟同士。アリスは虐げられて来た弟として、僕の気持ちも解るろう?」
「…クイーンは、兄さんとは違うッ…」
「…未だ兄さんと呼べる君に、心から同情するよ。僕は永遠にクイーンを兄の名で呼べないだろうから」

眼帯で隠れていない方の瞳は、本心からの哀憐をアリスに向けていた。恐らく眼帯で隠された側の瞳が今もあったなら、そっちだってきっとアリスに同情の視線を遣っただろう。ハートはアリスから目を離すとハンドリムに左手を乗せ、そうしてアリスの目の前から居なくなる前に最後に言葉を吐いた。その言葉はアリスからしたらあまりにも重く、鉛のように身体に伸し掛かり、蛇のように身体を纏綿する。

「君は生まれた時から女として育てられたんだ、その事実は断ち切られないし断ち切る必要だって無い。…女のように甘やかされる事は心地良いだろう?」

全てはハートのクイーンに対する怨恨から来るものだった。クイーンの1番大切なものを奪おうと目論むハートの姿は、ピーター・パンからティンクを奪うフック船長のようでもあった。
ハートはそれだけを云うと車椅子を動かして、アリスの元から離れて行く。車椅子を動かしながら、電話口での僧の声を思い出した。アリスが生きていると解った時のあの喜びようと、それから居場所を執拗に尋ねて来た時の声。少なくとも品性なんて微塵も感じられはしなかったが、アリスがあの男に望みもせず身体を売っていたのだと思うと矢張り同情する。自分は病気にはかかったが身体を売る事は一度もなかったし、変な男と関わり合いになる事もなかった。恐らく欲のままに抱かれる事は、苦痛以外の何者でもないのだろう。
可哀想に、とハートは独り言ち、医務室の中へと戻って行った。





「…あれっ。アリスさん?」

アリスが白兎の階段を降りていると、大切そうに風呂敷を両腕に抱えたエンプソンと遭遇した。エンプソンは久々にアリスと会えた事に顔を輝かせ、アリスの側に駆け寄ると「お久し振りです!」と嬉しそうに笑う。アリスはエンプソンが見せてくる真っ直ぐな感情に若干戸惑いもしたが、直ぐに自分も嬉しそうに微笑んで返した。少し癒される心地がして、エンプソンとこうして会えたのが素直に嬉しくもあった。エンプソンは張り切りながら、

「最近仕事が忙しくて! 中々来れませんでした」
「大変だな。お疲れ様」
「あ、これ手土産の菓子折りです!」

漸く話せるアリスに余程嬉しく思ったのだろう、エンプソンは頬をだらしなく緩ませたままで手中の風呂敷をアリスに渡す。恐らく手作りであろうそれにアリスは感謝して、両手を出してそれを有り難そうに受け取った。その時アリスの左手首に巻かれた包帯が目に入ったようで、眼鏡の奥の双眸を動揺に震わせながら、

「ひ、左手どうしたんですか」
「え? ああ、…そうだ、エンプソンの知り合いに会った」
「え、誰…って何で今此処でその話題なんですか?!」

左手首の怪我とその友人に記憶的な繋がりがあった為にこの話題を出したのだが、それを知らないエンプソンからしたら脈絡がない事この上なくて驚くのは当然だ。白兎の誰とも違う性格で、自分に自然体のまま明るく接してくれるエンプソンに心休まりながら、

「梦海って云う女の子だ」
「あ、手首の話題はもうスルーなんですね…。…梦海さんですか、確か違うクラスの委員長だった気が…」

どうやら話した事はないらしい。要するに、彼女が一方的にエンプソンの情報を多く持っていただけなのだろう(そしてそれはあの高校の多くの者が持っている)。学校に通った事もなければ東の日本もあまり知らないアリスはエンプソンに高校の事を聞きたいと思ったが、直ぐに彼女が「エンプソンの父親は捕まって自殺した」と云っていた事を思い出す。なればその記憶をも思い出させてしまうかも知れない、過去を思い出したくない者も居ると云う事を、アリスは先程身を以て思い知らされたばかりだった。
然しアリスが聞く事もなく、エンプソンの方から、

「…それなら父の事も聞きましたか」
「…そ、れは…」
「あっ。べ、別に問題ありませんよ?! …只、信じて貰えないかも知れませんが、父は冤罪だったんです」

エンプソンは少し元気のない微笑みを向けながら、過去の事を吐露し出す。こう云う時にどんな言葉を発せば良いのか、アリスは未だ知らなかった。別に無理して話してくれなくとも構わないと云うべきか、それとも聞いて欲しいのならそのまま黙って聞くべきか? どうするべきかと考える間も時は平生通り進んで行く。
恐らくエンプソンは後者を望んだ。アリスの隣をゆっくりと歩きながら、

「父は違法取引で捕まりましたが、勿論そんな事はしていませんでした」
「…うん」
「父の部下だった人間が、恐らく金欲しさで父を嵌めたんです」
「……」
「まるでイエスを売るユダのように」

エンプソンは悔しそうに拳を握り、「絶対に許せません」と声を震わせた。然し直ぐに此処が白兎で隣にはアリスが居た事を思い出したのだろう、エンプソンは慌てて顔を赤くすると思い切り頭を下げて、今の言葉によって生まれた重たい空気を取り消すよう、

「な、なぁんて! こんな事云われても重いだけですね! すみません!」
「だ、大丈夫だぞ? 吐き出したいなら好きなだけ…」
「いえいえまさか! …あっ、そうだ。アリスさんのご両親の話って、そう云えば聞いた事ありませんね」

エンプソンは空気を変えようと話題の転換を試みたが、それは本当は失敗だった。菓子折りを持つアリスの左手が一瞬だけ動いたが、エンプソンに向ける笑顔は一切変わる事がない。エンプソンが場を盛り上げようと「アリスさんのお父さんなんだから、さぞや立派なんでしょうね」と楽しそうに発した言葉にも表情を崩す事がなく、自分も笑って返す。
それは事情の知る者が見たらどちらも痛ましいものではあったけど、会話はそのまま楽しげに続く。
アリスはそうして剥げる事のない笑顔のままで、何の躊躇いもなくエンプソンの言葉を肯定する。それはエンプソンを傷付けない為に出されたものだったけど、己の意に反すると同時確かに嘘ではないその言葉とは、だからこそ何とも聞くに耐え兼ねるものではないか。

「ああ。俺の父親は自分の信条を大切にする、とても立派な人だった」






空間を上から見下ろしていると解った時、これは夢だと解った。夢でなければこのような神の視点を人間が持ち得る事は出来ないし、今までに何回も覚醒夢は見ているから気が付くのも早かった。夢を見ていると解った時、私はあれから寝てしまったのだとも解る。
下に見える空間はコンクリートで出来た部屋だった。銀色の鉄格子が目に入り、此処は監獄なのだと悟る。牢屋の中には眼鏡を掛けた、白衣姿の男が入っている。男は牢屋の中で格子に縋り、此処から出せと叫んでいる。その姿がまるで動物園の中の檻に入れられた動物のように見えてしまったのは、夢独特のこの客観的な視点を持っているからなのだろうな、と思った。
喚く男を咎める看守は誰も居なかったが、直ぐに或る人間が入って来る。その人物はアスクレピオスの仮面を被っており、見ただけでは性別や年齢は判断する事が出来なかった。牢屋に閉じ込められた男もその珍妙な出で立ちに驚いたのか格子を動かす手を止めて、牢屋の前に立つ仮面の人物が何者かを見極めるように、黄緑色の双眸を細めた。仮面を被った人物が口を開く。それは変成器が使われた曇った声だった。

「初めまして、纜ウィリアム。君の噂は予予」
「…僕を知っている…?! 君は何者だ!」
「私はと或る研究室の研究長をしている者だ。君と似たような立場だよ」

ウィリアムと呼ばれた白衣の男は、仮面の人物を狐疑するような顔で見る。牢屋の周りに看守等は見られなく、ウィリアムと向かい合うのは仮面の人物只1人だけだった。仮面の人物は右手に何か重たそうな大きなものを持っているようであったが、空間が暗すぎてそれが何かはよく見えない。ウィリアムに至っては恐らくその存在すら視認出来ていないだろう。
仮面の人物は「単刀直入に云わせて貰う」と云うと、牢屋の前の壁に背を預け、鷹揚な口調で、

「君の力を貸して貰いたい」
「何…、」
「私達の研究に、人間兵器の開発に君のその頭脳が必要なんだ」



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