表裏一体




「…マズイでしょう、これ」
「本官もそう思う」
「…。もう知りませんよ…」

大広間の壁に寄りかかりながら、グリムは頭が痛いとでも云わんばかりに右手を額に当てて、手で隠れていない方の左目で眼前の光景を見る。何時も大勢のメンバーで賑わっているそこには今は2人の人間しかおらず、しかも彼等はお互いを睨みながら物騒な武器を手に対峙していると来ている。無人の机や椅子が、この時ばかりは妙に寂しく感じた。
選ばれた女王と選ばれなかった女王がこうして向きあう姿を見る迄は、平和的に感動の再会――なんて事も有り得るかも知れない、なんて甘い事を考えた。然しそれは所詮グリムの見た浅薄な夢でしかなく、取捨選択が一度行われてしまった以上、弱者は強者に対して強い怨恨を抱くのが道理に相違なかった。それを理解しているからこそ、クイーンだってこうしてわざわざ彼と向きあっているのだ。
こうなる事が最初から解っていれば、ハートにとっては酷かも知れないがクイーンに会わせたりはしなかったのに。然し仮に連れて来なかったとしても、何時の日か自らの力で此処を捜し出して来たかも知れない。そもそも何時までもありもしなかった事を考えるのは愚行である。こうなってしまった以上は仕方がない、グリムは腹を括って事の結末を見守る事にした。有り得ない話だろうが、もしもハートがクイーンに対して優勢になったとしたら、自分はクイーンに加担する積もりだった。確かにハートも酷な人生を歩んだろうが、クイーンだって大きなものを沢山これまでに抱えて来た。それにグリムはクイーンに対して今までの交流分の思い入れだってある。それは勿論ラビもだろう。第一今此処で女王の首を失う訳には行かなかったのだ。

クイーンは暫くハートを睥睨していたが、ややして飽きたように槍を乱暴に床へと落とす。それに驚いたのはハートだけでなく、グリムやラビも己の目を疑った。惚けるハートの前でクイーンは首を1回回し、それから右手を首に当て、

「かかって来なよ」
「…ッふ、ふざけてるのか! 武器を取れよ!」
「ふざける? 本気に決まってるだろ。じゃなきゃ」

クイーンのエメラルドの瞳が冷たく自分を見据えているのに気が付いて、ハートは気圧されて思わず息を呑む。蛇に睨まれた蛙の如くハンドリムに触れた左手が一気に汗ばんで、指先が少し震えた。

「わざわざこんな風に相手にしない」

この言葉はハートを鼓舞するのに充分な一言だった。ハートは左手で2本のハンドリムを掴み、片腕だけで思い切り前に回してクイーンへと一直線に向かう。その車椅子の速さに傍観側の2人は驚くが、クイーンは格段慌てる様子も見せずに近くの椅子を右手で掴む。
そしてそれを高く掲げるとハートに向かって容赦無く――投げた! ハートは飛んできた椅子に舌打ちするとハンドリムを回転させ、車椅子を右へ動かすと最小限の動きで回避可能にする。然しハートに息をつかせる暇もなくまるで矢を射るような速さで椅子が再びハートに向かって投げられて、ハートは自分の劣勢を悟ると一旦隠れるように机の裏側へと逃げ込んだ。
ブレーキさせて停止したハートは、どうやってこの状況を打破するか必死で考える。自分はクイーンと違って飛び道具なんて使えない。そもそも接近戦型なのだ。近付くには…、と唇を噛みながら唯一頭に浮かんだ考えは、このまま机の影を利用してクイーンの背後まで行き、左旋して彼の至近距離まで行ってフックで刺す事だった。ハートはハンドリムを持つ左手に力を込める。

「何隠れんぼしてんの」
「ッ?!」

ハートが再び車椅子を動かす前に、クイーンが離れた机の上に立っていた。クイーンの右手には椅子ではなくて、3本のナイフが装着されている。
しまったとハートが思うと同時、クイーンのナイフがハートのバックレストへと突き刺さる。思い切りバランスを崩したハートはそのまま車椅子ごと背中から倒れ、床に叩き付けられた。
ハートがそこから体勢を立て直すよりも先に近付いたクイーンは、倒れたハートの襟首を掴むと顔を上げさせて、そのまま弟の頬を――右手の拳で思い切り殴った。クイーンが力技に出た事にグリムとラビは絶句したけれど、渦中のハートは目を何回か瞬かせ、そして一気に痛みに涙ぐんだ。

「い、痛いっ…」
「何甘えた事云ってんの? 痛みを覚悟してなかった訳」
「な。何云って…ッい、ひぅ!」
「こんな事で泣くなよ」

今度は平手で反対の頬を叩かれて、ハートはとうとう目に一杯の涙を溜めて思い切り泣き出した。クイーンは暫く弟の顔を眺めていたが、泣き止む気配のない弟の姿を見ている内に、莫迦莫迦しくなって大仰な溜め息を吐く。

「…泣く事が許されているなんて、随分と甘やかされて来た訳だ」
「ぼ、僕が甘やかされているだって?! お前の方が甘やかされて来ただろ!」
「はあ? …どんな風に」
「お前はお父様に愛されて、優雅に美味しいものを沢山食べて、毎日優しさで包まれていたんだろ!」
「………」

クイーンは苦虫を噛み潰したかのような顔で弟を見下すと、「お目出度い奴」と呟いた。その真意は解らなかったが自分が虚仮にされた事だけは解ったのだろう、ハートは涙で潤んだ双眸でクイーンを思い切り睨み、それから兎に角兄に向かって悪口雑言を吐き出そうとする。然しその前にクイーンの方が早く、ハートに向かって思い切り声を張り上げる。

「自分ばかり不幸だなんて思うな!」
「…ッはあ?! お前には解らないよ、不幸のどん底が何たるか! 僕は世界一不幸な人間なんだ!」
「ッ…毎日衣食住を提供されて、眠り姫のように時計塔に居ただけの人間が何をほざいてッ…」

ハートは確かに様々な身体の機能を失ったけど、それは全て病気の所為で誰からされた訳でもない。毎日血を流す事での組織の一員としてある事の強要や、知識や教養を身に付ける事での貴族としてある事の強制を受けた訳でもない。クイーンは確かに五体満足だが、下手したらクイーンだってどれか身体の器官を失う事も十二分に有り得た。
自分は『闘って』今の状態にあるのだ、それを『平和呆け』していると揶揄されたら黙っていられる筈がない。クイーンは頭に血が上り、拳を握ると思い切りハートの腹部を殴った。油断していたハートは予期しなかった痛みに呻き、少しして意識を失ってその場に倒れる。襟首を離すとクイーンは立ち上がり、そうして壁際に居る2人に不機嫌なまま視線を遣ると、

「…これ、適当に外に放り出しといて」
「…放り出す、ですか」
「こんな甘ちゃん居たって迷惑だし」

クイーンが突き放したようにそう云ったと同時、大広間の扉が開く。見るとそこにはアリスとドルディーが居て、気絶しているハートを見るとアリスは驚いたような顔をしたけれど、ドルディーはハートの事よりも壁際に居るグリムが気になったようだった。急いでクイーンの元へと駆けたアリスは意識のないハートの顔を見て更に困惑したようで、説明を求めるようにクイーンの顔を見る。アリスが絡むと更に面倒になるとクイーンは説明するのに億劫がったけど、此処まで見られては仕方がない。腹をくくって説明をする事にした。

「それ、僕の双子の弟」
「お、お前弟が居たのか?!」
「まあもう追い出すけどね」
「追い出す?! 先ずは医務室に…」
「医務室だって! 君って本当お節介な奴!」

恒例の対立が始まった事で何時もの白兎らしさが生じ、グリムは少し安堵したように緩んだ口元を手で隠す。頑迷なアリスの事だから何としてでもハートを医務室に連れて行くだろう、そして下手するとそのまま白兎に置くように云うに違いない。抗議しつつもこう云う時はクイーンだってアリスの頑固さに折れてしまうのだ、何だかんだで2人のバランスは取れていた。
アリスはと云うとこの場で云い争うよりも先ずは医務室に連れて行く事が先決だと感じたのだろう、屈んでハートの身体を抱き抱えると、

「俺はお前等の事情は知らないけど、…兄弟なんだろ。仲良くしろ」

クイーンは言葉に詰まり、恨み深そうにアリスを見上げるも、アリスはハートを抱えたまま1人で医務室に行こうと歩き出す。クイーンは勝手なアリスの行動に腹を立てて自分も着いて行こうとしたが、その前に或る事を思い出したらしい。グリムの隣に立つラビへと振り向くと、右手の人差し指で思い切り指した。

「ラビ。後で君に云いたい事がある、1時間後に僕の部屋の前に」
「…了解」

クイーンはそれだけを云うとアリスの背中を追い駆けて居なくなってしまう。大体何を云われるかは本人であるラビだけでなくグリムも解ったところなのだろう、グリムはラビの方を見ると本気なのか冗談なのか解らないような顔付きで、

「…貴方と話すの、これで最後になるかも知れませんね」
「骨は拾ってくれ…」
「骨が残るかどうか」

ラビはそれに苦笑で返すか悩んだものの、「最後に自分の部屋に別れでも告げてくる」と云うと大広間を後にする。大広間に残ったのはグリムとドルディーだけになったが、ドルディーはアリスに着いて行くでも放送室に行くでもなく、グリムの顔をじっと見上げていた。それが気になったグリムは苦笑して「…何でしょう?」と尋ねるが、ドルディーは西瓜でも口に一杯に含んだ時のよう、頬を思い切り膨らませ、

「グリムたんピアノ室だと思ったのに、こんなところに居た!」
「え…、捜して下さったのですか?」
「んーん、捜していたのはお兄たん!」

ドルディーは首を振ってはっきりとそう答えてくれたけど、グリムは自分とジャバウォック、何の関連性があるろうかと疑問に思う。例えば夕飯時ならジャバウォックが自分をディナーに誘いに来る事も珍しくはないので不思議でもないのだが、ピアノ室にはジャバウォックが来た事なんて一度もない。ピアノを聴かせた覚えなんて一度もないし、そんな話をした事だってなかった筈だ。だからピアノ室に捜しに行くのは無意味な筈だった。
その旨を伝える為に、グリムは「ピアノ室に彼は来ませんよ」と云った。グリムは恐らくジャバウォックは自分のピアノに興味なんてないだろうと思っていたし、それを考えると彼が自分の何に興味があって、何に好意を抱いているのかすらも解らなくなってくる。
本当にジャバウォックは自分が好きなのだろうか。否、好きでもなければああまで執拗に自分を誘ってきたりはしないだろう。然し自分の表面上しか見ていないのではないのだろうか、例えば自分の過去あった事を知ると一気に失望して嫌うのではないだろうか。――自分がジャバウォックに好意を抱く事がないようにと、こうして彼の愛の浅さを疑って、莫迦みたいに抵抗を1人続けている。己の身勝手さに自嘲の笑みが零れそうになった時だ。自分を見上げるドルディーの無垢な瞳が、グリムを何の躊躇いもなく射た。

「? お兄たんはピアノ室によく行くよ?」
「……え?」
「そもそもね、お兄たんがグリムたんを好きになったのは、グリムたんのピアノを聴いてからなんだよ」
「…ま、待って下さい。私は、彼にピアノを一度も聴かせたりなんか…」
「グリムたん解らないの? お兄たんがグリムたんに話しかけると、ピアノ弾くの止めちゃうでしょ」

それにピアノを聴きに来ているのだから、話す必要はないんじゃないか、とドルディーは云う。グリムは己の免罪符の為にジャバウォックが己の外面しか見ていないのではないかと狐疑したが、ドルディーの云い分は紛れもなくジャバウォックがグリムの内面に最初から好意を抱いていた事を意味した。グリムは自分のピアノは過去を映す水たまりのようだとも思った事がある。ピアノとはかつて親や姉の束縛を受け、貴族として振る舞って居た頃の自分が尤も表に出て来る手段であり、故に自分の醜さすら音となって外へと出ているのではないかとすら考えるのだ。
ピアノを聴きに来ていた事もだが、何よりも普段ああまで纏わり付く癖をして、「ピアノを弾いている時だけ」は決して妨害しない事に、グリムは激しく動揺した。それはジャバウォックが本当にグリムのピアノを好いている事を意味したし、扉を隔てた向こうで一種神格化すらしているようではないか。
そもそも自分のピアノを好きだと云ってくれた人が、今まで誰1人として居ただろうか。コンクールでも多く賞を貰ってきたが、それは技術面だけの話だろうし、周りの貴族が褒め称えたのはピアノ自体でなく、ピアノを弾いている貴族のグリムではなかったか。皆グリムを賞賛する時は固定観念から入り、故に多くの拍手を送ったが、ピアノから自分を好いてくれた人は、彼以外に居た事があっただろうか。
この時グリムはジャックに会って以来初めて、自分が本当に1人の人間として認められ、そして愛されたように思えた。

「じゃあ放送室かなあ。賭けはドルダムの勝ちだったや」
「賭け…?」
「お兄たんが何処に居るか先に見付けた方の勝ち! それじゃあまたね、グリムたん」

走り去るドルディーの背中を暫く見つめたが、扉が閉まると力なく壁に背中を預けて顔を右手で覆う。大広間の壁掛け時計で時刻を確認すると、そうする理由なんて無かったのに自室に戻らなければと思った。壁から背を剥がし、魂が抜けたような足取りでゆっくりと自室に戻る。
エレベーターのボタンを押した。最早ジャバウォックの顔をまともに見られる自信がなかった。グリムはこの時とうとう自制出来る自信がなくなった。エレベーターが自分の部屋の階で開いても数秒遅れて気が付いて、それから顔を伏せたままエレベーターを後にする。
もしも次ジャバウォックに愛を囁かれる事があるのなら、自分も愛していると応えてしまいそうで不安になった。それは即ちジャックへの裏切りと、何より今までの自分をも裏切る事を意味した。それはどうしても避けようと思ってきたのに、この間から益々可笑しい。…甘やかされるのが心地好く、彼の包容が何より有り難いのだった。無論、彼自身にもどうしようもない位に惹かれている。
宝石の埋め込まれた鍵を鍵穴に挿し込んで、扉を閉めるとそのまま扉へと凭れ掛かって床に座り込んだ。限界だ、とグリムは思った。

電話の音が鳴った。





「……ん…」

今まで閉じ込められていた暗闇に、一筋の光が差し込んだようで自棄に瞼の裏が眩しく感じた。ハートが目を覚ますと、見知らぬ天井が視界の一面を埋め尽くしていた。飾り気のない真っ白な空間は、見たところ病室のようだ。
何でこんな所にと上半身を起こした時、腹部に激痛が走って反射的に左手で押さえる。そこで漸く事の全てを思い出し、クイーンの姿を捜したが、自分が横になっているベッドの側には誰も居ない。途端に心細さと不安感に襲われていると、ベッド脇の白いカーテンが開いた。カーテンを開けたのは黒髪の青年だった。

「ああ、起きたか?」
「…アンタ、誰」
「俺はアリス。白兎のメンバーだ」
「アリス」

アリスと名乗った青年はベッドサイドの丸椅子に座り、調子はどうかと優しく尋ねて来る。どうやら自分に危害を加える気はないらしい。
ハートは誰かが己の側に居てくれている事態に安堵しながら、アリスの顔をまじまじと見る。女の名前に少し驚きはしたが、この綺麗な顔なら寧ろ合っているのではないかと感じた。自分の名前の所以に気が付いているハートは人一倍名前に敏感だったので、アリスの顔を見つめたまま臆する事もなく、質朴に自分の感想を口に出す。

「よく合った名前だね」
「……」
「? 何」
「いや。そう云われたのは初めてだったから」

気分を害したのかとハートは思ったが、どうやらそう云う訳でもないらしい。アリスはほんの少しだけ嬉しそうな顔をすると、右手に持った物をハートの前へと持って行く。それは兎の形に切られた林檎だった。ハートは思わず身を乗り出して、

「! 何これ、凄く可愛い! アリスが切ったの」
「食べるかと思って」
「僕が食べて良いの?! アリスって良い人だね!」

手放しに喜ぶ姿はまるで只の子供であり、クイーンの双子と云うから傍若無人な人物を想像していたアリスは呆気に取られてしまう。先程のアリスの名前への感想でもそうだったが、双子と云うのに随分と似ていない。クイーンは気難しくひねくれ屋だが、ハートは随分と素直だ。現に子供扱いとも取れる兎型の林檎をこうして喜んでいる(クイーンも兎型の林檎は好きだが、『子供扱いするな』と決まって怒った)。
ハートがはしゃぎながら林檎を口に頬張ると、カーテンを開けてクイーンが姿を見せた。此処だけは双子宜しく、お互いに目が合うと至極厭そうな顔をする。クイーンはハートよりも早く口を開くとお得意の毒を吐く。



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