女王と云う事




QUEEN'S PAST

葉巻の煙が燻る広い空間に、硬いものを石で叩くような――それでいて軽く感じる音が、忙しく響き渡る。その空間とはと或る貴族達の娯楽の為に使用されているチェスクラブの所有物であったが、アンティークゴールドで出来たマントルピースの暖炉、イタリアの方で活躍する画家の絵画、臙脂色の猫足の肘掛け椅子と贅沢を誇る品々で埋め尽くされていた。無論そこにある高貴さは物にだけでなく、音を立てながら駒を動かしチェスをする者達もまた、全員が全員高貴な空気を纏っている。市松模様のテーブルの上を移動する手の爪先まで、その洗練さが窺える程だった。
中でも格段高貴さを醸し出していた人物とは、真ん中の席に座って老人と対峙している若い男であった。ジレーの上に羽織られたキャメル色のスリーピーススーツ、人差し指に嵌められたハート型のルビーのリング、薄色の革で出来たホールカット。彼の金色の柔らかな髪は金糸のように美しく垂れ、エメラルド色の瞳は本物の宝石のようだと初対面の人間に必ず賞賛される程だった。
男の名を鬮鸞キングレットと云う。キングレットは駒のポーンを右手で持つと、「そう云えば」と実に何と云う事もないような切り出し方で、

「この度組織を作りまして」

老人はポーンが置かれた場所をしげしげと眺めると、次に自分がするべき一手を考えながら「それはそれは」と云う。丸まった自分の白色の髭を太った人差し指で弄りながら、

「スポーツ、ゲーム、はたまた」
「いいえ、正義のヒーローの組織です」
「…はい?」
「テンプル騎士団がモチーフの。とは云えこの組織の為に血を流す者もあるので、一概に正義とは云えませんが」

チェスの次の手の考察に詰まった老人は、これ幸いと云ったように椅子を引き、まるで興味津々で仕方がなくチェスが手に付かないような顔付きで「詳しくお聞かせ願えますかな」と問うた。キングレットは気分を良くして、チェス盤の横にあるボウルから何種類かのナッツの載ったチョコレートを1つ取ると、「人間兵器をご存知ですか」と云った。老人は少し意表を突かれたようだったが、

「あの…××国が戦争の為に研究していると噂の? …あれは真実だと?」
「勿論。警察も他国家も見過ごし状態です」
「然し何時か歯止めがかかるのでは…」
「既に坂道を下り始めました。もう止まりませんよ、映画やSF小説のように化け物が人間を襲う日がやって来る」

キングレットが気取った様子でチョコレートを口内へと放り込むと、老人は想像したのかぶるりと小刻みに震え出す。そんな老人とは対称的にキングレットは実に威風堂々とした様で、足を優雅に組み替える。それからまるで宗教の教祖のような調子の声で、

「だからこそ私が組織を作ったんです。名前は未だありませんが、私がボスです」
「貴方がボスなら心強い…、と云いたいところですが。そんな大規模なものに、その、大丈夫なんですか」
「相手にするのは国家ではなく一研究所で済む筈です。研究者を全てぶっ放し、データも壊し、人間兵器も壊せば終了です。実に単純明快だ」
「…はあ」

老人はどうもキングレットの単純過ぎる話を信用出来る気になれないらしい。キングレットはそんな老人の顔を見て、一種突き放すような調子で 勿論何時かは再びこのような研究がなされる時が来るだろう と云う。老人はそれを聞き、益々肝っ玉を冷やす。
キングレットはチョコレートで塗れたナッツを奥歯で噛みながら、

「人間は愚かですからね。一度したら繰り返すだけです。戦争だってそうだ」
「まあ、確かに…」
「でも動きを一時的に止める事は出来る。それが永遠に続いたらそれは物事の終わりを意味します」
「…成る程…!」
「悪あるところ正義あり、正義あるところ悪あり、ですかね」

老人はすっかりキングレットの話を信じるようになったようで、「もし組織にお金が必要なら云って下され」と随分気前の良い事を云う。キングレットは人当たりの良い笑みを浮かべると感謝の気持ちを述べて、ボウルの側に置いたアイスティーのグラスを持つと、

「因みに後のボスは私の子供です」
「…お、お子さん? キング、貴方に子供が?」
「ええ。来月生まれるんです」

キングレットは本当に嬉しそうな顔をする。老人も「それは目出度い」と顔を綻ばせるが、そこでキングレットの妻の身体が病弱な事を思い出す。何時もベッドで寝ているのだと周りや当人から聞かされていた老人は、そんな身体で赤子を産む事が出来るのだろうかと人事ながらに危惧をする。
そんな老人の心中を見て取ったキングレットは、少し困ったように微笑むと、

「1人なら何とかなるだろう、と医者が」
「…そうでしたか。息子さんが宜しいですかな、矢張り」
「そりゃあ組織を何れはボスとして任せますからね」

キングレットはアイスティーの入ったグラスを再び置いて、それからチェス盤の上のクイーンの駒を見る。慈しむような表情をするキングレットを見て、きっと産まれて来る子供の事を想っているのだろうなと老人は思った。
何時の時代だって親と云うものは、子供の生誕を楽しみに待つものだ。

「楽しみですよ」






それから1ヶ月と数日が経過すると、鬮鸞はいよいよ待望の跡取りの誕生を迎える事になる。
キングレットの英国の屋敷では、産婆やメイド達が或る1つの部屋を忙しく行き来している。女性の痛ましい声が聞こえてくるその部屋の前で、キングレットは落ち着きもなく扉を見たりぐるぐると円を描いて回ったりした。
女性の声の他、医者が彼女を励ます声も聞こえる。そんな声を扉を隔てた向こう側に聞きながら、産まれて来る子供と妻の容態は大丈夫だろうかとキングレットは不安に思う。祈るだけしか出来ない己に不甲斐なさを感じながら、震える両の手でキングレットは無事に出産が済むようにと神に祈った。

特別大きな悲鳴がした。キングレットが肩を震わせて扉を見ると、中から赤子の声がする。――無事に終わったのだ。妻を励まし賞賛する声が聞こえる中、キングレットは1人顔を綻ばせながら自分が中に歓迎される時を今か今かと待った。歓喜と緊張で足が震えた。
少しすると中から医者が扉を開けて、「どうぞ」とキングレットを招き入れた。キングレットは踊るようにして中に入り、それからベッドに横たわる妻の方に駆け寄って、

「貴方…」
「よく頑張った、偉いぞ!」
「貴方、子供を…」

妻が微笑みながら右を力なく指差すと、そこには産婆が微笑みながら赤ん坊を抱えている。柔らかなタオルで包まれた赤ん坊がキングレットの手に渡されて、そしてキングレットは本当に嬉しそうに破顔した。

「男の子だ…! よくやった!」
「ええ、本当に…」
「お前も抱くと良い、ゆっくりだぞ…。そうだ先生、妻の状態は…」
「衰弱しきられていらっしゃいますが、ケアをしっかりすれば少なくとも命に関わる事はないでしょうな」
「良かった…」

赤ん坊を手に抱く妻の頭を撫でながら、キングレットはクリスマス・プレゼントを貰った時の子供のような顔をして、嬉しそうに名前について話をし出す。子供のように珍しく燥ぐ夫の姿を見て、妻は自分の顔が柔らかい笑みを作るのを自覚した。

「名前だが、栄光ある名が良いな」
「…私考えたのだけれども、クインテットなんてどうかしら」
「クインテット?」
「それでクイーンと読ませるの。貴方のキングレットともよく合った名前だわ」

王と女王。確かに自分とよく合った名前だし、何より鬮鸞家に相応しい栄誉ある名だと思った。キングレットは「そうしよう」と同意すると、クインテットの未だ小さくて頼りない手を大切そうに慈しんで握る。それは繊細な硝子細工を持つものよりも優しい手付きであった。
産婆が容態のあまり優れない妻の身体を気遣って、「クイーン様をこちらへ」と両手を差し出した。妻は礼を云うと素直にクイーンを手渡して、――その時だった。突然妻が口元を手で押さえた。

「うっ…!」

妻の異常な様子にキングレットは慌て、医者は急いで妻の状態を確認する。そこで再び先程と同じ苦しげな嗚咽が始まって、直ぐ様悲鳴に変わったそれにキングレットの顔が一気に青褪める。産婆が慌てて新しいタオルを持って来て、医者が妻の前で何事かを叫んでいる。
キングレットは眼前の光景が、何故かとても遠くで起こっているように感じた。






それから幾らかの時間が経ったのかを、当主が知る事はなかった。月並みで陳腐な表現だが、別室で1人椅子に座って待たされる状況と云うのは、永遠のようにも感じられた。
背中を丸めた当主が足の間で手を合わせて居ると、扉が向こう側からノックされる。中に入って来たのは医者であり、彼の顔色は悪かった。

「…キングレット様。結論から申し上げますと、双子でした」
「…双子だと…?」
「ええ。それで、予期せぬもう1人に、奥様の身体は耐えられずに。…誠に心苦しくはありますが、」

医者は何も云わなかったが、キングレットは既に妻の死を理解出来ていた。呆然と立ち尽くし、遠くに感じていた妻が本当に遠くに消えてしまった事を、別室に入る前から――実はあの部屋で妻の苦しげな悲鳴を聞いて居た時点から――解ってはいたのだ。
塞ぎ込むキングレットに医者は上手い声をかける事が出来ず、「もう1人も男の子でした」とだけを云った。医者が扉を出るまでキングレットは微動だに出来ず、扉を閉める前の医者は当主に只同情をした。






望まぬ子供が1人居た。双子の存在等、鬮鸞には邪魔なだけだった。クインテットは愛に満ちた名前だったが、弟のハームテットは愛のない名前だった。
『害悪』を意味するハーム。生まれて来なければ良かったと、不要な子だったと云う意味合いで名付けられた。ハームテットはそれから兄のクインテットと同じ環境で育つ事はなく、1人幽閉されてフランスの屋敷の方にある、離れの時計塔の中で育てられた。
ハートが殺されずに済んだのは兄のクイーンが何か事故に遭った時、臓器や血液を提供するのに都合が良いからだった。詰まるところ、ドナーベビーのような存在として扱う事に決めたのである。
然しハートに対する扱いは非道く、足に病気を患ってしまったハートの両足を医者に切断させる事をキングレットは簡単に許可したし、目の伝染病にかかった時も特に積極的な対応はしなかった。事故でなくした右手も丁度良い義手が見付からなかったからと、品のないフックになった。
片手駆動用車椅子を贈られたハートは自分が絶望的に愛されていない事を嘆き、恨み、そして親だけでなく兄も心底から憎んだ。
自分が先に生まれれば、こんな目に遭うのはクイーンだったのにと。

一方でクイーンはハートの事を聞かされず、英国の屋敷で不自由なく暮らした。或る日使用人がハートの噂をしているのを耳に挟んだ事があるが、彼はわざわざ父親に聞こうとはしなかった。
選ばれた者は選ばれた者として、己の使命を全うするのに必死だったのだ。





「お父様。命じられた事を終わらせて来ました」

天使のように柔らかそうな金髪と父親譲りのエメラルドの瞳を持った小さな少年が、透明な水色の巨大なスピアを片手にそう云った。キングレットは書類から顔を上げ、そうして少年――クイーンのクリーム色のジレーに付いた朱殷色の血を眺めると朗笑し、

「と云う事はライオンにとうとう勝ったんだね。お目出度う」
「…僕がライオンに勝てたら『組織』について詳しい話をする、と」
「そうだ。そこのソファーに掛け…、いや、疲れているだろう。今日は特別に私の膝においで」

クイーンはキングレットの珍しい申し出に面食らったが、然し恐らく『ライオンに勝て』と云われた事よりも驚く事はもう存在はしないだろう。尤も今度は、ホッキョクグマなんて云われる事があるかも知れないのだが。
大人しく自分の膝に来たクイーンの頭を撫でながら、まるで絵本でも読み聞かせるようにキングレットは話し出す。頭を撫でられるのはこの間の誕生日以来だなんて思いながら、クイーンは気持ち良さそうに双眸を細めた。身体中が軋んでいたし服の裏では内出血も非道かったが、父親の機嫌が良い内に出来るだけ話を多く聞かせて欲しかった。クイーンは父親に従順だったのだ。

「今の時点では私がボスだが、私を超す事でクイーンが何れボスになる。…取り敢えず、今は君を幹部に任命しよう」
「然しお父様、組織に僕等以外のメンバーは居ないのでしょう」
「幾らか候補者も居たんだがね。思ったより弱くて話にならなかった。だから先ず、君の仕事はメンバーを集める事だ」
「…」
「それと組織用の屋敷はD館だ。立地も隠れ家みたいで気に入ったと云っていたろう? 使用人もまた改めて自分で選ぶと良い」

もしかしなくともこの父親は、組織の肝心な仕事を全てクイーンに丸投げする積もりらしい。何て父親だとも思ったが、これも1つの名誉だと思えてしまう自分が哀しくもあった。クイーンは賢い子宜しく「どう集めて良いものか」と云うと、キングレットは飽きずにクイーンの髪を櫛のように手で梳かしながら、

「そうだね、例えば屈強の軍や貴族の家を訪問すると良いだろう」
「成る程。そうだお父様、組織の名前を聞いていません」
「ああ…、不要だが必要でもあったね。君が好きな名にすると良いよ」
「…思い付きません」
「メンバーが増えてからでも遅くない。ゆっくり考えなさい」

それと、とキングレットは続けてものを云う。ブラッシングをされる猫のよう、クイーンは心身共に癒され切っていた。以前専属メイドがクイーンを「クイーン様はチンチラシルバーに似ています」と云って来たのを心良く思うべきかクイーンは判断しかねたが、成る程確かに猫も悪くない。

「組織は表向きは葬儀屋とするように」
「葬儀屋?」
「失われるであろう命を救うだけでなく、失くなった命もこうして救える。合理的で最善だ」
「…」
「ああ、話が戻るがメンバーは慎重に選ぶように。特にクイーンの右腕になるようなメンバーを…そうだな、4人」

4人? クイーンが尋ねると、父親は尤もらしく頷いてみせる。そうして自分の人差し指に嵌めたハート型のルビーの指輪を外し、結婚指輪を嵌める時のように優しくクイーンの親指へと嵌める。クイーンは驚いてキングレットを見たが、キングレットは指輪について言及する事はなく、話をそのまま続ける。

「クインテット、五重奏。クイーンを入れて5人だ、それらしいだろう」
「でも4人も見付かるか…」
「君のような幼くて華奢な子供がライオンに勝つよりは、少なくとも確率が高いとは思うがね」

クイーンは思わずその言葉に笑みが零れてしまい、キングレットも幸せそうに微笑んだ。親指に嵌められた指輪はぶかぶかではあったが、金色のリング部分はそれを気にもしていないかの如く、ライトを反射して美しく光る。
その日クイーンは、とても誇り高い記憶と指輪と云う宝物を手に入れた。そして次の日父親は、クイーンやメイドに「少し海を渡って来る」と云ったきり、帰らぬ人になった。大型の客船は海の真ん中で沈没し、生き残った人は居なかったと云う。数日後、父親の死体が送られてきた。見付かっただけ父親は恵まれているものだった。
父親の死体は見ない方が良いだろう、とメイドは口を揃えて云った。クイーンもそれに大人しく従うように頷いてみせたけど、棺の中に入った父親の死体を、葬式のある前日の夜中にランタンを持ってこっそりと見てしまう。
――かつての美貌など何処にもなかった。如何に美しい人間でも、死んでしまえば所詮は肉の塊でしかなかった事を、クイーンは子供ながらに思い知らされた。水死体だったからそれは更にそう感じたのかも知れない。
クイーンは一度に繁栄と無常を知り、生と死を学んだ。父親が葬儀屋を表の顔として選んだのも、少しだけ解ったような気がした。あんなにも強くて自分にも強くあれと云った父親が、次の日呆気なく死んでしまった事は、幼いクイーンを一種の境地に至らせるのに充分な出来事でもあったのだ。

次の日の葬式で、クイーンは黒々とした棺の上にオーストラリアンパールベルを備えた。葬儀の途中で激しく雨が降り出して、従者達はクイーンに屋敷に入るよう頼んだが、クイーンは「皆は戻ってくれて構わない」とだけ云った。
それを聞いたメイド達が主人を置いては行けないと云ったように困った顔で顔を合わせあっていると、黒色の髪の毛を両サイドで三つ編みで束ねたメイドが、クイーンの後ろに立った。豪雨の中クイーンがゆっくりと振り向くと、真っ直ぐに己を見ているメイドと目が合う。
口を開くと、不可避的に雨水が中へと落ちてきた。

「マクベス、君はもしも僕がこの屋敷を離れて組織の為にD館に移ったとしても、僕に着いて来てくれるだろうか」

それはクイーンが今後D館の館以外を一切利用しないと云う意思を表した。マクベスと呼ばれたメイドは、クイーンが生まれたと同時に鬮鸞に雇われた専属メイドであった。彼女は藍色の目をクイーンのエメラルドから離さぬままで、未だ発達しきっていない体躯を堂々と張ると、

「貴方が命じるのなら、共に地獄の業火にも向かいます。クイーン様、不肖マクベスをどうか貴方と共に置いて下さいませ」

クイーンは彼女に何も云わず、只数秒彼女の双眸を見つめると、無言で屋敷の方へと歩いた。メイド達は困惑しながらも、マクベスと共に主人の後を追って走る。
マクベスはそして今の白兎のメイド長としてクイーンに多く貢献するが、それはまた何時か機会があればゆっくりと語るとする事にしよう。



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