西漸運動U




汽車から降りたクイーンは、長旅にほとほと疲れた小さな体躯を大きく伸ばす。そうして伸びをやめると辺りを少し見渡して、示唆された通りの道を歩く。周囲は思ったよりも静かだし、家よりも工場や研究所のようなものが多い。そう云う街か、とクイーンは思いながら、1人研究所の跡地へと向かう。平坦で単純な道のりだった。それはアメリカの地に詳しくない英国人のクイーンからしたら、大変助かる事である。

着いた研究所は、思ったより大きかった。写真と照らし合わせて見てみるが、ぴったりと一致する(研究所の壁が蔦で覆われて、寂れてしまっている事を除いて)。写真を鞄に戻そうと鞄のファスナーを開けた時、前を作業着を着た老人が通る。クイーンは思わず声をかけた。

「もしもし、この研究所は何の研究をしていたの。寂れているようだけど」
「この研究所かい? 何でも義肢の研究をしていたらしい」
「義肢…」
「だからこう、五体不満足だとかの人間の出入りが多かった。だが何時の間にか研究者が居なくなって、今では廃墟だよ」
「そうなの…」

老人はそれだけ云うと、サイレンを鳴らす近くの工場に入って行く。成る程そんな名目なら、一風変わった人間が出入りしていても不思議ではないだろう。よく考えたものだ、と思いながらクイーンは写真を鞄の中に入れた。
周りに誰も居ない事を確認して、クイーンは研究所の中へと入って行く。中には義肢やその材料のようなものは何もなく、殆ど中身の残っていない薬品や作動していない大きな機械だけがある。まさかまたあの時ラビが遭遇したような得体の知れないものに遭遇するだろうかとクイーンは思ったが、そのような事は一切なく、1階も地下も上の階すら目ぼしいものは全くなかった。肩透かしを食らう程である。

「…まさか、骨折り損ではないよね」

クイーンの声が、人っ子一人居ない研究所の中に響き渡る。机上に置かれた薬品の瓶を一つ手に取ってみるけれど、クイーンでも知っている薬品の名前が書いてあるだけで怪しいものは何もない。ジャバウォックが拉致され監禁されたあの場所とは違い、証拠は綺麗になくなっているようだった。
まさかアメリカまではるばる来てはずれくじ、何てのは洒落にならない。この写真を貰って来たアリスに今からでも耳元で文句を云ってやりたい程だった。
クイーンの業腹が強くなり、「何だよ!」と叫んで壁を思い切り蹴る。蹴りが入ると同時普通の壁とは違う感触がして、クイーンは眉を顰めて足を下ろす。
壁をそっと叩いてみると、空洞のような音がする。クイーンは此処でどうやらはずれくじにも運が回ってきたらしい事を知り、次いで辺りを見回した。

「…『この奥の部屋』、に入るに一々研究者達が壁を壊していたとも思えない訳で」

足と手で確認した感触から、この奥に部屋があるらしい事をクイーンはめざとく発見した。然し辺りを見てもボタンのようなものは何もなく、隠し部屋へと誘ってくれそうな装置はなさそうだ。壊して行ったか、持って行ったか。
どちらかクイーンは判断をしかねたが、ないものは仕方がない。本当は此処にケイティでも居てくれたら彼の莫迦力で扉を壊してくれそうなものだけど――。クイーンはそんな事を考えつつ、鞄からF1手榴弾を取り出す。そうして壁から離れると、後ろの階段との距離が直ぐれある事を確認して。

「喰らえレモン」

そう云うとピンを外し、扉に向かって手榴弾を――投げた!クイーンは素早く階段を『大きく跳んで』一気に下の階まで落ちる。クイーンが下の階に上手く着地して耳を塞ぐと同時手榴弾は爆発し、爆風と共に割れた瓶の破片が階段の上へと落ちた。立ち上がると大人しく階段を上り、硝子の破片を踏みながらさきまで居た階に戻る。見ると扉は粉々に吹っ飛んでいて、もしかしなくても案外蹴りか何かで壊せたのではと思ったが、壊した今となってはどうでも良かった。
奥の方に足を踏み入れると、そこには何体かの死体があった。置き場所に困った死体達を此処に置いていたのか、それとも此処に放置して死体にさせたのかは判断がつかなかった。壁にべったりと付いた血に触れてみるけれど、最近と云う訳ではなさそうだが十数年前のものと云う訳でもなさそうだ。
比較的新しいか、と思うと今度は死体を確認する。中を弄り回された形跡はない。となると実験に使われた訳でもなさそうで、ならば一体――と思うと所々まるで『喰われた』ような跡がある。
獣でも居たのだろうかと地面を見てみたが、獣の毛は一切落ちていない。血痕と骨と、爆発で壊れた壁の破片だけである。

クイーンは死体をそのままに、部屋の奥の方にあった机を確認する。机上にはタイプライターがあり、そこには黄ばんだ紙に薄い文字で「ドイツ研究所二送ル」と書かれている。
ドイツ?クイーンは首を傾げたが、一切の住所はそこに記載されていない。研究所が幾つかあるんだろうか、と今までの情報を整理する。アメリカのこの研究所と、ドイツの研究所と、そしてアイルランドのコーカス軍跡地。
考えても関連性など全然見当たらない。他に何か、と机の引き出しを漁ってみると、一冊の古い本があった。何の本だろうと見てみるが著者の名前や題名は掠れて一切見えなくなっていて、中に書いてある文字も生憎読めない言語だった。何処の国のものなのかも解らない。
ぱらぱらとめくってみると、挟んである一枚の紙に気が付いた。見ると数字が羅列されていて、その数字の横には英語で備考のようなものが書いてある。No1と書かれた数字の横には『最初は至って良好。BCで×』と書かれていた。その後の数字にはずっと×が続いたが、26のところで『×。返す』となり、78のところで『良好』となっていた。それ以降の数字にはまた×が続いたが、数字は93で途切れている。
一応手帳にメモをしてからその紙を手帳に挟み、本の最後の頁を見る。すると表紙では見えなかった著者の名前の隣に『26』と書かれている。先程の数字と何か関係するのだろうか、クイーンはその本も鞄に入れると研究所を後にした。




宿で一泊した翌日、港を見ると来る途中で仲良くなった船員の居る船があった。彼はクイーンを見ると歯を剥き出しにして笑い、そうしてクイーンの小さな肩に手を回す。

「何だ坊主、もう帰るのか。アメリカはどうだった?」
「もっと見たかった位さ。…そうだ、この間色んな国の本を読むのが趣味だって云っていたよね」
「ああ、云ったな。女房なんかは似合わないだなんて抜かしやがるが、ほっとけってんだよ、なあ?」
「この本解るかな」

クイーンが研究所で拾った本を差し出すと、船員は怪訝な顔をする。「著者の名前も見えねーじゃねえか」と不満を漏らしながら中を開くと、突然おお と声を出した。

「こりゃデンマークの本だな」
「北欧かあ。そっちの言語はさっぱりだ」
「だろうなあ。コイツは俺も知ってるぞ、北欧の方では有名な作家だ。今はフランスに住んでいた筈だが」
「フランス…? フランスの何処?」
「確か、」

船員がフランスの或る地名を口にすると、クイーンは驚きに目を見開く。そんなクイーンの微細な動きを見逃さなかった船員は、本をクイーンの小さな手に返すと、

「坊主も知っているか。良い場所だよなあ」
「…そうだね、」
「あの貴族、鬮鸞キングレットの屋敷もあるしな。英国の屋敷に比べたら劣ると云われているが、中々立派だった」
「見たの…」
「? ああ。息子のクインテットが利権を放置気味だとかで庭は散々だったがな」

勿体ねえ事しやがる、と船員は云う。クイーンはそれには何も答えずに、その代わり「ねえ」と云った。
どうした、と云う船員に、クイーンは本を鞄に戻しながら、

「電話あるかな」
「ああ、あっちの花屋の前にあったぞ」
「電話してくる、そしたら帰るよ」

突然元気のない声になったクイーンに、船員はどうかしただろうかと頭を掻く。然し彼は甘いものが好きだと云ったので、恐らく港近くのお店で手に入れた飴を与えれば元気になるだろう。細い体躯の彼にしたら短い旅でも疲れるものだったのかも知れないし、お腹が空いているのかも知れない(自分が行きに渡した缶詰の事は、すっかりと忘れてしまっていた)。
クイーンの後ろ姿をそのまま見ていると、ぽつりと雨粒が腕に当たる。見れば空を雨雲が覆っていて、そして天候は荒れそうに見えた。
ツイてねぇなあ、と船員は一人ぼやいた。





「フランス…ですか」
『うん。さっき云った場所に、何かしらの手がかりがあるかも知れない。その作家から話を聞いて欲しい』
「解りました」
『それと…1人で行くのは危険だから、誰かと行くように。…僕は今から船に乗る、待たないで直ぐに行って』
「お気をつけて、クイーン」
『うん』

受話器を置いて、グリムはさてと と通信室から出る。誰を連れて行くべきだろう。危険を伴う可能性があるのなら5使の中の誰かだろうが、ケイティは最近私情があると云って外に出ているので白兎で見なくなっているし、アリスを連れて行っては(実質彼は副副幹部のような存在だったので)自分の代わりに白兎を仕切ってくれそうな人物が居なくなってしまう。そうなると一番選ぶべきなのは解りきっていた事なので、グリムは合鍵を片手に或る部屋へと向かう。
合鍵で突然部屋を開けられた人物はグリムの来訪そのもの自体にも驚いたけど、その後の発言にはもっと驚いた。
彼は何時もの王子様の如き笑顔を作ると、銃の手入れをしている最中のラビにこう云ったのである。

「ラビ、デートしましょう」
「……は…?」

ラビの手から拳銃が落ちた。







「そうして哀れなフック船長の犠牲の元にピーター・パンは成り立ちました」

狭くて薄暗い部屋の中に、1人の少年の声がそっと響く。それは声変わりも未だしていないような 未熟であると同時に実に可愛らしいものではあったけど、本を読むその声には抑揚が一切無い事と 部屋の薄気味悪い雰囲気も大きく関与して──癒しどころか一種の恐怖を感じてしまうものだった。傍聴者が誰も居ない中、黴臭さも意に介さず少年は音読を続ける。

「ピーター・パンは暖かい仲間と豪華な屋敷、絶対な名誉と地位。愛らしいティンク。己の欲のままに何でも手に入れる事が出来ました」

そのフレーズが終わって直ぐに、頁を捲る音が響く。少年の膝上に置かれた本は大分古い物であるようで、乱雑に扱ってしまえばたちまち解体されてしまいそうにも見えた。色もすっかり変色して茶色くなっていたけれど、その色は木で出来た少年の義足と全く同じものだった。右手の『フック』で頬杖をつくその少年の表情は、実に退屈そうである。

「けれども実は、フック船長は鰐に喰われてはなく、あれから機会をうかがって、とうとう平和呆けした愚かなピーター・パンの首根っこを鎌で刈り取ったのです──」

少年が車椅子に完全に身体を預けると、ぎしり、と背もたれの軋む音がする。彼の右目は眼帯によって遮られていたけれど、左目の緑色は綺麗なエメラルドのままだった。エメラルドはぎょろりと動き、壁に掛けられた古い1枚の写真を見る。写真に写ってたのは、お人形のような小さくて可愛らしい英国の少年と、その隣で笑う父親の2人の親子である。写真に写る彼等は誰が見ても幸せそうであり、理想の親子であるとも云えた。尤もそれを見つめる少年の顔は無感慨であり、幸せとはかけ離れたものでもあったけど。

「フック船長はそうして、ティンク含むピーター・パンの持っていたもの全てを奪い手に入れたのでした。目出度し、目出度し」

目出度しと云う幸せな言葉とは裏腹に、少年の声色には全く嬉々とした感情は込められていなかった。少年は己の義足の上に置いていた本をフックではない方の左手で持つと、音も立てず机の上に置く。机上には1つの白いポットと黴の生えたフランスパン、腐りきった果物と、鼠の死体が2匹程転がっている。そうしてフックを大きく振りかざし、──鋭利な光を放つと共に本をずたずたに切り裂いた。古い本はいとも簡単に身体を裂かれ、茶色く変色した頁は蝶のように空中で舞い、それから重力に任せて美しく下へと落ちてくる。まるでそれは妖精ティンクが振りまく金色の粉のようで、ビスクドールのような見目の少年と相まって思わず息を呑むような 目の覚める光景であった。
少年は自分の身体へと落ちて来る紙達を最初は甘受していたが、やがて鬱陶しげに首を横に振って頭上から振り落とす。そうして実に小さな声でだが、

「飽きた」

怒りの念も感じられるような、確かな意思を持った響きでそう吐き捨てるように呟いた。
車椅子に手を掛けて、ギィギィと鈍い音をさせながらゆっくり移動する。車椅子の移動の跡が、まるで轍のように 積もり積もった埃の上へとくっきり付いた。舞い上がる煙に少々噎せながら、少年は扉の前まで来る。その扉には死刑囚にしか使わないような厳重な錠前が掛けられていたけれど、その光は鈍く すっかりと錆びきってしまっていた。

「此処は寂しくて惨めだよ」

少年は云うと同時、銀光りする右手のフックを横に振る。瞬く間に鍵が壊れ、錠前が重たげな音を立てて床へと落ちた。小さな埃が舞って、ブーツの先にそっとお邪魔する。
掌を扉に押し当てると、扉は重厚な音を立てながら呆気なく開く。同時に外の光が少年のエメラルドの中に入って来て、そのあまりの眩しさに少年は顔を逸らす。常人であれば普通の朝日ではあったけど、外の光を長らく浴びていなかった少年からしたらそれは矢にも剣にも成り得てしまい、まるでヴァンパイアになった気分だ と少年は思った。

慣れてくると車椅子をそっと移動させ、光の射す外へと出る。呼吸をして得られるのは黴の匂いのない新鮮な空気であり、空気とはこんなものだったかと少年は思う。自分の眼前には誰もが羨むような立派な豪邸と、辺りを囲む薔薇園(手入れはされていないけど、腕の立つ庭師が居ればきっと直ぐに赤色の薔薇で満たしてくれるだろう)が見えたものの、少年は『自分の家だが縁の無いそれ』に興味は示さず 寧ろ己の身なりを気にし始める。
紺色のストライプ柄をしたスーツからフックで埃を払い、左手だけで器用にネクタイを締め直す。半ズボンから出る下肢とブーツが綺麗なのを確認し、銀細工のチェーンも未だ色が褪せていない事を確認する。薔薇園の真ん中にある噴水で顔を覗き込んで、眼帯も綺麗なままである事を確認して安堵した。只、髪が汚く顔も酷く見えたので、噴水の水で洗って自然に乾かした。匂いは香水がなかったので、薔薇園の近くにある花を磨り潰して何とか上手く誤魔化す事にする。

一通り綺麗にした少年は、見られるようになったばかりか──皮肉にも生まれたままの物ではない両足と右手のお陰で『まるで本物のビスクドール』のようにも見えてしまう。光を浴びる彼の車椅子は古い形だが立派なもので、見る人が見れば唸って称賛するものだった。
そうして小枝で白い鳥が囀り噴水が音を立てる中、少年は1人オペラの舞台に立つ役者が台詞を云うように、歌うように美しく口ずさむのだ。


「ピーター・パンの首を鎌で撥ねて宝物を奪ってしまえば。僕は寂しくなくて済むかなあ」


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