西漸運動




「君のような愚者を部下に持ってしまった事は、私の過失でもあると無論頭では解っているのだがね」

暗闇が巣食う広い部屋だった。暗闇の腹の中には横たわる1人の男と椅子に座る1人の人間、そしてそれを囲む複数の人間が存在した。今現在この空間に存在すると云う意味合いでは彼等は並べて同じではあったけど、それでも決定的に有り様が違った。横たわる男は口に猿轡を嵌められて、両手と両足は縄で縛られている。対して椅子に座る人間は高圧的にそれを見下ろしていたし、周りの人間は皆微動だにしないで、無感慨に(ガスマスクを嵌めていたけれど)また彼を見下ろしている。脂汗を垂らしながら恐怖に怯えた表情をする彼を見て、椅子に座る人間――此処ではエヌ氏としよう――(これは或る小説家がよく多用する名を勝手に拝借してみただけで、他意は一切ないと記載しておく)は、彼の手を勢い良く踏んだ。靴底で蹂躙され彼は悲痛な声を漏らしたが、それを見るエヌ氏は何とも『痛くなさそうな』顔をする。

「…何であんな愚行をした」
「ふ、ぅう、ふっ」
「怪物に喧嘩を売ったのは、手柄を取る事で地位を欲したからか? …莫迦め」
「ううう、う――ッふ、」
「お陰で君以外の駒は死んだしデータは取られた。あれがヒントとなって後は芋蔓式…、何れ私達の場所もずるずるとバレてしまうだろう」

嘆かわしい。エヌ氏はそう憂いたように云うと足を手から外し、優雅に足を組んで深く椅子に座り直す。男の手は皮膚がずるりとめくれ、血が滲み床に小さなシミを残した。その模様をエヌ氏は少し眺めたが、直ぐに飽きたのか ところで、と云った。声に反応し、男の肩が怯えたように震える。

「…他の駒を放って這い蹲りながら息もたえたえに帰ってきたんだ、普通に死ぬのは厭だろう?」
「…! ふ、ぅう! ふ、」
「『次の餌にしよう』。…連れて行きたまえ」
「――ッンン、うう!」

抵抗の積もりなのか男は必死に身体を捩って首を振ったけど、周りに居た人間が次々彼に群がって身体を運んで行く。それはまるで死体に群がるハイエナだが、エヌ氏は不快そうな顔一つせずにハンカチを取り出した。それで自分の口元を抑えた時に、先程までエヌ氏の隣に居た一人の人間が話しかけてきた。彼女(声が女性のものだったので彼女としておくが、性別の程は不明だ)は不審がった顔のエヌ氏に対し、

「…例のコーカス軍の跡地の事ですが、発見された『失敗作』はどうします?」
「元隊員が見付けたあれか。…戻るとは考えられんが、万一装備を揃えて再び入られると厄介だな。…失敗作の体内から何を見るかも解らんし」
「では処分致しますか」
「そうだな。軍ごと壊してくれ。もう取っておく必要もない」
「解りました」

彼女は一礼すると、自分もハイエナの一員となるべく戻って行く。エヌ氏がそちらの方を見ると、丁度奥の扉が開けられるところだった。扉が開くにつれ男は発狂したような悲鳴をあげたけど、扉が全開になるとハイエナ達は奥の方へと男を捧げに行った。
エヌ氏が此処で眉を顰めたのは、その非道な光景に異常を覚えたからでは決してない。エヌ氏はハンカチで幾ら抑えても漏れてくる、奥からの異臭に眉を顰めたのだ。それは肉と血と薬品と――それに加えて何かしら気味の悪いものや吐き気のするもの――が大量に混じって出来た、そんな恐ろしい異臭だった。


「…No78はハンバーグが好きだったな」


奥からの悲鳴がぴたりと止んだ。






『じゃあ女王サマ、本当にコーカス軍の例のあれは処理しなくて良いんですね』
「うん。…ラビの話を聞く限り、恐らくあれは外には出られない。周りの被害も聞かないし、そもそもあそこに行く人間は今となっては先ず居ない」
『まあ山奥も山奥ですシね』
「それに多分、何もない跡地に居ると云う事は恐らく人間兵器の失敗作。成功作を捨て置く訳はないし」
『解体して中を見てみては?』
「リスクを負ってまでする事じゃない。僕等の目的は人間兵器の構造を知る事じゃあないし。それに――」
『?』

「…例えあれが最早人間じゃないとしても、そんな非人道な真似ごめんだよ」

そこで受話器の置かれる音がして、声を発しなくなった電話に緑の眼鏡をかけた青年は肩を竦めてみせる。すると彼の後ろからはピンクの眼鏡をかけた少女がやってきて、緑眼鏡の肩を叩いた。
個性が身体を作って出て来たような見目の彼等は、ジャバウォックの悪友である。

「女王サマ何て?」
「放置プレイって」
「あやや。そうきたかあ」
「ラビサマが苦戦したって云うんだから、俺達行っても死ぬだけでショ」
「ま、確かにー。あ、ラビサマって云えばさア」

そこまで(まるで双子のように)テンポ良く話すと、ピンク眼鏡はさも思い出したかのように大仰にぽんと手を叩く。緑眼鏡も同じく手を叩いて彼女の言葉を待っていると、ピンク眼鏡は声色を落として 些細な噂話を口にした。

「アリスサマを通路で抱き締めているのを見たって聞いた」

緑眼鏡は眼鏡の奥の双眸を瞬かせ、何も云えないでそのまま数秒を過ごした。ピンク眼鏡から無情にぱちんと頬を叩かれると漸く覚醒したようで、少しだけ痛む頬をさぞかしとても痛そうに大事に撫で回しながら、

「…嘘ん」
「マジマジ激マジ」
「そう云う関係?」
「さあ」

あくまで噂だし、とピンク眼鏡は肩を竦めてみせる。確かに噂である可能性は高かったし(特に帽子を被った女性が白兎内を出入りするようになってから、その類の根も葉もない噂は沢山聞いてきた)信じられないところでもあった。
何故ならクイーンがアリスを気に入って酷く寵愛している事も、そして恐らくその逆もまた然りである事を、周囲は理解していたのだから。
緑眼鏡はふわふわの髪を乱雑に掻き、それからもう切れた電話の受話器をちらと見る。

「…安っぽいアップルパイを取るだけで死刑なんだから、アリスサマを取ったらどうなるか」
「…終身刑?」
「…笑えない」

流石に白兎内でそんな事は起こって欲しくない。出来るなら、否、出来なくともこれが只の噂でありますよう。緑眼鏡は内心でそう祈り、次には笑顔でピンク眼鏡と共にジャバウォックの元へ遊びに行く事にした。





「風が気持ち良いねえ」

そんな彼等の心配事を露知らず、白兎の幹部であり女王と称される少年クイーンは、船の旅を心行くまで堪能していた。口煩いお目付け役が着いて来る心配は全くないし、自然と笑顔になってしまえる程今日の天気は快晴だ。久々の心からの開放感を味わいながら、クイーンは甲板の手摺りから身を乗り出す。海に光が反射して、まるで底に宝石が沢山眠っているみたいだとクイーンは思った。

「最っ高! アリスが来る前はこんなだった!」
「坊主、機嫌が良いなあ」

クイーンはそう云われ、驚き後ろを振り返る。後ろには樽を肩に担いだガタイの良い船員が立っていて、クイーンと目が合うと白い歯を見せて大きく笑う。クイーンは自分の耳が可笑しくなってしまったかと思えたので、恐る恐る聞いてみる。

「…僕の事、坊主って云った? 嬢ちゃんじゃなくて?」
「? お前はどっからどう見ても坊主だろ」
「…! だだだよね、だよね」
「あたぼうよ。ダンディーだ」
「君って最高に良い人だ!」

一目で性別を正しく判断して貰うのは初めてのような気すらして、クイーンは手放しに喜んだ。そんな天真爛漫に喜ぶクイーンの姿を見て船員は気持ちが良くなったのか、樽を置くと「少し話すか、坊主」と云ってクイーンの隣に立つと手摺りに寄り掛かる。普段なら気難しいクイーンもすっかり上機嫌だったので、男を笑顔で迎えた。

「アリスって奴は彼女か?」
「彼女? 違うさ、」
「女はやめておけ、面倒事ばっかりだ。俺の女房も…」
「口煩い?」
「そう! 話が解るな」

船員は船員でクイーンが気に入ったのか、太い腕をクイーンの肩に回すと豪快に笑う。女ではないと云うべきか迷ったけれど、口煩い点では変わらなかったのでクイーンはそのまま放っておく事にした。
それから岸につくまで2人は主に皮肉のきいた愚痴を話して笑い合い、最後は笑顔で別れた。クイーンの鞄は彼から選別と云う形で貰った缶詰ですっかり一杯になっており、 これでもし宿屋が海賊に襲われて食べ物がなくなっていても暫くは安心だ とクイーンは思った。
結果として実際に海賊なんてものの襲撃はなかったけれど、それでもクイーンはあんまり喜ばしくないものに途中の道で出会ってしまう。それは人集りの中に居て、人集りがあるとどうも渦中に一体何が居るのか気になって見てしまうクイーンにも非があり――とは云え何時もはピエロだったり人形師だったりするから問題はないのだが――。只、今回は少し何時もとは違って。

「さあ、金の卵を産む鶏だよっ!」

世にも解り易いのに女王は騙せられ得る、そんな胡散臭い詐欺師であった。



「…金の、卵?」

クイーンは缶詰の入った茶色の鞄をお手手に大切に抱えながら、人集りの真ん真ん中でそう呟いた。鶏を大きな籠に入れて声高に叫ぶ男の大きな鼻は赤く、籠を持つ手は荒れてぼこぼこだった。野次を飛ばされる男は真ん前で興味津々に鶏を見ているクイーンに気が付くと、クイーンの服装や髪の質から充分客に成り得ると踏んだのか、

「そこのお方! どうです?」
「金の卵なんて、童話じゃあるまいし…」
「とーころがどっこい、実際産んじゃうんですねえ」

男が自分のサロペットのポケットから取り出したのは、絵の具で塗られた金色の卵である。そんなものに騙されるかとか小さな女の子を騙そうとするなんてと周りは野次を飛ばすけど、クイーンはその卵に目を光輝させる(因みにクイーンは勿論金が欲しいのではなく、変わった不思議な動物だとかに弱いのである)。男はそんなクイーンの反応を見ると内心で舌なめずりし、

「たったの2万ストロで売っちゃうよ!」
「2万…! 家が1軒買える値段だ!」
「でもこの鶏が居ると、何軒も買えますよお?」

ほざけと沢山野次が飛ぶけれど、クイーンはそんなのに耳を傾けはしない。無論クイーンが渋るのはお金ではないし、正直何軒もの家なんて魅力は感じなかった(既に立派な屋敷があるのだし)。然し金の卵を産む鶏なんて、響きからして大層魅力的だった。此処にアリスでも居れば、そんな鶏を持っているにも関わらず詐欺師の服装が継ぎ接ぎだらけなのは可笑しい事、そもそもそんな鶏を他人に譲歩する訳がない事を直ぐ様指摘してくれるだろうが、生憎此処にはクイーンしか居ない。
クイーンは少し悩み、とうとう買ってしまおうかなんて思う。然し生憎財布には、こんな事を見通してアリスに定められた必要最低限のお金しか入っていない。彼の事をジャバウォックはお母さんと呼んだけど、する事はあながち母親のものと間違ってはいなかった。
然しクイーンもアリスにされるがままでもない。こんな事もあろうかと、お金の代わりにコレクターに売ればそこらの車や家がぽんと買えてしまう切手がある。アリスは流石に切手の価値までは解らなかったようで、それを見ても郵便をする時の為のものだろうかとしか思わなかった(これが日本の切手なら少しは価値が解ったし、確認したのがラビやグリムなら価値を解りはしたのだが)。
無論、切手を見せても彼等のような詐欺師は大抵価値を理解してくれず、何時も何だこれはと吐き捨てられて終わっている。それでも一応試そうとクイーンが鞄を開けた時、缶詰で詰まった中から一枚の写真が落ちた。1人の野次馬が腰を屈めて拾い、写真を見る。白衣を着た数名の研究者が、研究所をバックに写っている写真だった。

「…これって西の方にあった研究所じゃねえか」
「? 知ってるの」
「結構有名だぜ。今はもう誰も居ねぇし寂れちまってるけど」

誰も居ない、と云う言葉にクイーンは納得したけれど矢張り落胆もしてしまう。それでも一応何かあるかも知れない、クイーンは立ち上がると写真を受け取って、

「行き方を教えてくれる」
「ああ。そうだな、先ずこの通りを真っ直ぐ歩くと駅に着く、」

クイーンは彼の話に真剣に耳を傾けて、詐欺師はすっかり話に着いて行けなくなる。全部を教えて貰うとクイーンは「解った」と笑顔で云い、そうして鞄を手に提げて、

「ありがとう、行ってみるよ」
「おう、気を付けてな。主に詐欺師に」
「? ご忠告どうも」

クイーンは金の卵を産む鶏をすっかり忘れてしまったのだろう、詐欺師の方を一瞥もせずに走って駅に向かう。葱どころか札束を背負った鴨が居なくなって詐欺師はそのまま取り残されてしまったが、別の客に売ろうと思って笑顔で「どうです」と今の男に問う。
男は無論それが詐欺だと解ったので、詐欺師の手から金の卵を素早く取ると勢い良く地面に叩き付けた。
周りがざわめく中、割れた卵から出たのは普通の卵白と卵黄である。それを見た周りはやっぱりなと云いながら、皆してその場から離れて行った。
呆然とする詐欺師の手中の鶏は籠の中で暴れ出してしまい、詐欺師はそんな煩い声を聞きながら 肩を大きく落とした。


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