罪悪と贖罪U




「離せ、貴方も憎いんじゃないのか!」
「ああ、俺も憎いさ! 殺してやりたい程にはな!」

その軍人とは小鳥遊の血の繋がった兄であり、かつて弱くあった小鳥遊を強くした張本人の小鳥遊家次男だった。小鳥遊は右手を振りほどくべく強く抵抗したが、兄の力の方が強く手が思うように振りほどけない。小鳥遊は悔しさに顔を歪めて兄に対してまた怒鳴ったが、兄――キャロルは右手を素早く離すとそのまま自分の右手を思い切り振り翳し、弟の頬を手加減なく拳で殴った。
強く殴られた小鳥遊は目を見開いて、男を拘束した左手を無意識に離した。男は状況が飲み込めなかったようで小鳥遊とキャロルを交互に見つめたが、好機だと悟ったのかその場から逃げようとする。然しそれを見逃すキャロルでもなくて、キャロルは男の襟を掴むと男を壁に叩き付けた。そして男に頭突き出来得る距離まで顔を近付けて、気圧され目をひんむく男を威嚇するよう睥睨しながら、

「良いか。貴様を見逃すが、貴様から受けた仕打ちを俺達は忘れない。貴様は罪の意識を引きずり、一生をかけて苦しみながら償え」

…死にもの狂いで頷く男から顔を離すと惜しまず手放して、そうして小鳥遊へと視線を遣る。小鳥遊はキャロルの行動の意味が解らないのか苦渋の表情で、赤く腫れた頬を抑える事なくキャロルを静かに睥睨する。士官学校生徒のものよりも装飾の細かい軍服を着たキャロルは弟の目線を黙って受け止めて、それから静かに向き合った。小鳥遊は己の拳を、口惜しそうに握り締める。

「…兄さんは、力をつけろと…ッ、」
「ああ、云ったな」
「ならば何故、あの輩を見逃したんだ! 俺は、アイツを殺せるなら、どんな罰を受けようとも――」
「然し良いか、俺は『守れ』と云った筈だ。壊すだけの力とは決して違い、復讐は何も生まない」
「ッ……!」
「貴様は一旦士官学校生になった。…なれば、守れ。それがお前の使命だろ」

黙り込む弟を見るキャロルは暫くそのままで居たけれど、やがて踵を巡らせて一言云うとその場を去った。軍をわざわざ抜けて自分の暴走を止めてくれた兄の優しさを知るのは未だ先の事で、今の小鳥遊はきっと周囲を正しく見るのには幼過ぎた。次男が去る時の最後の言葉に小鳥遊は返事が出来ないまま、殴られた頬をそっと白手套越しに触れる。じんわりと内側から痛むそれを感じながら、視界のぼやけた小鳥遊は兄の言葉にほとほと呆れた。以下に兄の言葉を記す。

「…何も直ぐに解ったと云えとは云わんさ。茄子(なすび)の手入れでもして、少し頭を冷やせ」

兄の云う茄子とは小鳥遊の馬の名前だが(本当は無論藤鷹なのだけど、兄は「富士と鷹とくれば茄子だな」と云って聞かない)、今は手入れをする気力なんて当然湧かない。小鳥遊は塀に背中を預け、そのままその場に座り込む。
守る為か、と痛む口を動かす事無く頭の中で言葉を反芻させる。その行為は昔非道く愛憎した或る人物を連想させるものであり、小鳥遊は衣嚢から薄い写真入れを取り出した。その中に居る隣の人物は笑いをこちらに向けていて、小鳥遊は このまま心が折れてしまいそうだ と己の不甲斐なさに唇を噛んで、そっと目を離した。

どこまでも広がる空を見上げながら、この世で只一人今でも愛する人に会いたいと 小鳥遊はそれだけを思った。





「あー居たアリス。ちょっと出て来るね…って何、どうしたの」
「な、何でも、ないっ」
「何でもなくて全力疾走してきたような様とか…引くわー」
「引くなよ! で、何処に行くんだ」

それではこの辺で閑話休題するとして。まさか走ってラビから逃げてきたなんて云えないアリスは平静を取り繕い、車の鍵を片手に持つジャバウォックにそうと尋ねる事にした。ジャバウォックの肩には黒色のリュックが掛けられているし、エンブレム付きのジャケットもどう見ても「適当に散歩」と云った類のものではなさそうだ。ジャバウォックはカレッジリングを嵌めた左手で、紫色の棒突き飴を舐めながら、

「グリムを迎えに」
「? 連絡が入ったのか?」
「いや。グリムが行った先で列車事故があったんだ。あそこ丁度接続悪いし、ホテルもないから最悪野宿の羽目になるしね」
「……相変わらず素敵なストーカー的分析だな…」
「おっと大分けなすねえ」

冷徹な視線を浴びせて来るアリスの額をジャバウォックは中指で軽く弾く。遅くなるだろうから双子を頼むよと云って手を振るジャバウォックの後ろ姿を見送りながら、アリスは何時もなら呆れ果てるだけだけど、今日は何故だかそれ以外の感情も湧いてきて 仕事もない事だしたまには双子の遊びに長く付き合おうかと さぞや不貞腐れてた双子が居るであろう放送室に向かう事にした。
話の本筋とは関係ないが、放送室になってきたアリスの姿を見てドルディーは手放しで喜んだし、ドルダムは顔を赤くして急いで捲れたスカートを直した。彼女はアリスから貰うものが苺味の飴だけでは満足出来ない立派な『レディー』へと成長してきた訳だけど、それはまた、別のところで記述する事にして。






原因不明の列車事故、周囲に馬車も車もなく、泊まる事の出来るホテルもない。何時しか空は暗くなり、グリムはトランクを抱えたまま途方に暮れている。見える丘の上にはひっそりとした墓地があり、大きさの多様な十字架達は暗闇の中でその体躯を誇る事無く見せている。

「…最悪だ、」

ぽつぽつと見える灯の家屋に邪魔する勇気もなくて、牛や馬の居る農場を後にする。随分と田舎の方であるようで、僥倖は中々期待できなさそうである。せめて電話だけでも貸して貰おうか、グリムはそう思って目に入った家屋を尋ねてみる事にした。
戸を叩き声をかけると、中から農婦であろう女性が出る。かけたエプロンは黄ばみ、履いた靴は非道く汚れている。女性は見知らぬグリムの姿を見るなり、皺のある顔を隠す事無く厭そうに歪め、

「…何だい、何の用だい」
「突然で申し訳ないのですが、電話を貸して頂けないかと…」
「電話なんて引いてないよ。…アンタ余所者だね、」

白髪交じりの頭を掻きながらそう云うと、グリムの身に纏う服を不躾に眺めて靴の先まで見る。そうして戸惑うグリムの顔を覗き込み、小麦粉に塗れたふくよかな人差し指で 無遠慮に彼の鼻の先を指差して、

「随分と良い服と香りだ。あたし達のこの貧乏ったらしい身なりや家畜の臭いと違ってね」
「え、えと…」
「こんな所にアンタが居たらきっと神経が可笑しくなっちまうよ。良い子はとっとと帰んな」

吐き捨てるようにそう云うと扉を乱暴に閉められて、閉ざされた木の扉にグリムは呆然と佇立したままでいたけれど、困ったなと思いながら踵を巡らせた。他を当たってみようかとグリムが道に出たと同時、さきの扉の開く音がして思わず振り向いた。見ると先程の女性ではなく、小さな年端も行かぬ少女がグリムをじっと眺めている。癖のある髪を上で2つに括った少女である。ピンク色のワンピースに縫われた貝の釦は今にも取れそうで、赤色のストラップシューズには牧草が付いていた。目が合ってグリムが微笑むと、少女は無表情のままグリムに歩み寄り、

「あげる」
「え? …ミルク、」
「あげる」

少女が小さな手に持っていたのは、牛乳の入ったコップだった。何故少女が牛乳を差し出してくれたのかは解らぬが、お礼を云って受け取るべきかお礼を云って断るべきか――、突然の事にグリムは判断に迷った。少女はグリムが懊悩しているらしい事に気が付くと、一層強くコップをグリムの方へ押し付ける。その際に、グリムの目に――白濁とした牛乳の上で埃と共に死んでいる、蠅の姿が飛び込んできた。
初めて見た光景にグリムは声を失った。少女はそんな微細な表情の変化も見逃さなかったのか、コップの中を覗き込むと蠅の存在に気が付いたようで、コップの中に人差し指を入れると蠅の死体を取り除き、地面に向かって人差し指を振り死体を落とす。そうして柔らかな人差し指を桃色の唇の中に入れ、彼女からした只の真理を口にした。

「綺麗になったよ」

少女の無垢な青色の瞳が、宝石のような輝きをもってグリムを見つめる中で、グリムの背後からちかちかとライトが光る。人工的な眩しさを訝しがってグリムが振り向くと、そこには何度も見た赤色の車が停車していた。車から出て来た見覚えのある人物のシルエットに どうして此処に と驚いてそのままで居ると、少女がグリムのスーツの裾を引く。

「貴方のお友達?」
「友達…、…そう、ですね、」
「ならさよならね」

少女は人差し指を飴を舐めるように噛みながら、グリムに別れを云うと惜しみもせず家屋に戻って行く。グリムは少女の姿が扉の奥へと仕舞われたのを見ると、暗い空間を照らすライトの方へと向かい、ジャバウォックを一瞥すると 車の扉を開けて、

「…色々と云う事はありますが、良いです。…助手席にお邪魔しますよ」
「あれ。拍子抜けする程素直」
「こんな状況で拒否する程愚鈍でも頑迷でもありませんので」

グリムは溜め息を一つ吐き、助手席に腰掛けてトランクを足元に置く。かけられたままのエンジン音はこの小さな町には余程不似合いで奇妙ですらあり、町を走る車に好奇心を孕んだ子供達の目は、町の外に出るまでずっと離れはしなかった。その宝石の数々はあの少女を連想させ、何時までも払拭させる事が出来ない。最後に柵の近くで見た少年のジョッパーパンツのポケットは林檎で膨らんでいたのに、薄い布から覗く腕は対照的に細くて 骨の如きその白は真珠にも見間違え得た。
町を出ても運転席に座りハンドルを握るジャバウォックと会話は暫くなかったが、ややしてグリムがそっとその薄い唇を開く。蜂蜜色の髪が開けられた窓から入る風に撫でられて、さらりと揺れた。

「変な事を尋ねても?」
「どうぞ」
「…蠅の入ったミルクを、――…」

グリムは云いかけて、そこで言葉を詰まらせた。己が何を聞こうとしているのか突然恥ずかしくなって、直ぐに 矢張り良いです とだけ云った。ジャバウォックはその先を聞こうとはしなかったけど、少しして前の方を向いたまま、

「呑めても呑めなくても、どちらかが責められる訳はないし、自分がどちらかを出来ないとしても、自責する必要はないかな」
「…。何の、話ですか」
「グレープフルーツジュースを呑めるか呑めないかの話。好き嫌いがあるから仕方ないね」

グリムが何も云えずジャバウォックを見る中で、「双子が嫌いなんだ。酸っぱくて呑めないと」と彼は続ける。グリムはジャバウォックから視線を外し、それきり彼を見る事はなかったが、彼の態度に救われた心持になったのは確かであり、無意識に腕の十字架を強く握った。罪の意識に苛まれ、十字架を握る手に力が入ってぷつりと肌から血が滲む。このまま傷口が化膿して、菌が入り、悪いものが蝕んで、苦しみながら死ねたらどんなにか――とグリムは思う。
それでも死ねないのは、矢張り自分が愛する人に今一度会いたいと狡くも願ってしまうからだ。何と強欲で愚かしい、とグリムは自嘲する。そんなグリムの横顔を少しだけ見ると、ジャバウォックは直ぐにまた前を向いて静かに云う。

「まあ俺は好きなんだけど」

グリムの十字架を握る手の力が緩み、血の滲んだ十字架は手中から落ちてそのまま下にぶら下がる。血の滲んだ十字架が鎖に繋がれ揺れる姿はまるでキリストが処刑された姿そのもので、体温で熱さを孕んだ十字架の温度をなくしたグリムは一瞬躊躇ったが、――前方に永久に広がる暗闇を見つめながら この暗闇は見えるよりも断然深い そう思ってそっと瞼を閉じた。

「…私も、嫌いではありませんよ」




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