罪悪と贖罪




「そうですか、クイーンがアメリカへ…。…ええ、解りました。私もそろそろ白兎に帰ります」

英国北部。グリムはホテルマンから受け取った電話に向かってそう述べると、黒の受話器を定位置に戻す。上質の革のトランクとスーツを手にロビーを後にするグリムの後ろ姿を、電話を渡したホテルマンは通常の2倍は丁寧なお辞儀で見送った。それは彼の指定した部屋が上等であった事は無論、そうしたお金を多く持つ人間であるに関わらず、物腰は柔らかく大変『歓迎すべき』存在だったからに他ならない。彼はこのホテルに勤めて4年目だが、また来て欲しいと心の底から思える客に会ったのは、これが初めてな気すらした。
クイーンの白兎不在を伝えたのはアリスだが、彼の声によって状況を伝えられたグリムが決意したものは、一刻も早い白兎への帰還であった。副幹部として幹部が居ない時は自分が白兎を仕切らねばならなかったし、何より『わざわざそんな遠くまで宣告して行く』と云うのは何か重大な事があったからに相違ない。電話口では誰に聞かれているかも解らないからアリスは云わなかったけど、グリムが帰って来たらその真意を云う事になるだろう。素早い帰りこそが自分の使命であると悟ったグリムは早足に駅に向かう。切符を難なく購入し、一番後ろのボックス席に座った。
グリムは切符をスーツのポケットの中に入れ、無性に焦る中でシャツの下の腕に巻いた十字架のブレスレットをそっと指で弄る。金とパールの冷たい温度を肌の表面で滑らせていると、ガタン、と列車が動き出した。このまま行けば深夜辺りには帰る事が出来るだろう、グリムはそう思いながら膝上のトランクを只何もするでなく大人しく眺めた。
…だが然し良きせぬ事とは本当に突如起こるものであり、それはまた不条理なものでもある。グリムが揺れる列車に身を任せている最中、突如列車が急ブレーキをした。乗客達が悲鳴じみた声をあげる中、グリムも何事かと驚いて窓から前方の様子を覗く。前方では慌ただしく車掌達が何事かをして、何時の間にか乗客の野次も飛ぶ。数分して車内にやってきた車掌が声を張り上げて発した言葉とは、

「皆さん落ち着いて、列車から降りて下さい! 急いでいる方は申し訳ありませんが、当分列車は使えそうにありませんので、どうか馬車か自動車でどうにか――本当に申し訳ありませんが――」

グリムの口を塞がらなくさせるのに、充分な効果を発揮した。





「グリムに伝えられた?」

時間は少し遡り、白兎連絡室。そこで手帳を片手に電話をかけていたアリスは、受話器を置いた途端背後から声をかけてきた人物の声を聞くなり実に厭そうな顔をした。黒色の手帳を閉じると振り向いて、その厭そうな顔のまま、

「…どうして俺が此処に居るって解ったんだよ」
「アリスを見たと教えて貰ったから」
「で、どうしてそれがお前が来る理由になる」
「話したくて」

兎のような赤色の瞳を細めて薄く笑みを浮かべるラビに、アリスは 相変わらず喰えない と腹を立てると同時連絡室から出る。後ろから着いて来るラビを見る事もなく、前だけを向きながら、

「改めて何を話す事があるんだ」
「あの日以来話せていない。用がなきゃ駄目かい」
「随分とまた殊勝だな。愛の告白でもする気かよ」

ラビの云うあの日とは紛れもなく唇を重ねた夜の事を指したけど、あれからアリスが意図的にラビと話をする事は愚か視線を合わせなくなったのは事実であった。それは今までのよう嫌悪等とはまた異なる色のものであり、ラビの行動への困惑や己の感情への不可解さ、或は何故か罪を犯してしまったような多大な罪悪感、兎角口ではあまり上手く云えはしないけど、そう云った複雑なものが鎖のように絡んで――どうして良いのか解らなくなってしまったからだ。そもそも揺れる事自体が可笑しな話の気もしたし、だからと云って簡単に受け入れられる訳でも、拒絶出来る訳でもない。そんな感情を隠すよう、アリスは自分か相手を揶揄するかの如く嘲笑交じりに吐き出した。それをまた皮肉で返される事を期待したし、信じて疑わなかった。
然し彼の返答は、アリスの予期通りには行かなかった。

「…しようか?」
「……は?」
「愛を囁こうか、と」

次の瞬間にアリスの左手はラビの左手に取られ、そっと取られた指先に唇が落とされた時 アリスの右手から勢いよく手帳が落ちた。アリスはラビの唇の感覚を肌で感じると同時耳まで顔を赤くして、左手を素早く引っ込めようとしたけれど、その前にラビに抱き締められて 益々赤の色が増す。

「ななな、は、離っ」
「厭だ」
「ふ、ざけっ――。だ、れかに見られたら…ッ」
「…見られなかったら良いんだ?」
「あ、げあしを!」

アリスが怒声を浴びさせようと抵抗してラビと目を合わせた時、その赤色の思いがけず真剣なのに呼吸を奪われて動きが止まった。ラビは動作を止めたアリスの頬に触れ、口付けをしようとしたけれど、アリスはその一歩手前のところで急いでラビの肩を掴み、

「や、めろって、ほんと…」
「…どうして」
「だって、今更だし、そもそもお前がどこまで本気なのか解らな――」

アリスが拒絶しようと足を動かした時、何か紙を踏み潰す音がしてアリスは足元を見た。見るとアリスの革靴は開いた手帳を見事に踏んでいて、アリスは慌ててラビから身体を離し、手帳を拾い上げて中が無事か確認する。手帳の紙自体は踏んでしわくちゃになってしまったけれど、中に挟んである一枚の写真は無事だった。胸を撫で下ろすアリスに、ラビは変わらぬ表情のまま、

「…写真? 持ち歩いているのかい」
「これは…写真立てを昨日壊してしまったから、取り敢えず挟んだんだ。唯一の写真だし…、」
「見せて貰っても?」
「良いけど…お前、見た事あるだろ」

アリスの手から渡された写真は、少し幼さを見せるアリスともう一人の青年が一緒に写っているものだった。確かに見覚えのある(しかも悪い意味で)それにラビの顔があまり芳しくなくなったのを、アリスは不思議に思うと同時 前にも同じような反応をされた事を思い出す。清潔に短く切り揃えられた黒髪の青年と当時の自分に、少なくとも見るだけで誰かしらを不快にさせる材料はない筈だが――等とアリスが思っていると、ラビが写真を返す前、

「…どこまで本気か解らない、とアリスは云ったが」
「え、…ああ、」
「本官が例えば『白兎』でなく『白山羊』であったなら、悋気のままに写真を食べてしまいたいと思う程度かな」

アリスがその言葉を反芻して咀嚼するのに数秒かかったが、直ぐにそれを笑って一蹴してしまおうと口を開きかける。けれども言葉を発する前に見たラビの顔は間違っても嘘を吐いているようには見えなくて、

「……冗談だろ?」

怯んだアリスから出た言葉は、生憎あんまり自信がないものになった。

それでは少し話は脱線してしまうけど、アリスが大事そうに抱える写真のもう一人の人物も丁度或る「契機」を迎える場面なので、彼に少しだけ焦点を当ててみる事にする。






極東の小さな島国の西側、大日本帝国。そこの数ある内の1つの士官学校の中で、或る1人の生徒は自分の馬の手入れをしていた。馬の足を藁束でこすり終えた彼は、今は水を与えている。馬の名は藤鷹(ふじたか)と云い、毛並みの良い立派な馬だった。
藤鷹の世話をするは黒髪を短く切った青年で、利発そうな彼の鋭き瞳の下には泣き黒子があった。制服を乱さず着た彼の行動には一切の無駄がなく、加えて良い体格と高い身長の所為で、近寄り難い雰囲気を醸し出していた。彼はその首席と云う身分から、周囲から十二分に尊敬されて良い程のものがあったけど、敬遠される所以もまた十二分に持ち合わせてしまっていたのである。
水を与えた回数の記録を終えると今度は蹄鉄の泥を落とすべく、青年が屈みかける。その時後ろから慌ただしい足音がして、青年は何事かと眉を顰めながら後ろを振り向いた。
駆けてきたのは士官学校次席の刃香冶(ばっこうや)と云う人物で、彼は青年と同室の生徒である。余程走ったのか息は荒く、着くなり背中を丸めて手を載せた膝を曲げる。

「た、小鳥遊っ、大変だ」
「何がだ?」
「お前の、母に昔暴行を加えたと云う人物だが」

そこで切れた言葉に、小鳥遊は益々訝しげに眉を顰める。母親を殴った人物とは所謂『左』側の人間で、男は暴行罪に問われて牢に入れられていた筈だった。小鳥遊は男を一度も忘れた事がなく、憎き対象として常に己の根底に座している。小鳥遊家の長男と次男がその昔一度男と面会したが、アイツは反省なんて微塵もしていない――と憤怒の顔を見せた次男の顔は、小鳥遊は未だによく覚えている。世の中は随分と皮肉なもので、小鳥遊を此処まで立派な士官学校生徒に仕立て上げたのは紛れもなくその人物だった。
刃香冶は己のずれた眼鏡を直さぬまま、息も絶え絶えの切れ切れの声で、

「釈放されるそうだ、」
「……何?」
「俺の父の知り合いが警官でな。確かな情報だ、」
「何時だ」
「それが今日の昼過ぎだと、」

小鳥遊は軍服の袖を捲ると左手の腕時計を見て、今の時刻を確認する。…後一刻で午になる。小鳥遊は唇を強く噛み締めると藤鷹を一瞥もせず、そのまま一気に駆け出した。後ろから聞こえる刃香冶の声に振り向く事もなく、己の使命を担う腰の軍刀を鳴らして硬い地面を走る。

「小鳥遊、お前まさかっ」
「俺は今日訓練を休むと伝えておけ!」
「お前はどうしてそう偉そ…あああもう!」

刃香冶は小鳥遊の小さくなり行く背中を見つめながら、教師にどんな云い訳をしろって云うんだと呆れて乱暴に頭を掻く。矢張り云わなければ良かったかと後悔するが、後悔先に立たずとはまたよく云ったものだった。
忿懣やる方なくなった刃香冶は――莫迦野郎!と大声で云うと、小さくなりゆく小鳥遊の後ろ姿を見送りながら 今度絶対に昼餉を奢らせてやると誓った。







最初に来た者は先ずはその高さに絶望すると云われている刑務所の塀の前に、一人の男が両隣を警官に挟まれて立っている。目の細い警官は男に何事かを云って、そうして男が大人しく頷いたのを見るとつこうど声で男に「行け」と前の道を腕で示した。
男は背中を丸めて一人で歩き出し、誰も居ない道をゆっくりと進む。彼の家がある方の左へと曲がったのを視認すると警官は男から目を離し、再び刑務所の中へ足を踏み入れた。
角を曲がった男は前方に人の気配を感じ、生気のない顔をふと上げる。…そうして悲鳴を出す前に前方の人間から口を左手で掴まれて、壁に容赦なく叩き付けられた。

「ん、ん、んむ――…!」
「大人しくしろ。…下衆」
「ひ、むぅう…!」
「ッ貴様の。貴様の所為で……!」

男を掴んだ小鳥遊の顔は修羅のようであり、憎しみに任せて掴む力を強くする。男は軍服を着た相手が一体誰なのかは解らぬが、自分よりも身長が高く鍛えられたその姿と脅かす気配に目に涙を溜めて恐怖する。余程男に対する怒りがあるのか小鳥遊は左手を外す事がなく、自分が今まで努力して築き上げて来たもの全てを壊すには充分な行為をしようと――、右手を思い切り振り上げて、男の顔を力任せに殴ろうと拳を振った。
男は曇った悲鳴をあげて強く目を瞑るが、然し痛みが自分を襲う事はない。恐る恐る目を開けると小鳥遊の右手は白色の軍服を着た人間に押さえられていて、それが誰だか厭でも解った小鳥遊は 彼の姿を見るなり吠えるように怒鳴った。



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