大切な貴方




アリスの小さな声はラビに聞こえるか聞こえないかの瀬戸際だったろうが、結果から察するに聞こえたのだろうか――、ラビは閉じていた目を開けると頬に置かれたアリスの手を引いて自分の側へと強く引き寄せた。予測しなかったアリスは引かれるがままに抵抗もままならず、顔を近付けさせられると頬を掴まれる。至近距離状態に何だ何だとアリスが困惑していると、顔を見つめていたラビは数秒して答えを導き出したようで、

「……ああ、アリスか」
「…何だと思ったんだよ…」
「別嬪な誰かだとは思った、」
「…。どうやら目も頭も大丈夫じゃなさそうだな」

心此処になさそうなラビにアリスは呆れると、手を外してラビの手を毛布の中に入れさせる。ラビは咳を数回するとアリスを力無く見上げ、口元を抑えながら掠れた声を搾るように出す。

「…悪いが、相手は出来そうにない、」
「何の相手だよ。寝てろ莫迦」
「…ん…」

ラビは言葉に甘えて閉瞼し、早いもので睡眠状態に入る。これは重症だなとアリスは思い、足音を立てずにキッチンへと向かう。冷蔵庫の中にお菓子と云う名のデザート以外の食材があるか不安ではあったけど、意外としっかりしているようで普通の食材もあった。アリスは玉葱とジャガ芋、バターやナツメグ等を取り出して、ざるや塩胡椒も用意する。そうしてスープを作るべく、換気扇を入れた。



スープを作り終わってもラビはよく寝てて、まあ起きて食べてくれたら良いかとアリスは鍋に蓋をするとベッド横の椅子へと腰掛ける。日頃の恨みからラビの額を指で弾いてやろうかとも思ったが、苦しげな寝息を立てるラビを見るとそれも何だか気の毒で、結局ラビを見守るだけだった。
睫毛が長いなだとか唇が綺麗だなだとか、暫く観察をしても何故だか飽きない。何となく右目を覆う包帯が気になって指でそっとなぞったが、その触った感じは予想外におうとつがあって余程酷いのだろうかとアリスは思った。
手を離す際にラビが咳をして、その様が気の毒でアリスは彼の頭をゆっくり撫でる。まるでエディスの看病をしている時のようだと思いながら、アリスは右腕に巻いた腕時計を見た。未だ夜中と呼ぶには早過ぎて、眠気が来るには早かった。アリスはラビの顔を見ながら、きっとシャツを入れたクローゼットも毛布を入れた場所も、昔と何ら変わらないのだろうと思った。







ラビが朝目を覚ますと、椅子に座ったアリスがベッドの脇に上半身をそっと倒して寝ていたものなので、状況を把握するのに時間が掛かった。汗に塗れたシャツと毛布が新しくなっている事、そして額に冷却用の湿布がある事に気付くと昨日アリスが来ていた事を思い出し、アリスを起こさないようとベッドから身を起こす。体調は大分まともになったようで、起き上がるのに今までのような辛さを感じたりはしなかった。一晩看病してくれたのだろうアリスのお陰かとキッチンを見ると、蓋をした鍋の中にはスープがあった。
ラビがベッドまで戻った時、アリスの身体が軽微に動くのを見た。起きるかなと思うとアリスは上半身を上げて瞼を擦り、そうして未だ夢見心地なままラビの顔を見る。その顔には何時もの覇気はなく、ラビは内心で面白く感じながら声を掛けた。

「お早うアリス」
「…ラビ…? 俺寝て……、?」
「看病の内に寝てしまったみたいだ。すまない、助かっ――」

ラビが言葉を云い切る前にアリスの脳が覚醒を始めたようで、アリスは突然顔を赤くすると椅子から乱暴に立ち上がる。そうして驚くラビの隣を駆けて過ぎると扉の前まで行き、ドアノブの鍵を開け、

「よ、良くなったなら良い」
「アリス。待った」
「それじゃあ俺はこれで。大事にな」

アリスはラビの制止も聞かず、扉を開けるとさっさと部屋から出てしまう。まさか朝まで看病してくれたのも驚きだが、朝起きたらろくな会話もせず出て行くのにも驚きだ。此処まで世話をする積もりもなかったのに何時の間にか一晩立ってしまっていた事が、彼からしたら不覚であったのだろうか。ラビは所在無さげにそのまま佇立していたが、ややして左手で頭を掻く。
ラビは少しして扉を開けて通路を見たけれど、通路には誰1人として歩いていなかった。







次の日大広間でラビはアリスの姿を見たので近付こうとしたが、アリスはラビの顔を見ると直ぐに顔を逸らして大広間から出てしまった。その露骨な態度にラビは何も出来ず、「どうしたのですか?」と尋ねて来るグリムにも曖昧な返事しか出来なかった。
昼には通路でアリスの姿を見たけれど、ラビを見たアリスは素早く踵を巡らして反対方向に走り去ってしまう。ラビは一体何なんだとアリスを追い掛けたが、突き当たりまで来ると姿を見失って結局捕まえる事が出来なかった。
そんな調子で数日あからさまに逃げられるとラビも面白くなくなって、表情にも出ていたのか遊びに来た帽子屋から「女の子の日?」と揶揄された程だった。その日にラビはアリスを捕まえようと決心し、アリスの部屋へ向かうべくエレベーターに乗り込んだ。

「……あ、」

開いたエレベーターの中にはアリスが居て、解りやすい程に驚愕してみせたアリスは急いでエレベーターから出ようと脱出を試みた。然しラビはアリスの右手を素早く掴み、自分のフロアのボタンを押すと『閉』ボタンを押してエレベーターを閉める。アリスは悪態を吐きながら何をするのかと乱暴に暴れたが、ラビは右手を離さない。
エレベーターが自分のフロアで止まるとラビはアリスを引いたままそこで下り、アリスの言葉を無視して自分の部屋へと向かう。鍵を開けてアリスごと中へ入ると内側から鍵を掛けて、チェーンをしてベッドへと向かった。無視を決め込むラビに業腹したのかアリスはベッドの脇まで行くと、

「離せッ、触れるな!」
「どうして逃げるんだ」
「決まってるだろ、お前の顔なんか見たくないからだ!」

アリスは手を強引に振り払うと扉へ向かおうとしたが、ラビに今度は左手を掴まれてその痛みに思わず声を出す。ラビが訝しんで左手を見ると手首には白色の包帯が巻かれてて、ラビは不審そうにその白色を見下ろした。こんなもの今までなかったし、痛むと云う事は最近出来た傷なんだろう事は容易に推測出来た。

「これは?」
「…っ野良猫に引っ掻かれたんだ、」
「…ふうん?」

ラビは納得していないような声を出すと、包帯を解き始める。目を見開いて制止するアリスの声も聞かず全てを解くと、そこには痛々しい赤色の線が綺麗な手首を大きく裂いていた。明らかに引っ掻き傷と云うには無茶なそれを見て、ラビは気まずそうに視線を落としたアリスの顔を、咎めるようにじっと見る。沈黙と目線を痛く感じてアリスは唇を噛むも、それは決して意味を為すものではなかった。

「どうして嘘を吐く?」
「ッ…お前と極力関わりたくないからに決まって、」
「でも、看病してくれただろう」
「…な、に…」
「お礼も云わせてくれないのか」
「っ当然の事だ、別にお礼なんて」

一瞬怯んだアリスは然し語尾を荒くして、突き放すように云うともう充分だろうと云わんばかりの顔をした。ラビは包帯が解かれて傷痕を晒け出した左手を未だ掴んでおり、アリスを離そうとしない。アリスはそんなラビの態度が厭なのか必死に抵抗をするが、アリスのこの度の厭がりようはラビが訝しがる程に、異常であると記しても誤りではないものだった。アリスの言葉には薔薇以上の棘が含まれて、その拒否は何処か焦燥感すら匂わせた。

「も、良いだろ、離せ!」
「アリス」
「俺はお前が厭なんだ、触れるな!」
「…何もキスする訳でもないのに、どうしてそこまで厭がるんだ」

それを云われたアリスは零れそうな程に目を大きく見開いて、自分よりも背の高いラビの顔を漸く見上げた。ラビの顔は責めるようなものでなく、本当に理解出来ないと云ったような、或は傷心したようなもので、アリスは唇を震わせると小さく吃る。そうして目を合わせる内にアリスの右目から、ぼろりと涙が一筋落ちる。ラビはそれに驚きを隠せずアリスの名を呼ぶが、アリスは一杯一杯なようで震える唇から何とか声を出す。アリスの様子は溜まったグラスの水がとうとう溢れてしまったようで、次々注がれる水に容器は、己のキャパシティだけでは満たせなくなったようだった。

「…ご、めん。…本当は、お前が、嫌いなんじゃないんだ」
「アリス…?」
「非道い事ばっかり云ってきたって解ってるし、恩知らずだなんて…解ってるよ」

看病する前に出会った彼女の言葉が頭の中にこびりついているのだろうか、アリスは俯いて顔を彼から隠す。ラビが見下ろすアリスの頭は思ってたよりも小さくて、少し力を入れてしまうだけで壊れてしまいそうだと思った。頬を撫でるさらさらの髪の毛も、魂の器であるその身体も。思えば強さを持つものなんて何一つないのではないのかとラビが思った時、アリスは嗚咽に近しい声で一言一言に想いを込めて必死に紡ぐ。

「…感謝、してるんだ。お前は、優しくしてくれた。俺に、……」
「……アリス…」

アリスの言葉に嘘は何一つなくて、気丈と云う袋に小さく穴の開いたかのように、今まで云いたくても云えない素直な感情が中から苦しく吐露される。ラビがアリスの頭を撫でるとアリスはそれを少しの間甘受して、そうして隠れてた顔をゆっくりと上げた。涙を頬に伝わせたアリスの顔は哀しそうに歪んでて、綺麗だとラビは思った。恐らく今までに見たどんな表情よりも美しく、自分も苦しさを喚起されるようだった。
ラビの手は無意識にアリスの左手から離れてて、アリスは魅せるように唇を動かした。

「……、…触って」

ラビはアリスの頬に、慈しむように左手でそっと触れた。頬は涙で濡れていたが色付くそれは何とも妍艶で、透明感のある肌は滑らかだ。割れ物のようだ、とラビは思いながら水彩で描いたような涙を指先で拭う。ラビの手を頬に載せたまま、アリスは言葉を手で掬った砂のようにさらさらと落として行く。

「お前は、俺に優しく触れる」

アリスの目からはまた一筋の涙が零れ、ラビの指先を柔らかに濡らす。温かなそれは溶けた星のかけらのようでもあり、ラビはアリスの目元を指で拭った。アリスは辛そうに顔を軽微に歪めたが、さきのようラビの一切を拒む事は言葉でも態度でもしなかった。言葉と云う砂を落とす青年は今や只の少年で、その姿見はあんまりにも儚い。

「でもそれは俺だけじゃない。誰にだってそうするんだ」
「…そんな事…、」
「だからお前は好かれる。勘違いさせるのが上手いんだ」
「……」
「頼む、俺に触れるな。また勘違いしてしまう、…俺が強ければ良いのに」

アリスはそこで唇を一旦噤み、最後の吐露を躊躇しているようだった。次の言葉なんて解ってしまうものだったけど、ラビは右手も上げ、両手でアリスの頬をそっと自分の方へ近付けた。小さいな、なんて思いながら、脳裏に昔のアリスがそっと浮かぶ。芯は強くなったように見えたけど、きっと彼の本質なんて思うより存外脆かった。
そして少年は、両手に微かに残った最後の砂を地面へと落とす。

「…俺は弱くて、狡いから」

その言葉が終わると同時、ラビはアリスにキスをした。唇同士が重なる感触にアリスは目を見開くが、何時しかそっと目を閉じる。
重ねるだけだったキスを暫くするとラビはアリスの唇の中に舌を入れ、アリスの舌を愛おしむように絡め取った。アリスは自分からも絡める事がない代わりに拒む事もせず、口の端から小さくて甘い声を漏らす。互いの唇と舌が重なる箇所が熱くなり、段々と濃さを増すそれにアリスの身体から力が抜けて、アリスは縋るようにラビの背中に手を回した。
遠く長く隔たれて漸く巡り逢えた恋人達のするキスのような長さのキスは、どれ程したのか解らない。唇が離れた時のアリスの頬は赤く、ラビはアリスをベッドの上へ組み敷いた。

「…あの時、照れたりなんてしないで、こんな…甘いキスを、して貰ったら、良かったのに」

あの時、が何時を意味するか痛い程解ったラビは何も云えず、アリスの唇に再び口づける。今度は舌を絡める事はなく、唇を愛撫しただけだった。
優しく重ねられたそれを静かに外した時、アリスはラビの目を見ていた。弱いと思ったその目は然し彼の気高さをしかと孕み、アリスは小さくだったけど、それでもラビの耳に届くには充分な声の大きさで、そっと刺すような言葉を迷わずに告げた。

「でも……もう、遅いよ」








「…アリス、起きて」

翌朝は晴天で迎えられ、カーテンから漏れる光は清々しいものだった。ラビは自分のベッドで毛布をかけて横になっているアリスの肩に触れ、彼の肩を揺らす。アリスは閉じていた瞼を開けると未だ眠そうな顔をして、右手を毛布から出すと自分の目を擦る。出される声は掠れてて、目元は薄く腫れていた。

「ん……も、朝…?」
「ああ。よく寝てた」

それを聞いたアリスは小さく呻いたが、段々覚醒してきたのかみるみる内にやがて赧顔する。そんなアリスの顔をラビは面白いと思って眺め、黒色のカットソーの長袖をめくった腕でアリスにミルクを差し出した。マグカップをアリスはどうするものか悩んだが、上半身をゆっくり起こしてそれを受け取った。何時になく依れたシーツを申し訳なさげに眺め、マグカップを両手で持つと恥ずかしげに視線を落としたまま、

「そ、の。昨晩は…色々、悪かった」
「どうして」
「…あ…あんな、……。……きっ、気にしてないなら。良い」

アリスは自分で云うのは憚られるのか何でもないようにそう云うと、マグカップを口元に当ててミルクを口に含む。尤もアリスの態度は多少不満そうで、ぶっきらぼうでもあればラビもアリスが何を指したのかを解ってはいたけれど、それを云わなかったのは多少の意地悪だった。嗜虐的な性癖を持つが故にアリスを弄るのが楽しいのも事実だったし、こんな小さな意地悪なら許されるだろうとラビは思う。
アリスはお礼と共にマグカップを返し、ベッドから下りようとする。然しそれをラビが制し、そのまま待つよう云うとチェストの引き出しを開けた。一体何だろうと思っているとラビが取り出したのは包帯で、チェストの引き出しを閉めないままアリスの隣に腰掛ける。…チェストの引き出しの中に手錠や猿轡やその他アリスが初めて見たようなえげつない何かが沢山あったような気がしたけれど、アリスは都合良く見なかったフリをして視線を逸らした。

「左手を出して」
「え、あ。…、はい」
「良い子だ」

左手を差し出すとラビからそう云われ、莫迦にされたようで若干不服ではあったけど黙ってラビに包帯を巻かれる事にする。
ラビが巻いてくれた包帯は凄く綺麗でアリスは感動したが、よく考えなくても右目に何時も包帯を巻いているのだ。上手くなるのが道理でもあった。…昨晩ラビの包帯の下を、アリスは見せて貰った。ドルダムが『化け物』と呼ぶ彼のその肌は容姿からは想像出来ない位の歪なものだったけど、アリスは黙ってそっとその硬くなった傷に触れた。故意的に誰かに見せるのは初めてだと云うそれに、アリスは何も云えずに只、二度と癒えない傷を痛々しい――と思った。

アリスはもう何時も通りに包帯の巻かれたラビの顔をじっと見ていたが、視線に気付いたラビはアリスの顔を見る。そうしてアリスの髪に触れると、

「……何。物欲しそうな顔をして」
「し、てないっ!」
「冗談だ」

完全に掌で遊んでいるラビにアリスは拗ね、少し怒ったようになるとベッドから腰を上げる。
つっけんどんに邪魔したなと云うと、わざとらしくもう帰るのかと云われてしまう。居てもする事なんてないだろうとアリスは思ったが、それを云ってもまた揶揄と共に上手く返されるような気がしてしまい、結局黙ったまま扉の所まで進む。チェーンを外してドアノブに手を掛けたところで名前を呼ばれ、アリスは何も云わずに振り向いた。部屋の中では何を思っているのだろう、ラビは静かにアリスを眺めていた。

「帰られると寂しい」

その言葉はあまりにも嘘らしく、然しラビの入れたミルクよりも格段に甘いものでもあった。ドアノブを掴んだアリスの手は一瞬外れかけたけど、アリスはドアノブを回して扉を開ける。おや、だなんてわざとらしく云ってみせたラビの方をもう一度振り向いて、アリスは「莫迦」と云おうかと思ったけど矢張りそれは止めといて、代わりに小さく笑んだ。

「……じゃあな」

扉が閉まるとラビは暫く閉まった扉を眺めたが、それが動かないと解ると大人しく鍵を掛けに行く。鍵を掛けてから瞼を伏せて、自分以外の誰も居ない部屋の中を黙って見渡した。
…自分の部屋は果たしてこんなに静かで広かったかと感じながら、依れたシーツと2つのマグカップを見て、寂しいなとそれだけを思った。



NEXT『罪悪と贖罪』


「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -