エスト・ジャポンU




クイーンの命令により、手掛かりを見付ける事を目的としてラビは今は無き己のコーカス軍の跡地に向かい、アリスは梦海ゴートと云う人物を捜す為に日本に来ていた。名前だけを頼りに人を捜すのだ、途方もないそれに何日かかるだろうと一同は覚悟を決めていたけれど、まさかわずか数日で出会った少女の父親こそが求めていた人物であったとは。
梦海もゴートも極めて珍しい名前で何時も奇特がられた位だから、先ず同姓同名の線はないだろうと彼女は云う。アリスは願ってもいない事態に高揚し、彼女が驚いてしまう程に食いつきを見せた。父親に会わせて欲しいと頼まれた彼女は然し、会わせたいのは山々なんだけど、と今度は云い辛そうに吃ってしまう。滑舌が良く堂々とした振る舞いのらしからぬ彼女にアリスは困惑するが、彼女は突然笑顔を作ると頭を掻いて。
そうして本当に何でもない事のように、下手すると嘘なのではないかとも思えるような抜けた調子で。アリスの顔色を一気に変えてしまう程の現実を、まるで『違う次元で起こった自分とは関係のない事』のように。彼女は云ってみせたのだ。


「お父さん、死んじゃってるんだ」








「極秘事項だったけど、お父さんは人間兵器の開発をしているんだってあたしに教えてくれた」

カフェを出て歩きながら、彼女は現実味を帯びない調子のまま、父親の話をし始める。彼女は何も知らないかと云えば決してそうではなく、非道徳であろう父親の担う研究内容もまた把握をしていた。まさか既に故人だとはアリスも思わずに、また振り出しかと途方に暮れながらも彼女の話を聞く。彼女の父親は半年前に仕事中の研究所で亡くなったそうなのだが、彼女の声のトーンにはその哀しみが含有されていないように思える。

「人間兵器は只の殺戮用の兵器でしかなく、どちらの意味でも犠牲になるのは罪なき人間だとお父さんは云った」
「……」
「そして、だからこそ、『責任ある』『神だけに許された』所業だと」

彼女のその言葉は文字だけ見れば道徳に背いた父親を責め立てるようでもあったけど、声を聞けばそのような色は一切含まれない。それどころか彼女の声色は再び興奮しているようでもあって、アリスは彼女の逐一の言動に疑問を覚えた。彼女は非現実的な事を口にし、父親の死を話すのもまるで他人の事を話しているかのようだ。アリスは結果として彼女のそのところのその意味を知る事になる。
彼女の腕の中には、もうアリスの日本刀はない。持ち主に返して身軽になったその腕を広げ、アリスに極上の――然しあんまりにも場違いの笑顔を、惜しみなく向けてみせた。

「素晴らしいと思わない?」
「……は?」

アリスは彼女の言葉の意味が解らずに、思わず足を止める。彼女は目を疑いたくなるような喜色満面のままで、まるで宗教に浸かってしまって右も左も解らなくなってしまった人間のように、自らの言葉に一切の疑問の色を付ける事もない。彼女はアリスの当惑した表情なんて見えないように、心酔し切った顔で。だって、と続きを紡ぐ。

「悪の科学者と作られる背徳的な兵器。映画のようで興奮しちゃう」
「…っこれは映画じゃなくて、現実で起こってるんだぞ。何もしていない人間が巻き込まれて、」
「うん。でも関係ないよね。…だって」

信じられずに発せられたアリスの言葉に至極簡単に彼女は頷くと、今度は鞄を持った腕を後ろで組む。鞄に付けられたマスコットのキーホルダーは何かのアニメのキャラクターなのか、現実世界には存在しない不思議な生き物のそれだった。そうしてアリスは彼女の次の言葉で、彼女に対して存在した違和感を唐突に理解した。

「痛むのは『あたし』じゃなくて、『別の誰か』だから。」

彼女の双眸の色は変わらずに、表情も変わる事がない。彼女は他人の痛みを知る事がないし、同じ世界に居ても自分の世界と他の誰かの世界を完全に分離した。痛みや苦しみを知るアリスは他人の痛みが解る人間だったけど、彼女は反対に他人の痛みが解らない人間だったのだ。
自分と同じ価値観を持てだなんて勝手な事は云えはしない。それでも誰よりも、他人を思いやる心を持ち合わせたアリスからしたら、彼女の他人への無心とは異質なものだった。次々と彼女の口から流れて来る「エイト君も人間兵器の研究に興味があるの?」「凄くスリリングだよね」言葉に頭が揺れるようだ。
アリスは考えるより前に、懐刀の柄を右手で掴んで取り出していた。蓋が外れて銀色の刃を見せたそれに彼女が息を呑むか目を瞑るよりも早くその銀色は真っ直ぐな線を引き、
――アリスの左手首を刔った。

「…っななな、何をしているの?!」

彼女は突然の事に狼狽し、慌てふためいてアリスの左手首を見る。そこはぱっくりと切れていて、傷口からは朱殷色の血がだらりと流れていた。彼女は初めて生で見る多量の血に思わず「うっ」と呻き口元を手で押さえたが、鞄の中に絆創膏が無かったかと思ってファスナーに急いで手をかける。然しこの傷の大きさと血の量では、明らかに絆創膏でどうこうなるものでもない。包帯を買うべきだろうか、否、先ず洗うべきか。動転して頭が上手く回転しない彼女は涙目になりながら洗う場所がないものかと辺りを見回すが、アリスの声に顔をそちらに向けた。

「…他人が痛くても、確かに自分は痛みは感じない」
「え……」
「それでも溢れる血を見る事は出来るし、…その痛みを想像する事位は出来る」

彼女はアリスの言葉の意味が最初は理解出来なかったが、直ぐに自分のさきの言動とアリスの今の言動を結び付ける事が出来て、アリスの言葉の真意を唐突に理解する。確かにアリスの血をこうして目で視認する事は出来るのだし、その痛みが解るからこそ『自分は今慌てた』。でも、それを云う為だけに、彼は自分の左手首を切ってみせたと云うのか。…彼女は傷口を改めて見るとその覚悟に恐怖すると共に、自分のさきの「人間兵器に興味があるの?」の発言が、とんだ誤りであった事を悟る。人間兵器を作る悪の科学者達が居るのなら、正義の何者かの団体があるのもまた道理だった。
彼はライトノベルから出て来たキャラクターではなかったのだ。

「…でも、痛みを感じない事実は確かに変わらないよな」

アリスのその言葉が自棄に力なく聞こえ、彼女は顔を上げた。アリスは踵を巡らせると彼女に何を云う事もなく、何処かへ繋がる道を歩き出す。その姿を見ると彼女の引いていた血の気が突然戻ってきたようで、アリスの右手を渾身の力で掴む。そうして驚いて振り向いたアリスの右頬を、
――思い切り、平手で打った。
アリスはどうしてビンタされたのか解らずに痛む頬を押さえかけたけど、眼前の少女の双眸からは大粒の涙が溢れているものだからぎょっとする。彼女は強く自分の目元を右手で擦ると、アリスを睨みながら歯を剥き出しにして、

「な、舐めないでよっ。あたしだってそこまで冷徹な女じゃないんだから」
「は、え……」
「目の前で手首切られてまで云われた言葉に、心動かされないとか有り得ないって云ってるの!」
「待った、泣くなよ、」
「大体頭可笑しいんじゃないの?! 何で自分の事大切に出来ないの?!」
「解った、悪かった、変なもん見せた」
「論点はそこじゃないわよ莫迦ッ!」

彼女は怒っているのか何なのか、矢継ぎ早にそう云うとアリスの右腕を掴んで真っ直ぐに歩き出す。何処に向かうのかとアリスが聞く前に、彼女は涙と怒りで真っ赤になった顔をアリスに向ける。女の子の前で血を出してみせたのは失敗だったかとアリスは矢張りズレた事を思ったけれど、そんな中で彼女がぶっきらぼうに口にした言葉は。今のアリスには、何よりも有り難く感じられた。

「……『痛いだろうから』、早く手当てするわよ」







それから日が暮れて、アリスは彼女と別れた。彼女は落ち着くと恥ずかしそうな顔をして、何がとは云わなかったけど「ごめん」と小さな声で謝った。アリスもアリスで泣かせてしまった事や血を見せてしまった事に罪悪感があったので自分こそと謝ったのだけれども、そっちは謝らなくて良いの!と大声で叱咤されてしまった。
…別れる前に、彼女は鞄からチェーン付きのピンク色のケースを取り出した。見るとそれには白衣を着た人物が何人か写ってて、背景には研究所のような建物が見えた。
聞けばそれは父親の写真であり、唯一の父の写真なのだとも云って彼女は右から二番目の男性を指差した。周囲に比べて未だ若く、彼女と同じく銀色の眼鏡をかけていた。彼女は笑顔を作ったが、赤くなった目からはまた涙が流れていた。
彼女の父親は、研究所の在るアメリカに行ってしまって滅多に会う事もなかったのだと云う。今まではお父さんの仕事は名誉だと思っていたし、彼の仕事中の死もまた意味のあるものだと信じていたけども。

「…研究が悪なんだとしたら、お父さんの死って何の意味があったのかな」

泣きじゃくる彼女の姿は弱々しくて、アリスは眉を下げて彼女の小さな頭を撫でた。彼女が全ての事象から距離を保つ事で自分を守っていた事を知らずに、残酷な事をしてしまったろうか。
写真を返そうとしたアリスに、彼女は首を横に振ってそれを断った。大切なものなのだと解ったのでアリスは貰う訳には行かないと云ったけど、彼女は尚も首を横に振る。お父さんを捜しに来た位だから必要なんだろう、自分はネガがあるから大丈夫だとも。研究に関する資料なんてないけれど、それだけでも役に立てるならどうぞと彼女は云った。アメリカで撮られた写真のネガなど彼女が持っている筈もないとアリスが気付くのは日本を発った後で、彼女の白い嘘に助けられた己を顧みては不甲斐なさと多大な有り難みを感じた。

彼女に最後名前を告げた際、彼女はアリスの名前を「女みたい」と笑った。最早馴れた事なのでアリスはダメージはさして受けはしなかったけど。

「…でも、似合うね」

彼女が心からの笑顔でそう云ってくれたので、喜ぶべきなのか、複雑な顔をするべきなのか解らなかった。
アリスはけれど彼女の笑顔が綺麗だったと思いながら、白兎の門を潜る。薔薇園を抜け屋敷の中へと入り、白兎で一番豪奢な作りをしたクイーンの扉をノックすると、誰とも聞かずに許可するクイーンの声がしたのでアリスは扉を開けた。中に居たクイーンは相手がアリスだと解ると途端に慌て、そうして髪の毛を手櫛で梳かしながらも刺々しい対応でアリスを歓迎する。

「なあに、早いじゃない。一週間も経過してないのにもう帰って来たの?」
「ああ。目的の人物本人は死んでいて会えなかったんだが、写真を貰ってきた」
「写真?」

ソファーに横になりながら愛するペットのイグリアータの頭を優しく撫でていたクイーンは、身体を起こして写真を渡すようにと、右手を伸ばす。イグアナの彼女の頭には高級なリボンが巻かれていて、クイーンの寵愛が窺える。彼女は他のイグアナよりも別嬪なのだと嬉々として話すクイーンに他のイグアナと何にも変わるところがない、とアリスが云ってそれから喧嘩になったのは、未だ記憶に新しいものだった。
アリスはクイーンに近付くとピンク色のケースごと写真を渡したものなので、クイーンは女物のそれを不審がってエメラルドの瞳を細くする。然し言及するのはやめたのか、黙って写真をじっと見つめると、

「彼はどれ?」
「右から二番目」
「どうして亡くなってたの」
「仕事中に、と」
「…実験モルモットにでもされたかな」

この仕事内容で仕事中に亡くなっただなんて、それしかアリスも思い浮かばなかった。だとしたら写真に写った全員死んじゃっているかもね、とクイーンは落としたトーンで紡ぐ。
アリスが髪の毛を耳に掛けようと左手を上げた際、クイーンはアリスの手首に巻かれた白色の包帯を見た。その包帯はアリスが彼女から巻かれたものであり、馴れないからか実に不器用に巻かれていた。アリスの手首から視線を外すとクイーンはソファーから立ち上がり、デスクに掛けていた黒檀のステッキを持って腰に手を当てる。

「…まあ、情報屋としてのジャバウォックに協力を頼もう。梦海のデータも消えていたから期待は出来ないけど…、…この写真の場所は何処かな」
「アメリカだと」
「僕にそこまで飛ばせるなんて、人間兵器のふざけた責任者は一発殴るだけじゃ済まないね」

どうやら今度はクイーンがアメリカに発つようであるのだが、クイーンの口調はまるで英国内を少し旅行でもして来るかのような軽いものだった。女王様の感覚は、家庭環境の違い過ぎるアリスのような人間が理解出来るものでもないのかも知れない。
扉に手を当てて部屋を出ようとしていたクイーンは、そこで今し方思い出したように「ああ、そうそう」とアリスの方を見る。てっきり何時もの厭味か何かかとアリスは思ったけれど、アリスの黒闇の双眸と目を合わせた彼が発したそれとは予想をしなかったものだった。

「ラビが凄い高熱なんだ」
「……は?」
「君が帰る前に帰ってきていてね。自室で寝込んでるよ」
「アイツが?」
「意識も朦朧としていて相当みたい。じゃあ僕は行くけど、君、包帯はもう少しマシに巻きなよね」

クイーンにステッキの石突で左手首を指され、アリスが自分の左手を見た隙に彼は扉から居なくなる。アリスは自分の包帯よりもクイーンの言葉の方が気になって、ラビは確かアイルランドに行って来た筈だったと思う。莫迦は風邪を引かないとよく云うけれど、あれは矢張り嘘かとアリスは失礼な事を思う。
それにしても、あのラビが熱で寝込むとは酷く滑稽だし良い気味だ。ざまあみろとも思うし、日頃の不純な行為の数々の罰が当たったのだとも思う。ラビが熱でうなされている限り白兎の秩序が乱れる事もないし、寧ろずっと寝込んで貰って構わない程だ。
アリスは何だか爽快な気分になってクイーンの部屋を出たけれど、そのまま通路を歩いていると自分でもよく解らない感情が渦巻いた。そうして不服ながらも考え込んだような顔をして、自分の部屋のフロアではないフロアで階段を下りて行く。

風邪の時はイングランドでは玉葱とジャガ芋のスープを食べるんだったか、アリスはぼんやりとそう思った。



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