怪物とバーバリズムV 正確な時期は確かではないが、それでもジャバウォックは十になる前に煙草を吸っていた。 法律を破り煙草を吸う彼を、咎めるのは周りに居なかった。そのような綺麗事を云えるような環境ではなかったし、云うという観念すら彼等にはなかった。そもそも、煙草を吸う彼よりも、労働者を鞭打つ富豪の方が問題だったのだ。 きっかけは何かは知らない。気が付けば吸っていた。 何故吸うかも解らない。身体に害しか与えぬ事は重々承知していたが、何となく吸っていた。小さな反抗心かも知れなかった。この下らなく救えない世界が定義するルールとやらに対する、些細なデモクラシーの心境。 或る日、ジャバウォックの母親が双子を産んだ。生まれたのは小さな弟と妹で、彼はその日から兄になった。 ジャバウォックはそれから煙草をやめた。学校には当然通っていなかった彼だったが、母親の前でも吸わなかった彼は、副流煙と主流煙の違い及びその害の相違を正しく理解していた。衣服に染み付く煙草の臭いすら与えてはならないと、ジャバウォックは考えた。 怪物は、怪物なりに双子を愛そうとした。 「…昔の夢を見たよ」 そう呟くジャバウォックに、男は眉を顰めた。抵抗なしと見なされたジャバウォックはあの部屋から出る事を監視つきと云う条件で許されて、今は夕食のパイを監視室で食べているところだった。ジャバウォックがモニターを見てみると、子供達が不器用に笑い合いながら、鶏肉の入ったオニオンスープを食べているところであった。ちゃんとしたものを食べさせなければ云う事なんて聞いてくれないよ。そうとの言葉を男達は信じ難くはあったものの、背に腹は代えられなかったのか。あれから食事を出すようになり、子供達の痩せこけた身体は徐々に丸みをおびるようになった。 「怪物に過去なんてあるのか」 「…おにーさん達は一体俺を何だと思ってるの」 「で、調教でも洗脳でも名目は何でも構わんが、後どれ位かかる」 「………」 男の言い分が気に喰わないのかジャバウォックは、男に不満そうな視線を向けたものの、無駄だと早々に悟るとソファーに益々深く座る。そうして「本当は1ヶ月はかかるところなんだけど」と呟くとフォークを口に銜え、右手を広げて男に見せた。男は意味が解らぬようサングラスの下の目を細めたが、次のジャバウォックの言葉を聞いて、今までで1番の極上の顔を見せたのである。 「後5日ってところかな」 ジャバウォックが此処に来てから、既に3日が経過していた。 ジャバウォックが白兎に帰らなくなってから、3日が経過した。ドルダムもドルディーも3日となると泣き疲れ、今は目を赤くしながらジャバウォックが買ってくれた絵本を読んでいた。双子が兎も角も落ち着いた今、アリスは抜けられない仕事に行っているところだった。 そんな中クイーンとラビは大広間に居た。クイーンはスコーンを横に割るとクロテッドクリームを塗り、それを小さな薄い桃色の口に含む。ラビはショートブレッドを食べていて、2人は赤と金のトランプを各自の手に持っている。どうやらポーカーをしているようで、3日前にラビにチェスで負けたのを、クイーンが気にしてのリベンジなのだろう。 ポーカーをしながら話題に上るのは勿論ジャバウォックの事であり、主にクイーンがジャバウォックが居ない事での不利益を述べて会話は進んだ。話しながら、クイーンは初めてジャバウォックとした会話を思い出す。グリムの依頼の為に、白兎に招いたのが始まりだった。握手を終え仕事の話をする時もヘッドフォンを外すそぶりのない彼に不快感を覚えたのを、クイーンはよく覚えている。 『――…君、話す時はヘッドフォン外してよ。失礼だ』 『え? ああごめん。これ補聴器なんだ、耳が聴こえなくてね』 『…へえ。何でそんな形なの?』 『解りやすい補聴器だとさ、一々耳が聴こえないのか、戦争の所為かと云われたりするんだよね。それが面倒で。』 『それは、気の毒に』 『それと中途失聴者と解ると少し不利な事もあってさ。裏は信用出来ない』 信用、ね。 クイーンは口の中でそう云うと、手元のハートの女王のトランプを見ながら小さくラビへ向けて沈吟した。 「僕ね、1番信用していないのはジャバウォックなんだ」 「…何故?」 「何故って簡単な理由だよ、彼は白兎の人員じゃないからね。グリムの為に置いては居るけど、彼は此処に居るだけ」 ラビは思いがけないクイーンの言葉に驚きを隠せずにいたが、クイーンは至って今日の朝食に出たスクランブルエッグの話でもするような様子であり、少なくとも内容とそぐうような姿ではない。角砂糖1つを鮮やかな色の紅茶に入れて、口元にティーカップを当てながらクイーンは続ける。 「だから、彼が裏切る可能性は大いにある。僕等の情報を奪うだけ奪っておサラバ。情報屋の彼からしたらそっちのが余程有益だろうし、そもそも裏切りですらない。だって僕等の間では、一切の契約はないから」 成る程と話を聞いたラビは思う。詰まりクイーンが云っている説は『ジャバウォックが故意に蒸発した』であり、それは確かに利益の面から考えると非常に納得出来る話ではあった。 それでも、とラビは思う。そもそもが裏切りではないとは云え、ジャバウォックがそんなに簡単に手の平をひっくり返すような性格をしていただろうか。仲間に対する意識は勿論グリムに対する感情も虚偽のものとは思えぬし、双子を置いたままなのも信じ難い。蒸発と云うよりはトラブルに巻き込まれたと考える方がラビは自然に感じたし、利益ばかりを追求する人間には思えなかった。ラビはある程度、自分の人を見る目と云うものに信頼を置いていた。 「…でも、彼は今は白兎から消えたりしてはない」 「双子が居るからかい?」 「それもだけど、もっと話は簡単だよ」 クイーンが否定を入れた理由とは、どうやら双子の他にあるようだ。それではグリムかと思ったが、クイーンはラビが云う前に「勿論グリムでもなくて」と苺ジャムをスコーンに塗りながら否定する。とすれば矢張り性格的なものとでも云うのだろうか。ラビが不思議に思いながらロイヤルミルクティーを呑むと、クイーンは答えを口にする。 然し答えを聞いた方が、ミルクを忘れたブラックの珈琲のように益々不可解さが濃くなってしまった。 「彼は僕のプリンを食べたままなんだ」 同日の同時刻の事だ。グリムは放送室の鍵を右手に、放送室の前に立っていた。合鍵含む白兎内の全ての鍵を掌握しているのは副幹部であるグリムで、この放送室とて例外ではなかった。 グリムが此処に来たのは他でもない、『彼』についての情報を得る(端的に、美化しないでそのまま云うなら盗む)為だった。 放送室の主である放送局長が不在な時に放送室に入る事は気が咎めないではなかったし、情報を盗み出す事に罪悪感が働かないではなかった。何よりジャバウォックが突然帰って来て自分の犯行がバレてしまった時の事を考えると、気は進まなかった。だからこそこうして放送室に来るまでに3日かかったし、今でも中に入られずに放送室の前に居る。そして何故バレた時が怖いのかと云うと考えなくても解るものであり、『流石に嫌われてしまうだろう』と云う恐れがあった。 グリムは矢張り止めようと踵を巡らそうとしたが、然しそこで立ち止まる。ジャバウォックは『彼』についての情報を自分に一切教えてはくれず、状況は一切進行してはいないじゃないか。何より『彼』しか愛さないと決めた自分が、どうしてジャバウォックの気持ちが変わる事を怖がるのだろう。あんな迷惑でしかない気持ち、変わって結構ではないか。 後者についての理由など自分が1番よく解り、グリムはそんな自分に業腹した。こんな事で揺れてどうするのだと握った拳に爪を立て、放送室のノブに鍵を差し込んだ。この行動は彼の情報を得る為と云うよりは、何時までも迷路で迷ってばかりの自分をどうにかしたかったが為の行動かも知れない。それが例え蛇が出る道だろうと、茨の道だろうと。 グリムは扉を開けて、その部屋の汚さに驚いた。麒麟の縫いぐるみや雑誌やお菓子の箱が床を覆い尽くしてしまい、足場が実に不安定な状態だ。一瞬怯んだけれど、踏まないように気を付けながらグリムはパソコンへと向かった。 幾つかパソコンがあったが迷わず真ん中の白色のパソコンを起動させ、起動時間の合間に本棚へと視線を向ける。本棚には心理学の本や医療の本、ファイルが沢山あって、この中に何かないだろうかとグリムは1冊のファイルを手に取った。黒色のそのファイルを開くと囚人服を着て身長表の前に立った人間のマグショットとそのプロフィールが事細かに書かれてて、どうやら犯罪者専用のファイルらしかった。 その時パソコンの起動が完了し、グリムはファイルを机の上に置くとパソコンのモニターを見た。そして黒色の画面に浮かぶ緑色の文字を見て、グリムの顔が青ざめる。 『パスワードを入力して下さい』 「…ッパスワード…?!」 パスワードだなんて予想もつかないグリムは愕然としたが、考えたらそんなものは大切なパソコンにかかっていて当然のものだった。自分の迂闊さに奥歯を強く噛むが、1度踏み込んでしまったのだ。此処で引く訳には行かず、グリムは考える間もなく素早くキーを叩いてジャバウォックと双子の誕生日を入力する。 然し『パスワードが違います』と云う緑色の文字と泣き顔の縫いぐるみの熊のイラストが出てしまい、今度は逆算してグリムと双子の生まれた年を入力する。それも駄目で、イタリアの解放記念日も駄目だ。こんな単純なものではないのだろうかとグリムは焦燥するが、パスワードを書いた紙を何処かに置くだなんてあのジャバウォックがするとは思えない。此処までかとグリムが諦めかかった時、ふと1つの考えが浮かぶ。 …まさか、自分の誕生日を入れてたりはしないだろうか。とんだ自惚れで有り得ないとは解りながらも、今の状況では試してみないよりは試してみるべきだった。先程の俊敏なタッチとは違いゆっくりと自分の誕生年月日を押す。 そうしてエンターキーを弾いたが、 『パスワードが違います』 モニターに出た文字を見て、それはそうだとグリムは思う。莫迦な事を試したものだと忸怩たる思いを抱いたが、そこでふともう1つパスワードの候補に思い至る。その8つの数字を押して、エンターキーを押した。 すると真っ黒な画面が白へと替わり、映るは『パスワードの認証に成功しました』と云う文字と、縫いぐるみの熊が笑顔で飛び跳ねているイラスト。グリムは逸る気持ちを抑えてマウスに手を伸ばし、ファイルが画面に出て来るのを待った。その時だった。 『グリムたん、何をしているの?』 グリムの肩が、びくりと震える。鍵をかけ忘れていた自分の迂闊さを悟りながら、見なくても解る声の主を見るべく後ろを振り向いた。 ――扉の前に居たのは互いに手を繋ぐドルダムとドルディーで、双子は奇妙な侵入者をじっと水色の双眸で見ていた。パソコンが起動しているこの状況で、言い訳など出来そうにはない。何を云うべきか決めかねているグリムの後ろのモニターを双子は暫く眺めたが、それから視線をお互いに向け、仲良くぐりん、と首を傾げてみせる。 「グリムたんがパソコンを弄ってるよ」 「本当だね。どうしようね」 「あのグリムたんだもんね」 「お兄たんが大好きなグリムたんだもんね。」 「でもお兄たんはパソコンを弄る事を誰にも許可してないよ」 「そうだよね、大切なものだもん」 双子は同時にぐるり、と首を回してグリムを見る。その瞳は品定めするようなものであり、そう――正に裁判官が判決を下す時のような、死刑執行人が囚人を斬首するか考えているような。 グリムは云いようのない恐怖に見舞われて、無意識に一歩後退する。双子が恐ろしい理由を失念していたが、『彼等は子供故に純粋無垢で恐ろしい』。戦地で子供の兵が怖がられるのは、何が引き金になってどのタイミングで敵を奇襲するか、大人では解らないからだ。彼等子供は理性で動くのでは決してないのだから。 双子はグリムを数秒見た後で、小さな唇を動かして。 全く同じ結論を紡ぎ出した。 『まあ――、誰でもいっか』 「…ッ?!」 双子は右手と左手に、鋭利なトレンチナイフを握った。 「プリン?」 腰までの黒髪を2つの三つ編みにしたメイドが、スタンドへと焼きたてのスコーンを置く。そうして薔薇のティー・ポットでクイーンのカップに新しい紅茶を入れて、ラビのカップには新しくロイヤルミルクティーを注ぐ。メイドは深々とお辞儀をすると後ろへ下がり、完璧な所業でブーツを鳴らしながら厨房へと戻って行った。 ラビの不可解さを包含する言葉に、クイーンは「そう」と澄まして紅茶の香りを嗅ぐ。檸檬の甘酸っぱい香りがふんわりと立ち込めて、心地好かった。 「彼は変わっていてね。どうでも良い情報こそ高額で売る癖をして、些細な、例えばプリンだとかの借りがあると必ず恩として返すんだよ」 「だから消えたりしないと云うのか。然しそれだけじゃあ」 流石に子供でも買えるようなプリンだけで裏切りは有り得ないと云われても、それは信用しろと云うのが無茶ではあった。未だ彼の人間性からして有り得ないと云われた方が余程信用出来るのに、よりによってプリンとは。 ラビは複雑な気分でショートブレッドを口に含む。然し女王は忠臣である側近の心情などどこ吹く風であり、自信満々に言葉を紡ぐ。尤も、こうでないと彼は女王の称号を維持し得ないのだし、白兎のナンバーワンを誇れもしない訳なのだが。 「断言するよ、彼は帰って来る。大方面倒事に巻き込まれたか、遊んでるだけ」 「ッく……!」 白兎、通路。数々のナイフが床やシャンデリアや壁を次々と襲撃し、慌ただしくも凶悪な音が紡がれる。 双子がグリムを走って追い掛ける姿を見て白兎の者達は一体何事かとざわめくも、咎める者は誰1人として居なかった。双子は助走をつけて跳ぶと壁を思い切り蹴り、空中で回転して斜め上の角度からナイフをクロスの形でグリムの頭目掛けて投げた。それを屈んで避けるとグリムは左へと曲がり、壁際に佇んだ甲冑が右手に持つレイピアを素早く掴む。ドルディーが投げたナイフを振り向きざまにレイピアで床へと弾き、グリムは反撃もせずまた走って逃げる。 双子を攻撃する気になれなかったのは彼等の凶悪性をしかと把握するグリムなのだ、相手が子供だからと云う理由では決してないだろう。では仲間であるからだろうか。それもあるかも知れないが、グリムが少なからずとも『自責の念』を持つからに他ならない。 グリムは目の前の部屋の扉を開けて、内側から急いで鍵を掛ける。扉に幾多ものナイフが刺さる音を聞くが、ナイフだけでは打ち破れはしないだろう。グリムは溜め息を吐き、レイピアを床に落とす。 取り返しのつかない事をした。出口の見当たらない迷路に迷いながらもこれまで発狂しなくて済んだのは、迷路の中では皮肉にも関係性と云う秩序が守られていたからだ。 己が選択した癖に、グリムが頭を抱えたその時だ。 カラン、と渇いた音が扉の前でした。そしてゴトン、と云う重たい音と、双子が走って居なくなる音。グリムは一瞬何の音か解らずにいたけれど、双子の武器が『ナイフだけではない』事実を今此処で思い出し、洒落では済む筈もない次元に顔が一気に蒼白になる。 選択肢はもうなくて、グリムは前の窓に向かって走る。鍵を開け、『此処が何階である事も厭わずに躊躇なく窓から外へと飛び降りた』。 次の瞬間、目を潰す程の光がそのフロアを覆い尽くし。 耳を潰す程の爆音が白兎中に鳴り響き、暴風を引き起こしながら上と下を巻き込むフロアが爆発した。 TURN THE PAGE |