白兎X




ある日、アリスは放送室に向かった。ジャバウォックと云う名前の人物が陣取る部屋である。彼は白兎最年少の双子ドルダムドルディーの兄であり、白兎にはある事情で今は居るだけで、本来白兎の人間ではないのだそう。彼の本職は『情報屋』であるそうだ。
アリスは話した事は今まで無かったが、イタリア人の彼は気さくな人物であると聞く。見目も大体は覚えてる、アリスは放送室の扉をノックした。数秒して扉が開く。

「はいはーい……、あれ、えーと、アリス君だ」
「こ、こんにちは」
「畏まらないで良いよ。珍しいね、どうしたの。まあ上がって」

アリスを迎えたのは、朗らかな笑顔をした1人の好青年だった。黒色のスモーキングジャケットを羽織った彼の耳には、ヘッドフォンが着けられている。アリスは彼を何度か目にした事はあったけれど(特に彼はその格段垢抜けたスタイルでよく目立つ)ヘッドフォンを外した姿は見た事がなかった。放送をする上で必要なのだろうかと、放送のいろはをも知らぬアリスは漠然と思う。
ちょっと汚いけど。そう付加されて案内された放送室の中は「ちょっと」どころではなく、アリスは流石に動揺を隠せなかった。原色を使用したスピーカーシステムの上にはグミが入った袋が置かれ、床は雑誌やアメリカ映画のフィギュアで埋もれている。様々な器具のコードは複雑に絡まり合い、子供用の玩具箱は中身と共にひっくり返ったままだった。
此処で本当に生活しているのかとアリスは思ったが、平然としている辺りからもどうやら誠であるようだ。ジャバウォックは椅子へ腰掛けて、アリスにも座るよう促した。雰囲気に気圧されながらも、大人しく座る事にする。それにしても人は見かけでは解らぬものだ、ああまでお洒落な人物の部屋がこうも散らかっているとは考えもしなかった。それでも散らかるものも全て、お洒落と云えばそれまでだが。

「さて、どうしたの? 遊びに来た?」
「ある人を捜して欲しくて」
「…依頼か。どんな人?」
「大日本帝国で小さかった俺の世話をしてくれていた人なんですが、外国に」
「売られた?」

アリスが首肯すると、ジャバウォックは少し悩むそぶりを見せた。然し直ぐに立ち上がり、パソコンの前の回転式の椅子へと座る。キーボードの上で散乱した書類を床へと落とし、電源を点ける。そして恐竜の頭の形をした瓶から棒付き飴を1つ取ると、その袋を破きながらアリスへ話しかけた。

「名前と容姿は?」
「名前はノエル、長めの黒髪で痩せ型の…瞳も黒で、温厚そうな女性」
「…大日本帝国出身は珍しいから見付かるとは思うけど」

ジャバウォックは点いたパソコンを、素早くブラインドタッチしながらそうぼやく。メロン味の飴を口内へと含み、画面を真剣な顔で覗いた。今更だがアリスは放送室のシャンデリアが一風変わったものである事に気が付いた。黒色のそれは縫いぐるみやフィギュアを大量にくっつけていて、オブジェクトのようだった。人員の部屋を含め全てが伝統ある英国式の装いの中、この部屋だけは異空間のように思えた。文明は一切廃れてなく、革新的な部屋だった。
ジャバウォックは左手だけをキーボードの上に残し、アリスへ右手を振る。

「少し時間かかると思うから、また解ったらお兄たんから教えるよ」
「…あ、お金は…」
「初回無料、利子は0%の安心と信頼のジャバウォックです」

彼は人当たりのよさ気な笑みでそう云ってくれるものだから、アリスは恐縮しながらも甘えて礼を述べる。

ジャバウォックが情報屋で人を捜しもしてくれると聞いた時、アリスはノエルの事を頼もうと決めたのだ。自分の所為で異国の方へ売られてしまったノエルの事はずっと頭に引っ掛かり、どうにかして情報を得たいとは思っていた。そこへ行くと、ジャバウォックの存在は僥倖だ。彼女が今どうしているのかは、気になるところだった。
アリスは放送室を後にして、今から仕事へ向かう準備をしようと思った。馴れもすれば英語もほぼ完璧なアリスに仕事は段々回されるようになり、葬式を始めとしてクイーンからご命令が下るのだ。それを貰えるのが嬉しかった。






数日して、ジャバウォックがアリスの部屋を訪問した。ジャバウォックはアリスの部屋を見ると、「綺麗だね」と笑って云う。それは彼の部屋と比べたら誰の部屋だって大抵綺麗ではあるだろうとアリスは思ったが、それは勿論口にはしない。デニムジャケットを羽織ったジャバウォックは、一枚の紙をアリスへ手渡した。

「情報。彼女は米国の大きな屋敷に売られたそうだよ」
「……米国…」
「工業が発達した都市だ。裕福な家庭で、幸せに暮らさせて貰ってるって」

アリスはそれを聞き、安堵で全身の力が抜け行くのを自覚した。非道い所で奴隷の如く働かせられていたらと思うと胸が酷く痛んだが、裕福な家庭であるならきっと元の自分の家よりも良い待遇をして貰っているのだろう。幸せと聞き、アリスは良かったと息を吐く。これで悪い所であるなら自分が向かって彼女を何とかしようとも考えない訳でもなかったが、幸せなら自分は反って行かぬ方が良いだろう。もう彼女は自分を忘れたがっているかも知れない、過去の何かが彼女の今を脅かせるのは止めておこうと思った。彼女とは会いたくはあったけど、彼女の幸せを優先すべきだった。
アリスがお礼を述べると、ジャバウォックは何て事でもないよと陽気な顔で手を振ってくれる。白兎に居る人達は大抵が良くしてくれる人だった。

「…ところでアリス、その机上のものは?」
「え……あ、」

アリスはすっかり失念していたが、今は手紙を広げていた。それは部屋の扉の隙間に挟まれていた手紙であり、差出人の書かれてはなかったもの。隠そうとアリスは内心で焦燥したが、アリスより早くジャバウォックは机へ行くと開かれた手紙を手に取った。そうして手に取らなくても「机上のものは?」と尋ねた時点で文面が見えて大体を察せていたのだろう、ジャバウォックは少し手紙へ目を通しただけで笑う。

「…何これ、鼠の血? こんな暴言を血文字で送られるなんて、凄い恨み買ってるね」
「……」
「字からして女の子かな。やー、女の子も過激で怖いものだね」

ジャバウォックの右手でしなだれるその手紙には、血文字でびっしりと『ジャップのくせに』等を始めとした恨み言が書かれていた。それを見た時はアリスも流石に驚いたが、然しそれは前までの話だ。頻繁に手紙が送られるようになってからは大して気にもならなくなったし、今では出される手紙も少なくなった。不特定多数から送られて来るのだ、今や動じていたらきりもないだろう。恋愛にそこまでのパッションを持てる彼女等に、今では一種の羨ましさと微笑ましさすら覚える程だ。
気にしてないとアリスが云うと、ジャバウォックは笑う。

「気にしてたら大変だもんね。これはラビを好きな女の子達からかな?」
「……どうして、」
「解るかって? 答えは簡単、アリスがラビと仲が良かった時、女の子達が頻りにアリスへの悪口を云っていた」

アリスも原因は解っていた。ラビが人気者とは本当のようで、(アリスが知るところではないけれど)今まで特別に親密な仲の関係を作らなかったラビと初めて親密な仲を築いたアリスを恨む者は多かった。そしてラビとの距離が離れてから手紙が少なくなったのは、それを裏付ける証拠ですらあった。

――あれ以来、アリスがラビを敬遠するようになった理由だが、恣意的解釈を加えると、此処にはあのジャバウォックとグリムの関係と近しいものを感じ取られるのではないかとも捉える事が出来る。グリムが彼を厭う理由だが、そこには己の脆弱さが関与する。同様に、アリスもまたラビと親密な仲に再び戻る事でかつて持った感情もが戻る事を恐れているのではなかろうか。
これは個人的見解に過ぎないし、誤りであるかも知れない。然し普通の友好を築く行為は何らアリスからしたら支障のあるものでなく、特別に忌み嫌う必然性もあるまいからだ。然しながら、彼が無意識の内の呪縛を持たぬのならまた話は別かも知れないが。
もう一つ付加するなれば、『誰にでも手を出す』との植え付けられた誤ったイメージへの嫌悪感や『自分もまた只のその他一人でしかなく、遊ばれる手前だった』事へと憤る、矜持が関与する事も勿論あるだろう。アリスは特別になりたい感情が特に強かったし、するとラビの態度はふざけ過ぎていた。そんな彼を好きになってしまった自己への自己嫌悪も無論ある。そしてラビと一緒に居る(しかも熱っぽい視線でラビを見る)誰かを見る度にかつての自分を重ならせて昔の自分の愚かさに腹を立てると同時、ふざけたラビへ苛立ちを覚えるのだ。アリスの感情もまた大分(だいぶん)複雑なものだった。

さて、グリムが拒否するのは大前提に恋慕する者が居るからだ。そしてアリスも、恋慕する者が出来た。クイーンを好きになってしまったし、その感情の名前が違う事があったとしてもアリス自身は錯覚を起こしたままなので、それは矢張り揺るぎのないものであろう。

アリスとラビが今後何らかの関係を持つ事は、限りなく0である。



アリスはジャバウォックの前で手紙を破き、ごみ箱に捨てて呟いた。

「…血を採られた鼠達はどうなったんだろう」

ジャバウォックは少し考えたようだったが、直ぐに愉快げに云うので、アリスは思わず哄笑した。このような嫌がらせで鬱結すると彼女達から思われたのならそれは不本意も不本意だし、実際そこまで弱い事は有り得ないだろう。

「――怖いお姉様達が食べちゃったかもね!」







それから数ヶ月が経つと、ケイティと云う名前の少年が白兎に入って来た。彼はアリスのよう同じく門から入ったが、道場破りの如く入って来た。門番であるプリケットを気絶させ、白兎の中の1番の巨人をナックルで叩きのめしたのだ。白兎の中は一部崩壊し、何とか意思疎通をして事なきは得たものの、クイーンは頭を痛めた。同じく門から来た加入希望者なら、幾分アリスの方がマシだった。おまけにアメリカ人だと述べるケイティは英語が話せるのに、実力の程を見せてくれる為とは云えあの加入方法はないだろう。尤もケイティの英語は相当訛ったものであり、英語を遅く修得したアリスの方が余程綺麗だった。
白兎では幹部と副幹部のクイーンとグリムを始め、古株で元軍人のラビと日本人のアリス、馬鹿力のケイティの実力が抜きん出ているものなので(この5人の中でも実力の差はまたあるのだけれども)何時しか誰が云い始めたのか、纏めて5使と呼ばれるようになった。
何だそれはとアリスが呆れてクイーンに尋ねると、クイーンはスコーンにクロテッドクリームを塗りながら「キリストの12人の弟子、十二使徒を捩っているのだそうだよ」と単簡に答えた。アリスが尋ねたかったのはそこではなかったが、それ以上の回答は望めなさそうだったので口を噤んでおいた。

女王様の『お目付け役』及び『5使の1人』と云う官職を与えられたアリスは全人から認められ得る仕事の量と優れた言行をするものなので、その頃は一部からの妬みによる誹謗や中傷も云われなくなった。差別意識の高い英国だが、認められ得る実力と、最高権力者である女王様のご寵愛を兼ね備えていれば文句の付けようもなかったのだ。
とは云え門番を始め白兎の女の子達から不機嫌に睥睨される事は少なくないのだが、アリスはそこはもう諦めた。傍から見れば自分がラビに対して恩知らずに見えるのは理解していたし、それでも態度を変える気もなかったから仕方ない。勿論こうまでラビが好かれているのも、矢張りあの人格の為せる業なのだと云う事も、痛過ぎる程理解していた。ふざけた奴だと嫌悪する裏で、自分の英語の会話能力は確かに彼のお陰だったのは事実だ。そしてこうまで強く複雑な感情を抱くのも、あの時確かに彼に抱いていた感情は、恋だったからだ。アリスの初めての恋だった。

それから早いもので幾つかの月が流れ、こうして現在に至る。






「アッリッスウウウ!」
「ぐあっ!」

ある者は新聞を読み、ある者達は談笑し、ある者は紅茶を呑みケーキを食べる大広間。
紺色のトリコットストライプのベストを着たジャバウォックが、後ろ側からアリスの首に左腕を回し己の側へと引っ張った。すると見事首が絞まったアリスは恨めしげに彼を睨んだが、然しジャバウォックは悪びた様子は微塵も見せずに嬉しそうにハートを飛ばしながら、アリスを抱き抱えた体勢のままで右手に掴んだものを見せびらかす。

「見て、これ」
「…何だそれ。ブーケ?」
「当たり。ハートの形のブーケ。超可愛くない?」

ジャバウォックが見せたのは、右手に持つ小さなブーケである。桃色の薔薇で形作られたそれはハートを象っており、下で結ばれたリボンがまた綺麗であった。アリスの返事を待つ前に、ジャバウォックはマシンガンのよう言葉を矢継ぎ早に発する。

「グリムにあげるんだ、この前薔薇が喜ばれたからね。アリスも羨ましいかも知れないけどごめんね、お兄たんグリム以外見えないから」
「…グリムも可哀相にな」
「超失礼。そんな強がらなくても良いよ?」
「お前は本当……。と云うか苦しい離せ。ヘッドフォンのコード引っ張るぞ」
「わあ勘弁」

首から腕を離されて、アリスは呆れと安堵の両方を込めた息を吐く。然しジャバウォックの一方的な惚気は未だ続き、こうまで溺愛されているグリムへ同情を寄せつつも、それでも何処かしらで思うのだ。グリムが厭であろうとも、こうまで一途に愛されるのはきっと幸せな事なのだろう。
然しそれはまた別として早く解放してくれないだろうか、とアリスが困っていた時である。あ、とジャバウォックが声を出した。

「女王居る」
「え」
「ほら、遠くの席。ところでアリスは女王に何かあげないの」
「何をだ」
「洒落っ気ないなあ。花でも良いし、あ、キスとかしたら喜ぶかもよ」
「莫迦」

アリスはジャバウォックの顔を引き剥がし、頭に軽い拳骨をお見舞いした。放たれるクレームを無視し、アリスが彼から離れようとしたその時である。再びジャバウォックが声を出す。

「あ、ラビはっけーん。ちょっと自慢して来る」

どうやらラビが大広間に来たらしい。アリスの肩が軽微に震えたが、アリスは扉側は見なかった。
扉側を指差して、ラビの名前を呼び今度はアリスから離れようとした時だ。行く前にジャバウォックは足を止めるとアリスの方を振り向いて、相好を崩して尋ねる。

「アリスも行く?」
「…あ、いや、…俺は、クイーンの方に行く」
「そう? ベッタリだね。最初はラビと仲良かったのに」
「む…昔だ」
「まあ恋愛は大切だよ。じゃあね」

去り行くジャバウォックの背中を数秒だけ見送って、アリスは溜め息を一つ吐くとクイーンの座る場所へと向かった。最早振り向く事もなく、迷わず歩く。近付くとリボンタイを付けたクイーンと目が合って、クイーンは小さく微笑んでアリスへ手を振って招く。アリスもまた微笑み返し、右手を小さく振り返した。


後ろはもう、見ない。





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