白兎V




「…ラビが、そう云うのなら」

――ラビは今日に至るまで、アリスが自分を好いてくれているかの確信こそは持てずにいたのではなかろうか。赤面をするのは単に色恋云々に不慣れであるからと解釈した方が支障もなかろうし、アリスは実際キスをする前逃げており、好かれてはないとの見解の方が導きやすい筈である。尤も好く好かないは恋愛のそれであり、人間として好かれているのは誰が見ても解りきった事であるし、嫌われているとの解釈は、恐らく一番難儀で無理矢理だった。
然し、アリスの今までの発言や態度、そして何よりも今日の「厭ではなくて驚いただけだ」を始めとしたアリスの言葉の真意を正しく察し、ラビはどうやら自分が考える以上にアリスから好かれているとの結論に到達した。それは自惚れでも誤りでもなくて、事実の確固たる認知である。そして、それが今となっては望ましくない事態である事も理解した。
到達し、次のアリスの言葉でラビは我に返った。

「で、今日は…」
「……ああ、今日は悪いが約束がある」
「え」
「すまない。…それじゃあ」

アリスが気の利いた発言をする前に、ラビは部屋を後にした。彼の後ろ姿に向かって何らかの声をかける事も出来ず、アリスは立って少しだけ追うとそのまま扉の前で見送るよう佇んだが、ラビの姿が通路を曲がって見えなくなると己のその意味のない行動を恥じたよう、慌てて扉を閉めた。
森閑としたその中で、アリスは溜め息を吐く。踵を返し、ベッドへ腰を掛け、数秒した後に言葉を漏らした。触れられたシャツの部分を小さく掴む。

「…今日なら、されても…逃げなかったのに」

云って直ぐに恥ずかしくなったのか、アリスは顔を赤くすると訳もなく壁へ自分の拳を叩き付けた。無論痛みを味わうのは己でありそれに声もなく痛がると、そのままの体勢からベッドへ背中から倒れ込む。左腕で両目を覆い、再び溜め息を吐いた。言葉は誰に届く訳でもなく、空気中で分散して、消失する。


「……女々しくて、…莫迦みたいだ」







その数日後、通路でラビはクイーンと出くわした。胸元にラペルピンを付けたクイーンはすると思い至ったよう、ラビのシルクのネクタイを乱暴に引っ張る。首が絞まり流石にラビも驚きの色を現すが、それは配慮の外なのか。クイーンは天使のような可愛い笑みをビスクドールのような端麗な顔に浮かべると、

「ねえね、アリスが話し掛けてきてくれるようになったんだよ」
「…へえ。良かったじゃないか」
「ふふ、やっぱり恰好良いよ。少なくとも可愛くはないよ」

ラビは今度は己の意見は述べず、嬉々として笑顔で語るクイーンの話を聞いた。生活にも馴染んで来ただとか、そう云えばレストランで日本食がないのが云々と云ってたから作ってあげようかだとか。会話をする内クイーンはああ、と追加する。どうやら至極ご機嫌のよう。

「そうそう、英語上手くなったじゃない。流石君が指導しただけあるよ、発音が凄く綺麗だ!」
「彼の努力の賜物だ」
「ふうん。まあ何にせよ、君がもう英語を教える必要もないんじゃない。そろそろ仕事も引き受けて欲しいし」

じっとクイーンはラビの赤の瞳を見る。それは返事を期待しているばかりか、イエスとの了解の返事を望んだ。もうこれ以上親密な関係を持たぬよう、そう仰せなのである。
此処で誤謬がなきよう記しておくと、ラビは従順であるが故に了解したのではあるまい。しようと思えば譲渡しない事も出来たのだし、さすれば恐らくクイーンも諦めただろう。クイーンの発言は、ラビがアリスを恋愛対象として見てはないとの前提が存在した。
では何故ラビが己の感情を排斥し譲渡したのかと云えば単純に、己の幸せよりも他者の幸せを望んだのである。事実は兎角、彼の中では死人であるラビ自身が幸せになる事は、重要ではなかった。

「……解った」

…此処で『私』が思うのは、ラビ隊長とラビの相違は此処にあると云う事だ。恐らく、否、ラビ隊長であれば恋慕する者は絶対に譲渡はしなかっただろう。事実ラビ隊長は×××を好きな者が他にも居る事を知ってはいたがそれでも譲渡など莫迦な行為はしなかったし(加えてラビ隊長と×××のお互いへの感情の名前はまた別問題として)、元恋人であるリリーの場合もまた然り。ラビ隊長がラビの姿を見れば、恐らく似てないなと笑うかも知れない。
思うに、誰かの人格を全てコピーするのは非常に難儀である。その人物に対する主観的解釈が入ってれば、余程。ラビ隊長とラビの相違は実は沢山ある。幾らコピーしようと思っても、ラビはラビでしかあるまい。

私の意見を述べると、ラビは良い意味で愚かしかったのである。






「で、俺は何でこんなのを作ってるんだ」

その日の夜、アリスはオーブンの前で自虐的な自問をした。自答はしない。オーブンの中から取り出されたものは程よく焼けたクッキー達。当然の事ながら、アリスはクッキーのレシピは知ってない。それはオーブンの取り扱い説明書の中に例として書かれていたものであり、それがお菓子だと判明すると、アリスはそれを見て作ってみたとの事である。
基よりアリスは料理は得意であり、クッキー自体簡単であるので今までの要領で初めての西洋菓子を難無く作る事が出来た。型抜きの際、四角型だけでなく、思わずひよこ型や猫型のクッキーをも作ってしまったのは大分自責の念に駆られた。その出来は見目だけでなく、実際食べると味も良い。上々の出来だった。

アリスは脳裏にラビを思い浮かべる。決まってレストランでは甘いものを注文していた彼。彼がクッキーを嫌いな筈はなく、好きであるのは当然の話だ。アリスは小さな袋の中に、形の良いクッキーを入れ始める。

「オーブンを試す為何となく作ったんだし、たまたま、そういえばラビが甘いものが好きだったって話で、自分じゃ食べ切られないだけで、他意はない」

誰が問い詰めた訳でもなかろうに、己に向かって言い訳をするよう口早に話す。その内冷静になったのか、口を閉じた。
時計を見るともう遅く、訪問するにも少し躊躇われる時刻。明日もまた教えて貰うので、その時に渡そうか。
自分が愚かしくある事は、よく解る。それでも感情は収まらず、自分ではどうにも出来ない。アリスからしたら、初めて好きになった人物だったのだから。
黒のエプロンを脱ぎ、それに顔を埋めた。

「……食べてくれるかな」







「………あ」

翌日の午前。アリスはラビの前で顔を上げ、渡すお菓子の存在を失念していた事を思い出した。部屋に置いてきたままである。ラビは顔を上げどうしたかと尋ねたが、アリスは何でもないと笑って首を横に振る。そうしてテキストにまた視線を戻す。此処でアリスが云わなかったのは、わざわざ渡すような真似はしたくなく、さりげなく、何て事もないように渡したかったからである。わざわざ作ったなんて女々しくある真似を、露呈する気は全くない。
ラビもそれ以上は言及せず、一つの大切な英文にペンで下線を引いた。



お昼になり、何時もなら一緒に食べる時刻になった。レストランで食べもするが、最近は部屋で作って一緒に食べる事もある。軍でよく作ったらしいので、ラビもまた料理は得意だった。平常であるのならラビがそろそろお昼にしようかと提案するのだが、その気配は今日はない。
もしかしたら今日は都合が悪いのかも知れない、アリスはラビの顔を窺うように一瞥する。ラビが顔を上げる様子はなく、控え目にアリスは発した。

「…あの、ラビ。今日の昼…」
「ああ…悪いが、今日はこれから約束があるから」
「……そ、そうか。解った、そうだよな。…ごめん」

予想出来た事でも、ラビも別の交友関係があると解っているとは云えども、アリスが多少なりとも傷心したのもまた事実。ラビが顔を上げてアリスを見る事はなく、それがまた刔るようだった。せめて最初に云ってくれれば良かったのにとアリスは思ったが、それも致し方のない事である。何せラビは今日、約束などは存在しなかったのだから。
アリスはテキストを閉じ、黒の薄い革のペン入れとノートを鞄の中に入れた。椅子から立ち上がる。

「今日もありがとな」
「え、…ああ」
「…じゃあ、帰る。ばいばい」

またなとはどうしてか云い辛く、これ以上居る気にもなれずアリスは足早にラビの部屋を出た。扉の閉まる音を聞くと、ラビは小さく息を吐く。今日はもう外には出られないなと、椅子の背もたれに身体を預けた。

「…ん」

と、そこで机上に自分の物ではないペンを発見する。万年筆だった。拾い上げてその首軸を回すと『indigo』の文字。青藍。金属部分が銀をしたアリスのものであるそれは、どっしりとした重みがあった。
届けに行こうか、とラビは腰を上げた。然しそこで止まり、考える。恐らくペン入れを開けた時、忘れ物をしたと気付くだろう。そして取りに来る。英語を問題なく話せるようになり仕事を引き受けられるよう励むアリスの事なので、勉強する為ペン入れを開けるのは早いと予期出来た。

ラビは自室の電話を取る。番号を押して数回のコールの後、電話口から声がした。彼女の名前を呼ぶ。

「…ああ、ローザかい」






「あ」

真っ黒な革のソファーの前。
自室に戻ると最早日課となって扉に挟まれた匿名の手紙を机上に置いた後、鞄を開けてペン入れを出し、中を開いた時である。アリスは中に一本の万年筆が抜けてる事を発見した。改めて確認するが、他にはシャーペンと芯、消しゴム、赤と黒のペンしかない。インディゴの万年筆だけがなかった。
ペン入れから出たのだろうかと黒の鞄の中身をひっくり返す。中から出て来るのはテキストや本だけで、万年筆は一向に見当たらない。然し、ラビの部屋に向かう前ペン入れに入れた記憶はある。

「…置いてきた…のか?」

恐らくそうだった。急いで出て来た為、ろくに机上を確認せず終いであった。
約束があるとは云ってたが、未だ今なら行っても大丈夫かも知れない。その序でに、失念していたお菓子も渡せるのではあるまいか。それも迷惑だろうか。アリスは少し悩んだが、結局袋を持って部屋を出るとラビの部屋へ向かった。






数回のノック。お菓子の詰められた袋を右手に持ちながら、アリスは室内の主が出て来るのを待った。部屋の中から、ラビと誰かの声が小さく聞こえる。しまった、もう来ていたのかとアリスは帰るべきか否かと踵を巡らすか悩んだ。然しその前、扉が開く。ラビが出た。迷っていた最中の事なので一瞬怯んだが、万年筆を貰って直ぐ帰れば良い話だった。口を開き、用件を云おうとする。

「あ、あの…ラビ」

そこでラビが先程までしていたネクタイをしてない事に気が付く。ツイル地の白のシャツは第二ボタンまで外れており、あれ、と違和感を感じたその時だった。

「………あ」

真っ白なベッドの上に、一人の女の子が腰掛けているのを視認した。墨のような黒髪、菫色の瞳。アリスは彼女に覚えがあった。

彼女がアリスへ顔を動かすと、彼女のペイズリー柄の紺のネクタイは解かれてベッドの上にあり、シャツは女性独自の胸元を強調するよう開けてるのが解った。靴は脱がれ、膨らんだスカートはめくれている。つまりはそういう事であるとアリスは唐突に理解して、慌てて彼女から視線を逸らした。頬に熱が集積するのが嫌でも解る。同時衝撃で頭をハンマーで打たれたようだった。自分が先程まで居た部屋で、直ぐに事に及ぶとは。
動揺したが、こういう事であるのなら、ましてや邪魔をしてはいけないとアリスは視線を床に落としたまま、どうにか平静を装った声色を絞る。

「ご、ごめん。その、忘れ物……して」
「ああ、万年筆だろう? ちょっと待っててくれ」

ラビが革靴を鳴らしながら、丸テーブルへと向かう。アリスは彼の顔を見る事が出来ず、お菓子の袋を見られないようポケットの中へ入れた。状況に着いて行く事が出来ず、頭が揺れ、胃の中で何かがぐるぐると渦巻き、口から外へ出そうだった。本当ならば用件も云わずそこから去りたかったろうが、それをしなかったのは2人への配慮だ。
ラビの革靴の先が見え、声が落とされる。万年筆を差し出され、アリスは顔を一瞥もせず受け取って礼をした。

「じゃ、邪魔して、悪かった。……じゃあな」

云うとその場を逃げるよう立ち去った。ラビはその後ろ姿を見たが、少しして扉を閉めて遮断する。溜め息を吐いたのはラビではなく、ローザである。彼女のその溜め息は呆れたようなもので、ラビと目が合うと目に非難を込めた。

「…莫迦みたい。『女王様』に忠実な家来の『白兎』なんて。彼に誤解させられて、満足した?」
「…」
「まあ、良いけど」

何も返さないラビに再び溜め息を吐き、ローザはスカートを直しシャツの釦を留める。そうしてペイズリー柄のネクタイを首にかけ、締めた。
安全靴へ足を通し、爪先を床に打ち付け綺麗に履く。彼女は身嗜みを整えると、もう自分は頼まれた事はしたとでも云うようラビの横を通って扉の前まで行く。軍手の嵌められてない細く伸びた右手をひらひらと揺らした。

「じゃあ帰るわ、ばいばい」
「もっとゆっくりして行っても――」

彼女に用件を依頼した事で結局は彼女を利用したのだし、気を利かせて発言した言葉ではあったのだが、

「悪いけど。いつもの貴方とならともかく、今の腑抜けた貴方とは居たくない」

それは鋭利な剣のよう、容赦なく一刀両断した。ローザはラビを一瞥すると、胸元までの髪を揺らして出る。扉の閉まる音がして、ラビは佇んだまま微妙な顔で髪を掻き上げた。そして自分も小さな溜め息を吐く。

当然自分がアリスを対象として見なくなるだけでは不十分であり、アリスもがラビを対象として捉えず、改めてクイーンを対象として捉える事が必要不可欠な事ではあった。その為もっと上手く立ち回る事も出来たかも知れないが、何れにせよ何らかの対応はせねばならなかった。自分が嫌な役回りをする事が確かに楽で確実で、結果的にそれが成功したとは云え、無論。

心内は複雑なものだったろう。






通路を歩いていると、クイーンはアリスの姿を見た。以前は擦れ違っても険悪に相手を見るだけであったが、最近は以前と比べて普通にも話せるようになった。意中の相手を見る事でクイーンは機嫌が良くなって、焦げ茶色の靴を軽やかに動かしてアリスへと近付く。然しアリスは浮かない顔をしており、体調が優れないようにも見えた。手前で止まったクイーンは首を傾げる。

「どーしたの。浮かない顔しちゃって」
「……別に」

その素っ気のない態度にクイーンはむっとして眉を顰めたが、アリスは彼に一瞥もくれず通り過ぎようとした。流石にそれはないだろう、とフリルが何層も連なった袖から出た小さな手で不躾にアリスの黒のジレーを掴む。固定され、誰かと話す気分ではないアリスはクイーンを不機嫌な顔で見たが、クイーンは怯む事なく腰に手を当てた。丸衿に結われた、ネイビー色のリボンが揺れる。

「何その態度。ラビの部屋にでも?」
「関係ない」
「君は本当生意気だね」

至極無愛想な返事をされ、何さとクイーンは頬を小さく膨らませる。そもそもクイーンは白兎の人員全員からしたら一番の上司であり、命令は絶対であると云うのにアリスは態度が素っ気ない。ラビにはあんなにも懐きを見せるくせにと面白くはないのである。どうにかして態度を良くさせないと、そう考える内に段々アリスに悪態を吐きたくなってきた。何だか理由は知らないが気分が優れないようであるみたいだし、クイーンはここぞと莫迦にしたよう嘲笑を交える。

「そんな顔しているんだし。もしかしてラビにフラれちゃった訳?」
「!」



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