白兎U




二人は会うべくして会った運命なのだと云えば、響きは良くなるだろうか。只の偶然であれ、絶対者である神の決めた道であれ、結果としてラビとアリスは出会った。原作の不思議の国へ行くアリスの契機となったのは、確かに白兎だ。ならばこの場合でもアリスが白兎の名前の由来であるラビへと惹かれたのは、必然と云えば必然だしそうあるのは納得だ。
アリスは不思議の国で何よりも白兎に魅了され、白兎もまた外界の存在であるアリスに魅了された。地上にも籍があり不思議の国の狂気に染まらぬ白兎は、無垢な地上の存在のアリスを好くのは道理だ。


次の日の事だ。
アリスは何時もの時間になってもラビの部屋には来なく、これはもしや大分気にしているのかとラビが自分からアリスを尋ねようかと悩んでいた時である。ノックの音がして、ラビはアリスかと期待して扉を開けた。しかしそこに居るのはアリスではなしに、髪をサイドで高めの位置に結んだ菫色の双眸の、

「……ローザ」
「アリスの部屋を知らなかったから貴方の部屋に来たわ」
「…。アリスに用が?」
「本を返して貰いに来たのよ」

そうと云われ、ラビは彼女の述べる本はあの英語の本であると理解する。試しに題名を云えば、ローザは少し驚いた顔でそうだと肯定した。ラビは矢張りと思い、自分の部屋を示す。

「それなら本官の部屋にある」
「…最近、よく一緒に居るのですってね」
「ああ」
「好きなの」

ラビがローザを見下ろすと、ローザは真摯にラビを見上げていた。菫色の双眸は揺れていたが、ラビは返答をしなかった。彼女が述べる好きとは、無論友人として、の意味ではあるまい。否定出来る筈もなかろうが、だからと云って単純に肯定出来よう事もなかった。それでも心中では、イエスかノーかと尋ねられたなら、それは限りなくイエスであったろう。この一ヶ月と少しの期間で、アリスの人となりに囚われて魅せられたのは紛れもなく事実だ。

ローザに背中を向けて本を取り、それを渡すと彼女は本の表紙へ視線を落とす。顔も上げぬまま、抑揚のない声で淡々と紡いだ。

「…ラビが『まさか』と返さないって事は、そうなのね」


――彼女の言葉の後は今度こそ、ラビは二文字で肯定をした。







恐らく気持ちの整理がついてないであろう今、部屋へ行っても開けて貰えないかもしれないな、そう思ったラビはその日行くのを止めた。アリスがラビの部屋に来たのはそれから二日後の事で、アリスは軽微に唇を噛み、気まずそうに視線を床に落としてた。頬は少し赤に染められており、ラビが迎えると口ごもって謝罪をした。

「こ、こないだは…ごめん」
「いや、こちらこそ驚かせたようですまない」

そう返されるとアリスは安堵したようで、息を小さく吐き顔を綻ばせた。入るよう促すとアリスはラビの部屋に入る。アリスの後ろ姿を見て、たった二日だけなのに大分会ってなかったよう感じられた。思わず後ろから抱きしめたく思ったが、そうしてはまた逃げられてしまいそうであるし、顔を近付けただけでもああなのだから大変な事になるに違いない――とラビはその衝動を抑えた。
然しその代わり、自分でも思いがけぬ提案をした。

「…そうだ、今日は泊まって行くかい」
「えっ」
「同じ屋根の下なんだ、皆も誰かの部屋に泊まる事はよくしてる」
「で、でも。着替え、とか」
「部屋まで取りに行けば良いじゃないか。それに何なら貸せる」

アリスの恐らく言い訳であろうがその大分下手な言い訳は、ラビの言い分が尤もであり、すっかり無力化されアリスは返答に詰まった。
この自分でも思いの寄らなかった発言は、彼を逃がしたくはないとの気持ちが関与するのだろう。アリスはどうするべきか悩んでいるようだった。これが二日前の出来事がなければ迷わず即答して泊まっていたろうが、ラビから触れられた事であるべきでない感情を持った己を、恥じているようだった。

どうしようか、と困ったようにアリスがラビを見上げる。目が合って、ラビは己の心臓が高鳴ったのを感じた。可愛いと思った。会えなかった二日分、想いは募るようだった。
我慢が出来なくなり、両手をアリスの頬に添える。アリスの身体は跳ねたがその一動作はラビの愛おしさを増長させるだけであり、ラビがアリスの唇に唇を落とそうとした、その時である。

ラビは状況が理解出来ず左目を瞬かせる。唇に重なるかと思えた唇はそれではなしに、手の平に当たっていた。つまり、アリスが自分の両手を使って互いの唇が重なるのを阻止したのである。
アリスの顔を見ると、どうやら咄嗟の動きだったのか自分も何をしたかが解ってはないようで惚けていた。しかしラビと目が合うと状況を素早く理解したのか、顔を引き攣らせ不自然な笑みを作った。

「あ…は、は。ご…ごめん」

真っ赤な顔のままで視線をラビから逸らし、それからいたたまれない顔をしてラビの身体を押して離すと、走って扉の前まで逃げた。そしてドアノブを掴むと扉を開け、振り向き様に。

「か…帰るっ」

それだけを残して部屋から出て行った。確かなデジャブを感じつつ、暫く惚けたラビはそこでドアチェーンを掛けとくか、先に好きだと述べるかするか良かったと髪を掻き上げた。自分らしからぬ容量の悪さに、我ながららしくないと呆れざるを得ない。自分もそれほど余裕がないと見える。
髪に触れただけで二日程来なかったので、キスをしかけた今度は一週間は来なさそうだとラビは溜め息を吐く。否、今度こそ自分からアリスの部屋に行くか、それか今直ぐにでも追うか。そうすると拒否されたのだし、嫌われるだろうか。

「…然し、大分我慢したと思うんだが」

日数的にも、早過ぎると云う事はない筈である。
ラビが顎に手を当て悩んでいると、ノックの音がした。それもデジャブで、これでまたアリスではないのだろうな、そう考えながら扉を開けるとそこに居たのはクイーンであり、ラビは思った通りの展開に小さな苦笑を漏らしそうになった。今日の女王様はまた立派なエンブレムの付けられたブレザーを羽織っていた。

「…今さっきアリスが君の部屋から出て来たの見たんだけど」
「ああ、さっきまで一緒に居た」
「……英語教える為とは云え、最近君達一緒に居すぎじゃない?」
「そうかな」
「そーだよ」

クイーンは不機嫌そうに整った形の眉を上げている。逆鱗に触れる事をしただろうかとラビは考えを巡らせたが、特に彼に何か不都合を生じさせた記憶もない。クイーンの言葉から推論するとどうやら一緒に居すぎなのがお気に召さないようであるのだが、ラビは女王様が嫉妬するまで気に入られている覚えもなかった。迂闊な事も云えずクイーンの次の言葉を待つと、

「で、アリスと云えば、さ」

クイーンの口からまさか彼の名前が紡がれるとは思わなく、ラビは若干驚いた。アリスとクイーンが話してるそぶりはなく、話したとしても馬が合わないのか常に喧嘩腰だった。それでラビにはあんな謙虚なのに僕には何であんな生意気な態度なの、と大層お怒りだったのは、未だ記憶に新しい。そうであるので、次の発言には益々驚きを隠せない程だった。

「彼――恰好良いよね」

恰好良い。生意気だと憤慨してからそこまで株が上がったのかとラビは一種感動を覚え、アリスの姿を思い浮かべる。確かに日本人とは云え身長は決して低くもなく、体格は若干細いもののクイーンのよう貧苦とは云えないし、可愛いよりかは綺麗や恰好良いに分類されるだろう。然しラビからしたらあの姿を見たからであろうか、顔を赤らめたり照れたりする様は、恰好良いと云うよりは可愛いとの印象を持った。ので、素直に吐露する。

「そうかい? 恰好良いよりは可愛い…。案外お菓子とか好きだったりして」
「止めてよ、君じゃないんだから」

ラビが中庭で猫を相手にしている時、アリスが触れたそうにじっと見ていた事もあったのを思い出す。あの後猫を持たせたら嬉しそうな顔をしていたし、故にお菓子や可愛いものが好きだと云われてもラビは納得出来るだろう。然し女王様はそれはお気に召さないらしく、厭そうな顔で否定するのでラビは口を噤んだ。

「兎角、かっこいーの」

そこでラビは彼の陶器のような頬がほんのりと桃色に染まっているのに気が付いた。その上気した顔や声色で、ラビは粗方の真意を悟った。
此処で、ラビが尋ねなければ。或はあの時アリスが恥ずかしがって逃げたりしなければ。恐らく別のルートがあったろうが、それはなかったので所詮は机上の空論である。それを云ったところでどうにもなりはしない。結果論である。結果として、アリスは部屋を出たし、ラビは尋ねてしまった。

「……彼が、好きなのかい」

するとクイーンは唇を一直線で結んだまま、人形のようなエメラルドの瞳を大きく見開いた。そうして探偵のよう顎に手を当てると可愛らしく唸り、多少考えるようだった。思考が終わったのか、数秒してこてん、と首を傾げる。眉を下げ、小さな唇を動かした。ラビは彼の回答に、少なからず動揺を覚えた。但しその動揺は、決して見せはしなかったが。

「………そうかも」



此処で再び観点を変えて不思議の国のアリスの話をしよう。ルイス・キャロルの描く白兎は女王様に従順だ。それは白兎の臆病で神経質、気の小さいと云った性格も由来するかもしれないが、そもそも権力者である彼女の姿を見て怯えないのはグリフォンだけである。その例外を除き、全ての生き物が彼女の激昂を恐怖する。
女王様の権力を奪えるのは作中ではアリスのみであり、実際作中のアリスは女王達が只のトランプであると指摘する事で成功した。然しそれは一つの夢の中だけに過ぎず、仮に夢が何通りもあるとしたのなら、失敗し、『アリスが女王様に首を跳ねられる』終わり方も存在するのではなかろうか。アリスを性対象として観察した作者からしたらそのような終わり方は有り得ないにせよ、作中にもしもの分岐点を作るなら、ない話でもなかろう。同じ考えで『女王様がアリスをお気に召し、処刑は免れ幽閉される』等もなくはない。

つまりは、今此処で綴るのは、失敗例である。横暴なる権力を所持する女王様は、めでたく家来を従順とし、好きなものを取得した。






次の日、ラビはアリスの部屋を尋ねた。アリスはノックの主がラビであると解ると狼狽したが、それでも懊悩の末にアリスは扉を開けた。実際は心臓が煩くてどうにかなってしまいそうだったが。
アリスは平静を装おうとしたがラビの姿が見えるとそれも無理であり、扉の所で意志とは関係なしに尋ねた。

「…き、昨日の事。怒って……るか」

この発言はラビからしたら予想外であった。アリスが怒っていると云うのなら未だ予想の範疇であったものの、まさか自分が怒っているかと尋ねられるのは考えもしなかった事。一瞬反応が遅れた。

「まさか。そんな事で怒る訳がない」
「ご、ごめん。その、厭な訳じゃ…なくて。驚いた、だけ、で…」

そう紡ぐアリスは一杯一杯であるようで、ラビは愛しさが募り、意識せず左手でアリスの頬に触れた。一瞬アリスは強張ったが、今日は逃げたりはしなかった。不安そうな顔で見上げるアリスへ唇を重ねようと顔を近付けるその手前、ラビはベッド脇のデスクの上に置かれた写真立てを目に入れる。フレームが黒色のシンプルなデザインのそれは、アリスが以前欲しがって一緒に買ったものだった。写真は既に入れられている。
あの写真を飾りたかったのかと気になって写真を見たら、そこではラビが知る筈もない青年とアリスが2人で写っていた。写真の中のアリスは優しく笑んでいる。あんな笑みを大日本帝国でも見せていたのかと思うと、当然の事なのにあまり面白くなく感じる。

「…あれは?」
「え…。ああ、英国に来る前撮ったんだ。小鳥遊って云って、優秀な士官学校の生徒で、唯一親しくしてくれた奴なんだ」

するとアリスはラビの左手を受けたまま、何処か懐かしむよう笑う。聞いたのは自分なのに、聞くんじゃなかったと後悔する。このあまり愉快ではなかろう感情は、果たして何だと云うのだろう。嫉妬とでも云うのだろうか、恋人でもない相手と会った事もない人物に?
莫迦げてると思ったが、それでもラビが眼前に居るにも関わらず、アリスが今見ているのは小鳥遊には違いない。そう思うとラビはあの写真こそ良く思えなくなって、アリスから手を離して部屋の中へ入るとデスクの方へと向かい、写真立てをぱたん、と倒す。写真はデスクと面し、見えなくなった。アリスはその行動が理解出来なくて、多少驚いたような声を出す。

「ラビ、何し……、って……?」

ラビはアリスの手を掴むと、デスク側のベッドへ押し倒した。至近距離で見つめられ、この体勢に状況が呑み込めぬままアリスの頬が仄かに色付く。ラビの手がシャツの上へ置かれるとアリスの身体が緊張したようびくんと跳ねるも、抵抗こそはなかった。アリスは口をぎゅっと強く結び、耳まで赤くする。
好きなのだ、とラビは強く自覚する。アリスに堪らなく惹かれ、愛おしく思った。その黒髪から覗く首に舌を這わたく感じたし、自分の名前を掠れた声で呼んで欲しかった。これは恋愛感情以外の何物でもあるまい。

…好き? 唇を重ねる一歩手前だった。昨日のクイーンとの会話を、そこで弾かれるよう思い出す。

『好きかも』


――気が付けば、アリスの腕から手を離していた。




手を離されたアリスは目を瞬かせ、当惑してラビを見た。ラビは、此処に来た理由を思い出す。自分が来た理由は、自分の想いを成就させる為ではなかった。小さな苦笑を漏らし、身体を起こして離れると上手くごまかすよう繕う。

「昨日の事は。…気にしなくて良い」
「…あ、そ、そう…か」

アリスもそれ以上は己から言及出来ず、ベッドに寝たままで居るのも可笑しく思えたので取り敢えずは、とベッドから上半身を起こす。どうして手を離されて、昨日のよう唇を落とされずに、加えて昨日の事は気にしないよう云われたのかは解りはしなかった。アリスからしたら、充分昨日の事は気にする範疇内の話である。胸中に、何かが残るようだった。
そう云えば、とラビは言葉を続ける。そのあたかもついでのような言葉は実はラビが此処に来た所以であり、何よりも紡ぐべき言葉だった。

「…クイーンと最近話してるかい?」
「え?」

突然今まで話題に出なかった人物の名前を出され、アリスは口を開き聞き返す。クイーンの名前はアリスも勿論知っていた。白兎の幹部であって、最初の日に中々どうして手こずらせてくれた人物だ。彼のお陰で危うく熱を出す一歩手前にまでなった。
それを何故出されたのか思い当たる節はなかったが、彼の傍若無人さを思い出しアリスは眉を顰める。それをラビは見逃さず、どうやら馬が合わないと思うのはクイーンだけではなかった事を知った。

「どうだい、彼は」
「…我が儘で…好きじゃない」

アリスが嫌悪感を露に話すのは非常に珍しく、余程好きではない事が窺える。実はアリスとクイーンの本質はよく似てて、根底が誰かに『して欲しい』なのである。女王様気質のクイーンは周囲の存在から甘やかされたいし、愛されなかったアリスは誰か1人から愛されたい。然しアリスは性格上自分を節制する。故に、節制を知らず好きに振る舞うクイーンがどうも好きにはなれなかったのだ。その話はあまりしたくもないように、アリスは浮かない顔をした。
それに気が付いても気が付かぬふりをして、言葉を紡ぐ。

「そんな。あれで可愛いところもある。陰では一生懸命頑張ってるし、良い子だ」

するとアリスは納得すると云うよりは、非常に複雑そうな顔をした。それは理解出来ないとかそんなものではなしに、別の感情が入り混じってるようであった。その感情が何かは解りはしなかったラビは発言を続けずに、あくまで心中で首を傾げてアリスの返事を待つ。それはアリスが口を小さく開き、何か云いたそうにしていたからに他ならない。
数秒の沈黙の後、アリスは絞るように発言をした。それは先程の謝罪同様、否、それ以上に予想外のものだった。

「…付き合ってた…のか」
「………。まさか」
「だって、…」

そう云うとアリスは口を噤み、言葉を奥に飲み込んだ。ラビはそこへ到達した理由は解らなかったが、然しそれが誤解であり、無論それを否定し訂正するべきである事は解ったので、

「彼は上司なだけだ。アリス、アリスにとっても彼は上司だ。仲良くするように、ね」

そこでアリスが安堵の色を示したのは、単に嫉妬すべき対象が外れたとの単純な解釈も出来ようが、これはそのような邪な感情は一切合切なく、クイーンと云うアリスからしたら優れた容姿をし、まるで女の子のような外観の彼とラビが昔付き合っていたと云うのなら、己が敵う筈もないと云う感情があるが故の表情であるとの見解も出来よう。
然しどちらであるにせよ、クイーンと関係がなかった事にアリスが安堵した事実には変わりない。そのまま俯き、小さく呟いた。



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