白兎




「……英語が話せない?」

白兎、クイーンの部屋。女王様である彼の部屋は間違いなく白兎で1番豪華で目を細めたくなる程に華やかしい。
昨日の様子からしてアリスはどうやらそうであるようだ、と話を持ち出したラビは、明らかに呆れた顔をしたクイーンの今の反応は言葉を発する前から粗方予想も出来てたものなので、矢張り面倒そうな顔をしたかと事実へ納得だけをした。此処で彼のその反応を咎める態度が見当たらなかったのは、恐らくラビが彼との付き合いが長いからである。ラビは女王様の性格を重々承知していた。

「来る前に習得して来なかったの。ああでも確かにたどたどしかったか」
「まあ色々事情があるのだろう」
「でも困るよ」
「だから教えるのが良いと思うんだが」

そこまで会話が成立したところで、革製のソファーに足を組んで座っていたクイーンは、テディベアの深緑のリボンを弄る手を止めてラビを見た。独逸製のそのテディベアを動かすと、テディベアが低音でぅうと呻く。グローラーが内蔵されたタイプである。
此処でクイーンは『つまり、ラビは僕に彼へ英語を教授しろと要請をしている』と解釈したが、それは恣意的解釈だったかも知れない。然しそれをラビが矯正する様子は見られないし、何れにせよ今後の会話は続く。

「厭だよ、僕は教えないよ、面倒だもの」
「チミは幹部だ」
「幹部だからこそしないの。だからグリムも駄目。彼は副幹部だから僕から離れたら困る」

そうと云ってクイーンは高慢に、身体を倒すとソファーのひじ掛けに頭を乗せて横になる。その態度からしても女王様である彼が折れる筈は毛頭ないとラビは手に取るよう解り、出来るならやれやれと肩を竦めたくもなるようだった。
ラビは最初からクイーンが拒否するのは解っていたものなので、次の発言をするのは当然だった。それでも最初からそうと発言しなかったのは、然るべき順序を踏む為である。茶番劇かも知れないが、突然その提案をしては女王様の機嫌を損ねる可能性を孕んだからだった。

「…なら、本官が教えよう」
「………君が?」

クイーンはジト目でラビを見る。そうしてラビの顔から茶色の革靴の先まで視線を動かすと、ソファーの上に置かれた白の繊細な刺繍が施されたクッションへ足を投げた。睫毛の長い瞳を伏せると、少しの沈黙の後小さな唇を動かして駘蕩に紡ぐ。

「…。まあ、君の英語の発音は良いし。良いんじゃない?」

上からの許可を出され、ラビは口元に小さく笑みを浮かべた。どうも、と云う事である。ラビは女王様への対応の仕方を、とてもよく承知していた。
クイーンは寝たままチェストの上のステッキを取り、行儀悪くそれを空中へ振り回す。

「でも戦力となる前に手を煩わせるとか本当とんだ駻馬ってゆーか。ってあれ、何、もう帰るの」
「アリスを待たせてる」
「………。君、最初から君が教える積りで、ってああ、もう!」

言葉を最後まで発する前に扉が閉まり、クイーンは憤慨したがラビの姿はもうなかった。此処でクイーンが実に面白くなさそうに眉を吊り上げたのは、女王様独特の、否、誰にでも存在する独占欲であろう。自分の所有する『駒』が勝手な動きをする事に、少なからず憤りを感じたのである。
然しそれ以前に、クイーン自身が教える訳ではあるまいし、クイーンが仲間意識を感じ何やと贔屓するグリムが教える訳でもない。まあ良いか、クイーンはソファーから起き上がって伸びをした。ラビにそこまでの執着は持っていなかったのである。





「あ、ラビ……さん」
「ラビで良い。許可が下りた、本官の部屋に行こう。今日から教える」
「は、はい。有り難う御座います」
「恐縮しなくとも。楽にしてくれて構わない」

未だ英語はよく解らないだろうと、ラビはゆっくりと、簡単な語彙を使って話をする。一応の独学とボロームとの多少の勉強のお陰で大体を解ったアリスは、お辞儀をして礼を述べた。一々律儀だとラビは感心したが、その感心は先程までクイーンと話をしてたから益々感じたのであろう。
ラビが歩くと、アリスもその後を追う。そう云えば何かを人に教えるのは初めてかも知れないな、ラビはそう思いながら通路を歩き、アリスを自分の部屋へ招き入れた。恐縮しなくともと云ったにも関わらず、アリスは多少緊張しているようであり、部屋に入る時も申し訳なさげに畏縮しているようだった。
これは彼の人間性か国民性かどちらかは解らないなとラビは判断しかねたが、然しよく考えれば言葉もあまり通じない異国の者から一対一で言語を教授されるのは、多少は緊張するものかも知れないと思う。ラビは左手で部屋の一点を指し示した。

「そこの、そう。丸テーブルでやろうか」
「は、はい」
「どれが良いかな…一先ず、図書室で幾つか英会話の本やらを借りてきたのだが」
「…白兎に図書室があるんですか」
「ああ。大きな図書室だ。…興味が?」
「本は好きなので…」
「へぇ。なら行ってみるかい?」

これは、未だ緊張を見せるアリスへの気配りであった。興味があるのなら見てみたいだろうし、窮屈な空間で話すよりは歩きながら話した方が良いだろう。そもそも基本は出来ているのだし、テキストで勉強をするよりは自分で話しながら教えた方が余程身になるかも知れない。英語で書かれた本を読む事もまた勉強になるだろう、と云う事だ。
ラビが予想したよりアリスは反応を示し、黒色の双眸の中を光輝させた。

「行けるなら、行きたいです」
「なら行こうか」
「今からですか」
「勿論だ」

ラビは立ち上がると、アリスへ着いて来るよう促した。アリスも直ぐ立ち上がり、ラビの後を追う。
図書室へ向かいながら、ラビはこの間話せなかった分の白兎の中の事を話した。人数は今は三桁を超えるけども、最初は自分とクイーンの2人だけであった事、レストランや娯楽場等の設備の事。大抵此処を出なくとも事は足りる、との話である。出来るだけ簡単な英文で述べる事でアリスも理解が出来たのか、大体を理解したよう頷いて返すか、解らないところは尋ねて返した。その真剣な姿勢は好印象を与え、ラビは感心した。

到達した図書室の扉は重厚で、クリーム色のそれには薔薇の蝶番が存在した。アリスはそれに威圧されたようで、若干顔を引き攣らせた。

「…こ、此処が本当に図書室?」
「ああ」

アリスは図書室と云えば落ち着いた外観を想像したのだが、白兎では一々全てが華美なようだ。ラビが蝶番に手をかけ、扉を開けた。すると中は高いゴシック式の丸天井で、真ん中に装飾の洒落た螺旋階段が存在する。壁には古びた臙脂色や退黄色の本達が無数に所狭しと並べられており、思わずアリスは息を呑んだ。日本の図書室とは全然違った絢爛さがある。あまりのその豪奢さに、アリスは物珍しく首を振って横や上を眺めた。階段を行った先もまた本で覆われていたのである。
幻想的な太陽の紋様が大きく描かれた、古びた色の床を踏む。太陽の光の指す先にはユニコーンや獅子、コンドルの絵柄が存在し、巨大な数々の柱には奇怪な頭部と顔が組み込まれ、壁には聖骸布に似た肖像画がかけられていた。
柱の一つに、通路でもよく見る馬に二人で乗る男の装飾を見る。眩ゆいシャンデリアに、目を細めた。

「どうだい」
「凄い…、です」
「あら…ラビ。お客様?」

その時聞き慣れない女の子の声がして、アリスは声が発された方向を見た。螺旋階段の影に隠れて気付きはしなかったが、そこには臙脂色の机と椅子が一脚存在する。顔を覗かせて来たのは、アリスと同じ位の年齢に見える一人の女の子。
長い黒髪を高めのサイドで二つに結い、菫色の双眸を持つ容姿である。真っ白なシャツの前で結ばれた黒色のネクタイと、ペチコートで膨らんだスカートを揺らし、2人の前へ立つ。

「紹介する、ローザだ。此処の司書」
「あ、アリスです」
「ラビ。貴方が誰かを連れて来るなんて珍しい。…見ない顔だけど」
「最近入ったばかりなんだ」
「そうなの。…宜しくね、アリス」
「ええ、宜しく」

ローザは右手を差し出したが、そこで彼女は自分が軍手をしている事に気が付き軍手を外す。そう云えば、彼女の靴は何故か安全靴である。首にはゴーグル。華奢な体躯と女の子らしい容姿からは少々、否、大分不似合いである恰好に右手を握り返しながらアリスが疑問を抱くと、ラビが正解を出した。

「ローザは本の発掘をしてるんだ」
「は、発掘…?!」
「そう。図書室のそこの扉を開けると洞窟に繋がっているのだけど、中には鉱物のように本が埋まってるのよ」
「………は、はあ」
「全く誰がそんな可笑しな洒落をしたのか知らないけど、発掘する身にもなって欲しいわ。…まあ、騒がなければ好きに見てね」

ローザはそれだけ云うと踵を返し、再び自分の机へ戻る。その際、アリスは彼女のスカートの裾に土が付着し汚れているのを発見した。



図書室の中を一通り見終わると、中がだだっ広くて時間がかかるからか、時刻はすっかり夕刻であった。そろそろ食べに行こうかと提案すると、アリスは驚いたようだった。

「一緒に食べても良いんですか?」
「…。当然だろう?」
「他の人とか…」
「クイーンはグリムと食べるだろうし。本官が一緒に食べたいんだが、駄目かい」
「全然! 寧ろ…嬉しいです」

一人で食べるよりは喜ばしい事態であるのだろう、アリスはそこまでして貰えて申し訳なさもあるようだったが嬉しさが勝ったようで、笑顔を見せた。そう云えば笑顔を見たのは初めてか、とラビは思う。笑うと年相応に見えて、印象も大分違って思えた。思った事を、素直に吐露する。

「…笑うと可愛いじゃないか」
「! な、っ…」
「それじゃあ邪魔したね、ローザ」

図書室の主である司書に別れを告げ、ラビは扉を開けた。それに急いでアリスも続いたが、扉を閉める際、俯くアリスの頬が微かに赤みを帯びていた事にラビは気付きはしなかった。アリスはラビの方も見ずに、そっと沈吟する。

「……そういう事、普通に、云うのか」
「…ん? 何だい」
「いえ。…何でも」

小さく日本語で紡がれたその言葉をラビが解る筈もなく、聞き返したところでアリスは首を横に振った。あまり追及しても何だと思ったラビはそれ以上は言及せずに、レストランに連れて行く事にした。上の階にあるんだと教え、エレベーターを使用した。

幾つかある料理店からどれが良いかと尋ねたら、ラビの好きなところでと返されたのでラビは何時も行く店を紹介した。
そこで席に着いてメニューを見、何か読めないものがあったら云うようにとラビは云い、自分は生クリームとバニラアイスとチョコレートのかけられたワッフルとそれから苺タルト、ミルクティーを頼むと云う。その写真を見たアリスは驚愕した顔で、信じ難そうに双眸を瞬かせる。

「…全部甘いものですよね」
「甘いものが好きなんだ」
「……へ…へえ」

食生活は良くしているアリスからしたらその注文は紛れもなく栄養が偏ったものであり、何かを云いたくもなったのだが、然し未だ少しの付き合いしかないのに自分が相手の世界観へ土足で踏み込むような真似も良くないと思ったのであろう、アリスは何も云わず自分の注文書に目を落とした。暫く悩んで、ある写真を指差した。

「…あの」
「ん?」
「これにはお米が?」

アリスが指で差したのは、ドリアの写真である。そう云えば大日本帝国者だから知らないのも無理はない、ラビは合点を行かせて頷いた。此処にはフランスやイタリア料理店は存在するものの、日本料理店は存在しない。彼からしたら矢張りお米が食べたいものなのだろうか、そう考えを巡らせるとアリスはそれを注文すると云う。ウェイターを呼ぶ前、注文はこう話せば良いとラビは教授した。

「まあ、今日は本官が云おう。これから暫くは本官の言葉や動作を観察して覚えれば良い」
「それって」
「ん?」
「暫く一緒に居るって事ですか」
「そりゃあ、教えると約束したんだから。チミが習得するまでは側で教えるさ」
「…ラビはそれで大丈夫なんですか?」
「本官は全然だが…、アリスこそ他の、例えば小さくて可愛い女の子の方が良かったりしないかい?」

ラビが冗談めかしてそう云うと、アリスは思わず眉を下げて笑みを零した。大分打ち解けられたのが解り、これだけでも今日は進展があったかと満足する。ぎこちなさを残したまま毎日テキストで勉強するよりは、親密さを持ちながら勉強した方が良いだろう。それに、急いで試験を受けたり資格を取る訳でもなかった。クイーンも暫く仕事はさせないと云ったのだ。

アリスは初めて食べるドリアに困惑したようで、フォークの使い方を教えたりと食べる時も沈黙や退屈がある事もなく、談笑しながら食事をした。食べ終えた頃はもう良い時間で、そろそろ戻ろうかと云う時は人も若干斑であった。


「それじゃあ、また明日」

送ったアリスの部屋の前で別れ際にそう云うと、アリスは小さく笑んだ。矢張り笑うと可愛いと思えたが、それは口には出さなかった。

「今日は有り難う御座いました。…また明日」





そうして一ヶ月、仕立て屋で丁度合うサイズの服を仕立てたり、必要なものを揃えたりもした。殆ど毎日を一緒に過ごし、食べたりたまに外へ出たりする事で英国の生活にも慣れ、会話を全て英語で行う事でアリスは英語を習得していった。解らない事があれば直ぐに聞ける環境にあったのが良かったのか、はたまた別れてから自室でまた熱心に復習して勉強をしたアリスの努力か、兎角全ての要素が関連し、アリスの英語のぎこちなさもなくなり、普通の速度の会話も概ねが理解出来るようになった。
その上達ぶりはラビが一番解り、自室に招いた時に褒めた。

「英語、大分上手くなったじゃないか」

するとアリスは、素直に嬉しそうに破顔をした。褒められたのが余程嬉しかったのか、子供のよう身を乗り出して確認する。他の者ともアリスは多少なりとも交流はしていたが、このような姿を見せるまで打ち解けたのはラビだけであった。今や最初の頃の小さな隔たりはなくなって、仲睦まじい間柄と化していた。

「ほ、本当か?!」
「ああ。偉い偉い」

益々嬉しそうに笑う姿はさながらご主人様に褒められた犬のようでもあって、ラビは何処か微笑ましくなった。今までは猫のようだと雰囲気から思っていたが、今日は嬉しそうにぱたぱたと動く尻尾や耳が見えても良さそうだ、と思わず頭を撫でる。触れた髪は柔らく、さらりとしていた。

「…え」

するとアリスの動きが止まり、ラビは歳の差があるとは云え子供扱いし過ぎたかなと頭を撫でる左手を止め、身長差のあるアリスの顔を覗き込んだ。ラビの左目に映ったのは頬を仄かに赤く染めるアリスであり、それに若干驚く。
アリスはラビが見ているのに気が付くと、言い繕うよう動作を大きくし、

「あ、や、えっと……あの、」
「…子供扱いし過ぎたかな」
「違っ、その。ほ褒められるの……馴れて、なくて」

アリスは確かに、今までの環境で褒められる事は先ずなかった。実の家族は論外だし、ロリナはこうして甘やかすよう褒めるような人間ではなかった。実直な褒められ方は馴れてなく、また、以前云われた『可愛い』も馴れる訳がなかった。第一、今まで云われた事等は多分ないだろう。ラビの言行はアリスにとって誰とも違う『特別』を与えた。
アリスは恥ずかしそうに俯いて、視線を床に落とした。こんな反応をする者を今までに見た事もなかったが故その動作が無性に愛らしく思えて、ラビはまたアリスの頭を撫でる。するとみるみるアリスの顔は赤くなったが、抵抗はしなかった。精々抵抗と云えば、

「…は、恥ずかしいから、やめろ」

と小さく呟いて拗ねたようなそぶりを見せた事だったが、それはラビからしたら頭を撫でて欲しいと云ってるようにしか取れなかったので、今後は何かある毎に頭を撫でて褒めようと思った。恐らくこの時から、否、或はお互いを意識し出したのはもっと前からかも知れないが、その気持ちを自覚し始めたのはこの時からではあるだろう。
アリスは自分を今までない接し方で接してくれた彼を特別な感情で見始めたし、ラビもまたアリスの在り方に惹かれた。今まで白兎で話して来た誰とも異なった反応と姿勢を見せるアリスの姿は、実に良く映ったのだ。
彼等はお互いに、恋愛感情を持ち始めたのである。






そんな事があった数日後、アリスはまたラビの部屋に来て英語の本を読んでいた。以前に比べたら読む速度も上がったな、そうと思いながらラビが見ていると、アリスの髪に小さな埃が付いているのに気が付いた。何気なく取ろうとし、利き手である左手を伸ばす。それに気付いたアリスが顔を上げた。そして驚きに目を見開く。

「…え、」

ラビの手が髪に触れ身体が近付くと、自分の相手への感情の何たるを自覚したアリスは顔を赤くする。状況が解らず後ろへ身体をのけ反らせようとしたが、椅子の背もたれはそれを許さなくアリスの身体は動かない。

「ラビ、近、」
埃が取れた時、ラビはそのアリスの言葉でお互いの顔が至近距離になっていたのに気が付いた。次いでアリスの顔が真っ赤になっているのが解って首を傾げそうになったが、近い、との言葉とこの状況下、アリスのその反応で大体を察せた。まさかそのような純情な反応をされるとは思ってもなかったラビは面白くなって、悪戯心で右手をアリスの頬に添えた。単純な悪戯心でもなく、実際したい衝動も孕んだろう。
するとアリスは面白い程に肩をびくりと震わせる。意識されている事に気を良くしたラビがまるでキスをするかのよう顔を近付けると、とうとう堪え切られなくなったのか、

「――〜っ」

アリスはがたん!と思い切り大きな音を立て椅子から立ち上がると、走ってラビの部屋を出て行った。本にまで注意を払えなかったのかそのまま置かれた本と開かれた扉を見て、ラビは右手をそのままに目を瞬かせた。まさか逃げられるとは思ってもなく、彼の行動は予想外のものである。然し彼の顔は確かに赤く、拒否ではなく思わずの行動だと解った。ラビは右手を直すと、その純情な反応を思い出し、


「……可愛い」

ぽつりと零した。


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