英国U




アリスの背中が遠ざかってから、エナメルボタンの付けられたネイビーブレザーを羽織る一人の青年がお城の方面からやって来た。赤色の右目に包帯を巻く白髪の彼は、バスケットを持たぬ右手を上げてグリムとプリケットに挨拶をする。すると賢そうに目を吊り上げていた彼女の目は瞬く間に柔らかくなり、頬は一気に赤らんだ。ピッチフォークを後ろに隠し、彼女は先程の強気な態度は何処へやら、吃りながらも言葉を紡ぐ。

「ララララビ様、ど、どうなさいましたのでしょう」
「門番は大変だろうと思って、差し入れを持って来た。レモネードと、マーマレードを塗ったオレンジワッフル」
「ま、まあ! あたくしの大好物をっ」
「……おや。彼は?」

自分の為にと感動して瞳を潤ませる彼女の横で、ラビと呼ばれた青年はアリスの背中を見てグリムに問う。すると白兎への加入希望者だそうですと返すので、ラビもまた驚きに小さく目を見開いた。彼の大量に嵌めたピアスと左手の親指に嵌めた指輪が、日の元で光る。

「…で、追い返してしまったのかい?」
「いえ、クイーンを捜して来るようと」
「…。酷じゃないか、そんな事をさせず中に入れてあげれば良かったのに」
「ですがラビ、彼が何処の誰とも解りませんし、強さも如何程かは解らないのですよ――」

グリムが云い終わると同時、門前に設置されている赤色の電話ボックスが鳴る。白兎内の電話や内部の者と繋がる電話が鳴ると云う事は、誰かが此処に用があるのだろう。クイーンかも知れないとグリムがボックスの中の受話器を取ると、電話の相手はクイーンではなくボロームだった。珍しいと思うも、会話を聞いてグリムの呼吸が停止する。ボロームの声は大きく、プリケットとラビの耳にまでよく届く。

『ああ、グリム様か。丁度良い、そっちに日本人の坊主が向かうと思う』
「……え…」
『俺が保証する、ソイツを入れてやってくれ。じゃあそれだけだ』
「ちょっと待っ――」

がちゃんっ。電話は直ぐに切られ、グリムは受話器を持ったまま立ち尽くす。当然日本人の坊主とは今の青年を指すのだろう、然し彼はもう行った後だった。信用のおけるボロームが云うのなら、彼を入れても支障はない筈だ。グリムが罪悪感に苛まされて顔を蒼白にしていると、隣でラビがわざとらしく息を吐いて云うものだから、グリムは先程の彼が無事にクイーンを直ぐ見付けられるようと、そっと祈っておく他がない。


「…可哀相に」

ラビのこの言葉は確かにそうなのだ。英国以外にも平気で出るクイーンを捜せとは、本当に無茶な話ではあるのだから。






「……で、そのクインテット様とやらは何処に居るんだ…」

表通りまで出て来たは良いものの、判明しているのは名前と容姿だけだ。明確な場所は解らなくとも、この辺りだとの漠然とした場所ですら教えられてはない。これは今更だが相当手間も時間もかかる任務ではあるまいか、アリスは途端絶望感を味わう。お城の中から見つけ出せとの範囲が限られたものでもない。此処ら一帯の英国に居るとも限らない。加えて自分には土地勘がないのだ、この見知らぬ土地で誰か一人を見付ける等、到底不可能ではあるまいか。
考え、アリスは首を横に振る。弱気でいても何の解決もあるまいし、此処で佇立してて向こうから勝手に来てくれる可能性は0に近しい。自分で動かねばと考えて、彼の居そうな場所を回ってみようと決める。容姿的に、少年ならば玩具が好きなのではないか。来る途中見た玩具屋でも見てみようかとお店の方まで行く事にする。




玩具屋も、博物館も、美術館にも居ない。歩く人々にこんな容姿の少年を見なかったかと尋ねるが、彼等は皆ノーと答える。第一、金髪と緑の瞳なんて溢れた見目ではあるのだ。そこまで特徴がある訳でもないから、彼等も若干困ったようだった。
そうこうひたすら走り回る内に、アリスは疲労して来た。休みなしで数時間一人を捜し回ると云うのは、中々骨が折れる作業のようだ。辺りは徐々に暗くなり始め、元の場所から相当離れた場所に出たアリスは膝を押さえてうなだれる。今日中に捜し出そうと云う魂胆が、そもそも無茶であったのだ。
一ヶ月は無理でも、一週間程度ならホテルに宿泊出来るお金はある。長期戦になる事を覚悟して、今日は辺りが真っ暗になったら何処かしらに泊まろうと決めた。真っ暗になるまで、後数時間はあるだろう。それまでは捜し続けると決意して、身体に鞭を打ったその時だった。

「さあさあ、人形劇が始まるよ」

シルクハットを深く被って眼鏡を掛けた高身長の男が、口角を上げて閉まった店の前でそう云った。見ると彼の回りには子供達が集まって、今か今かと人形劇が始まるのを待っている。気になったアリスは休憩も兼ねて、その場から様子を見ていた。
男は暗闇色のマントを羽織った背中を深く深く丸めてて、両手には白手袋を嵌めている。然しよく見るとマントと白手袋の間から見える手は機械であって、義手であるようだった。彼の顔は眼鏡と深く被られたシルクハットの所為で、よく見えない。
子供達は皆飴を片手に持っている。それを見て、まるで大日本帝国の紙芝居の風景だとアリスは思った。尤も、雰囲気は大いに異なる。一体どんな人形劇をするのだろう、アリスは然し人形劇よりも、次には別の方へ意識が行った。

――子供に紛れて、一人の小さな少年が裏からやって来た。ビスクドールのような彼は金糸のような金髪とエメラルドのような緑色の双眸を持っていて、藍色の膝上ズボンから出る下肢は華奢だ。そして襟には藍色のリボンが結われている。彼はアリスに気付いた様子もなく、人形劇を見るべく兎の形をした飴を片手にそこに立った。アリスの心臓が速まる。グリム同様滲み出る気品、恐らく彼こそクインテットだった。

まさか人形劇で出て来るとはと思うも、少年なら充分有り得た。人形劇が始まる前に、アリスはクインテット――則ちクイーンへ近付く。長い睫毛と桃色に色付く唇、確かに人形とは言い得て妙だ。そして人形である彼が人形劇を見るとは、また何とも面白い。
アリスはクイーンの側に行き、声をかける。するとクイーンは振り向いて、然し見覚えのないアリスへ小さく首を傾げた。純粋に見上げる彼の瞳は大きく、本当に同性で、しかも最高権力者であるのかと疑う程だ。何処か小動物を連想させる彼は、紛れもなく愛らしい。アリスは一応と確認を取る事にする。

「クインテット『さん』、ですか」
「……そうだけど、僕が何か?」
「白兎の事で話が」

矢張り彼がクイーンで違いはないようだ。アリスが奇跡に感動しながら早速話を出したところ、ところが彼は可愛らしい容姿を不機嫌に顰めた。睥睨され、アリスは訳も解らず驚く。クイーンはポケットへ飴を突っ込むと、アリスへ強く言い放った。

「未だ僕は白兎に帰る気はないから」
「え?」

それだけを云うと、クイーンは踵を巡らして走って颯爽と居なくなる。アリスは状況が把握出来ずにその場で去り行く背中を見送ったが、数秒して逃げられたのだと把握すると焦燥し走って後を追う。どうして逃げられたのかも帰る気がないのかも動悸は全く知らぬけども、折角見付けた彼をみすみす逃す程の愚行もまた中々あるまい。

全力で走るも、クイーンもまた速く距離は中々狭まらない。それでも身長差から必然的に生じる足の長さでアリスは徐々に距離を縮め行く。走る途中で何度も待つよう声を出して懇願するのだけれども、クイーンが止まる気配は一行にない。アリスは段々苛立って、走りながら悪態を吐いた。捜し回って疲労しているのに、見付けてからも疲労の嵐だ。こんなにふざけた話はない、クイーンはアリスの呼びかけもどこ吹く風で通りを曲がった。
そして白壁一帯のゴンドラの浮かぶ運河の前まで行くと、クイーンは浮かぶ『ゴンドラの上へ飛び、走ったまま数々のゴンドラの上へと飛び乗って向かいの岸まで向かう』。ゴンドラは波に揺れ、不安定に動く。それを躊躇もなく彼は勢いをつけて次々飛び乗る訳なのだが、向かい岸に行くには確かにあの方法しかなさそうだ。アリスは一瞬怯むも、自分も走って1番近くのゴンドラに飛び乗る。そして揺れる中で次に近いゴンドラに飛び、向かい岸へ向かった。クイーンが最初飛び乗った所為でゴンドラは不安定さを増してたが、バランスを取って最後のゴンドラに飛び乗った。時である。

――向こう岸で待機していたクイーンが、右手にオールを持っているのが目に入る。そして彼はそれを構えると、遠心力を利用して思い切り――アリスの脇腹目掛けて振った。驚愕に目を見開くアリスの脇腹へ、重量あるオールが見事にぶち当たる。アリスはゴンドラの上でバランスを崩すと重力に従順に身体が倒れ、声を漏らす暇もなく運河へと落ちる。派手な飛沫が上がる中、クイーンはオールを戻すと1人で逃げて行った。
残されたアリスは水から顔を出すと、何とか水から上がり濡れた髪を掻き上げて水滴を落とす。服は水浸しで靴はがぽがぽ鳴る状態で最悪だ。然しクイーンの背中が未だ見える、アリスは外套をその場に捨てると腕を捲って再び走り出した。周囲を行き交う人々がずぶ濡れのアリスを稀有な目で見るものの、脇目も振らず追い掛ける。帯刀した日本刀が激しく揺れ、音を立てた。
曲がり角を左へ曲がるクイーンに次いで己も曲がると、眼前に樽が迫って来た。恐らくクイーンが投げて来たのだろう、アリスは抜刀して樽を叩き斬る。すると走りながら振り向いたクイーンは口笛を吹き、「ジャパニーズソード!」と楽しげに笑った。そしてクイーンが前を再び見た時だった。
クイーンの前を、馬車が横切る。予想外の障害物にクイーンの動きが止まった。そしてそれを見逃す程アリスも愚鈍ではなくて、アリスは距離を一気に詰めるとクイーンの腕を掴んで床へと押し倒した。

押し倒されたクイーンは痛そうに呻くも、拘束された手は緩まない。顔へアリスの水がかかり、不機嫌に眉を顰めてアリスを見上げる。然しアリスは顔が近距離のまま、予期せぬ疲労混じりの言葉を放つものだから――。

「…し、ろ兎に、入りたいんですが…」
「………。…ふぇ?」

口からは素っ頓狂な声が出た。






「――全く、最悪。余計な汗をかいた」

白兎内部。そこではクイーンが不機嫌さを全面に表して剥れていた。どうやらアリスが白兎加入希望者であったとは思わず白兎に呼び戻しに来た誰か(白兎の全員をクイーンは覚えているからグリムが依頼した外部者等)と勘違いしたらしい、最初からそう云って欲しかったと、クイーンはご立腹だった。彼の英語は速くて聞き取り辛いが業腹であるのは理解出来、アリスは未だ完全に乾いてはない自分こそ最悪ではあるものの、何処か肩身が狭くも思った。それでもこうして白兎の中へ入れては貰えたし、彼を掴まえるミッションを達成したのだから、恐らくは白兎に入れて貰えるろう。まさか今日中に帰って来るとは考えもしなかったグリムは心から驚いた。

「で、ボロームから連絡が来たの」
「ええ、是非入れるよう…と」
「…まあ僕を一応は掴まえたし、反射も悪くなかった。確かに入れても大丈夫だし、部屋は未だあったね」

二人の会話の単語を幾つか摘む限り、恐らく追い出される可能性はなさそうだ。アリスは安堵するも、英語が上手く出来ぬ内は未だ完全なる安心は出来ない。それにあのラビと云う人物は何処に居るのだろう、アリスは中を見渡した。
お城である白兎の中は外観と同じく立派で、上には豪奢なシャンデリアが絢爛としている。扇形に開かれた階段は実に立派であり、通路には絵画が並び、金色の手摺り一つを取っても高級さが窺える。華美だがそれは上品な気品を保ち、厭な趣味を見せはしない。ロリナの家も相当立派だが、次元が違うように思えた。これから此処で自分がやって行けるのかとアリスが視線を動かしていると、クイーンがある青年へ指示を出した。

「ラビ、先ずは彼を部屋に。それと暫くは馴れないだろうから、仕事は与えなくて良い。基から彼は居なかった、そう思えば支障も何も無いから」
「解った、クイーンは?」
「僕は疲れたから今日は部屋に戻る」

クイーンはそう云うと実に素っ気なく、アリスの顔も見ず行ってしまう。嫌われたのかと思ったが、彼は気難しいとボロームも云っていたのであまり気にしない事にした。それより、今彼はラビと云ったか。多分船員が称賛したラビに違いあるまい、アリスは視線をそちらに遣る。そして目が合うと、呼吸を一瞬奪われた気がした。
白色の髪に、赤色の瞳。右目には包帯が巻かれており、彼の耳には多くピアスが付けられている。ネイビーブレザーを纏う体躯は綺麗で、高身長であるなら顔は勿論彼等の云った通り。成る程これで性格も良ければ腕前も良いのなら、称賛されるのも頷ける。同性の自分でもそう思うのだ、異性なら増してそうなのだろう。ラビはアリスに笑顔を向ける。

「初めまして、本官はラビだ。お名前は?」
「あ…俺は、アリスです」
「…アリス?」

日本人であるアリスを気遣ってか、ラビが使う英語はゆっくりで聞き易い。アリスと名前を云うと、ラビは珍しそうな顔をした。アリスと云う名前は女の子の名前なのだ、珍しいに違いあるまい。この名前を珍しがられる事は多かったし、先程のクイーンに至っては『君ってば似合わない!』とまで云われた程だ。親から女として付けられた名前なのだ、コンプレックスにならない訳がない。
多少の忸怩たる思いを抱き、アリスは気恥ずかしさに小さく俯く。然しラビは握手を求めるよう右手を差し出すと、顔を上げたアリスにもう一度微笑んだ。そうして例のアメリカの派手なミュージカル映画のワンシーンを真似、彼は綺麗な英語で云ったのだ。

「――…『不思議の国へようこそ』、アリス?」






ラビは部屋に至るまで白兎を案内し、様々な話をしてくれた。エレベーターの使用法や大広間の概要を教授して、部屋に着くとまた部屋の話をしてくれる。英語は聞きやすく、ボロームから教わった幾つかの知識で何とかなった。解らぬものを聞き返せば、ジェスチャーを交えて簡単な英語で砕きながら教えてくれるので有り難い。確かに困った事があればラビにとは、本当であるようだ。
アリスの部屋は空き部屋だったので多くの家具がある訳ではなかったが、生活するには充分と云えるだろう。自分の性格上あまりあっても落ち着かないので、丁度良く思えた。

「…風邪を引くといけないから、シャワーを浴びた方が良いかも知れない。此処を回せばお湯が出る。タオルはあそこ。着替えは…クローゼットに」

ラビがクローゼットから開けて来て取り出したのは、彼が着ているような服だった。ブレザーとスーツ、ネクタイやシャツの一式がある。サイズは合うだろうかとラビがアリスの身体にシャツを当てると、少し大きめであるようにも見えた。着られない事はないだろうが、折角なので仕立てた方が良いと云う。仕立て屋が白兎には居るそうだ。
ネクタイを不思議そうに見たアリスに、アリスのシャツへ実際巻いて結び方をも教えてくれた。変なものを巻くのだなとアリスは思ったが、こちらでの嗜みなのなら結ばねばならないだろう。頭で結び方を反芻させ、何とか覚えた。

「…一先ずはこんなところかな、また解らない事があれば本官の部屋にでも来てくれれば教える」

自分の部屋の位置までを教えてくれるので、本当に良い人だとアリスは感動する。まさか此処まで手厚く扱ってくれるとは思いも寄らなかった、これなら英語を教えて貰えもするのではなかろうか。
他に何かあったろうかと考えているラビに「あの」と声をかける。首を傾げたラビへ多少の抵抗を感じながら、聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥である――と、アリスは思い切って口を開いた。頬は恥ずかしさで小さく赤へと染まる。

「…英語、が、あまり話せないので…良ければ教えて貰えませんか」


ラビは驚いたようだった。




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