英国




「…短い付き合いだったが中々楽しめたぞ、アリス」

数日後。白兎の船は英国まで到着し、晴れてアリスは港に居た。彼等は皆明るく接してくれて、中へ蓄積される不安も払拭出来た。船長のボロームは実に博識で、異国には無知なアリスに様々な知識を教授した。食事の仕方や通貨の数え方、英国ではよく雨が降ると云う事実、日本との価値観の相違等。しかも彼はお金を全く持たぬアリスへ、ストロと云う通貨を幾つか渡してくれた。戦後、崩壊した経済を上手く稼動させる為、諸国が会議して出来た新しい通貨なのだそうだ。紙幣と金貨の両方を貰ったが、それには王冠とエンブレムが描かれていた。
…只、この短期間ではボロームと船員一同がどうにもし難い事柄もあった。晴天の元の港、ボロームは赤らんだ鼻を掻き、少々決まりが悪そうに云う。

「それと坊主の悲惨な英語、何とかしろよ。…英語の基礎力がてんでないから難しいかも知れんがな」

そう、アリスは結局白兎に行くまで英語を獲得は出来なかった。明らかに時間が足りなかったのは勿論の事、そもそも文法も単語も基礎知識が全くなく、大日本帝国にあったあの英語の本も初心者向けのものとは云い難かった。これはアリスの飲み込みの問題ではなくて、大日本帝国のありようの問題だった。日本語以外の言語に触れた事がない人物が、本一冊の独学で何とかしよう等は、最初から無茶な話ではあったのだ。お陰で変な癖までついていた。
一先ずその癖を修正させ、簡単な英語はどうにか教えた。それでも満足行く会話が出来るかと云えば、果てなくノーだ。無論白兎に入る為に必要であろう英語は真っ先に教えはしたが、アリスも自分でもそれは不安ではあるのだろう。眉を下げたアリスにボロームは困って今度は頭を掻く。白兎まで自分や船員が着いて行ければ良いが、自分達もまた直ぐ船を出さねばならない。仕事を犠牲にしてまで、一人の青年に尽くせない。ボロームは励ますよう、明るいトーンを作った。

「ま、まあ英語なら白兎でも教えて貰えるだろ」

すると船員も空気を読んだのか、一同一帯となって賛同を始める。白兎自体がそもそも世話焼きの集まりなのだ、屋敷の中の誰かが何とかするには違いない。となると上の権力者達だろうか、船員達は口々に云う。

「どうせ教えるなら綺麗な英語を話す方々じゃないのか」
「発音が一番綺麗なのはやっぱりクインテット様だろうか」
「いや、ラビ様だろ」
「確かにそうだな。坊主、都合がつくようだったらラビ様に英語を教えて貰え」

ボロームが納得したようアリスの肩に手を置いてそう云う。すると船員達は一気に『ラビ』の情報をアリスに与えてくれる。身長は高く、顔は兎角良い。銃の腕前は確実に世界一で、頭の回転も速いのだと皆が皆称賛し始めた。船員達は海を渡っての仕事が主らしく、言語はあらかた話せるとの優秀な者達で、全員がアリスを気遣かって日本語で話してくれるのは有り難かった。有り難かったが、こうまで勢いよく誰かも解らぬ情報を与えられては堪らない。
聖徳太子ではないアリスは、困った顔で疑問符をつける。

「……ラビ?」
「白兎の名前の由来人物だ。見た目で解る、本当に白兎だからな」
「ラビ様はサディストだが優しいから色々聞くと良い」
「心から頼れる人だしな。何かあったら頼るべきだ」
「はあ…」

アリスは未だ見ぬ『ラビ』に思いを巡らせる。容貌を思い描いてはみるが、正に白兎と云われても今一つ想像が付かない。まさか兎の頭を被っている訳でもないだろう。それでもこうして全員が口を揃え手放しで褒めちぎるのだ、人徳があるには違いない。何も知らぬ自分が変な事をしでかすよりは、白兎を知り尽くす彼等の言葉を信じた方が良さそうだ。アリスは取り敢えず、彼等に教えて貰った道筋通りに白兎に辿り着く事が出来て白兎に入る事が出来たなら、ラビと話してみようと決めた。
ボロームはアリスの肩から手を離すと、握手するようその手を前に差し出す。アリスも握り返すとボロームは口角を上げ、歯を剥き出しにして笑顔を作った。

「良いな、教えた道筋を行けよ」
「ええ。有り難う御座いました」
「なあに、同志なんだ。後で俺から幹部…は連絡がつかないだろうから、副幹部に連絡しておく。上手くやれよ」

悪戯げにウィンクをして、アリスと手を離す。はにかんで頷くアリスを微笑ましげに見て、白兎に向かう彼の背中を強く見送った。手を豪快に振り、大声で別れを告げる。然しそれは本当の別れではなくて、またの再開を祈るものでもある。

「じゃあなアリス、また白兎で会う事もあるだろう!」

ボロームはアリスの背中を見送りながら、自分の息子がもし生きて孫を産んでいたのなら、あれ位の年齢になっていたろうかと思う。髪色も目の色も全然違くはあろうが、アリスのあの真っ直ぐで質朴な様は良き息子と話しているようだった。不思議に人を魅了するあの性格故に、無自覚の内に人を虜にさせるのが上手かった。人を気遣える優しさもあれば向上心を見せる強さもあり、その健気とも形容出来る姿は愛おしく思える。実際、見目のなせるものだけでなく船員の中には本気でアリスに射止められた者だって居る程だ。それを孫と重ねるだなんて自分もとうとう歳か、思いながらボロームは帽子を深く被る。
そして帽子で顔を隠したまま、気丈に船員達へ声をかけた。

「さあ手前ら、とっとと次の仕事だ!」






アリスが初めての異国で感じた事は、「凄い」だった。
並ぶ建物は立派で、走る赤色のバスには一々驚かされる。歩く人々の身長は高い。アリスは自分は大日本帝国の中では大きな方だった為、少なくとも小さくはなかろうと自負はしていたけれど、平気で自分より大きな同性達が居るからその自負が危うく揺らぐ。髪の色や瞳の色も全然違い、アリスは観光客の如く視線を様々な方へ動かす。大日本帝国の雰囲気とは大きく異なり、英国は自国より数段明るく思えた。異国を初めて見るアリスは暫く興奮を隠せずいたが、直ぐさま自分の目的を思い出し首を横に振る。自分は遊びに来た訳ではあるまい。
…それでも矢張り、好奇心はある。ショー・ウインドーの向こうの玩具やテディベアが珍しく、暫し足を止める。隣のお店ではカラフルなキャンディやチョコレートを売っているし、向かいの仕立て屋では見た事もないスーツが並ぶ。服装も何もかも違い、アリスは自分の世界が如何に狭かったかを知った。そして自分の姿を思い出し、大丈夫だろうかと少々不安になる。
古臭い外套と黒髪黒目、帯刀した日本刀。明らかに場違いであるのは確かで、冷静になると視線が来ているのに気が付く。大日本帝国では珍しい格好ではないものの、此処英国ではシルクハットにステッキ、それとスーツでないと些か目立つのだ。日本人なんて先ず来ないから、好奇の視線はよく刺さる。アリスは人々の視線にいたたまれなくなり、早足でその場から逃げた。


ボロームが教えた通りへ入り、裏の方へと入る。人は一気に見えなくなり、日当たりは少なくて薄暗い。犯罪が起こっても可笑しくなさそうな場所だとアリスが思っていると、石壁の隅には擦れた布切れを纏った一人の乞食が膝を抱えてうずくまっているのが見えた。
開店しているのかも解らない店達の前を歩き、赤煉瓦で出来た突き当たりの店の前で止まる。仕立て屋であるそこの蜘蛛の巣つきの看板には、汚れた字で「兎穴」と書かれている。何年も拭いてなさそうな窓から店内を覗くと、中では丸眼鏡をかけた老人が1人で葉巻を銜えながら新聞を読んでいる。
此処だと確信すると、アリスは扉側へと回って錆び付いた金色の蝶番を回す。茶色の扉は音を立てて開き、中の老人は初めて見るアリスを不審そうな顔で見た。真ん中が禿げた白髪の彼の肩にはメジャーが掛けられて、左手にはピンクッションが巻かれている。机の上には金色の糸切り鋏や黒色の糸が散乱していて、隣では錆びたミシンが申し訳なさげに佇立している。中のランプは点けられてはなくて、外より一層暗かった。アリスはボロームに云われた通り、彼に声をかける。

「すみません、兎を見ませんでしたか」
「兎?」
「ええ、懐中時計を持って、チョッキを着た白兎を」

すると老人の目がぎょろりと動き、アリスを品定めするかのよう無躾に眺めだす。アリスは少し気圧されるも、そのまま老人の動きを待った。何回も復唱はしたからスペルを間違ってはないと思う。
立派なシャツとジレーを着た老人は数秒して、葉巻を口から外すとしわがれた声で返す。

「…知らないね」
「でも、兎の入った兎穴に用が」
「猫は?」
「置いてきました、残念ながら」

そこまで云うと、老人はゆるとした動作で立ち上がる。そうして丸めた腰で歩き、左から二番目の本棚へ近付く。迷わず背表紙に金色で兎の描かれた臙脂色の分厚い本を取ると、――本棚が静かに横へとスライドし始めた。アリスが驚きに目を見開く中で、動く本棚の後ろからは扉が露となる。アリスが実際に見るのは初めての、隠し扉である。
お店の扉とは違って綺麗なままの茶色の扉は小さくて、身を屈めて入るような扉だった。老人は金色の蝶番を引き、アリスを見る。どうやら此処から入れと云う事であるらしい、アリスは一礼すると屈んで中へと入る。
身体が全部入りきると、直ぐに扉を閉められた。そして本棚が再び動く音。恐らくもう戻られないのだろう、アリスは意を決して前を見た。


ランプが一定の間隔で掛けられたその中は洞窟のようで、冷たくて暗かった。一本道で、通路の果ては見えない。音がするものは何もなく、迷う事もなさそうだ。アリスは白兎へ向かって歩き始める。



どれ程歩いたのか、アリスは解らない。際が見えなくては不安が過ぎり、もしや騙されているのかとも思えた程だ。然しあのボロームが嘘を吐くとは思えないし、自分が『暗号』を間違っていなければ問題はない筈だった。歩く中で視覚に入れた動くものと云えば鼠位であり、この空間の空気で息が詰まってしまいそうだ。
それからもう暫く歩くと、クリーム色の大きな扉が見えた。漸く出口であろうかと、アリスが顔を思わず緩ませて重厚な扉を開ける。すると強い外気が一気にアリスを包み込み、反射で目を細める。そうしてアリスが次に目にしたのは、
――広がる広大な土地と、真ん中に構えるお城だった。


お城のような、ではない。本物のお城で、その高さも奥行きも横の長さも、何から何まで想像を絶する。アリスは顔を上げ、口を暫く開けたまま固まった。大日本帝国で最後に小鳥遊と見たお城とは、風格が異なる。クリーム色を基調として淡い青色の屋根を持つそのお城は一体どれ程の費用と日数をかけて建築したのだろう、立派な財産であるそれは見る者全ての目を奪う。
お城の前には湖と、その先には薔薇園が広がっている。赤色の薔薇がひたすら犇めき、来る者を歓迎すれば来る者を拒んでもいそうだ。予想したあらゆる外観とは全く方向性を異にしてて、今更恐ろしくなった。白兎の最高権力者である幹部と副幹部は貴族だと聞いてはいたものの、桁違いの貴族であるそうだ。英国で三本の指には入ると聞かされたが、それは誠のようだった。

一先ず門まで向かおう、とアリスは歩き始める。此処からでも見える門は立派で、繊細な装飾は何を象っているのだろうか。歩きながら自分のような何処の馬の骨とも解らぬ者を登用してくれるのかとの考えも生じて来るが、ボロームが連絡すると云ったから大丈夫だとは信じたい。本当に彼等の船に出会えて良かったと思ったが、未だ解ったものではない。テンプル騎士団と縁があると聞く幹部は些か気が強いらしく、機嫌を損ねてはならぬとの事。幹部と交渉するよりは、ラビと話すと良いだろうともボロームは云った。一体どんな人物達なのかとアリスが考えを巡らせていると、漸く見えて来た門の前、1人の女性が立っている事に気が付いた。

――女性と云うには未だあどけなさの残る彼女は、訪問者であるアリスをひたと見つめていた。ドリルのような縦ロールをリボンで二つサイドで結び、床に付くまでの長さのローブを羽織っている。ローブの下に見えるシャツの衿元では馬に乗った2人の騎士の描かれたループタイが光ってて、彼女の右手にはピッチフォークが掴まれていた。
彼女はアリスが近くまで来ると、ローブの中から覗く短めのふわりとしたスカートを揺らし、長靴下とブーツを履いた下肢で立ち塞がるよう門の真ん中に立つ。ブラウン色の眉を上げて胸を張り、堂々と言葉を放った。

「ようこそいらっしゃいませ、白兎にご用でしょうか」
「…あ、俺は…」
「あたくしはプリケットと申します。白兎の門番を担当しておりますわ、以後お見知りおきを」

はきはきと物おじせず云う彼女の長いローブは、何処か二十日鼠の長い尾を連想させる。それを云うなら饒舌に話す彼女の様それこそが、話好きの二十日鼠そのものだ。彼女の鋭く素早い英語にアリスは確実には聞き取りは出来なかったが、雰囲気と幾つかの単語でプリケットが白兎の門番とは解る。然しもう少し穏やかに話して貰いたいと云う本音は、英国で望みは出来ないのであろうか。その間も彼女のブラウン色の双眸はアリスから離れない。プリケットは日本人と解る彼へ気遣いを一切せず、瞳と同じ色の縦ロールを揺らしながら再び口を開く。

「どなたにご用でしょう」
「…か、幹部に」
「クインテット様は今は居られません。また日を改めてお越し下さいませ」
「へ」

プリケットはそう云うと、帰るように促すかの如く噤口した。どうやら幹部は居ないらしく、通しても貰えぬようだ。まさか知り合いも居なければ勝手も違う英国でまた改めて来る訳にも行くまい、アリスは今日で全てを終わらせる気であったのだ。そこを何とかして欲しい、と伝えようと頭を必死に駆使して彼女に話し掛ける。至極鬱陶しげな顔をした彼女は然し、アリスのなってない英語でも大体云わんとせん事は理解したのだろう、今度はゆっくりとした簡単な英語で返事をした。然し顔立ちはキツめのままだ。

「…クインテット様は何時戻られるのかあたくし共でも解りません。最悪一ヶ月は外されます」
「一ヶ…!」
「故に、中で待たせる事も出来ません。お引き取り下さい」

自称人助けの為に白兎を外す事があるとボロームから聞きはしたが、この事であるのだろうか。然し一ヶ月は長すぎる、ボロームから貰った金額ではそんなにもホテルに宿泊出来はしないだろう。然しそれならば副幹部かラビと云う人物に会わせて貰えば良い、そもそも白兎へ入りたいのだと彼女に云えば良いのではないか。アリスが口を開きかけたその時である。

「どうなさったのですか?」

門の向こうから、王子様のような見目の男性がやって来た。お城と彼の組み合わせとは実に合っており、彼の着る大きめなピークドラペルのスリーピーススーツは綺麗に整えられていて、余程高級と見える。高貴さが彼の内面から滲み出て、彼が所謂『お坊ちゃん』であると云うのは誰でも解る事だ。蜂蜜色の癖毛をした彼は、水色の双眸でアリスとプリケットを見比べる。プリケットは彼――グリムと視線を合わせ、訪問者です、と云った。

「クインテット様にご用であると云うのですが」
「ああ…、クイーンは今居ませんからね。私で良ければ相手は出来ますが……、どうされました?」

グリムから王子様の微笑みを向けられて、突然尋ねられたアリスは内心で狼狽した。然しそれは噫にも出さぬようにしようとし、堂々と自分の目的を答える。白兎に入りに来たのだと云う事。
するとグリムは驚いたのか、水色の双眸を二度瞬かせた。白兎への加入者が最近あまり居ないと云うのは本当で、まさか自分から望んで来るような者は奇異でしかない。人数は何百人とは居るけれど、大抵は変わり種ばかりだ。自分と接点が全くない人間を、危険を犯してまで救おうと考える愚者はそうそう居る訳がないのだ。珍しいと思いながら、グリムは少々困る。確かに加入希望者ならクイーンに云うのが妥当で、自分が決められたものではない。それに彼の腕前が如何程か解りはしないのだ、見たところ日本刀を持つのだしまるっきり闘えぬと云う訳ではなさそうだけど――。

「…それでは、こうしましょう。クイーンを捜して来て頂けますか?」
「捜す…?」
「ええ、彼を此処まで連れて帰って下されば話も出来るでしょう?」

そう云われては、拒否権等ある筈があろうか。アリスは困った事になったと思いつつ、仕方なくそれに首肯した。グリムから特徴を聞かされて、アリスは眉を顰める。一番お偉いだと云うのに、そうは思えぬ特徴なのだ。――金髪に緑の瞳、ビスクドールのような容姿、小さくて華奢な体躯、襟に藍色のリボンをしたクリーム色のシャツと藍色の膝上ズボンの少年である、と。
アリスは訝しむが、それでも信用する他はあるまい。
白兎を後にして、アリスはクイーンを捜す事にする。



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