出航U




小鳥遊がアリスの傷口が意外と深い事に気付いたのは、丁度その時だった。ならばそれを狙うのが道理だ、庇うような動きをするアリスの脇腹目掛けて執拗に軍刀の刃を向ける。アリスはそれを悟るも、彼の軍刀の攻撃を懐刀で防ぐので精一杯だった。軍刀と懐刀では長さも重さも全然違う。一層不利なアリスの懐刀は力を込められた小鳥遊の一撃で弾け、アリスは怯んだ。
その隙を見逃す筈もなく、小鳥遊は距離を詰めるとアリスの胸倉を掴み、再びアリスを押し倒す。そして馬乗りの状態で軍刀を反対にすると、アリスの傷口へ容赦なく柄頭を押し付けた。肉を潰されて否応なしに出血を迫られる感覚に、アリスの口から悲痛な声が出る。

「あ゙ぁ゙ッ、あ…!」
「…良い声です」
「――ッ!!」

巧笑する小鳥遊は軍刀を外すと再び回転させ、今度は刃先でアリスの左足を刺した。刔られる感触に声も出せず鋭く息を呑むと、中で刃を回されてアリスは短い悲鳴をあげる。軍刀が抜かれて酷く脚が痛むも、乱れて荒いだ呼吸を整える暇も与えられずに首を左手で締められた。喘ぐアリスの息を止めるよう、添えた親指へ力を入れられる。ぐり、と喉頭隆起を潰されると激しく咳き込んだ。苦しむアリスを見下しながら、小鳥遊は力を緩める事もなく、抑揚のない言葉を紡ぐ。

「…このまま殺してしまいましょうか、どうせ貴方は死刑になる」
「っあ…が、っ…」
「ですが可笑しいですね? 貴方には最早何の感情もない筈なのに……、貴方の苦しむ姿を見ると、酷くぞくぞくします」

本当に不思議でならないのか、小鳥遊は淡々と事実を述べた。然し殺される間際のアリスは彼の言葉を受け止める事も出来ず、苦しげに顔を歪めたまま己の外套のポケットへと右手を動かす。小鳥遊に勘づかれぬようとそろりとした動作で、ポケットの中で鞘を外すと、もう一本の懐刀を取り出した。それを至極静かに動かして、小鳥遊の背中へ刃先を向ける。自分の顔から視線を逸らさずじっと見つめて来る小鳥遊の背中を、
――ずぶ、と刺した。

「ぐっ…!」

刺した彼の肉の感触は生々しい。小鳥遊の顔が歪み、首を締めた左手の力が緩む。拘束の力も緩んだ隙にアリスは右足を上げ、小鳥遊の腹へ振って身体を蹴り飛ばした。倒れた小鳥遊へ今度はアリスが馬乗りになり、そして襟を掴むとそのままの勢いで――額目掛けて頭突きを喰らわせた。
然し打撃を受けたのは小鳥遊だけではなく、頭突きをした側のアリスも脳が揺れる感覚に見舞われる。ぐらりと揺れる中、アリスは忌ま忌ましげに下で呻く小鳥遊へと吐き捨てた。

「…お前はどっちの意味でも石頭だな」

掴んだ襟を持ち上げて側板へ背中を叩き付ける。眉を顰めて睨み上げて来る小鳥遊の襟を掴んだまま、痛む脚と脇腹を堪えて片方の手で相手の左手を掴む。そして身体を回すとその勢いで足を払い、海面へ目掛け、

「この…ッ、駄目犬!」

小鳥遊の身体を思い切り背負い投げた。海へ落ちる姿を視覚で確認する事もなく踵を巡らして、波飛沫のあがった聴覚だけで確認すると、落ちていた自分の日本刀を拾い船橋へと向かう。すると扉を開ける前に船長らしき人物と遭遇し、アリスは好機とばかりに日本刀を彼の首へと突き付けた。暴力でどうにかする積もりはなく、忍んで乗せて貰う予定だったがこうなっては仕方ない。何が力を使って助けたいだとも自嘲するように思ったが、非暴力で物事を解決出来るような神のような人間になれるとも思わなかった。正当化ではなく単なる事実として、正義には必ず矛盾と葛藤が付き纏い、何時までもそれは不変なのだ。
西洋の顔立ちをした船長は、流暢な日本語で話す。

「…何だ、坊主。さっきから騒がしいと思ったら、乗っ取りか」
「…今すぐ船を出して下さい」
「下さい、な。随分物腰の柔らかいハイジャックだ、尤も右手のものは物騒だが」

白髭を生やした豊満な体躯の船長は、アリスの姿を上から下まで眺める。頑強な意思を持つ双眸と、脇腹と左足から流れる血。古臭い外套と日本刀からして、大日本帝国の人物である事は明らかだ。然し年齢は未だ若く見える。
それなりの仕立ての外套を着衣している事からも、大日本帝国で散々な仕打ちを受けたが故の逃亡を図っている訳でもなさそうだ。日本刀を持っていると云う事は、軍人関係か何かか。今までのハイジャックとは雰囲気を全く異にするアリスを訝しんだが、船長は頭を掻くと舌打ちした。葉巻を口から外し、顎で室内を示す。

「…仕方ねえな、船員の馬鹿共も殆ど来ちゃいねえが出航だ。おい坊主、お前も手伝え」
「……はい?」
「あ? 大日本帝国から出るんだろ、とことん可笑しな犯罪者だな。で、お前は一体何処に向かうんだ」

船長は腹を括ったのか、船橋の中に居た数名の船員に出航するよう指示を始める。反抗される事を覚悟していたアリスは呆気に取られたが、船長に今度は怒鳴られたので仕方なく日本刀を鞘に直して指示に従う事にした。脇腹と脚は痛むが、この際そんな事を云ってはいられなさそうだ。それにしても矢張り、船長の諦めの早さと云うべきか、物分かりの良さと云うべきか、堂々とした態度は異常だろう。
あまりの呆気なさにアリスが持たされた縄を抱えながら心中で首を傾げていると、船長は葉巻の煙を口から吐きながら、垂れた目でアリスを見上げた。彼の皴は深く、声はしわがれて歳は相当喰っている。

「…で、坊主。何処へ行くんだって聞いてるんだが、早く答えろ」

アリスは面食らったまま、然し目的地はしかと答えた。


「……英国へ」






海を走る船上の船橋で、アリスは痛む傷の手当てをする事にした。行李もなくて負った傷をどうするか案じていたが、船長から救急箱を渡されたのは有り難い。葉巻を吸う船長の隣で座ったまま外套を脱ぎ、上着を脱いだ。下に着た白いシャツには真っ赤な血が酷く滲み、アリスは眉を顰めた。シャツも脱ぐと上は肌着だけになり、面倒でその肌着も一気に脱ぐ。すると船橋で慌ただしく動いていた船員がざわめく声がして、アリスは顔を上げた。見ると彼等はアリスを見ているが、そんなに見られる覚えもない。傷口が相当深いのかと傷を見る。
そこは刔れてて、確かに凄惨ではあった。傷を広げた小鳥遊の所為だろう、アリスは思い出すと少々腹立たしく感じた。懐刀を入れた反対側の外套のポケットに実は小鳥遊との写真が入れられているのを、また悔しくも思った。ああして自分を刺してきた人物の写真を持つなんてとも思ったが、それでも写真を捨てる自信がない自分がまた腹立たしい。第一小鳥遊もまた彼の信条で動いたのだ、自分の信条で動く自分を棚に上げて小鳥遊を非難する事は、アリスには出来そうにもなかった。それに傷は自分も背中を刺したのだし、おあいこのようにも思う。

「坊主、野郎共の前であんま露出は…」
「はい?」
「…。何でもねえ。おい手前ら、ガキの身体に盛ってねえでとっとと仕事しろ、馬鹿共!」

船長の叱咤が飛ぶと、船員はアリスの細腰と胸から視線を逸らして急いで仕事に取り掛かる。たっくと怒気を孕んだ船長は不機嫌なまま、消毒するアリスの隣で尋ねた。

「…で、坊主は何だって英国に行きてぇって云うんだ」
「……それは、」

云うか否かを迷ったが、乗せて貰っている身でだんまりを貫き通すのも失礼かと思ったのか、変なところで真面目なアリスは答える事にした。それに英国までは相当の日数がかかるらしい、食料も替えの衣服も何もない身ではあまり反感を買わぬ方が得策だろう。自分が大日本帝国での営み以外は世間知らずな事も、未だ子供でしかない事も、聡いアリスは重々承知していた。
白兎の存在を話題に出すと、船長の眉は顰められた。英国には白兎と云う組織があり、その組織は人体実験で非道徳的に作られる『人間兵器』の計画を、壊す為に在るらしいと云う事。自分は大日本帝国で軍人になり異国の誰かを殺して自分達を守るよりも、人間兵器として使われる人達と、人間兵器から殺される人達を助けたいのだと云う事。一種の夢物語であり偽善でしかなくとも、自分が掲げる正義と共感するところがある、故に英国へ行き白兎に入れて貰うのだとアリスは云った。
船長は話を前を見ながら聞いていたが、アリスの話が区切られると白色の眉を上げ、アリスへと視線を向けた。

「成る程…な。…乗っ取りはよく居るが、大日本帝国に二度と帰れないリスクを背負ってまで坊主のようなふざけた理由でハイジャックして来る奴は初めてだ」

船長のその言葉から窺えるが、どうやら船を乗っ取る者は少なくはないようだ。確かに文明の退化し退廃的な大日本帝国よりも外国の方が都合の良い者も居るだろうし、それを云うなら東の日本の方が更に都合は良いだろう。大日本帝国の空気が皆が皆に合うとはアリスは思えなかったし、今までに国を違法に出た者も居るに違いない。
船長は立ち上がり、地図帳が広げられた机から赤色のペンと一枚の紙を持って来る。再び腰掛けて、ペンの蓋を取った。

「で、坊主はその日本刀で見知らぬ命を救おうって訳だ」
「…ええ」
「云っとくがな、救う人数分の血をソイツに吸わす覚悟はあるんだろうな。人間兵器っつったら元は国の政府が言い出したんだ、守るだけの刀じゃ役に立たん」

船長はペンの先を紙へ滑らせて図を描き出した。どうやら男は人間兵器や白兎の知識が幾らかあるらしい、描きながら「白兎は裏じゃあ有名だ」と呟いた。アリスはそれを見ながら、真っ白な包帯を取り出して自分の腹へと巻く。血が滲んだようだったが、あまり気にしない事にした。今度は出血する足をどうにかしようと思ったが、刺されたのは太股だ。ズボンを脱ごうとベルトを外し、外し終わるとそこで漸く此処が人前だと思い出してズボンを下ろそうとした両手を止める。ペンを動かす船長の方へ話し掛けた。

「…あの、すみません」
「何だ」
「脱いでも大丈夫ですか」
「はあっ?!」

船長が思わず叫んでアリスの方を見ると、彼はズボンへ手をかけていた。足の治療をしたいのだとは直ぐに解ったが、期待するよう船員がさりげなく視線をちらちらと向けている。船長は頭が痛くなり、アリスの神経を疑った。恐らく彼は此処に異性が居ない事から露出する事を深く考えてはないのだろうが、それにしても向けられる視線に無頓着なのは最早莫迦とも云える。船長は右手を震わせて、アリスへ思い切り怒鳴った。

「坊主、そんなに掘られてぇのか!」
「……っえ、ええっ?!」
「お前は先ず危機管理能力を身につけろっ、この、莫迦!」

アリスの頭を殴ると、余程痛かったのかアリスが「痛っ!」と叫んだ。
そして船長は立ち上がり、今度は椅子の上から膝掛けを取って来る。白色のそれを腹立たしげにアリスの顔面へと投げて、どかりと音を立て再び定位置へ腰掛けた。船長の業腹はアリスにもよく伝わり、何か可笑しな事をしただろうかとアリスは不思議に恐縮する。船長は船員に二度目の叱咤を飛ばすと、盛大な舌打ちをした。

「それで隠して手当てしろ」
「は…はあ…」
「…それと上の手当てが終わったんならとっとと肌着を着ろ」

大人しくアリスが肌着を着てシャツを着ると疲労したらしい男はもう一度盛大な音で舌打ちをしたものだから、アリスは訳が解らぬまま何とも申し訳なくなり、取り敢えず謝っておいた。






船長が云うには、白兎に入る積もりであるのなら、覚悟を決めるべきだと云う。故郷である大日本帝国を結果的に捨てたアリスには今更かも知れないが、裏の社会はまた色を異にした。救う人の数だけ人の血を流す行為に矛盾を覚えても、躊躇うなと云う事だ。世の中には完全な正義も完全な悪も無く、在るのは矛盾を抱えた混合物だけだ。初めから白と黒しか存在しない世界なら、複雑さに悩む必要性はあるまい。ならば完全な白になれぬ事を嘆くのではなくて、自分の信じた道を突き進むだけだった。
白兎の創始者は、慈善事業で有名な貴族である。そして道徳を重視した白兎をも作った点では正に『イイ人』と云えよう。然し人間には必ず裏があり、創始者には同時に黒の面もあったのだと船長は語る。裏では有名な話だが、今の白兎最高権力者である息子を強くしようと鰐と闘わせる等、道徳を守る為に非道徳をもしてのけたらしい。目標の達成に犠牲は付き物なのだ――と船長は云う。

「良いか、先に云っておく。坊主が善か偽善をしたいんなら、白兎には入らない方が良い」

何故なら、白兎は偽善ではなく「不純物の慈善」をするのだそうだ。見返りも名誉も求めずに、正しいかどうかも解らぬ道を、自己満足でリスクを得る為だけに進む。道徳を守る為にコミュニティにおける道徳を無視し、あくまで白兎の道徳で働く。ナイチンゲールのような誰から見ても「完璧なる慈善」をしたいのなら、そちらへ行けば良い話だった。白兎は救うのではなく、白兎が悪と考える、その根源を、頭を、叩き潰す結局は破壊の組織だ。
正義であると同時テロリストでもある、複雑な葛藤を抱える米国のヒーローのように懊悩したくないのなら、最初からその道に進まなければ良いだけだ。船長は図を描いて説明していたが、そこで手を止めると紙を裏にして今度は簡素な絵を描いた。――兎の絵だ。赤色のペンで描かれたその兎の目は、当然赤い。

「坊主、誰かの血で真っ赤に染まった目をした白兎になる覚悟はあるか? そして権威を振りかざし、暴君にならない自信も?」

船長はそう云うと、アリスの顔を見た。彼の双眸が迷いに少しも揺れていない事を視認すると、呆れたような顔で口角を上げる。
もう一つ重大な事、と船長は左手の人差し指を立てた。彼が云う重大な事とは、最高権力者であるクインテットの特殊な動向についてだった。クインテットは創始者である父親の影響でか、あくまで自称「人助け」が好きらしい。白兎は普段は葬儀屋を装う。それは表への仮の姿を兼ねてもだが、「亡き魂を救う」行為も兼ねているのだそうだ。そればかりかクインテットは仕事の合間に抜け出して、困っている人を助ける事を趣味にしていると云う。クインテット曰く、こう云う事であるらしい。

「頭だけを見て悪の手足が誰かに及ぶのを見逃すのは愚かだ…。根源である頭が潜む内は、頭を捜しながら、足元を見て助ける者は助ける」

要するに、人間兵器を開発する「頭」は今は中々尻尾を掴ませないのだそうだ。地下に居るのか、国の端に居るのか、海に居るのか、地球の真裏に居るのか。捜せど捜せど確かな情報はなく、これが手こずるのだと船長は云う。国が隠しているのかも知らん、兎も角今は休戦状態に近しい、と。長く果てのない闘いをする覚悟がある者こそが、白兎に相応しい。
ところでアリスは、一介の船長がどうしてこんなにも詳細を知るのかと不思議で堪らない。この男の言行は、裏に精通していると云う理由だけでは不可解だった。アリスが男を狐疑し始めると、男は愉快げな顔でペンと紙を床に落とす。そうしてアリスの背中を強く叩き、大声で哄笑した。

「今ので迷わねえとは大したガキだ。…まさかこんな島国から加入希望者が現れるなんて思わなかった」
「……え…」
「…おい手前ら、少し早いが白兎歓迎パーティーの仕度だ! 久々の加入者だ、『歓迎殺し』してやろう!」

船長が船員に云うと同時、船員は大声で了解の返事をした。アリスは状況が飲み込めず、声を出して笑う船員と船長を交互に見る。船長はニィ、と破顔するとアリスの頭を思い切りぐしゃぐしゃと撫で回した。そして船員の一人が、船体に貼られた巨大なシールを剥がす。白色のシールの下から現れたのは『White Rabbit』の大きな字。アリスが息を呑むと同時、船長は得意げに「白兎の管轄範囲を舐めるなよ!」と威張って大声を出した。男達は全て白兎の人員で、船もまた白兎のものだったのだ。『たまたま貿易船に成り済まして大日本帝国の港に停まっていた』船にアリスが乗り込んだのは、只の偶然か、それとも運命(さだめ)か。

「英国まではまだまだかかる、その間に色々教えてやろう。…自己紹介が遅れたが、俺はボロームだ。白兎最年長様だ、よおく覚えておけ」

アリスは呆気に取られたままで、漸く自分の名前を告げた。


「……アリス、です」


白兎のインパクトは、世界が狭かったアリスからしたら強烈過ぎた。



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