出航




出航の日である。アリスはその日の早朝、小鳥遊の家の前に立っていた。暫く玄関を見ていたが、士官学校が再開されたこの日に小鳥遊が居る筈もなく、アリスは一人で小さく溜め息を吐く。喧嘩別れのようなものをしてから、当然一度も会わなかった。否、喧嘩なら未だ良い、あれは決別のようなものだ。思い出すとまた鬱結として、肩に重圧がかかるようだった。
最低限のものを詰めた行李を右手に提げたまま、アリスは踵を巡らす。もう行こう、と思った。此処で家を眺めたとて、何がある訳ではない。最後に解り合って別れたくはあったけれど、こればかりはどう出来たものでもなかった。アリスは歩き出し、港へ向かう。






早朝の港は船員もおらず、静寂で、冷たさすら見せた。海は風によって静かに揺れて、アリスが密出国する為の船は、巨体をその海面へと浮かせていた。海猫が鳴き、肌に潮が張り付く感覚。
――小鳥遊と五百蔵は、壁に寄り掛かって待ち人を待っていた。地面へ視線を落とす小鳥遊の腕には軍刀が抱えられ、向かい側の五百蔵は退屈そうに海の方を眺めている。黒を纏う陸軍士官学校生徒とは真反対の白を纏う海軍兵学校の軍服を着た五百蔵は、猫っ毛を揺らし、人を莫迦にしたような顔をして、小鳥遊の方へ視線を遣った。五百蔵は小鳥遊よりも大分小柄な人物だが、口は随分達者であり、周囲の者は流石首席同士は似た者同士だと口を揃えた。五百蔵は口を開く。

「で?」
「…何だ」
「この俺に学校をわざわざ休ませたんだ、何をしてくれるんだろうな、お前は」
「…。違法に国を出ようとした人物を警察に出すんだ、手柄にはなるだろ」
「成る程、ね」

生徒である内に手柄を立てれば、その分軍人になった時、早く昇格出来るろう。五百蔵は敢えて納得した様子を見せて、満足げに頷いてみせた。五百蔵はさして軍の階級がどうと執着は無かったが、他に小鳥遊に望むものもなかった。

犬猿の仲である小鳥遊から、アリスが密出国を企んでいるので、それを掴まえるのを手伝うよう云われた時、五百蔵は断ってしまえば良かった。それでも断らずこうして港まで来たのは、一体何故だろうと五百蔵は思う。小鳥遊に情が湧いた? まさか、それだけは断固として有り得ない。ではアリスに? それもない。自分からしたら、さして興味の引かれる人間には思えなかった。
好奇心だろうか、五百蔵はそう思う。小鳥遊が尻尾を振った人間が、まさか大日本帝国から出ると云う。しかも、総司令官の息子が、だ。閉鎖的なこの国を出る事は、許可の下りない限りは国へ背く事を意味した。畢竟、裏切りだ。小鳥遊が国を愛しているのは誰もが知るところだし、ならば小鳥遊はどう動くのだろうと五百蔵は思う。

愛する人を取るのか、命を捧げたお国を取るのか。

警察に突き出すから協力するよう――と五百蔵を呼んだ時点でどちらを選んだかは解った。解ったが、果たして気持ちは揺れやしまいか? 五百蔵は心中で口角を上げた。お国を崇高しても、所詮はその存在は人間ではない。小鳥遊もまた『不完全が前提である人間』であると云うのなら、アリスへの情が勝る等、十二分に有り得た。今や小鳥遊は複雑な葛藤をしている事だろう、五百蔵はそれだけで実に愉快だった。五百蔵からしたら周囲の人間は玩具で、何かしらの楽しさを常に求めた。思うに、五百蔵が来た理由は此処だろう。小鳥遊の動きを見る為に、こうして助力しに来たのである。
小鳥遊だけなら、実力の差から間違いなくアリスから逃げられてしまう。だが、五百蔵も加われば解らない。二人と一人では話は変わって来るし、海軍兵学校首席の五百蔵からしたら地の利は自分にあった。

五百蔵が軍刀の柄に白手套越しに触れたその時だ。

「…五百蔵様、兄上」
「…ヴァイオレット! お前、どうして此処に――」
「ああ、犬の妹じゃないか。どうした、何故此処に居る」
「以前呼んだ本の舞台が此処でしたので、ふらりと」

結った二つのおさげを無造作に垂らした鴇色の着物姿の少女が、五百蔵に深々とお辞儀した。彼女は小鳥遊の妹で、女学生である。未だあどけなさを残す彼女の双眸は大きくて兄と似ても似つかぬものではあるけども、鼻や口元が似た雰囲気で、兄妹だと云えば納得出来る顔立ちである。アリスとも一度だけ会った事がある彼女は兄の方へは一瞥もくれず、恋い慕う五百蔵の方ばかりを見る。
五百蔵の方はさして興味もなさげな態度を彼女に振る舞う一方で、小鳥遊は厭そうな様を全面に現す。小鳥遊は他人に冷淡ではあるものの、血を分かつ家族には、些か人間らしい側面を見せた。

「ヴァイオレット、また本か。お前は本の寄生虫か!」
「……兄上、朝から元気なようで…」
「っ良いからお前は早く帰れ、居られたら敵わん」
「五百蔵様、此処で何か?」

兄の責めるような言葉を疎ましく感じたのであろう、ヴァイオレットは兄へ遣っていた視線を五百蔵に向けた。小鳥遊は益々不快そうな顔をしたが、妹は面の皮厚く飄々としている。アリスは妹のようなエディスの結婚相手は自分が納得の行く者だけだと常日頃から兄馬鹿を発揮してはいたけれど、それは度数が違っても小鳥遊とて同じであるようだ。どうしてよりによって恋慕する相手が五百蔵なのだと不満だらけであるようで、五百蔵を強く睥睨した。然し五百蔵は駘蕩としたままで、顎に手を当ててみせる。

「ん…ああ、そうだ小鳥遊、妹にも居て貰えよ」
「なっ――。き、貴様ふざけているのか、俺達は遊びで居る訳じゃあ、」
「彼女が居たら何かと役立つかも知れんぞ?」

そんな事、と小鳥遊が反論する前に、ヴァイオレットが小さく声を出す。口を開きかけた小鳥遊が彼女を見ると、彼女は静かに船の方向を指差した。
そこには、行李を右手に持ったアリス。彼は人目を気にしたよう一度周囲を見回して、船員の見えない船へ上がろうとしていた。小鳥遊は反射的に走り、そちらへ向かう。五百蔵もそれを追おうとし、そしてヴァイオレットの方を見た。彼女はアリスがどうかしたかとの、不思議そうな顔をしている。抑揚に乏しい表情の持ち主だ。

「…違法に国を出ようとする彼を掴まえる。来たら良い」
「…、解りました。お役に立てるかは、不明ですが」

ヴァイオレットは首肯すると、五百蔵を追って自分も走り出す。その場へ彼女の下駄の音が響き、顔を上げたアリスは――驚きに目を見開いた。






「たか、なし…?」

もう二度と会う事もあるまいと思っていた小鳥遊が、アリスの前に居た。然し当然見送りとの平和的なものではない。小鳥遊は頑強にアリスを睨み、右手は今にでも抜刀するかのよう、軍刀の柄を掴んでいた。アリスは唐突に理解する。――気付かれていたのだ、自分の企みを。
自分には感傷に浸る余韻すら与えられぬのかと、アリスは小鳥遊と目を合わせる。国へ忠誠を誓う小鳥遊なのだ、自分の邪魔立てをしに来たのは明確である。邪魔をすると云うのなら、アリスもまたそれに応じる覚悟はしていた。友と思った者と刃を交える事になるとは考えたくもなかったが、話し合いが出来そうな空気ではなかった。小鳥遊は数米離れた場所で止まると、徐に口を開く。

「…国を、出るお積りですか」
「…そうだと云ったら?」
「投獄します」

躊躇なく吐かれた言葉に、アリスは思わず苦笑してしまいそうになった。その言葉は寸の迷いも孕みはしなく、アリスは寧ろ羨ましくも感じた。何と真っ直ぐな事だろう、自分は女々しくも艱苦してばかりだと云うのに。
対して自分の出現にさして狼狽した様子を見せぬアリスを見て、小鳥遊は不可解になる。アリスは随分と落ち着き払った様であり、それがまた自分の怒りを解っては貰えぬようで、苦しみに顔を歪める。国を出ると云ったアリスへの憎悪は深く掘り下げられ、その炎は己の身を焦がしてしまいそうだ。奥歯を強く噛み、小鳥遊は強く発する。

「…貴方が、憎い」
「小鳥遊…」
「誰よりも崇拝し、憧憬した貴方だからこそ…、誰よりも、憎い…!」

…こころの一節は誠であり、小鳥遊は尊敬した人物だからこそ、裏切りと云う行為が格段許せなく感じた。彼の前に頭を下げた自身すら恨めたし、一層アリスを激情のまま殺したく思えた。
感情だけで人を殺せるとしたら、間違いなくアリスの身は業火に焼かれて爛れる事だろう。それでもその凄まじい怒りを目の当たりにしたアリスは、この間の傷心を垣間見せる事もなく、静かに小鳥遊を見据えた。アリスを覆う強さとは完璧で、襤褸(ぼろ)が出る事はなかった。自分へ殺意を向ける小鳥遊の前で、悠然として唇を動かす。

「お前は、本当にお国の為に死ぬのが美徳だと云うのか」
「は…?」
「お前は、戦争に行く兵士全員が、喜んで赴くと信じているのか。俺は思わない」
「……貴方は、何を云ってるんだ」

小鳥遊はアリスの云う事が解らずに、呆然として聞き返す。小鳥遊のよう激情を見せる訳ではないアリスの瞳はそれでも、強い意志を宿した。それが小鳥遊を射抜く時、思わず小鳥遊は見惚れる。自分の目を通して見るアリスの強さは矢張り色褪せず、それどころか深く憎む此処へ来て、強さは一層深まるようだ。自分があの日から求めたものを完全な形で支配するアリスはこれでも尚、自分の中の絶対者に位置するように思われた。
思われたが、幾らそうであろうとも、アリスの行為は認められたものではない。思想も、相容られはしない。力は迫害の為に使用されるべきであり、軍人は正に打ってつけの官職であると小鳥遊は思う。周囲で戦地に赴く事を怖がる生徒は臆病で、未熟なだけだと信じた。詰まり、守るだとかの戯れ事を云ってみせたアリスもまた、弱者である。然し、アリスは強者でもある。只、その思想が腑抜けたものだと思えた。ならば自分はどちらのアリスを信じれば良いのかと、小鳥遊は解らず言葉を出せはしなかった。
だが、次のアリスの言葉を聞き、自分の取るべき道だけは解った。

「俺は、力があるのなら。それを使って人を殺すより、人を助けたい」
「…俺には、解りませんね」
「…お前が愚かだとも、何時か解る時が来るとも云わない。それでも俺は、俺の信条を貫く」

信条と信条が対立し、己の正義同士が反発する。正義の反対が純粋な悪であるパターンは、実はあまりないかも知れない。小鳥遊の考えは愚かではあろうが間違っているのだと、直ぐに括られるものでもなかった。悪いのは強欲な人間自身で、力を以て制圧せんとするその意思そのものとも云えた。視点を変えれば正義も悪へと成り代わり、正義の反対は正義でもあった。両者の真反対の信条は今は相容る事はなく、それでも確かに正義には変わりがなかったのだ。
小鳥遊は鞘から軍刀を抜刀し、アリスに刃の先を向けた。アリスが強くあろうがなかろうが、自分の使命は国へ背く者を罰するだけだった。揺るぎなく決意を固めると、後は懊悩する事もない。今は道徳も何もない。眼前の人間を、跪かせるだけだった。
今この場で解り合う事を最初から期待してなかったアリスは顔を逸らし、勢いよくタラップを上がる。小鳥遊もタラップを上がり、船上へ上がるとアリスへ向けて刀を振った。踵を巡らせたアリスが小鳥遊の刃を抜刀した己の刀で応じると、刃同士のぶつかり合う甲高い音がする。小鳥遊は目を鋭くし、力で押そうと両手に力を込めた。単純な力では負けるだろうアリスが少し苦しそうな顔をして、然しそれでも堪えて跳ね返そうとしたその時だ。

とすり、とアリスの脇腹を刃物が刺した。予期しなかった『小鳥遊以外からの』者の攻撃へアリスは驚愕し、小鳥遊の刃を振り払うと痛み出す脇腹を押さえる。じわりと滲む血と、腹部へ刺さった投げ苦無。痛みと不可解さへ顔を顰めて抜く瞬間、傷口からは鮮血が飛び散る。
誰が何処から投げて――とアリスがタラップの方を見る。そこには三本の投げ苦無を右手に構えた少女が居た。二つの三つ編みと着物姿、彼女にはアリスは見覚えがある。家で一度会った小鳥遊の妹だ。

まさか、と思ったが彼女は淡々とした動作で懐から忍者刀を取り出す。そしてタラップを上がり、怨恨もなかろうアリスへその場で対峙した。アリスの脇腹に激痛が走り、規則的に痛むそれに焦りが生じる。考えもしなかった人物と闘う事になろうとはと、致命的な傷を負ってしまったアリスの頭に焦りが生じる。

「…ヴァイオレット、お前は邪魔だ。引っ込んでいろ」
「いえ…兄上、微力ながら援護します」

彼女はそう云うと忍者刀の刃先をアリスの方へと向ける。脇腹を痛めた自分と、無傷の二人。不安が過ぎったが、それでも此処で負かされる訳にはならなかった。飛び道具とはまた厄介だが、片方は自分よりも小さな女の子だ。例え負傷しても打ち負かそうとアリスが日本刀を構え直そうとした時、後ろから空気を切る鋭利な音がした。アリスが反射で振り向きざまに日本刀で攻撃を防ぐと後ろには、軍刀を振り下ろして来た白い軍服姿の青年。彼にも見覚えがある、海軍兵学校の首席だ。刃同士を重ならせたまま、五百蔵は不敵な笑みを見せる。

「…船で軍刀を振るう行為は、些か洒落てはいませんがね」

彼も敵と云う事だ、三対一の不利な状況にアリスの焦燥は益々助長される。然し五百蔵の力は小鳥遊よりは強くない、単純な力では自分の方が上であると確信して彼の軍刀を振り払う。
それと同時、とてつもない威力の衝撃が頭を襲ってきた。後ろから頭を小鳥遊の軍刀の柄で殴打され、アリスの身体は倒れる。小鳥遊は倒れたアリスの腹部を軍刀で刺そうと刃先を向けて来たが、倒れたアリスは素早く立ち上がり体勢を整えると巧みに小鳥遊の胸倉を掴んだ。そして小鳥遊をその勢いで船上へ押し倒し、胸倉を掴んだまま日本刀の刃先を首元へ向ける。
然し、躊躇が生じた。自分が友と信じた人物を、刺す事が出来るだろうか。相手が例え自分を殺そうとする程に憎んでも、自分は相手を心底から憎めるだろうか。
そんな甘い事を云っている状況ではないと理解して覚悟を決めていながらも、アリスの動きは一瞬止まった。小鳥遊の顔を見て、小さく声が漏れる。これこそがアリスの欠点で、隙を作るところでもあった。

動きを停止させたアリスの頭を目掛け、投げ苦無が駿足の速さで投げられる。アリスは日本刀をそちらへ動かして苦無を素早く薙ぎ払うと、一先ず飛び道具を持つ彼女をどうにかしようと決める。小鳥遊を何とかする為の決断を、少しでも延期させたかったのかも知れない。斜め角度の彼女の位置は変わらずタラップの前だった。日本刀を小鳥遊の軍服の肩の部分へ刺して一時的な固定をすると、立ち上がってヴァイオレットの方へ駆け出す。痛む腹部を堪えながら懐刀を取り出すと、彼女の忍者刀と刃を交えた。
当然体格の差も力の差も歴然で、押される彼女は初めてその顔を歪める。アリスは五百蔵がこちらに来た事を視認すると、彼女の左肩を掴んだ。怯む彼女に構わずに、

「…しっかり掴まえろ!」

アリスは五百蔵にそう云うと、彼女の身体を五百蔵目掛けて思い切り突き放した。軽い彼女の身体は呆気なく平衡感覚を崩し、五百蔵の方へ崩れる。
恐らく思わずだろう、五百蔵は彼女の身体を支えた。その隙を見てアリスは五百蔵の至近距離まで詰めると、彼の頭目掛けて懐刀を振る。当然それを後ろに身体を引いて避ける五百蔵は、然し此処がタラップの前とは忘れていた。
ぐら、と身体が突然落ちる感覚に、五百蔵の目が見開かれる。そしてアリスは彼の胸倉を掴み、――海目掛けて投げるよう思い切り突き飛ばした。二人は一瞬浮くとそのまま重力にされるがまま落ちて、海へどぶん、音を立ててと呑まれた。陸は直ぐそこだし先ず安全には違いなく、おまけに彼は海軍兵学校の生徒である事をアリスは承知済みだ。

後は小鳥遊と決着をつけようとアリスが小鳥遊の方を見た時だ。肩に穴を開けた彼は既に立ち上がっていて、アリスの行李を右手に持っていた。厭な予感がするアリスの前で、小鳥遊は厭らしい笑みを浮かべて、そして。アリスの予期した行動を取る。

「…これ、要りませんよね」

小鳥遊はそれを、海へと投げ入れた。必要品全てが詰められた行李は呆気なく海へと落ちて、とぷんと波飛沫を上げて底の深くへ沈む。アリスが小鳥遊から目を離せないでいると、小鳥遊はまるで腑抜けなアリスを咎めでもするように睥睨し、軍刀を構えた。
これが馴れ合いではない事実を今更痛感し、アリスも懐刀を構える。アリスの日本刀は船上へと横たわったままだった。それをも行李と共に捨てられなかった事は、彼の慈悲か何なのか。
それでもあれを取りに行く隙は作れない、アリスは小鳥遊の方へ駆け出す。最中ずきんと脇腹が痛み、苦痛に顔を顰めた。



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