士官学校生徒AW




陸蒸気が停車して、目的地に着いた。駅は人で溢れ、男と肩がぶつかるとアリスは謝る。
今は日中だが、季節からして暖かいと云える気温ではなかった。城は駅の直ぐ近くで、その立派な片鱗が顔を覗かせている。観光地である此処は平日でも人で賑わっており、遥か昔から愛されて来た地であった。赤の紅葉は城下で繁り、堀に張られた水は光を反射して燦然としている。空気は澄み、風は少々寒くもあるが気持ちが良い。悪しきものを並べて浄化するかのような此処は良い場所だと、アリスは思った。
アリスは思い切り、釈然とせぬままの小鳥遊の腕を引く。目を見開く小鳥遊を鋭く見上げ、強く云い放った。

「早く行くぞ!」
「ど、何処へ」
「……と、し、城の近く」

行きたいと云ったは良いものの、実はあまり考えはなかった。着けば着いたで色々見るものもあるだろうと綽然と考えていたものなので、具体的に尋ねられると吃る。そう考えを放棄したのは、あまり考えたくはなかったからかも知れないが。
語尾を弱めたアリスはそれでも自分がこうして弱気で居るのは宜しくはないと感じはしたのだろう、金の装飾がなされた小鳥遊の軍服の袖を掴んだまま、人が寄り集まる中心へ向かって革靴を進めた。戸惑いながらも小鳥遊も己の革靴を動かし、引っ張られるがままアリスの後へと着いて行く。学生服である蛮カラ姿の少年が陸軍士官学校生徒である事を示す軍服を着衣した少年の腕を引く姿は中々奇異であるのか、道行く家族や恋人達が二人を好奇心の目で眺めたが、アリスは気が付きはしないようだった。一方の小鳥遊は気が付いて、鬱陶しげにその視線を送る者を睥睨した。彼等は怯み、おっかなそうに視線を逸らした。

城の元まで来ると、そこでは商人達が手を叩いて名産を売っていた。よく採れる果物を使用した飴だとか果物を乾燥させて砂糖で漬けたものだとかを、やれ食べてみて損はないだの子供のおやつに良いのだの、実に巧みに母親に云う。とうとう鼈甲の簪をつけた母親は折れ、飴を一袋頼んだ。商人は破顔して、毎度ォ、と響き渡る声で云う。
足を止めてそれを見ていたアリスに、一人の男が話し掛けた。古びた帽子を浅く被り、丸眼鏡を下げて掛けた中年の男だった。姿勢は丸まり、太った手の皮膚は垂れている。男は人当たりの良い笑みで、小鳥遊にも挨拶をする。

「お二方、観光でしょう。写真なんて如何です?」
「写真?」
「ええ、城を背景に。思い出に絶好」

男が人差し指で指したそこには木製の写真機が脚立に載って佇立しており、どうやら男は此処を拠点にする写真屋であるようだった。
おむすびころりんに出る老人のよう頬に瘤でもありそうな男は得意げに写真を撮る動作をし、顔色を伺うよう二人の顔を交互に見た。小鳥遊は面倒そうな顔をしたが、アリスは琴線に触れたようで、小鳥遊の袖を弱く引いた。

「と、撮ろう」
「…ええ? 写真なんて…」
「良いだろ、思い出くらい作っても。料金は俺が払うし」
「っ貴方に払わせる訳には…」
「決定ですね、ではでは、ささ、こちらへ並んで下さい」

男は捕まえた鴨を逃がしたくはないのだろう、料金をどちらが払うかなんてのは意に介す事はなく、普段撮るのだろう場所を指で示して自分は写真機に向かう。料金の事は一先ず置く事にしたのか、アリスが示された場所に向かうと小鳥遊もそれに渋々着いて行く。此処で小鳥遊が厭そうにしていたのは、信用ならないアリスへの反発心か、はたまた大日本帝国の人間の半分があながち本気で信じる『写真機は魂を抜く』との迷信を実は信じていたからなのかは、生憎解ったところではなかった。
被せた退黄色の布を取り、男は写真機のレンズで二人の姿を捉える。今更ながらどうして陸軍士官学校生徒がこうして此処に居るのかと、男は判然とせず疑問に思ったが、大した事にも思えなかったので気にしない事にした。
只、蛮カラ姿の少年が口を閉じたままで柔らかな巧笑を作るのに対し、生徒の方は厳粛な面持ちのままなのには、どうも首を傾げざるを得なかった。友人であろうが纏う空気の相違に男は写真を撮る手を躊躇うが、直ぐに至る。体格差ではなく雰囲気の相違であり、蛮カラ姿の少年は女性的に見えるが、軍服姿の少年は男性的に見えるのだ。奇怪な組み合わせだと感じつつ、男は一枚写真を撮った。念の為ともう一度写真を撮った。

「では、住所を書いて下さればお送りします。どちらに送れば宜しいでしょう」
「どちらにもお願い出来ますか」
「へえ、ではこちらに。それと代金を頂戴致します」

アリスは小鳥遊を制し、自分の財布からお金を払う。住所を記すと男は笑みを作ったまま、帽子を脱いでお礼をした。写真は近い内に送ると云う。遅くて一週間だと云うので、それなら間に合うな、とアリスは一人安堵した。

平生のような愛想はない小鳥遊の背中を叩きながら、アリスは城下町を巡ろうと云った。
そこは食べ物屋が多いが、呉服店や旅館等の様々な店があり、興隆していた。
特に絡操人形が売られた店は子供達で賑わって、店内では店の者が絡操を動かして子供を燥がせた。アリス達に気付いた彼女は茶運び人形を勧めたが、精巧で職人が丁寧に作ったらしいそれは二人が到底手を出せるような値段ではなくて、断った。彼女は残念そうにした後に、小鳥遊の顔を熱い視線で不躾に眺めた。それを見てアリスは彼は矢張り異性から好かれる見目なのだろうと感じたが、小鳥遊の方は興味もないようで、彼の視線が彼女に向かう事はなかった。


人形屋を出て、次は何処に行こうかとアリスが云おうとした時だった。空き店舗の壁に寄り掛かった物乞いが、抜けた歯を見せて小鳥遊の左足に張り付いた。
アリスは驚愕したが、小鳥遊は眉を顰めて見下すのみで、さして驚きを見せはしない。恐らく物乞いは物を恵んで貰うべく、此処にずっと居るのである。服は洗濯と云う概念すら失念されたような凄惨なものであり、男の肌は酷く汚れていた。袖から覗く手は痩せこけて、骨だけに見える。髭と髪を好き勝手に伸ばさせた男は、猫撫で声を出した。

「将来の軍人さん、少し恵んでくれよお。ひもじくて死んじまうよお」
「……離せ、下衆」
「ひい。冷たいねえ、なあ、何かあるだろう?」

手を伸ばして下肢にしがみつく物食いに、小鳥遊は吐き気がするようだった。
弱者を忌み嫌う小鳥遊は、故に物食い等も嫌悪の分類に入れた。死に物狂いになれば幾らでも何ともなろうに、虐げられるだけの存在はそれだけで不愉快だった。加えて現在足に縋り付く男は矜持もなく、年も随分離れた自分に乞うている。小鳥遊は益々嫌気がさし、男の手を振り払うと革靴で容赦なく踏み、そのまま地面に蹂躙した。物乞いの悲鳴があがる中、小鳥遊は顔色を一つも変えずぐり、と底を動かして甚振る。平生の冷徹さと今の不機嫌さが手伝っての行為だが、一番驚いたのはアリスだった。駆け寄り、小鳥遊を叱責する。

「小鳥遊、止めろ!」
「ッ」

叱責の声に小鳥遊の肩が震え、止まった足が手から離れる。今度は驚くのは小鳥遊で、自分を制したアリスを驚くまま眺めた。アリスは小鳥遊には目もくれず、心配したような顔で物乞いの側に屈む。その行為が理解出来ず、小鳥遊は呆然とアリスを見た。何をしているんだと、それだけを思う。呼吸の機能すら喪失したように、身体の力が抜けていくのが解った。

「大丈夫ですか?」
「ああ痛い、ひい痛い。なあ、アンタでも良い。お金を恵んでくれよう」
「ッ貴様!」
「…これしかありませんが」

アリスは自分の財布を出すと、帰りの汽車代を残した分を差し出した。男はひゅうと声を出すと骨のような両手で礼も云わずアリスの手から何枚かの札を残らず取り、喜色満面して札を指で撫でた。
小鳥遊は信じられず、険しい表情をアリスの方へと向ける。アリスは至って落ち着き払った顔をしており、それが更に小鳥遊の苛立ちを増長させるようだった。

「…っアリスさん! 貴方は一体、何をしているんだ!」
「お前の謝罪分だ」
「――……!」

小鳥遊は唇を噛み、憤怒に手を震わせた。答えたアリスが小鳥遊を見上げたが、その視線にも苛立ちを覚えた。窘めるようなその目は酷く腹立たしかったし、自分ではなく他人に向けられた厚意にも業腹した。
そして一番は、その行為そのものだ。力のなき者は自分で這い上がらぬ限りはその底辺から脱出すべきではないのに、いとも簡単に手を差し延べた。その善意は許されたものではなく、怒りの収まらぬ小鳥遊は口を開いた。その時だ。

物乞いは札達を懐に入れるとアリスの身体を強く跳ね退けて、颯爽と走って居なくなった。押されたアリスは油断のままその場に軽く倒れ、それを見た小鳥遊の怒りの矛先は走り去る物乞いに向かった。善意も彼自身すらも蹂躙されたようで、小鳥遊は軍刀の柄に右手をかけた。

「貴様っ、ふざけた真似をッ――」
「小鳥遊、良い、構うな」

アリスは立ち上がると追い掛けようとした小鳥遊の右手を掴み、首を横に振る。その隙に男は四辻の角を曲がり、姿を消した。アリスはそれを見ても平然とした様子であり、こうして踏み躙られた事は気にはしてないようだった。益々理解は出来ず、小鳥遊はやりようのない怒りをアリスにぶつけた。自分でもどうして此処まで怒り心頭なのかは解らなかったが、憧憬するアリスが自分の信条とは真逆の行為をした事と、愛するアリスが自分の厭う種の人間に侮辱された事に腸が煮え繰り返ったのだろう。

「…悔しくないんですか…っ」
「別に構わない」
「やられたら、やり返さないのですか!」
「……やり返す?」
「貴方にはあんな奴を容易に殺せる力もある、どうして何もなさらない!」
「力はそんな事の為に使うものではないだろう」

小鳥遊は絶句した。力ある者がこの世を支配して当然だとの信条を、覆すかの発言だった。
小鳥遊は真っ直ぐで愚かしく、自分がかつての男と同じ人間になっていると気が付きはしなかった。或は気が付きはしたかも知れないが、それを何とも思わなかった。弱肉強食の観念しか存在はなく、あの時以来弱者を救う等との視点は持ち合わせた事がない。
力を持つアリスも、当然自分と同じ考えを持つと信じて疑わなかった。だのに、アリスは力はそんな事の為に使うものではないと云った。では、何の為に在ると云うのか。――守る為に? 弱者を?
小鳥遊は滑稽だと思えた。一体誰が守ると云うのだ。守り切られると云うのか。守ろうと云うのか。ふざけてすらいる。綺麗事で、救いようもなかった。顔を歪め、冷罵するよう吐き捨てる。

「…貴方のそれは、偽善だ」
「…偽善だとしても、偽善が悪いと誰が云った」
「俺には、理解出来ない」
「何」
「ならば云いましょうか。…俺は、自分の力で何も出来ない輩が大嫌いなんですよ」

何かを包含する物言いに、アリスの目は小さく見開かれた。それを云った時の小鳥遊の表情は、悲痛に歪められてすらいた。アリスは何かを云おうとしたが、嗄れた訳でもないのに声は喉で詰まり、肝心な事に出て来ない。
先程までの騒動を聞いていたのか、子供は不思議そうに二人を見つめ、店の者は店内から顔を覗かせている。漸く周囲の状況を把握出来たアリスが一先ず此処から動こう、と云いかけたが、小鳥遊からの冷えた視線に身体が固まった。途端に指先が冷え、そこから冷たさが全身まで行き届いたようだった。動いた口からは何の言葉も出ず、無力に酸素を取り込むだけだった。向けられる目の、何と痛い事だろう。取り返しのつかぬ事を云ってしまったように思え、アリスは惘然としたままで、何も出来ずに居た。

「……帰ります」

踵を巡らして、小鳥遊は背中を向けて居なくなる。あ、とアリスが無意識に右手を前に出したが、その手は何も掴みはせず宙の空気すら捉えない。駅へと向かう小鳥遊の背中を追い掛ける事も叶わなく、佇立したまま右手を下ろした。痛ましく歪んだ顔を隠そうと左手の甲で目を強く擦ったが、隠せたとしてその行為は、何の解決にもなりやしない。






アリスは実は弱く、泣き虫で、強さとは掛け離れているだろう。そして幼少期の記憶の所為で嫌われる事に酷く臆病で、またああして手の平を返され嘲罵されるのではなかろうかと、内心で怖がるのである。それでもその弱さを培った強さで隠し、強さを纏い、常日頃からそうして気丈な姿で生活を営んでいる。
然し本質が中々変わる筈もなく、意気消沈したままに、アリスは帰宅した。顔色は優れなく、ざっくりとつけられた傷心は包み隠しは出来ず滲んで露になる。エディスはアリスを迎えるべく、夕餉を作る手を止めて笑顔でアリスを歓迎した。巫女装束の上に割烹着を着た彼女はアリスの荷物を預かろうとしたが、その時アリスの表情が沈んでいるのに気が付いた。迎えたエディスに笑顔を作りはしたものの、その笑顔は刺してしまえば死んでしまいそうな、大層脆弱な出来だった。不安になり、エディスは屈んで視線を合わせてくれたアリスに問う。

「……アリス様、どうなさいましたの」
「初めて、の、…友、達に、…」
「……?」

震える唇から紡がれる言葉は途切れ途切れで、エディスは心配そうに眉を下げ、首を傾げた。俯き影で隠されてアリスの表情は見えないが、多分、何時もの顔とは違って惨然としているのだろうと、エディスは思う。普段なら弱音を吐露する筈もなく、苦笑でごまかすところであるのに吐いてみせたと云う事は、余程の事であるのだろう。
震えた声は、泣きそうな声だった。

「嫌われて、しまった…」

潸然する事はなかったが、エディスはきっとアリスは泣きたいのだろうと察し、アリスを抱きしめて頭を撫でる。アリスは驚いて顔を上げるも、エディスに頭を撫で続けられ、その小さな掌と体温に癒されて、上げた顔をそのままに、誰も見ていない顔を哀婉に歪めた。
左目から涙が一筋流れ、その涙はエディスの肩に落ち、やんわりと滲む。

「大丈夫ですわ、アリス様。妾が、おりますもの」


慰められながら、こんな小さな女の子に励まされてしまうなんてとアリスは己の駄目さ加減を痛感したが、それでも耳元で云われた彼女の言葉が、酷く有り難く感じた。日本を出れば、彼女を置いて行く事にもなる。自分を此処まで育ててくれたロリナもだ。
自分の選択は果たして正しいのか解らずに、アリスは顔を伏せた。それでも、誰かを助けたいと、その願いは変わらない。例えそれが偽善と云われようが、偽善でしかなかろうが。


アリスはエディスに聞こえぬよう、唇だけをゆるりと動かして謝った。ごめん、とのその動きは彼女に見える筈もなく、当人にしか解らぬ存在で、泡沫にもならずに消えた。





三日後、アリスの元に写真が届いた。白黒のそれは然しよく撮れていて、後ろの城と紅葉がまた映えて見えた。真ん中で写る自分と小鳥遊を見比べるが、眉を下げる事しか出来ない。厳かな面持ちの小鳥遊は自分と過ごして楽しくはなかったのだろうと思うと、また落ち込んだ。小鳥遊の元にも届いたろうが、恐らく迷惑でしかなかった。自分は本当にどうしようもあるまいが、今更何をどう出来るとも思えなかった。日本を出る日も近しい。誰にも相談出来たものではなく勝手に決意した事だったが、自分は果たして正しく歩めているのか解らない。けれど、正しいか否かは神でもない限り、誰からも解る筈はなかった。
気は塞いでしまったものの、出航を取りやめようとは思わなかった。只、写真を見て、胸が刔られるようだった。開けられた穴は埋められる事もなく、写真を本に挟む。その写真は英国にも持って行くし、何があろうと生涯捨てる事はないだろうと思った。アリスからしたら、他人と云う存在での繋がりは、確かに彼が唯一でしかなかった。
自分を嫌った人物の写真を大切に取る等は気持ち悪いだろうかとアリスは兄の言葉を頭の片隅に浮かべたが、それでもこうして手元に来た写真をどうしようが、文句をつけられる謂れはないと思う。友人が初めてなら、友人と撮った写真もこれがまた初めてなのだから。

例え小鳥遊からしたら、価値のない紙切れであると誰かから云われても、それはアリスには関係のない事だった。



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