小鳥遊




アリスさんが、俺の前に居る。彼は佇み、背中を俺に向けている。強くいらっしゃる筈なのに、どうしてかその姿は儚く見えた。
消えてしまいそうで、俺はアリスさんの名前を呼ぶ。彼は振り向き、俺と視線を合わせた。肩まで伸ばされた髪は艶やかで、意志の強さを示唆する双眸は俺を射抜く。美しい。との形容だけで、彼の魅力を表せられるものだろうか。俺は胸が高鳴るのを感じながら、アリスさんの名前を呼んだ。彼は眉を下げ、複雑そうな顔をする。

「小鳥遊」
「はい」
「こっちへ寄れ」

呼ばれ、俺は素直に彼の前まで寄った。一体どうなさったと云うのだろう。彼は眼前に来た俺を、真摯に見つめている。俺は首を傾げ、意味するところを問おうとする。
彼はすると突然顔を至近距離まで近付けて来た。驚愕と共に、己の顔が熱を一気孕むのが分かる。アリスさんの顔が、こんな近くに。白く透明な肌は綺麗で、よく見れば彼の頬は少しだけ紅潮されている。どうしたと云うのだろう。近い。
彼がこんなに間近に感じられる。心臓の音が煩い。
唇が触れてしまいそうだ、そう思った時はもう触れていた。彼から唇を重ねて来た。あんまりの事態に硬直し状況が理解出来ないで居ると、彼は重なった唇に舌を割り入れて、俺の舌を奪う。熱を多分に孕み、唇が重なり舌が絡まる柔らかな感触。わざとらしくて嫌らしい、唾液の音。

気付けば彼の両の頬を掴んでて、無我夢中で舌を自分からも絡めた。彼の身体が小さく跳ねる。逃がさないよう強く重ね、舌を執拗に舐める。苦しいのか一瞬彼は空気を吸うよう唇を離したが、俺は直ぐ自分の唇と彼の唇を重ね再び彼の舌を絡め取った。アリスさんの口から声が、漏れる。

「んっ、ふぅっ、んぅっ……」

至近距離で聞く一杯一杯の声は実に可愛くて、いじらしい。ああもっと聞きたい、もっと虐めてみたい、もっと甘やかしたい。舌の熱が上がる。唾液が彼の口の端から溢れ、顎を伝う。角度を変えて何度も貪る。求めた彼が、こうして、俺と唇を重ねている。

「……ったか、なし…」

惜しむよう唇を離し、熱が込められた視線で彼を見れば、彼は上目遣いに俺を見ていた。頬は上気し、眉は下がり、照れたような悩ましげな姿が実に可愛くて、無意識に彼を抱きしめていた。このまま彼を抱いてしまいたい。接吻だけで劣情を刺激されるなんてと彼を好き過ぎる自分を恨めしくも思ったが、身体は正直だった。伝わる体温が心地好い。

「お前は、俺が…好きなんだよな」
「ええ、ええ。愛してます」
「そ、そうか。……なら」

アリスさんが俺の身体をやんわりと離す。彼は次に、ご自分の衣服の釦を外し始めた。一体何をと思ったが、視線は固定され自分の意志では動かない。綺麗に伸びた彼の指が、纏う服を確実に身体から外し、少しずつ白の肌を見せて行く。――食い入るように見てしまう俺の、何と貪欲な事か。息をするのすら失念する。
彼は恥ずかしがるよう頬を赤らめて、俯く。見える鎖骨や胸、細めの腰が又嫌らしく、触れたいと思える。触って、抱きたい。あそこに唇を落として、幾多もの赤色の烙印を作りたい。強く抱き、敏感な彼をあられもなく乱れさせたい。凝視する自分が情けない。彼は唾液で濡れた唇から、一生懸命に、紡いだ。


「…お前になら、何をされても。…良いよ」






顔を真っ赤にして飛び起きた小鳥遊は、布団の上である事を確認すると納得すると同時自分の浅ましさに恥ずかしくなって顔を両手で覆った。全身に熱は集約され、夢の中のアリスを鮮明に思い出すと罪悪感を感じると同時、欲情を感じるのもまた真理だった。心臓は平生よりも速く打たれ、思い出すだけで劣情が刺激される。出来るなら続きを見たかった。現実で叶わぬのなら、せめて夢だけでも。否、夢では充溢される訳もない。
その時気が付いて、両手を顔から離して毛布を捲る。自責をする事態は起こってなく安堵したが、しかしこんな夢を見た事にどうしても罪悪感は生じた。欲求不満だろうか、何だろうか。心から畏敬する人物を無意識の中に汚した気がして、小鳥遊は再び両手で自分の顔を覆った。誰に知られるでもないが、誰より自分が知っている。少し死にたかった。

「……最悪だ…」
「あら、リデル起きたの?」
「! ねっ姉さん!」

確認もせず襖を開けた姉に小鳥遊は飛び跳ねて、挙動不審な程に狼狽した。姉は無論訝しがり、大きな双眸を細めて探るように弟である小鳥遊を見る。紫陽花色の和服を着た、美しい女性であった。肩まで伸ばされた髪は結われずそのままで、柔らかそうな質感である。

「…何か?」
「な、何でもないです」
「そう。リデル、今日もアリスさんのところへ行くの?」

尋ねられ、小鳥遊は勿論だと返そうともしたが、今日の夢を思い出す。恥ずかしそうな様子で、可愛らしく自分を誘うアリス。それが真の彼ではないと解っているにしろ、まともに顔を直視出来る自信はなかった。冷静さを欠くばかりか、下手すれば理性が切れて本当に襲ってしまうかも知れない。それは、自分よりも力を持つ彼が簡単に押し倒されてくれるとも思えないが、しかし今はアリスは確かに油断はしていたし、単純な力だったら自分の方が上だろう。体格だって上だ。紐で拘束したり何なり、本気で過ちを犯してしまおうと思えば出来なくもない。それでも、それを喜悦して行う程に堕落しても、切羽詰まってもない。小鳥遊は首を振った。

「今日は…母さんの見舞いに行きます」
「そう云えば、そんな時期ね。途中、花売りから花を買って行けば良いわ」
「ええ」

丁度良い時期であった。どうせ、近い内に向かおうと思っていたところだ。多少の後ろめたさは感じたが、夢の事はもう忘れる事にした。所詮は夢だ、そう云い聞かせる。まさか自分がこんな下賎だと思っていた夢を見るなんて信じられはしなかったが、只の事実として受け入れて、頭の屑籠に投げ捨てた。アリスの姿を思い出して頭の中で愉しむ事も無論今なら可能だが、姉から起こされた今、その選択肢は存在しなかった。起き上がり、伸びをする。



朝食を食べてから、小鳥遊は花売りから購入した見舞いの花を片手に持ち、軍服姿で通りを歩いていた。目指すべくは病院である。頭を働かさずとも身体が覚えるままに任せ、機械的な歩みをする。真っ直ぐで、正確で、イレギュラーは皆無。今日の朝食にはアリスから貰った水菓子が食後に出た。潤いを与えるそれは、普通に美味しかった。だからと云って、格別に極上の味だと云える程、盲目的ではなかった。
男子学生何人かと擦れ違う。蛮カラ姿の彼等は制帽を深く被り、読了した書物について声高に話す。児島襄は素晴らしい。誰か一人が云った。彼等の抱える鞄は擦り切れ、よく使用されている事を物語る。

破落戸と肩がぶつかった。擦れた着物を着た中年の男は小鳥遊を睨んで突っ掛かろうと黄色の歯が並ぶ口を開いたが、冷たく睥睨されて口を閉じる。軍服をまじまじと見て、男は面白くもなさ気に舌打ちだけをした。勝負事に負けたらしい。男が地面を蹴ると、草履が切れる音がした。
過去の過去、在りし日を混ぜて混ぜて混沌とした世界が広がる。かつては江戸、明治、大正と呼ばれた時代。一旦禁じられたものが再び紐解かれ、それらは全て同一の今と云う時代に並ぶ。取捨選択の時代。最も日本で、最も日本ではない。


病院に到着する。診ても貰えずに、廊下に患者が溢れた病院とは違い、余裕ある病院だった。今現在は、戦時中のあの凄惨さは見られない。条約も結ばれ、一先ずは落ち着いていた。無論、締結されたとて、何時また勃発するかも解らないが。未だ不安定な現状だった。
ある一室に行き、控え目に数回扉を叩く。『小鳥遊』の文字の書かれた札が掛けられた一室である。中から女性の許可する声がして、小鳥遊は足を運んだ。中に居たのは、黒髪を横で一つに束ねた女性。痩せこけて衰弱した彼女は小鳥遊の姿を見ると、弱々しく笑みを向けた。そうして息子である彼に、云うのだ。

「また来てくれたの。全然知らない人なのに、悪いわ。御免なさいね」

息子である小鳥遊は母親が自分を未だ認知してくれない事に、傷心はもうしなかった。笑みを向け、花を見せる。母親は嬉しそうな顔を見せた。





話は幼少期に遡る。今でこそショーヴィニズムの典型的例と云えよう小鳥遊リデルは、昔は寧ろ軍は好きではなかった。理由は幾らか考えられ、どれが起因するかは定かではない。然し複雑な人間の事なので、一つではなく全てが絡み合って関係するのだろう。
例えば、何かあれば直ぐ手が出る次男が軍国少年であった事。軍人である父親が、何時も母親を哀しませていた事。幼いながらに、漂う負の空気を悟っていた事。戦争とは何かの喪失を意味するのだと理解している中で、軍を好きになる筈はなかった。どちらかと云えば、小鳥遊はそんないざこざよりも、本を読んだり横笛を吹いたりして、悠々と過ごす方が性に合っていたと云えるだろう。だから、幼年学校生徒の次男が家に帰る度、竹刀を片手に『指導』をしてくるのは実に嫌だった。何事も暴力で解決しようとせず、話し合いで――と云う尤もな意見は、次男の竹刀によって成敗された。


ある日の事だ。小鳥遊は、母親と一緒に縁側に座って綾取りをして休日を過ごしていた。母親は線が細く、少し頼りなく見える女性だったが、息子も娘も、料理も裁縫も得意で優しい母親が大好きだった。その日の空を覆うは灰色で、今にも雨が降っても何ら可笑しくはなさそうな様子だったので、地下足袋を履いた母親は空を仰ぎながら鷹揚に「洗濯物を入れた方が良いかしら」と朱唇を動かして云った。
その時、灰色の外套と中折れ帽を纏った一人の男が顔を覗かせた。人当たりの良さそうな穏和な笑みを浮かべた彼は、帽子を少し指で上げて母親に挨拶をした。覚えの無い母親は反応が遅れたが、糸がほつれた地下足袋を少し恥ずかしそうに隠し、挨拶を返す。どうやら予予の知り合いでない事は、未だ幼い小鳥遊からしても一目瞭然ではあった。
男は笑顔のまま、小鳥遊を一瞥だけすると再び母親へ視線を戻す。

「小鳥遊さんのお宅ですな」
「え、ええ…。あの、どうして、」
「ああ。失敬、私はご主人のちょっとした知り合いなのですが、聞いてはおりませんかな、いやはや」

突然自分の家の名前を出され警戒心を露にしたものの、どうやら主人の知人であるらしいと解ると母親は緊張感を解く。そちらへお邪魔してもと云われると、粗相があってもまずかろうと思ったのか、母親は多少の困ったはしながらも、どうぞと縁側から腰を上げて手で招く。

「貴方は少し外してなさい」

母親からそう云われ、自分はどうやら邪魔者であるらしい事を突き付けられた小鳥遊は多少の不満はあるものの、聞き分けのある子宜しく縁側から立ち上がる。歩いている途中で後ろをさりげなく振り向くと、男が縁側に腰をかけるところであった。使い古した着物を雑巾にしている最中であろう姉の元へ行こうと、頭を前に戻した。
襖を開けると、肩までの柔らかそうな髪を重力の命じるがまま垂らした姉が、着物を切っているところだった。鮮やかな牡丹の大きく描かれた翠玉色の着物姿の姉は弟に気が付くと、姉らしさを持つ柔和な笑顔を浮かべる。

「リデル。母様はどうしたの」
「お客様が来たので、席を外すようと」
「あら。誰かしら」
「父さんの知り合いらしいですが、」

ふうん、と姉は頷いてみせる。恐らく姉も誰かは解らないのだろう。佇立したままのリデルを未だふっくらとした手で招き、自分の隣へ座るよう促した。リデルは襖を閉めて、大人しくそれに従う。着物の上を繊細に動く姉の両手を見つめる弟に、姉は可笑しそうに笑いを零す。静寂で温みのある空気が、周囲を優しく包含した。


数分後の事だ。あんなにも静かで声すら聞こえなかった母親と男の会話が、耳に入るようになる。姉と弟が顔を見合わせる間にも声は荒げられ、会話の内容までもが筒抜けになる。男は業腹し、母親は恐怖しているようだ。子供はとうとう不安になり、小鳥遊は立ち上がる。会話の内容は、心ない冷罵であるようだ。

「母様に何かあったのかしら…」
「姉さんは此処に居て下さい」
「リデル、貴方の方が余程幼いのに」
「それでも、俺は男です」

小鳥遊は襖を開け、足早に元居た縁側へと向かう。途中で空気を切る鋭利な音が響き、小鳥遊は小さな身体を震わせた。母親の咽び泣くような悲痛な声が耳を攻撃する。まさか、と小鳥遊は心臓の音が高まるのを聞き、走って縁側へ向かった。
中折れ帽を地面に落とした男が、閻魔のような形相で母親の頬を殴っている。小鳥遊は全身から血の気が引くのを感じたが、刹那男と母親の間に入り男と対峙した。邪魔立てされた男は最初の笑顔とは真反対の醜悪な顔付きで、生意気な幼子を不機嫌に睥睨する。
威嚇するよう頬を一度殴ると、子供の着物の衿を掴んで力任せに壁に叩き付けた。痛みに呻く子供の顔を見もせずに、視線を逸らし再び母親の髪を乱暴に掴む。綺麗に結われた団子は今や目茶苦茶に乱れ、鼈甲色の簪は床に落ちている。涙を流して離すよう懇願する母親に、男は唾を放つ。

「何が軍人様だ! 貴様等は鬼か、よくもまあそうも胸を張れたものだ!」
「ひぃ、痛っああ、ひ、――!」

小鳥遊の歯が恐怖に鳴り、恐ろしさに震え上がる。動こうとしても足が竦み、殴られた箇所が熱を孕んで身体が動きやしない。大の大人が此処まで怒りを心頭させるのを見るのも初めてなら、修羅の様を見るのもまた初めてだ。あまりにも幼く、どうして良いのか解らない。然し母親が殴られている。助けなければ、どうやって、竹刀で?
竹刀は何処だ、小鳥遊は首を動かし必死で捜す。見当たらない。この部屋ではない。常日頃から竹刀を魂だと豪語して肌身離さず持っていた次男を心中で揶揄していたが、今やどうしてそうせず竹刀を嫌っていたのかと自分の行動を悔いる。
竹刀がないなら捨て身で母親を守らなければ、然し素手で勝てようか。自分は先程呆気なく弾き飛ばされてしまったではないか。無力であるから、今どうする事も出来ない。小鳥遊の額から汗が滲み、唇が酷く震える。

――どうして自分は力が無い?

理由なんて痛い程理解しているその疑問が、戦争と今の国の有様を嘲罵する男の声が響く中、頭を過ぎる。力を得ようとしてこなかった自分が、憎くて情けなくて殺したかった。
小鳥遊は唇を強く噛み、男に殴り掛かる。男は舌打ちし、小鳥遊の頭を容赦なく右手で殴打した。倒れた小さな身体を、靴を履いた足で強く踏む。母親の甲高い悲鳴が飛び、小鳥遊は咳き込む。部屋から出て来たのであろう姉が泣きそうな声で向かって来るのが聞こえ、蹂躙された小鳥遊は顔を酷く歪めて叫んだ。
地獄図は、そして終わりを見せる。

「…何をしている」

空気を震わせるような、幼き声。男が見ると庭には、竹刀を持った一人の少年が居た。少年は幼年学校の制服を拙く着込み、眉をこれ以上なく顰めている。キャロル、と姉は力無く彼の名前を呼ぶ。姉からしたら弟で、小鳥遊からしたら兄である小鳥遊家の次男だった。
軍事政策を忌み嫌う男の顔が益々酷く歪められる。然し次男は構わずに、竹刀の先を男に向けた。男は幼年学校生徒とは云え何が出来よう、と歯牙にもかけぬような態度だが、男の余裕は直ぐに打破される。
幼年学校内で他生徒から鬼とされ、上級生からすら畏怖されるような次男はその場から走り、男の胴を竹刀で一気に一閃する。油断していた男は痺れるような打撃に怯みを見せ、その隙をついて次男は的確に確実な急所を突いた。男の抵抗をものともせず、体格差を利用して細かく動き、男を折伏させるよう――、頭に渾身の一撃を与える。軽快な音の後男は白目を向き、呻くと膝をついてその場に身体を倒れさせた。子供の為したものとは思えぬその優れた所業は、正に鬼の業と云わず何と云えようか。

次男は部屋を見渡した。衝撃で気絶した母親と、恐怖で涙を流す長女。そして、男から屈辱を受けた三男。次男は三男を見下ろした。小鳥遊は肩を震わせる。普段ふざけたような兄の顔は初めて見るような落ち着いた顔で、突き放すとも、呆れるとも、諭すとも取れるような言葉を、緩と放つ。

「――だから、力が無いのは情けないと俺は日頃から云ったのに」

小鳥遊は何も云えず、警察へ連絡を入れようと動いた兄の背中を見送った。






警察が男を連行し、意識の無い母親は病院に連れられた。騒ぎに野次馬が来てざわめきが増す中で、話が出来そうで聡明の勲章である幼年学校の制服を纏った次男は残った警察に状況の説明を求められている。猥雑な空気の中、自分だけ取り残されて別の空間に居るような心地すら小鳥遊は覚えた。目を瞑れば母親の叫び声と男の怒鳴り声が視角を襲うようで、何をするでもなく魂が抜けたよう、縁側の下の花を見た。
小さな野花は白く、くたりと頭を擡げさせていた。


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