幼少期V




次の日、新しく男娼として入ったアリスを他の男娼は好奇心旺盛な眼差しで見た。目を張るようなアリスの容貌もだし、その若さも注目する一つだった。普通の男娼よりも、二、三早く春を売る彼に注目しない話はないようだった。
心此処にあらずのまま、云われるがまま着席して動かないアリスに一人の男娼が話しかける。アリスよりも五は上そうな青年だった。彼は向かい側に座ると、身体を乗り出して懐こい顔を向ける。

「お前、親から売られたんだって」
「…」

アリスからの反応がない事に、青年は若干不服そうな顔をした。その時、別の男娼が彼を窘めるよう背中を小突く。咎めるような顔をされて初めて自分の発言が無神経だと気付いたのか、彼は困ったような顔をして、それから頭を掻いた。

「…あー。えっと、ま、気にすんなよ」
「…」
「俺達は皆役者を目指して進んで男娼になってて。まあ、動悸は…違うけど。…宜しくな」

それだけ云うと、彼は先程小突いた男娼に引き攣られてアリスの前から居なくなる。馬鹿、と彼を叱咤する別の男娼の声がアリスの耳に届く。その声は遥か彼方でした気がした。今なら、昨日も今日も嘘だったと云われたなら、アリスは未だ信じられる気がした。現実味がない。人事のようだ。
それでも、身体にあの嫌な感触は残る。





男娼として華なのは十と七迄であったが、アリスは無論その前に、数え切る事が出来ない程の男と関係を持ってから、とうとう陰間茶屋から逃げ出した。夜中の事だ。このまま抱かれて男娼として生きて死ぬ位なら、野垂れ死ぬ方が良いと思った。いの一番地味な色と形をした着物を着て、丸窓から飛び降りて走った。
途中で見知らぬ人間とぶつかったが、脇目も振らず走る。怪しむような遊女の視線を浴びながら、遊郭を出た。身体は痛み、息が上がる。それでも尚、走る。目的地もないままに、無計画に、出来るだけ遠くまでと、初めて見る光景を駆けた。辺りは恐ろしくなる程、森閑としていた。空中を蝙蝠が飛ぶ。


どれ程の距離を来たか、どれ程の時間が経過したか。分からぬまま、アリスは息を切らして駆け続けた。男達の相手をしてきた身体が痛む。ろくな食事もしてこなかった為、貧血を起こした。睡眠も上手く取れてなかった。あれから割り切る事が出来ず、命令されるがままの受身だった。極度の疲労感に足が止まる。脳震盪が起こったようで、まずいと思った時、アリスはその場に崩れた。隣に、自分の元居た屋敷以上の豪邸が見えた。視界が真っ暗になる。





「――して、ロリナ殿。軍医の小鳥遊と云う者が、実に優秀でして」
「ほう」
「彼はご兄弟が幾つかおりましてな、弟の方もこれまた素晴らしい。父親が父親であるからか、あの一家は実に優秀で」
「父親…。ああ、細君が入院しているあの者か」
「ええ。あの事件は痛ましかったですなあ。母親をあんな風にされて、子供達もさぞ辛かったでしょう」

ロリナと呼ばれた、御河童のように髪を真っ直ぐ切り揃え黒の軍服を着衣した軍人と、眼鏡を掛けた軍人が馬車の中で話をする。真っ直ぐな髪をした彼の軍服は立派な礼服で、金の装飾がよく映える。
ロリナは長く伸びた足を組み、白手套を嵌めた右手を顎に当て、相手の言葉に肯定を示した。馬車が揺れる度、帯刀された三本の日本刀が揺れる。

「『左』の奴の仕業だったか」
「ええ、ええ。あの事件があったからこそああして、国に貢献しているかと思うと痛ましい」
「ふむ。そのような事もあろう。何にせよ、戦力となるのなら望ましい」

暫くすると、馬車が停まる。ロリナが右を見れば、自分の住む屋敷が見えた。巨大な出で立ちをするそれは、実に立派なものである。門からして厳粛さが漂い、見る者を圧倒させる。ロリナの名字である髑蠱(どくや)、と書かれた表札も見事なものだった。
外側から扉が開けられて、ロリナが降りる。ロリナが中の軍人に別れを告げようと振り向く前、門から少し離れた場所に子供が倒れているのに気が付いた。馬車の中の軍人はロリナが一点を凝視しているのを不思議に思ったらしく、身を乗り出す。

「どうされました」
「……子供が、倒れておる」
「なっ。じ、事件ですかな」
「分からぬ」

ロリナが短靴を動かし、倒れた子供に近付く。濃い藍色の着物を着たそれは少年であると体躯から判断し、ロリナは身体を起こさせた。衰弱し、昏昏と寝ているようだった。息もあれば外傷がない事を確認し、声をかける。反応はなく、起きる気配もなかった。ロリナは眉を顰め、少年の身体を両手で抱える。体重は軽く、細かった。


「少年、ですか。はあ、また美しい少年で…。否、関係はありませんが」

馬車の中の軍人はしげしげと、感嘆の息を漏らしながらロリナの抱えた少年を見つめる。ロリナはさして興味もなさそうな顔のまま、馬車から離れて己の屋敷の門へ向かった。軍人はまさかと云った顔をして、狼狽してロリナの背中に話しかける。

「どうなさるのですかな」
「このまま放置する訳にも行かぬ。一先ず屋敷へ入れる」
「まさか。ロリナ殿、それは多少危険ではありませんか。もしも彼が左側からの刺客で罠だとしたら」

ロリナが止まり、振り向く。そうして抱えた少年の腕を軍人に見せ、不敵に笑う。
自信満々に紡がれた彼の言葉に、軍人は閉口してしまう。門を開き中へ入るロリナの後ろ姿を見て、軍人は感服したよう顎を触る。流石は総司令官殿、と呟いた。最高責任者としてあるロリナは信頼も厚く、軍人の中では尤も憧憬される人物であった。

「わしがこのような軟弱な子供に、不覚を取ると思うのか?」

軍人はこの言葉をいつかは真似して云ってみようと心に決め、馬車を自分の邸宅まで走らせるよう命じた。





アリスが目を覚ますと同時見たものは、知らない天井だった。

布団の中に入っている自分を認めると、アリスは混乱して飛び起きる。畳が広がるだだっ広い室内に、自分一人の布団が敷かれている。アリスは驚きのあまり今迄の記憶を一瞬忘却したが、全てを思い出すと益々混乱が生じた。自分は外で倒れた筈である。しかしこうして居ると云う事は、誰かから拾われたと云う事だ。室内を見渡すと、他には掛け軸と活けられた百合、角灯だけがある。殺伐とした空間であった。しかし、以前の陰間茶屋でない事は確かだ。アリスは少なからず安堵した。
そっと布団から起きて、枕側の襖を開ける。音がするので、人が居る事は分かった。アリスが次に見たのは、居間に用意された数々の料理だった。炊きたての白米、里芋の煮っころがし、焼き魚、漬物。簡素ではあるものの、アリスからしたら充分なご馳走に見えた。アリスは空腹であったので、無意識にじっと見入る。すると、アリスの前に男性が現れた。黒の軍服を着る、真っ黒を纏った男性だ。その厳格な雰囲気に、アリスが思わず緊張する。

「起きたか」
「え、ええ。…あの」
「腹が減っておるのだろ。喰え」
「え。…ええと」
「要らんのか」

一種気圧されて、アリスは閉口頓首してロリナを見上げる。自分より体躯も身長も上で、年齢も十以上は上そうだ。加えて、軍人である事を何より示す軍服。どうやら女衒でもなくて、軍人に拾われたようだった。アリスは自分の逃亡が上手く行った事を悟ったが、しかしこれはこれでまた苦難のような心持ちもした。返事を待つ彼にようやっとで要ると単簡な返事をし、云われるがまま座った。ロリナも座る。
食べるよう促され、アリスは箸を取って恐縮しながら茶碗を持つ。身分も何も不明で怪しくある自分をどうして拾ってくれたのか、しかもご丁寧に食事まで用意してくれたのかはアリスは到底解りはしなかった。
しかし、食べるべきである事だけは解る。毒等が入ってる訳はなかった。ロリナはもう、自分の口におかずを運んでいる。アリスはそれを見て、頂きますと小さく呟くと里芋に手を伸ばした。口に運ぶと、その温かさと美味しさに思わず驚く。特別な料理でも何でもなかったが、アリスは本当に久々に、美味しいと思えるものを食べたと思った。途端、何かが外れたよう涙が出る。零れるそれは拭ってもまた溢れ出し、止まる事を知らない。それを見たロリナは何も咎めずに、また自分の口に焼き魚を運んだ。





「お主、名前は」

アリスが落ち着いた頃合いに、ロリナは名前を尋ねた。アリスは泣いてしまった事がどうも恥ずかしく、ロリナの顔を上手く見られない。口ごもり、しかし何とか名前を云う。

「…アリス、です」
「名字は」
「………」
「云えぬか」

アリスは沈黙した。自分を捨て、恥だとまで云ってのけた彼等の名字を使える権利はもうないのだと思った。兄からも兄と呼ぶなと云われ、拒否された。つまりは、絶縁されたと同じ事だった。また、自分からももう彼等のような人間と繋がっていたいとは思えなかった。想ってくれないような人間に縋る屈辱は受けたくないと、アリスは思った。
そのまま閉口していると、ロリナはふむ、とだけ云った。怒られるだろうかと怯えるアリスからしたら、それは意外な反応だった。

「云えぬか。なら質問を変えるが、どうして倒れてた」
「…逃げ、てきました」
「何処から」
「………」
「それも云えぬか」

ロリナはまた黙る。この後は何を云われるだろう、とアリスは覚悟した。矢張り追い出されるに決まってた。そうしたら、お金もなければこの身に纏う着物だけで逃げた自分が行く宛等は無かった。たまたまロリナが善人であったので良かったが、次は誰にどうされるか分かったものではなかった。行き倒れて死ぬかも知れないし、見付かってまた戻されるかも知れない。それならばいっそ死んだ方が良かったが、一先ず――、それでも、生きたかった。
アリスは俯く。その姿を見て、ロリナは眉を顰めた。

「お主」
「へ……」

次の瞬間、アリスはロリナが腕を振りかざしたのを目にした。惚けてどう避ける事も適わずに、軽快な音と共にアリスは頭に拳骨を見舞われる。まさかの事態にアリスは自分が殴られた理由も分からなければ、殴られたのだと理解するにも大分時間がかかった。目を丸くしてロリナを見ると、ロリナは悪びた様子もなくアリスを見ていた。

「反射も悪いな…」
「え、え」
「そのような腑抜けた顔をされるのも、軟弱な男を置くのも御免だ」
「その…」
「しかし丁度、家事をする者が欲しいとは思ってた」

ロリナは立ち上がり、アリスの前から居なくなる。襖を開け、隣室の中へと入る。アリスは云われた言葉を咀嚼し切れずに、ただそこに困惑したまま座っていると一分程をして、隣室からロリナが出て来た。ロリナの右手には古めかしい蛮カラがあり、背丈の小さなものだった。それをアリスに向かって投げると、襖を再び締める。

「わしがお主位の年齢で購入したものだ。兵学校に行ったから使ってはないが」
「……ええと」
「それとわしが家に居る時の将棋や剣道の相手にもなる。わしが鍛えれば強くもなろう、そうと決まればさっさと風呂の用意をしろ」
「あ、あの」

アリスが声を張り上げる。ロリナはするとアリスを睨むものだから、アリスの顔が強張った。有無を云わさぬようなその威圧感に圧倒され、畏縮する。さながら蛇に睨まれた蛙だ。

「何だ。穀潰しを置きはせんぞ」
「お、置いて。…くれるん、ですか」

誠に信じ難く、アリスは孤疑してそうと尋ねる。何処の馬の骨とも分からぬ人間を置く等とは、俄に信じられるものではない。加えて、アリスは兄が豹変した事で一種の人間不審の一歩手前まで来ていた。この二つが揃ってしまっては、この良過ぎる状況に猜疑をかけぬ訳がない。相手が軍人で嘘を吐く人間ではないと解ってはいても、アリスは聞かずにはいられなかった。そう云えば、彼の名前すらアリスは知らない。

ロリナは溜め息を吐き、至極当然であるよう次のように云った。この時、アリスは十歳から今までの悪夢のような出来事の代わり、彼のような全人に巡り会う事が出来たのだと信じた。有り難くて、どう感謝を述べて良いものか解らなかった。しかしロリナの方はそんな事はどうでも良いようで、情けない面をするなとだけ云った。これが、後の師弟の出会いである。

「さっきからそう云っておろうが。何度も同じ事を云わせるな」





髑蠱家の縁側のある、庭。アリスがこの家に来てから大分時間が過ぎた。アリスはそこで竹刀を構え、また竹刀を持つロリナと対峙している。アリスは緊張に喉を鳴らし、しかし覚悟を決めて素早く動き、ロリナへと向かう。面を狙ったその攻撃は俊敏で鋭利なものだったが、ロリナはいとも簡単に避ける。ロリナから代わりに繰り出された竹刀をどうにか竹刀でアリスは防ぐ。その攻撃の重さに顔を歪めた。

アリスが何とかロリナの竹刀を跳ね返し、足を軸にしてロリナの肩へ竹刀を振り下ろそうとした時だ。ロリナの竹刀がアリスの竹刀を完璧に防ぎ、しかもそれはそのとてつもない力によってアリスの両手から竹刀を弾き飛ばした。まさかの事態にアリスの反応が遅れ、一瞬の隙が出来る。当然隙を作った側のロリナがそれを見逃す筈もなく、竹刀でアリスの腹を容赦なく打ち、薙ぎ倒すように胴を取った。無防備な腹に攻撃を喰らい、アリスの身体が飛ぶ。地面に伸びるアリスを見下ろして、師匠であるロリナは不機嫌そうにアリスの頭を竹刀の先で突く。アリスが呻いた。

「甘い」
「……すみません」
「わしが帰るまで素振り五千回。それと夕飯と風呂の用意をしとけ」
「…はい」
「馬鹿者。しゃんとせんか」
「はいっ!」

ロリナから頭を竹刀で殴られそうになり、アリスは飛び起きて軍人顔負けの良い返事をする。何年も経過した訳ではなかったが、来た当時に比べれば大分アリスは心身共に頑強になった。ロリナはその自分の成果に満足し、竹刀をその場に放った。今から軍人に会うのだと云う。
ロリナは静かな双眸で、上半身を上げたアリスを見下ろした。考えているようだった。アリスが不思議に思い、見上げたその時だ。ロリナはアリスの手首を持ち、その場に押し倒す。敷かれたアリスは状況が分からず瞬きをした。しかしロリナの白手套を嵌めた右手が腰に触れた時、途端驚きに身体が跳ねる。瞳が揺れ、唇が小さく震えた。先程迄の威勢はなくなって、身動き一つも取れない。
ロリナはそれを見ると、納得したよう一度頷くと惜しみもせずにアリスから手を離す。そうして立ち上がり、身体を退かせた。

「お主はそうされると、弱いな」
「………」
「強くあれ」

ロリナは云うなり背中を向け、背筋を正したまま規則正しく歩みその場を後にする。アリスは保護者であり武術の師匠と化した彼の背中を見送ると、彼の云わんとせん事が分かり、不甲斐なさを感じて起き上がると素振りを始めた。毎日が大変で身体も悲鳴をあげてたが、アリスからしたら余程充実した毎日だったし、それに忙しくしている方が良かった。短くとも濃過ぎたあの忌ま忌ましい過去を、その方が忘却出来た。アリスは早く忘れたかった。否、忘れるだけではない。今のロリナが意味したよう、自らの払拭して乗り越えなければならなかった。
一心不乱に、素振りを行う。




「…ロリナ殿。あの少年を置かれているそうですね」

馬車の中に居たのは、アリスを拾った日、共に居た軍人である。何処か疑うような顔を向ける彼を前にして、ロリナは平然として腰掛ける。上官である彼のその態度を咎める事は不可能ではあるのだが、軍人は眼鏡をかけ直して言葉を発する。

「あの少年の名字は」
「知らぬ。語ろうとせん。だから、わしの髑蠱をくれてやった」
「…。素性が不明な人間は危険です。一応、私共で彼を調査させて頂きますが宜しいですかな」

それは疑問ではなく断定で、軍人はロリナを眼鏡の奥から見据えた。ロリナは気を悪くしたのか目を細めて彼を見つめたが、しかし拒否する道理はなかった。又、拒否したところで無駄だとは解ってた。行われるのが目下であるか否かの相違だけで、どうせ行われる事は自明の事だった。アリスは疑うに足りない人物だとロリナは既に解ったが、それだけでは不十分だと云う事だ。その裏には、万一怪しい素性であるのなら、その時はアリスを排除すると云う意味さえ含有した。
ロリナは肩を竦めて息を吐き、白手套を嵌めた右手で己の顔に触れる。そうして手で覆われてない口元に、不敵な笑みを浮かべた。それは信用から成る、余裕の為すものである。

「…好きにするが良い」

軍人は単簡に礼を述べた。





アリスが今の愛刀である棣唳(だいな)を譲り受けたのは、その年の秋の事である。アリスの軍人達からの不信が払拭される前、ロリナはそれを渡した。アリスはそれに当然酷く驚くが、それを自分が貰うべきであると雰囲気から察すると、送り返す事も拒否する事もせず、只礼を述べて頂戴した。
ロリナの使用する三本の日本刀の中で、棣唳は間違いなく一番厄介な日本刀だった。重くて、扱い辛い。生半可な実力では扱い切れない。扱えるようになれば逸品ではあるものの、それまでは使い物にさえならないような代物だった。
それはロリナも認めるところで、渡されると同時それを云われたアリスは何の虐めだろうかと思った。竹刀とは比にならない重さだし、以前一回使わせて貰った日本刀よりも矢張り重い。鍔も鞘も柄も全てが真っ黒だ。刀身すらも黒。しかし、鍔をよく見ると上品な程度に四角の形をした金箔が幾つか入っている。それはロリナを始め軍人や陸軍士官学校生が着る、黒の軍服によく似てた。

アリスはロリナから棣唳を渡された時云われた言葉を、今も克明に覚えてる。その一言はアリスからしたら素晴らしい奨励の一言であった。今までの自分を、認められた気もした。アリスは毎日本気で血反吐を吐くのではと思える程、熱心に稽古に励んでいた。
強くなりたいと、アリスは強く思った。それは心身どちらもを意味する。在りし日自分は弱くて、何も出来ない子供だった。それを変えたかった。されるがままだった自分自身に嫌気がさした。ロリナの云う立派な男児になれるようと、日々をもがくよう生きた。勉強もした。本を読み、教養をつけた。自分を置いてくれたロリナの恥にだけはならないよう、今日まで生きて来た。自分は生きていたいのだと、強くありたいのだと。誰に云うでもなかったが、胸中で、固く誓う。

「使いこなしてみせよ」

――必ず。
アリスは込み上げる感情を抑えながら、それだけを何とか口に出した。





桜の舞う季節、ロリナが唖になったのは、アリスにとってキルケゴールの大地震のように衝撃的なものだった。ロリナは戦地で業火に焼かれた建物の中、夥しい煙の中で喉を痛めてしまったのだと云う。前線に出たのではなく、誰かを救済しようとして油断をしたらしかった。その誰かが一般市民であったのは、後に違う軍人から得た。
大きな衝撃を受ける中、ロリナは今後どうやって意志疎通を図るのだろうとアリスは漠然と思った。尋ねれば、声の代わりをする少女を家に呼ぶと、達筆な字で紙に書いた。逝羽(ゆきは)と云う家系の者らしい。特殊な読唇術を使い、代弁をするのだと云う。そこの幼き娘であるエディスの能力は素晴らしく、唇の動きを見なくとも心情が察せるのだそうだ。雰囲気、表情、動きと云う要素全てで。アリスは流石に嘘らしくも思えたし、それは読唇術と云えるのかと疑問すら過ぎったが、軍での決定事項であるらしく今更アリスの云えるところではなかった。昔、ある軍曹も逝羽家のお世話になったらしかった。ところで、唖になってからロリナが着け出した日本の国旗模様のマスクを、アリスは突っ込んで良いものか大分迷った。結局突っ込みはしなかった。


そのような過程で、髑蠱家にアリスに続き新たな家族が増える事になった。桜が未だ舞い散る最中、読書をしていたアリスの元に、ロリナに率いられて一人の少女が桜の花びらと共にやって来た。美しく切り揃えられた銀色の長い髪に、水色の瞳。黒髪と黒目を持つ日本人では先ず有り得る筈もない、その奇特な色。巫女の衣装を身に纏う未だ幼き少女はアリスを見て、女児らしく柔らかく笑んだ。彼女は大きな鏡を抱えてて、その鏡はまた不思議な力でもあるように、不気味に光ってすら見えた。
彼女の出した声は当然高く、どうやらこの声で以後ロリナの声を聞く事になるらしい。試しにあの怒声をこの声で変換してみると何とも云えず、アリスはどうも複雑な心境があったが、それについては何も云わなかった。アリスからも彼女に柔らかな笑みを向ける。

「逝羽エディスと申します。今日から、宜しくお願い致します」


彼女はアリスの愛すべき妹となった。



NEXT『士官学校生徒A:前』


「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -