軍国青年




「聞いたか、陸軍少佐が殉死なさったそうだ」

大日本帝国、陸軍士官学校廊下。そこでは前身頃へ縫い付けられた菊紋様の釦を初めとする、金の装飾の施された黒色の軍服を着衣する複数の男子生徒が輪を作り、大人達から耳にした確かな噂を声を落とす事なく話してた。一人の生徒が白手套を嵌めた手で人差し指を立ててその話を持ち出すと、一同は驚きの色を隠さず各々の顔へ表した。

「それは誠か」
「確かだ」
「信じられぬ、あのお方が」

陸軍少佐と云えば彼等士官学校の生徒からしたら憧憬の念を抱く対象の人物であり、それは砲弾か人間魚雷のような彼の死をも畏れぬ程の猪突猛進な戦闘の手法を良きものと捉えられていた事にある。お国の為なら死を厭わず、戦死者を出した家は名誉の家たるとの軍国主義、ファナティックな風潮である。あの背中を模倣として説かれ、士官学校へも指導をしてた彼を慕う者は多く、噂話をする彼等もまたその例へ当て嵌まるのであろう。瞳を揺らした顔は動揺を明確なものとさせていた。
同時、士官学校の生徒は未だ若い。彼のような軍人が殉死した事実は大分彼等を怯ませたようで、彼等はそこで声の大きさを落として、

「…そうなると、軍も不安だな」
「自分達が軍人になる時は、どう我が国と諸国は変化しているのだろうな」
「例の戦争ではそれはもう酷い量の戦死者が出たのだし、特攻隊の存在は見直されるべきでは…」

「――何の話をしている」

その時、彼等の誰でもない声が落とされた。まるで鶴の一声のよう、生徒達はその声が誰のものか一気悟り輪を崩して声の方角を見た。彼等の背筋は必要以上に不自然に伸び、顔は厳粛さを示すものの緊張で些か引き攣った。
声を放ったのは、短く切られた黒髪と鋭さを持つ黒の瞳、そして左目に泣き黒子を持つ男子生徒である。彼の背筋は美しく伸び、若くとも威厳が感じられる。彼は生徒一人一人の顔を目付きを鋭くさせて睨むよう見ると、淡々と口を開いた。

「聞こえたぞ、お国への不信感を貴様等は持つのか」
「否、そのような訳では…」
「貴様等は甘い。お国の為なら、喜んで命を差し出せ。二度とそのような口を利くな」

蛙を睨む蛇のよう威圧感のある顔で云うと、その生徒はそのまま腰の日本刀を揺らして生徒達を最早見る事もなく廊下を歩く。生徒は彼が背中を見せて振り向く事がなくとも、その不自然な直立不動の姿勢をとったままだった。彼の姿が見えなくなって暫くしてから、漸く生徒達は姿勢を崩し緊張の糸が切れたよう大きく溜め息を吐く。
その後、苛立ったような反発心のある顔で声を格段落として陰口を云い合う。

「…何だ、小鳥遊(たかなし)の奴、首席だからと随分偉そうだ」
「奴は本当お国が喜びそうな軍国少年なのだから」
「俺達が逆らえたものではないが、矜持があり過ぎて嫌になる」

先程の生徒は陸軍士官学校首席であるのだが、しかしどうもその高圧的な態度から生徒からの反感を買う事も多々。若しくは軍国主義者や国家主義者は彼に限った事でもないので彼が優秀でなければこう悪く云われる事もなかったかもしれないが、首席で彼等の云うようお国の喜ぶ性格をした優秀な彼は待遇も良かったので、畢竟、妬まれたと云う事である。
陰口が放たれる中、生徒の一人はしかし、

「…だが、海軍兵学校首席の五百蔵(いおろい)と比べたら全然良い」

その言葉を皮切りに、生徒達は矛先を変え次々そうだそうだと云う。落とされた声の大きさもまた大きくなる。彼等はまるで卓を囲んで酒をつまみながら政治の悪口を声高に云う文学者達のよう熱をあげて、

「五百蔵は何とも厭味な奴だ、完全に俺達を見下している」
「何が海軍兵学校首席だ、奴の生まれを誇る辺りも気に喰わん」
「自分は以前『地面を這いつくばる陸軍は大変だな』と嘲笑して云われた」
「奴に比べたら小鳥遊はまともだ」
「そもそも海軍兵学校の奴等は優柔不断が多くて良くないな」

今までの鬱憤を出すよう口々にあれこれ好きに云い合った。陸軍と海軍の仲が険悪であるのは今までの諸国の歴史を見ても分かる事ではあるのだが、この様子からも士官学校の内から既に仲が宜しくない事は伺える。
さて、後は彼等の話は延々と続き、そこは詳細を語る必要性は感じられはしないので少なからずも物語と関与する、先程の士官学校首席へ焦点を当てる事としよう。





陸軍士官学校首席である小鳥遊リデルが大日本帝国陸海軍総司令官である髑蠱ロリナと会って話が出来ると分かった時、恐縮したし歓喜した。
此処で説明として付加しておくと、総司令官なるものは旧来の日本の軍隊には存在しなかった。それが何故存在するかと云うと、少しの不安材料をも払拭する為である。これは何処の国でも云われる事であるのだが、海軍間と陸軍間の仲は闘い方の相違より良くはなく、寧ろ悪いとされる。それは致し方のない事であろうとも、敵国と闘う以前から味方同士で反発しては勝てるものもまた勝てぬ。
それを一時的な措置としてどうにか解決を図った結果が、海軍三長官と陸軍三長官の上で統治する陸海軍総司令官である。その地位につく者はどちらにも肩入れをせず、双方の意見をあくまで客観的に聞いた上で指針を決定するのである。安易で応急処置過ぎるとの意見も多々見られたが、彼自身が見せる技であるのか何なのか、その措置は結果として中々上手く行った。

話を戻すと、士官学校生や兵学校生、或は軍人から一目置かれ感嘆される彼から話がしたいと云われた小鳥遊は、それはもう緊張もしたし平常心では居られなかった。何でも、時間がある今の内に、首席が如何なる人物かを把握しておきたいそうである。
そこまで聞くと、前世から因縁があったと思わずにはいられない程に仲が宜しくない海軍兵学校首席の五百蔵もまた別の日に呼ばれたのだろうと小鳥遊は決して良い気になりはしなかったが、それでも矢張り誠惶するのには変わりない。小鳥遊はその日何時にも増して服装を正し、詰まれた円匙の横を厳粛な顔つきで通った。約束場所である、士官学校の中の或る扉が見えて来る。
僥倖であった。故に、小鳥遊はこの機会を見逃してはならぬと考えた。

実は小鳥遊は軍人でもなく、憧憬する人物が一人居た。名前をアリスと云うのだが、アリスはロリナの唯一の弟子であり、同居する人物であった。
あの鬼才な総司令官殿の弟子であると云う事で、周囲の者はさぞ素晴らしい腕を持つに違いがないと噂した。それをどうせ七光であると小鳥遊は最初の頃気にも留めはしなかったが、彼が特別にと試合をしに来たのを見て以来、その自分では到底敵わないだろう実力と才華に心から敬服した。
自分より年上とは云えさしたる違いではあるまい彼を憧憬したし、出来るなら一度会って話してみたいと常日頃から思ってた。そして今日、その親代わりで師であるロリナと話す機会が設けられた。これをまさかおめおめ活かさぬ話はないと、小鳥遊は話の最後にでもアリスの話を持ち出そうと決意した。扉の前まで来ると、ノックをして扉を開けた。


小鳥遊の前方には、烏のような黒の髪を真っ直ぐ切り揃え、口元には中央部へ赤丸が大きく描かれた白のマスク(「日本」の国旗を表すような)を装着した軍人と、銀髪の長い髪をした少女が居た。




――話が終わった際アリスの話を持ち出すと、ロリナはマスクで覆われてない双眸を数回瞬かせた。それは思わぬ話題を持ち出されたが故の驚きの他ならない。
ロリナは白手套を嵌めた右手を顎に乗せ、考えるそぶりを見せる。胸元の勲章と飾緒が揺れた。唖で言葉を発せられぬロリナの代わり、彼女の半身もの大きさである鏡を抱えた巫女装束姿の少女が話す。

『…あの馬鹿弟子を憧憬だと?』
「そんな卑しめられなくとも、彼は大変素晴らしい人物です!」
『ふむ。そして会って話をしたいと』
「図々しい申し出とも分かってます、しかしどうしてもお願いしたい」

ロリナは小鳥遊の顔を見る。彼の態度は真摯的であり、それが単なる気触れではない事も了解した。酔狂な奴だと思いつつ、しかし親代わりで師である彼も鬼と云われる一方では、矢張り息子のような存在の弟子がこうして他者から尊敬される事を嬉しくはあるのだろう。あくまで小鳥遊からは分からない深層で喜ばしく思った。それを唯一分かった少女エディスは、ロリナに隠れて微笑みを浮かべる。彼女はロリナとアリスの仲が良ければ宜しい程、喜ばしく思った。
ロリナは椅子から立ち上がり、

『良かろう。今から来るが良い』
「あ、有り難う御座います!」
『礼には及ばぬ。あやつも喜ぶだろう』

小鳥遊は顔を綻ばせながら、前を歩き外へ先導するロリナの後を急いで追った。





白拍子の声が、聞こえる。

小鳥遊は門の前に用意された馬車にロリナとエディスと同乗し、揺られながら彼等の家へ向かっていた。彼等の家へ行くには遊郭を通って行くらしく、蛮カラを着て古びた教材を抱えた二人の生徒が目を伏せて足早にその道を歩く中、町人は遊女屋の前で馴染みの遊女を捜した。びらびら簪を大量に頭に挿した彼女達は鮮やかな色の着物を各々が身に纏い、妖冶な朱唇を動かして男達と話する。遊郭の彼方へ見える山水は風光明媚であった。
煙管の煙が揺れに揺れ、騒がしく賑やかしい。飾られた真っ赤な花が目に痛い。小鳥遊は馬車の四角の窓から外観を見るのをやめ、視線を自分の靴に落とした。革の短靴だ。
事実上ではエディスがだが、ロリナが笑った。

『お主は遊女屋は嫌いそうだな』
「あ…否、」
『正直に云って構わぬ』
「好きではありませんね、狂愚とも思います」
『また、素直な奴だ』

ロリナは肩を竦め、目を細めて可笑しそうに笑った。窓の外へ目を遣って、移り行く遊郭を眺める。一人のおかっぱ頭の少女が遊郭の中を走っていた。真っ赤な着物には白の花が描かれて、赤の帯には強い色をした桃色で大きな紋様が描かれている。帯が、金魚のように揺れる。鼻緒が切れて、右の真っ黒な下駄が脱げた。少女が狼狽して一瞬動きを止めた時、一人の男が彼女の左手首を掴む。少女が嫌がるが、男は離さず彼女を走って来た方向へ引っ張って行く。誰もそれを気にしない。恐らく男は、女衒であった。
その二人と擦れ違いに、紺の着物の上に羽織り物をした男をロリナは視認した。煙管をその口に銜えた男であり、反射的に声を漏らす。小鳥遊が反応した。

「どうなさいました」
『…アリスと似た男が居た』
「え、ええっ」

素っ頓狂な声を出し、慌てて身を起こして窓から外を見る。しかし多くの人が行き交う中たったの一人を見付けるのは、しかも動き行く馬車の中からでは極めて難儀であり、小鳥遊が必死で捜すも見付かる筈もなく。ロリナは込み上げるように笑った。

『無駄だ、もう小屋の中へ入りおった』
「ま、まさかアリスさんでは」
『そんな訳があるか。あくまで似ているだけで別人だ。髪型も体格も目も違う。煙管まで吸っておったし、アリスより年上だろう』
「そ…そうですか」
『それに奴が一人で遊郭に来る事は先ず有り得んな、奴は相当色恋沙汰に疎い』

ふん、とロリナは窓から視線を外し後ろへ腕と足を組んでもたれ掛かる。小鳥遊も視線を外し、起こした身体を引っ込める。エディスと目が合うと、髪を結った赤のリボンを揺らして軽く会釈をされた。小鳥遊もつられて会釈する。噂で聞いてはいたものの、彼女がロリナの心中を理解して代わりに話すのは実に不可思議であった。窓側から見て奥に座る彼女が男の容姿も煙管の有無も分かる筈もなく、そもそもマスクで覆われる口が動く気配もない。優れた読唇術と考えていたがどうやらそうでもなさそうで、彼女の有り得はしない銀色の髪や水色の瞳も気にかかるもの。
彼女の素性が気になりはしたが、考えるのを止めた。聞く気も殊更起こりはしなかった。

景色は遊郭の外れへ来、橋を渡る時にはもう静寂さが漂っていた。





遊郭の、一角の小屋。
煙が、ぷかぷか、ぷかぷかと揺蕩う。町人が其所此所を姦しく歩く遊郭で、若くしてそこの楼主である青年は延煙管の吸口から口を離しふう、と決して清廉とは云えぬ煙を吐いた。丸窓の外を退屈そうに眺め、延煙管を持った腕を怠そうに上げる。高級品と示唆する銀製の羅宇であるそれの火皿から、煙が上がっては消えた。少々長く伸ばされた黒髪を幾つか紺の髪留めで緩く無造作に結った、この青年は酷く婀娜で、羽織り物をして垂れ流された紺の着物はまた彼の色気を助長させるようだった。
しかし彼の目元は些か人を侮蔑したかのよう冷ややかで、薄くて色の綺麗な唇は冷血さを見せる。青年が身体をのけ反らせた時、戸ががらりと開いた。

「鬼梗(おにやま)さん、……ああ居らした」

そこで青年を鬼梗、と呼んだのは1人の僧である。見覚えはあるまいが小綺麗な外観からして客だろうと鬼梗は思って、身体を正して僧と向き合った。心地好い風が、開かれた戸から入る。鬼梗が口を開くと、煙が漏れた。

「何の御用で」
「ああ否、遊女と遊びに来た訳ではなくてね、その。陰間茶屋の男娼と此処の楼主さんがご兄弟だと聞きましたもんで。心当たりはありませんかね」

云われて鬼梗は露骨に嫌そうな顔をして、はあと一気に態度を悪くさせる。正した身体を直ぐ様悪くさせ、机へ肘をついた。僧はその態度へ驚きを隠せなかったが、それでも楼主の鬼梗は彼の顔を一瞥し、仕方なくと云ったよう彼と向き合う。偉そうな態度で脂下がりながら大胆に下肢を広げて胡坐をかくと、真っ白な下肢がよく見えて、崩れた着物の下が見えてしまいそうだ。僧は思わず凝視した。

「何だ何だ、あのごみの話か。アイツ未だ生きてたのか、弱っちいくせして生命力だけはあるんだな、芥虫のようだ」

突如吐かれた雑言へ僧が驚くのと、鬼梗が僧の視線の方向に気付くのは同時だった。すると鬼梗は口角を上げ、誘うようすす、と着物の裾を捲る。際どいところまで来ると思わず僧が唾を呑んだが、鬼梗は嘲笑して着物の裾をまた下ろした。残念そうな、未だ欲情を見せた僧へ愉快そうに笑う。

「あのごみを買ったのか。見る目がないな」
「…え、」
「正直さ、俺の方が綺麗だし、犯したいだろ? まあ俺はそっちの趣味は皆無だから抱かせはしないが、しかしあれを抱くなんて有り得ないよな。ああでも従順だったろ――」

僧が聞かぬのに鬼梗は途端嫌そうな顔をしていたにも関わらず、饒舌に話をする。その顔は楽しそうではあるものの、嘲ったような顔であり、その端正な口から吐かれるのは『実の弟』への発言とは思えぬような悪口雑言。鬼梗は口角を意地悪く上げると、

「俺な、あのごみを犯した事があるんだよ」
「は、……何と」
「ああ、間違っても間違うなよ。俺はあれと血が繋がってると思うだけで虫ずが走る。そう、折角の別れだし、あれへ精神的外傷でも与えたかったのさ」

まあ座れよ、と鬼梗が畳を叩き僧へ腰掛けるよう促した。鬼梗から云われた思わぬ内容が気になってしまった僧は畏まって一礼をして、戸を音もなく閉め、云われたまま腰掛ける。丸窓と机、その上の筆と和紙程度しかない簡素な部屋だった。恐らく彼は此処で仕事をするのだろうな、と僧が気付かれぬよう控え目に中を見渡した。

「あれがうちの鬼梗から捨てられたのは知ってるな」
「ええ、他の僧から。太夫として育てる為に女が良かったのに、男だったからと」
「なら話は早い。だからさ、俺は負け組なあいつが嫌いでね、犯した時に散々に罵ったんだよ。えーと何て云ったかな、豚、くず、売女、気持ち悪い、死ね、負け犬、死に損い」
「……は?」
「あの頃思い付いた言葉は全部吐いたと思うよ」

その単語が信じられず、僧は口を開き耳を疑うような顔をした。そのような反応がまた愉快なのか、とうとう鬼梗は笑顔で煙管を口から離すと机の上へ置き、勝負事の花札で大勝ちをした者のよう、嬉々としながら楽な体勢で話を続ける。

「俺は云ったよ、愛されるとか馬鹿な事思うんじゃないよ、お前との情事はこの通り気持ち良くもないし不快だからせめて何されても受け入れろ、喜んで犯されろ、そうしないとお前は死ぬべき存在でしかないからね、って」

子供が通りをばたばたと走る音がした。僧は何も云えないで、ただ些か恐ろしいものを見るような目で鬼梗を見た。この青年は、以前買って交合したあの少年と本当に兄弟であるのだろうかと。顔立ちは確かに似ているが、しかし眼前で目を細め、口元を緩ませる鬼梗とあの少年の印象は大きく異なった。少年は気丈であるのに何処か儚さを見せたが、鬼梗からはそれが一切見られない。肝臓だけでなく、腹も手足も全身をその煙が侵食しているようだった。
僧はこれなら彼が知る筈もあるまいと立とうとしたが、彼が吐いた言葉で思わず下品に劣情を刺激された。
されただけに、落胆は増した。

「あいつ、お陰で従順だったろ。縛っても嫌がりはするけど抵抗はしなかったろ」
「え、あ、まあ…」
「蝋燭とか垂らしても良いだろうし、靴を舐めさせても良い、ああ少しなら刺しても良いかもしれないな。前戯もせず無理矢理陰茎挿れて血とか出して、乱暴にしちゃえよ。腹とか蹴ったら嗚咽するよ。他の男娼だったらぎゃーぎゃー喚いて問題にもなるけれど、あいつだったらどうせ誰にも云わないよ」

想像し、僧は鬼梗の弟である少年をまた抱きたいと強く思った。快楽を見せるだけでなく、痛みを見せる彼もまた美しかろうと想像するだけで発情した。しかし僧が鬼梗を尋ねた理由はそこにあり、今すぐ陰間茶屋へ行って来たらどうだと促した鬼梗へ眉を下げた。

「それが、あの少年が消えましてね」
「………はあ? 死んだのか、ざまあみろ」
「否、それは分からなく…。娼襠子達もだんまりで。私は諸事情でこの京都を暫く離れてまして、少年と性交したのも随分昔なんですが。漸く帰ったのでまた彼を抱きたいと」
「どれほど前の話だ、あいつは確か十…よく覚えちゃあないが早くから売ってたぞ」
「数年以上前ですね」
「はっ。ふざけてる」

鬼梗が馬鹿にしたよう嘲笑すると、僧は恐縮した。

「成る程数えると確かにあいつは今が花盛りだが、お前もまた随分執着する」
「貴方ならご存知かと」
「知る訳ないだろ、あんな肉奴隷。野垂れ死んで犬から喰われてるか死体になって悪趣味野郎の肉便器してるんだろ」

鬼梗のその言葉は嘘がなさそうで、もしかしたら兄として、捨てられ売られた弟を見捨てておけなくなり匿っているのではと考えを立てた僧は見当違いだった事を知った。遊女を買ってかないかと誘う鬼梗へやんわりと断って、僧は足早に彼と別れた。戸を閉めると息を吐き、もう一度彼の居た空間を見ようかとして、止めた。色香のある今まで見た中で一番の美青年ではあったけど、とんでもなさもまた飛び抜けた者だった。
僧は、一度だけ抱いた彼の名前を思い出そうとする。彼以前に抱いた者の名前が幾つか浮かび上がって困惑したが、女のような名前だったと直ぐ至る。元は女だと思われて付けられたのだから当然の名前だった。僧は歩きながら、呟く。その名前は己の耳だけに届き、擦れ違う者へは子供の笑い声で届きはしなかった。

「アリス」



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