指導者W




「嫌です、開けて下さい、姉さん!」

あれから何時間が経過しただろう。
金色の細工が施されたクリーム色の扉は一向に開く気配もなく、その大きな扉の無機質な佇みはまるでグリムの今後の運命を示唆し、もう彼とは二度と会えないのだと悪魔から暗示されているかのよう。身体があげる悲鳴を無視して扉を叩き続けた拳はとうとう真っ赤に腫れ上がり、痺れもきて痛みの感覚すら失われた。絶望に打ち拉がれ、両の拳を扉へ打ち付けたまま、俯く。
何時から間違ってしまったのだろうと、そのままで思う。只、自分の知らない世界を見たかった。恐らく親から逃れたかった。眩し過ぎた彼を、出来る事なら失いたくなかった。それだけなのにと、グリムは顔を上げて呟く。彼の目には、強靭な意志を見せる光が宿っていた。

「会いたい……、会わな…きゃ、」

叫び続けた声は枯れ始め、過酷な運命を前として挫折し負けそうになっていた。しかし御伽話のよう、王子様が颯爽と現れて救出してくれるなんて都合の良い奇跡、起こる筈もない。己が奮い立たねば、誰が救うと云うのだ。幼き頃から誰も助けてはくれなかったグリムは、その事は誰よりよく分かってた。
扉へと爪を立てる。それを躊躇せず下へ落とすと同時、耳へ障る嫌な音がした。そのあまりの痛さへ潰れかけた喉が呻き声をあげ、爪が剥がれ落ち血が扉を彩った。その母親からの暴力とは比とならぬ痛みは尋常ではなかったが、もう何も厭わないと思えた。
彼とまた会えるのなら、五体満足じゃなくとも構わない。足も手も不要だし、必要であれば悪魔へ魂を売る事も、悪趣味な男達へ内蔵を贈呈する事も良いと思えた。
味覚が壊れた今、何を失っても怖くはなかった。



「……? なっ…!」

突如、空気全体を震わす程の地鳴れがした。体力を消耗し切っていたグリムは、不安定となった床から血塗れの扉へと身体を思わず打ち付ける。天井が揺れて小さな粉のようなものが部屋の中へ落ちる中、次の瞬間外から聞こえて来たのは、空まで響き渡ろうとも思える警報音と重厚感の感じられるプロペラの音。直接の聞き覚えがなくとも知識として知っていたそれで、グリムは嫌でも直ぐ様理解した。

戦争が、始まったのである。

あのプロペラの音は戦闘機の音なのだと分かると、一気血の気が引く。昨日知って、まさか今日始まってしまうなんてと身体を起こした。
外から悲鳴や銃声が鳴り響く。聞き慣れぬ言語が飛び交う辺り、どうやら敵兵が一般市民や貴族を襲撃しているようだ。まさかそんな無茶苦茶な、と思ったところで姉の『今までの戦争とは違う』との言葉を思い出す。これでは戦争と云う名の、大虐殺。一体今度の戦争は何だと云うのだろう、余計な事からは一切遮断されて来たグリムは状況も呑み込めず困惑した。
戦闘機で撃たれる前に此処から出なければ、と己の血で赤色を帯びた扉の取っ手へと手を掛ける。すると先程の衝撃で上手い事外れたのか、はたまた王子様は来なくとも神様が奇跡を起こしたのか。取っ手は音を立てて回り、重厚な扉が開き道は開けた。閉じ込められた檻から漸く出る事の出来たグリムは戦争が始まったのにも関わらず、そのまま青年と会う為外へ繋がる扉へ走り出そうとした。

「なっ……!」

しかし家具が倒れシャンデリアの落ちた屋敷の中、扉の前で脱出を妨害するかのよう横たわっていたのは、戦闘機の襲撃で恐らく天井と壁の一部分が崩壊したのだろうその大量の瓦礫の山と、埋もれて潰され動かない、

「──姉さんッ!」

姉の姿。
全身から血の気を失った。急いで彼女の元に駆け寄って、瓦礫の山から出る頭へと触れた。頭はぐにりと嫌な感触を伝えたが、そうしなくとも瓦礫で潰され方向を誤めた彼女の身体を見る限り事切れてるのは明らかで、グリムは悲痛な顔をした。潰れて目も当てられぬであろう顔が上を向いてないが為、彼女からしたら想いを寄せる者へその醜悪な顔を見られる事がなかったのは唯一の幸いなのかもしれない。
周囲を見回すが、母親や使用人の姿は何処にも見られない。しかし扉から誰かが出た痕跡はなく、屋敷がこの有り様であるので恐らく屋敷内で生きているのは自分しか居ないだろうとグリムは思った。後から分かった事ではあるが、母親と父親は矢張り死んでいた。元々は壁に掛けられていた、崩壊で瓦礫の山の上へ乗る事となった己のレイピアが仕込まれたステッキを持ち外へ出た。

外は惨劇であった。
爆撃や敵兵から襲われ無念にも逃げる事の出来なかった、積み重ねられた幾つもの死体。崩れたあちらこちらの建物からは黒の煙が立ち込めて、地獄の業火のよう大きく真っ赤な戦火が賑やかであった街を焼き尽くし、相手国側が全力を以て破壊の限りを行い貪り尽くした後である。
先程の煩さが嘘のよう、戦闘機が過ぎ去って遠くで敵兵が何事かを叫ぶだけの静寂な空間で、虚しく響く火の音が嫌に耳に残った。確かな戦争を肌で感じたグリムはそれでも居ても立っても居られずに、周囲に動くものが何もない事を確認するとステッキを持ったまま、走って屋敷の裏へ、あの約束の場所へ向かう。光をくれた例の彼の居るべき場所である。数分走って、グリムは約束の場所へ到達した。


「……それは、そう、ですよね」

無論、その場所だけが無事で王子様が居るだなんてそんな都合の良い御伽話は現実で起こる筈もなく、そこへは青年も誰も居ないばかりか存在せるのは荒れ果てた瓦礫の山と、通行人の死体である。もしかしてと乾燥した唇を震わせて確認した死体の中に青年のものはなく安堵したが、何処かで殺された可能性を否定は出来る訳もない。
しかしグリムは、ポケットの中へ入れたマリア像を握った。それを持っている限り、また彼と生きたまま会えるのだと思えた。絶対的である彼が云う程なのだから、神の力は絶対なのだと信じられた。彼が云ったよう、会えますようと祈ればまた会えるのだと。彼は無事であると狂信的に信じた。

それだから、彼は大丈夫だから自分も生きねばとグリムは思った。そうして本来であれば力の入らぬであろう両の手で強くステッキを持ち、絶対この戦争を生き延びるのだと誓った。その為なら己を殺そうとする敵兵の家族も彼本人も思いやらず、迷わず息の根を止めようとすらも他者を決して傷付けなかったグリムは誓ったのだ。その決意は社会全体からしたら手放しで褒められたものではないにしろ、
この惨劇の中、偽善すら見せられる者が、果たして存在するだろうか。ステッキのヘッドを回し、レイピアを出した。


「…己の正義の為動く、誰だってそうでしょう」

断末魔が、また1つ。







それから数ヶ月経ったある日の事。戦争が未だ止む事を知らなかった時である。


「え。僕が云うの?」
「当然だろう、チミが幹部だ」
「君の方が年上だよ」
「なあに、本官の時のように軽いノリで云えば良いのさ」
「彼は君みたいに物事を軽く考えるタイプじゃ…まあ…良いけどさ」

敵兵と国民の断末魔の悲鳴や戦火の音、爆撃ばかりが耳へと馴染んだグリムからしたら、遠くから耳へと入って来たその軽い感じで話し合う声と云うものは、日常生活では何処でも聞こえる普通の会話であろうとも、この戦地と云う場所では酷く不似合いで珍妙なものだと思えた。一瞬気を許しそちらを何となしに見てしまいそうとなったが、片方の口調からしてどうやら軍人のようである。油断は出来たものではないと幾田もの血で塗れたレイピアを構え、警戒しながら声の主の方向を見た。同時、彼等と目が合うと小さな少年が手を振った。

「………あ…」
「お久し振り、藥齪家の――…グリム君だっけね?」
「おや何だ。知り合いだったのか」

グリムはその、小さな金髪の少年に見覚えがあった。以前秋の演奏会で一緒となったばかりか屋敷へ招いて話もし、加えて母親が敵対視し妬みすらも覚えていた鬮鸞のクインテットである。彼の着た上質な紺のウールスーツと白のシルクネクタイはこの戦地では大変浮いていた。
クインテットと並ぶとその高身長が際立つ白色の髪と赤目との、特徴的な色をした青年の方は初めて目にした。プリンスオブウェールズチェックを使用したスーツを着た彼はどうも右側に違和感があると思えば、同系色であるからか紛れて注意して見ないと分からないが、どうやら包帯を巻いているようである。この戦争で怪我をしたのだろうかと思ったが、あまり見るのも失礼かとグリムはそっと顔を反らした。

そう云えば何故彼等、否、鬮鸞の者がこの戦地に居るのだろうと思う。以前出会った年配の親子の話によると、どうやらこれは世界中を巻き込んだ戦争ではあるが中立国であるスイスは矢張り一切関与はしておらず、安全であるとの事。自分達もそちらへ亡命するので良ければ貴方もどうかと誘う彼女らへ、己はもしかしたら青年と会えるかもしれないと期待を抱き断って戦地へ残留したのだが、そのような者は奇特も奇特、彼は避難したのではなかったのかと思うのだが、彼の堂々たる様を見るとどうやら自分の意志で残った模様。
何でもクインテットを産むと同時基より病弱の母親は亡くなったそうであるが、母親が居ない事で我が儘な性格となり口が達者となったのだと云われる程の彼の性格は最後見た8歳から数年の年月を経た今、皮肉的な意味でその性格の良さは益々磨きのかかったらしく、その貴族な立ち振る舞いを見てそれが分かる程。元気そうで何よりだと思わず緩んだ笑みが零れそうとなったものの、
さて、彼は一体どうしてこの場へ残ったのか。そんなグリムの心中の疑問を知ってか知らずか、鬮鸞クインテット…通称クイーン、は口を開いた。

「えーと。実は僕の鬮鸞家はね、この戦争を沈める為…と云うか、正確に云うと裏で企てられた『この後の計画』を止める為の組織を作ってまして」

彼が言葉を選びながら口にしたそれは普通に云えば胡散臭い事この上なく、ましてやこのような疑心暗鬼へと陥る戦争の最中であれば尚更何を云ってるのだとの視線を向けられる事請け合いな訳であるが、あの青年から鬮鸞の裏側の話を聞いていたグリムは寧ろああ、この事だったのかと納得が行った。
グリムの無言を促しだと捉えたのか、クイーンは続ける。

「組織の名前は白兎。でも創始者の誰かさん、まあ僕のお父様なんだけど…が適当な人だったから人員が居なくてね」
「……つまりは何が仰しゃりたいのでしょう」
「話が早くて助かるよ。単刀直入に云うと、君に白兎に入って貰いたい」

笑顔で右手を差し出した。
グリムは顔を動かして、白兎のような色をした青年の姿を見た。口調からして軍人である彼の腰へはホルスター。すると成る程、経緯は知るところではないが彼もクイーンが恐らく説き伏せたか何かしたのだろう白兎の者なのだと理解する。そうして全てに合点が行ったところで、グリムは申し訳なさそうな顔で首を横へ振った。

「…すみませんが、私は世界平和のような綺麗事へは付き合う事が出来ません」
「あれ」
「他を当たって下さい」

そうと云って踵を返しクイーンから別れようとしたが、
途端勢い良く左手を掴まれて、固定され身体が動かない。まるで大男から掴まれているかのようなそのしっかりとした力へ驚きながらも試しに力を加えてみたが無駄であり、一切が不動。
自分を掴む人物はあの軍人ではなくクイーン。外観は酷く華奢であり人形のようなあどけない体躯と顔をした、しかも未だ12歳程度の彼の何処へこんな力がとのその内心の驚きは顔に現れていたようだ。軍人である青年はその力をもう痛感済みであるのか少しだけ口角を上げ、愉快げにしてみせた。

「頭も切れて秀才、加えてラ・キャンに優れた君が居ると凄く助かるんだ。君を副幹部の座とするし」
「…すみませんが、結構です」
「僕だって本当は不可抗力なんだよ、でも乗りかかった船と云うかね…お願いだよグリム君」

どうやらクイーンもクイーンで引く気は毛頭ないらしく、しかし青年と再開するとの決心をしそれだけの為生きて行くのだと誓った自分も罪悪感が芽生えようが折れる気はなく、青年と出会う前であったらきっと協力はしたろうが――、何れにせよどちらも譲れない状態のこのままでは話し合いも平行線だと悟ったグリムは腕を一先ず離して貰う。
そうして偉そうだとも思えたが、しかしクイーンのような人物を諦めさせるにはこれしかないだろうと思ったグリムはお高い貴族を見せるよう、服の皺を正しながらそれらしく振る舞って云った。

「人助けにそのようなものを求めるのは野暮でしょうが、私が協力するメリットが在りません」
「…メリット」
「私はそこまで出来た人間ではないんです。私には、やる事がある。…分かって頂けましたら、諦めて頂けますか」

努めて冷たくそう云って、今度こそ歩き出す。クイーンの顔が傷付いた表情をしていたら罪の意識が出来てしまうと、彼の顔は見られなかった。
自分は今、この戦争を終わらせるべく働きかける暇は生憎持ち合わせてはいないのだ、とグリムは心の中で思う。その慈善を行わない自分は最低だとも思えたが、しかし自分の全てをあの青年へ捧げる決意をした今や多くの見知らぬ人々の命を救うより、一刻も早く只1人へと会いたいのが本音。勝手な人間だ、とグリムが小さく自嘲した時だ。

「分かった。じゃあ僕等もそれを手伝うよ」
「……は?」

後ろから、未成熟の可愛らしいクイーンの声。思わず止まって振り向くと、少年が真っ直ぐ己を見てた。彼の瞳はどうしても曲げられぬ信念を映し出しており、元々が大層人の良いグリムの心は思わず揺れ動かされた。一方、軍人である青年は絶対そうだと決めたら自分のものとする女王様の性格を重々承知しているようで、白兎へ絶対加入させると決められた彼も災難な事だとグリムへ同情しながら肩を竦めた。

「君のやると云った事。殺人や犯罪は無理だけど、出来る範囲なら僕達が手伝う」

先程からの複数形。軍人である青年はクイーンを見た。

「………本官もかい?」
「当然。君は白兎の1員だ」
「…やれやれ、とんだお姫様だ」
「グリム、皆の平和を優先させつつ並行して君のやる事をやる。それならイエスと云ってくれるよね」

そうと云う彼の顔は確固たる意志が宿っており、何としても叶えてみせるのだとの気持ち、そして自分の本心から『平和の為』動いている事実が見受けられた。このような自分より6つも年下で小さな少年が、事情は未だ分からぬもののどうやら親から背負わされたようである世界平和だなんて戯言を、本気で成し遂げようとしている。それは馬鹿に出来た夢物語であろうが、『この後の計画』と云うからに此の戦争には何かがありそうで、指導者の位置である右手の親指へ指輪を嵌めた彼へはまた考えがありそうでもあった。
世界平和だなんて大それたものでなく、戦争で苦しむ人々を助けて此の戦争を早く終わらせて、加えてその計画とやらを食い止める程度であるのなら夢物語でもないのかもしれないと、先程までの自分は子供であったと思えたグリムは、張った肩肘を下げた。そうして蜂蜜色の髪の毛を優雅な動作で掻き揚げると、

「…仕方ありませんね、クイーン。全てをお任せ致します」

彼がするとの手伝い云々等でなく、単に彼の強靱な意志へと折れた自分の良い人さ加減へ呆れもしたし何をしてるのだろうとも思えたが、握手をし返したその時のクイーンの嬉しそうな顔を見ると、これも運命かとその感情を吹き飛ばす事とした。
そうしてそれから戦争が終わるまで3年と云うと、誰もが口を揃えてその終焉の早さは有り得ないと云おうものではあるのだが、その早さは世界中が最先端の技術を駆使した武器を以て民家をも襲撃しこのままでは全人類も滅びてしまうと思えた事と、それから何より露呈された例の計画が関与するのだがそれはまた別の折、嫌でも話す事となるから置いておくとして、

此処で問題であるのはその計画はしかし戦争が終わった今でも裏の方で持続され、それを完膚なきまで叩き潰すべく存在する白兎も変わらず活動を続けて今日に至る事、そうして簡単に済むと思われたグリムの人捜しも、何の手掛かりも見出だせぬまま今日を迎えたと云う事である。






べしゃっ。

フランス料理店。目の前でサーロインステーキへケチャップとフレンチソースが上品な動作で落とされたのを、ジャバウォックは何とも云えぬ顔で見た。それでも周囲の女性は貴族らしく大層優美な様子でフォークとナイフを動かし口へと運ぶグリムを感嘆の息すら吐いて目配せしながら見るものだから、自分の頑張りはしたものの矢張り育ちの違いなのか、どうも埋まらぬその動作の美しさへ不条理を感じざるを得なかった。
一口大へ切った肉を刺したフォークを口元へ運びながら、グリムはジャバウォックをちらと見た。白兎の放送局長であり情報屋も兼ね備える彼こそが、クイーンがグリムの人捜しをさせるべく特別に雇った人員であった。何でも彼の情報網は裏も表もお手の物で、従って今はその人捜しを全力で行っているとの事ではあるが、戦争で人が様々な国へ亡命するわ亡くなるわで今は混沌としてるから人1人見付けるのは時間がかかるよと前に1度云ったきり、今は果たして調査はどれ程進んでいるのかはグリムは知らされてはいなかった。

最初、ジャバウォックこそが自分の求めた人物ではないのか、とグリムは思った。変わった一人称と双子、青年の髪色は分からなかったのでそこは無視するとして瞳の色も同じ。これはもしかしたらと初対面の時グリムは「あの、」と話を持ち出そうとしたのだが、ジャバウォックはグリムを見ると笑顔を作って他人行儀で云ったのだ。

『あの貴族様の藥齪グリムなんだってね。ジャバウォックです、宜しく』

笑顔ではあるものの彼の態度は何処か素っ気なく、グリムは思わず怯んだ。そうして二、三話しただけで彼はそれじゃあと云って居なくなり、残されたグリムはそう云えば彼の声も似てはいるものの少し違うと思え、よく考えると垢抜けぬ青年と衣服へ気を利かせた彼の雰囲気は全くと云って良い程違うもので、彼があの青年であるのならば自分を見て反応をくれても良いものだったので、グリムは境遇のよく似た人違いだったかと落胆した。しかしよく似た彼から少々冷めた態度を取られたのは意外と傷心してしまい、そこで俯いたグリムの右目からは思わず一筋だけ涙が零れた。女々しいと自嘲しながら乱暴に拭った。
数ヶ月が経過すると、何故かジャバウォックから熱烈なラブ・コールを貰う事となったグリムは、彼ではないのに境界線を超えようとする彼を疎ましく思いながらも愛される事に希薄だった故に自分を愛してくれる者が居る事を嬉しくも思い、それが捜し求める人物と似た者だから尚更落ちてしまいそうで、しかしあの青年だけを愛すると誓ったグリムはそんな自分を至極嫌だと思えた。絶対自分は彼しか愛さないのだと、グリムはジャバウォックを避けるようとなった。己を揺るがす程の彼の存在が、怖かったのである。

「ねえねえグーリム」
「…何ですか」
「乾杯しようよ」

屈託のない笑みでワイングラスを向けられて、グリムは思わず動かしそうになった右手を戒めた。好い加減、このような酷い態度を取る自分なんか止めてもっと魅力的な人間の元へ行けば良いものをと思う。
あの日から、毎日祈りは欠かさない。祈れば会えるのだと頑なに信じきったグリムはきっとキリスト教だけでは駄目なのであると、様々な宗教まで信仰するようになった。どの神様でも最早悪魔でも彼と会わせてくれれば何物でも良かったし、再開する為祈る事が重要な訳なので、規律は無視された。

グリムはジャバウォックの顔を見る。この男は何処まで彼の情報を知ったのだろう、居場所は特定出来てなくとも個人情報は取得したのではないか。聞きたかったもののどうせそんな男よりお兄たんの話を聞かないかと云われるのは分かりきった事であったので、無駄な労力は使わぬ方が懸命とグリムは聞かなかった。
そうして今か今かとグリムがワイングラスを乾杯させてくれるのを待つ彼へ、右手を動かす代わりにグリムは云うのである。

「嫌ですよ、貴方なんかとは」


このような事を彼へと云える権限が自分なんかにはある筈もないだろうに、自分は一体何様なのだと自責しながら彼を直視出来なくてグリムは顔を俯かせた。



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