指導者V




先程の態度からしても少年は確かにその味を気に入っていたようではあるのだが、一体何が不満であったと云うのだろう、もしかしたら口に合わなかったのかもしれないと一種の恐怖心すら抱きながら控え目に聞くと少年は何かと一瞬口を開き、それから小さく笑ってみせた。

「母さんに、あげたいんだ」
「え?」
「母さんさ、慣れないフランスの生活に加えて妊娠してるだろ。大変なんだ」

――少年は、未だ知り合って2日しか経っていないグリムに自分達の話を聞かせてくれた。訛りで察したかもしれないが自分と母親はフランス人ではなくイタリア人であると云う事、母親は最初はそこで同じイタリア人と結婚して自分、則ち少年を産んだのだが、父親は酒癖も悪く離婚してしまった事。
そうして女手一つで大量生産である仕立ての仕事をしていると、今度は顧客であるフランス人男性と恋に落ちた事。何度か会って話す内、彼は前の夫と違って誠実で子供が居ても構わないと云ってくれた為、母親は少年へと節を話し男性と再婚する事を決め、男性との子供を身籠もった事。つまり今彼女のお腹の中に居るとの子供はハーフであり、少年とは異夫兄弟となるのである。
少年が後数ヶ月で生まれる子供の事を話す時は大変楽しそうであり、グリムも少年の話を聞くのは楽しかった。工業所で労働しているとの彼は大人と交流する機会が多い為、様々な話を知っていた。外部から隔離されたグリムからしたら彼の情報網は大層なものであり、尊敬すら出来たものである。

また明日も会おうと2人が自然に会える日は密会を重ねて出会ってから数ヶ月の経った或る日の事、子供が遂に産まれたのだと、自分も出産には立ち会って、男の子か女の子か何故か緊張をして待ってたら子供はまさかの双子で弟妹どっちも出来た訳だけど、双子は凄く小さくて可愛いんだ、俺が守ってやらなきゃってなる程でと15歳ながらに張り切って云う彼の姿には心から感動した。グリムは自分の姉を思い出し、彼女もそのようなものなのかと年下の妹弟が居ないグリムは想像するしかなかったが、しかしグリムは彼女が最近己へ構わなくなった事を忘却する程に、少年との密会を日々の楽しみとしていた。

グリムは少年の名前を知らなかったし、無論云ってはないので彼もまたグリムの名前を知ってはないようだった。名乗る気は無かった。
何故なら、少年が藥齪家の事も詳しかったからに他ならない。藥齪家だけではなく、彼は鬮鸞家の事も知っていた。労働者の大人は貴族様の汚れた裏の情報を好むようで、彼曰く何でもクインテットは只の由緒ある金持ち貴族なだけでなく、ある目的を以て裏社会の組織を発足させたのだとか、1人息子だと云われてはいるが実はフランスの屋敷の方に隠れて双子の弟が存在しているのだとか、その弟は父親から何か酷い事をされ車椅子生活を送っており使用人ですら知る者は極僅かであるだとか、どうも薄気味悪い話ばかりであった。
話を聞く限り仕方のない事ではあるがどうも少年は貴族を嫌っているようで、グリムは今更吐露して嫌われるような真似は尚更したくなくなってたし、彼から違う名前で呼ばれたくはないが問われれば使おうと思っていた偽名も彼から名前を云い出す事はなかったので、グリムはまた自分からも名前を云い出しはしなかった。きっと自分達には名詞を区別するだけの名前なんてものは必要はないのだと、グリムは思い込む事とした。

只、2歳になった双子は未だ舌足らずで何回もお兄ちゃんと教え込むのに俺をお兄たんと呼ぶのだと顔を緩ませ話した彼の一人称が、何時しかお兄たんとなったのには笑った。変かな、と云う彼へグリムは貴方らしくて良いと思いますよ、と笑顔で返した。嬉しそうな顔をした彼と話す内、加えて言葉遣いもすっかり穏和となっているのに気が付いて、本当のお兄さんとなったのだなと感心した。

それから2年が経過して、17歳となったグリムは小さい頃に増して期待を裏切る事はなく、とうとう母親から叱咤される事がなくなった。当然体罰も受けなくなれば、外へ出される事もなくなった。
それでも変わらずグリムは下働きを装おうべく、母親と使用人の目を抜けて夜に外へ抜け出した。皆が寝静まった頃、自分の部屋の窓から抜け出した。勤務時間が変わったから夜しか出られないのだと云うと、少年も合わせて夜来てくれたばかりか遅いと危険だからと、屋敷の裏で必ず待っててくれた。使用人と会っては危険だと最初は冷や冷やしたものだが、裏には誰も来ない事が分かると安心して会えた。
少年から怪しまれず下働きを装う為、グリムは外出する時は自ら唇を噛み切って、高級な服を躊躇する事なく破きもした。それは云うなれば少年を欺き嘘へと嘘を重ねる事であったのだが、決して罪の意識などはなく、あるのは純粋な、彼と会いたいとの気持ちだけだった。
無論徹底した虚偽なだけに疑われる事もなく、密会が誰からも邪魔されず快調に運ぶ事で、こんな日々が何時までも続くのだと当然のように思えるようとなってきた。双子想いで兄らしい柔和な彼と、ずっとこうして唯一無二の友達の関係で居られると、そう思ってた。

しかしグリムはこの1年後。世の中にそのような上手い話など有りはしないのだと、深く思い知らされる事になるのだ。


「ねえ、戦争だって」
「……え?」

2人が18歳になった時の事。
身長も伸び、最早少年と呼ぶには大きくなり過ぎた彼が、至って真摯な態度でそう云った。彼は工業所で重労働をしてるので、相変わらず髪の色は煤で真っ黒に汚れて分からなかった。
戦争、それは家庭教師から学ぶ世界史の中で言葉としては聞き慣れてはいたとしてしかしどうも現実味のないそれを、グリムは復唱した。

「…戦争…ですか?」
「新聞も見てないだろうから知らないだろうけど、外部では相当な騒ぎだ。いつ起こってもおかしくない」

少年、否青年は、真っ直ぐな眼差しでグリムを見た。その何時になく真剣な様を見て、グリムはああ、本当なのだなとすんなりと思った。例えばこれが彼と会う前であったなら、戦争で死んでしまってもそれはきっと仕方のないと思えたろう。だが、会ってしまった今となっては別だった。

死ぬとは別れなのであると、グリムは思えるようになった。加えて、どうしても別れたくないと確固として思える人物が只1人出来た。
戦争が始まれば、死んでしまうかもしれない。運が良く死ななくとも、離れ離れとなってしまう可能性が高いだろう。少なくとも街中と国家が崩壊しゆく中で、今まで通りこうして悠々と2人が会える筈もない。青年は恐らく家族と避難するのだろう。
もうこの日常も終わりなのかと顔を暗くしグリムが黙り込むと、青年は何も云わずポケットから何かを取り出してグリムの目の前へ突き付けた。その行動が不可解であったが故、思わず眉を動かし目を細めた。

「あげるよ」

そのような彼の心中を察してか否か、青年は目の前へと差し出したその小さなマリア像を渡すとそう云った。
その存在自体は例に漏れずカトリック教徒であるグリム達は日曜日となると教会で祈るのでよく知るものではあるものの、ああ彼はイタリア人だからまたカトリック教徒であるのだなと改めて思うだけであり、従ってそれをこの場で貰い受ける意味は分からず首を傾げると、青年は笑みを崩さず説明を始めた。

「戦争は、多くの人が死ぬ。またお兄たんと君が会えるとは限らないし…、本当は一緒に居たいけど、兄として、双子を守らなきゃならないから」
「…ええ」

分かった事ではあるとは云え、本人から云われては身体へ石を詰め込まれたよう気が重くなる。まるで死刑となる事は分かってはいたのに、今日が執行の日であると死刑宣告をされた時の囚人のようだ。彼と離れてしまうのなら生きる意味はないと思える程、グリムの中で彼の存在は大きなものとなっていた。自分にとっての唯一の絶対者、とでも定義すれば当て嵌まるのかもしれない。
しかし戦争で離れる事と此の像、一体何の関係があるのだろうと思いながら話を聞いてると、話は漸く核心へと触れた。

「だから、祈ろう。無事で戦争を切り抜けられますように、また再会出来ますようにって」
「……祈り…」
「そう。そしたらきっとまた、会えるよ。想いは何よりも強いから。――…信用、して」

宥めるような口調の彼の顔は切なさを帯びていて、ああ彼も自分との別れを惜しんでくれているのだと思うと哀しいながらも嬉しくて、グリムは小さく頷いた。自分の支えである彼がそうと云うのなら祈りは絶対的なものであるのだし、またきっと会えると強く思った。グリムは此処で信用したのは神ではあるのだが、その裏で何よりも信用を置いたのは彼であった。

頷くグリムを見て良い子だ、と幼い子を褒めるよう青年はそう云って、頭を優しく撫でる。蜂蜜色の頭を触られながら彼の手は大きくて温かいと、出会って間もない時頬を撫でられた事を思い出した。泣いてしまいそうだ、と顔を歪めてグリムは唇を噛む。

「…泣かないでよ」

そうと青年も泣きそうな声色で云うものだから、グリムは顔を上げた。そうすると目が合って、青年の同じ色の瞳へ吸い込まれてしまいそうだ、と魔法をかけられたよう目が離せなくなった。青年は眉を下げたまま目を細め、それから頭を撫でていた右手を頬へ移動させると、そのまま自然な動作でそっと近付いて。

唇を、重ねた。

重なったのは数秒で、一体何をされたのかと分析する暇もなく離されたそれに、グリムが小さく目を見開いた。余程愕然としてしまっていたのであろうか、青年は「変な顔」と言って悪戯っぽく、しかし柔らかく笑う。漸く此処で自分が何をされたか理解するに至ったが、しかし何かを云う前に青年が今度は耳元へと口を近付けて囁いた。彼の声は今まで耳にした誰の声よりも良く透き通り、非常に心地良いものだった。

「明日、話したい事があるんだ。同じ時間帯、また来て」

青年はそうとだけ云って、グリムの答えを聞かずに去って行く。彼の後ろ姿を見送るグリムの顔が羞恥を孕んで途端赤く染まるのと同時、胸が締め付けられるような哀しさをも帯びた。どうして彼はこんな事をしたのだろうかではなくて、どうして今になってと思った。
突然の事で驚きはしたものの、キスをされた事に何の抵抗も感じられなかった。寧ろ身体が温かみを持ち隠しようもない喜びすら感じてしまったのはきっと、己も彼に或る特別な感情を抱いているのからなのだと思った。彼を単なる友達としてではなくて、愛する対象として見るようなったのは何時からなのだろうと考えながら、グリムは屋敷の中へ戻る。否、愛との定義すら超越した心地すらした。彼は最早自分の全てと成り得た。

明日何を云われるのだろう、そうと思いを巡らせるグリムは忘れてた。
己には、彼以外にも強い独占欲を抱いてる人間が居るのだと云う事を。






「グリム。何処に行くの」

次の日の夜。扉へ手を掛けたグリムは、予想しなかった姉の声が後ろから響いた事へ驚き思わずその場に硬直した。声も出せず後ろを振り向くと、離れた先に豪奢で華美な白色のドレスへ身を包んだ気品溢れる姉の姿があった。青年と話すようになってからはそちらへ気を取られ失念していたが、彼女とこうして2人で何かを話すのは久方振りであった。
今まで外出をしようと扉を開ける行為は母親や使用人は愚か、彼女からも見られた事はない。初めて見られた事へ勘繰られるのではとグリムは狼狽し、焦燥感を覚えた。自分の気が緩んでいた事を情けなく思ったし、気を払わなかった事も後悔した。

彼女の表情は静かなものであり、何を考えているかは見ては取れないが、きっともう姉も年齢を重ねて自分を独占しようなんて気はなくなっているだろうとは思ったし、味方であった姉がまさか母親に報告するとも考え辛かった。しかし今更実はある友達と会っていてと説明する気も起こらなく、また約束の時間を考えるとそのような時間的余裕もない。内心で焦りながら、グリムは青年以外の前では必ず常日頃から使用する表面上の笑顔を浮かべた。

「…少し、散歩がしたくなりまして。ですが直ぐ戻りますので」
「そう。…なら、どうして唇を噛み切る必要があったのかしら?」
「………!」
「ねえ、散歩するだけなのにどうして朝食のパンを服の下に隠し持ってたの?」
「…ッ…」

グリムは絶句した。
唇を切っていた行為は今日の事ではないし、パンを隠したのは数年前の事。何時から彼女は見て、と水色の瞳で淡々と弟を見る姉へ途端恐怖を覚える。彼女の顔は咎める訳でもなく、子供が純粋な気持ちで知りたがっているような。否、正しく言うなれば『既に分かっている答えを信じたくはなく望みをかけて敢えて確認している』ような。

彼女は弟離れはしてなかったのだと、グリムは今までの認識を改めた。朝食の時食料を隠し持った事も、自室で唇を噛み服を粗末なものとした事も、毎晩外出していた事も、彼女の様子からすると恐らく何もかも、出て行った後でさえ、見られてたのだと。恐らく彼女の部屋の窓から話す様子は見えたのだろう、話し場所を屋敷の裏にした事を愚かで浅はかさであったと感じた。今まで秘密としていた4年間もの密会を、独占欲の強い姉に知られていた事を弟は恐怖し、彼女を畏怖した。


「あの子は誰?」
「…あ…」
「…ねえグリム。貴方、あの子と知り合って暫くして――『食べ物を変な風に食べるようになった』わよね」

己の変わった癖を指摘され、一挙背筋が凍える。その自覚のある行為は極力隠しているつもりではあったのが、それまでも姉が察していたのならまさか母親も感づいて。
そうだとしたら完璧主義者の彼女の事、果たしてその出来てしまった変わった癖を如何様に叱咤されるのか、もしかしたら呆れられ見離されるのではと最悪な考えすら頭を過ぎったが、キセルは弟の考えを蒼白となった顔色から推測したのだろう、儚げな顔をしてから首を振ってそれを否定した。

「お母様は気が付いてないわ。私だけ。私は、貴方をずっと見てるから」

最悪な事態は免れてたようではあるが、恐怖心を植え付けるだけのその悍ましい回答へどうして安心する事が出来ようか。彼女の目の色が異常なものへ変わったよう見えて、それでも未だ愛情を孕むその視線を何よりも怖く思えた。
母親は、昔と比べたら優しくなった。厳粛な面と世間体への異常なまでの自尊心は以前のままではあったのだが、もう何も言う事もない立派な一貴族と成長したグリムをとやかく言う事もなくなった。無論、暴力を奮わなくなったのは自分の身長を追い越した息子へ暴力は通じなく18歳へ行うべきものでもないと考えての事でもあるだろうが。

しかし、姉はどうだろう。
今までずっと優しくしてくれたが故、彼女から今暴力を奮われようが抵抗を出来るとも思えなく、何より今の姉は母親とは違った云い知れぬ『恐怖』がある。暴力とは違った、どちらかと云えばそう、少年を待つ間の己へ薄気味悪く近付いて来たあの男と同じもの。4年間気が付いていながらどうして今まで指摘をしなかったのか、沈黙の裏で一体何を考えていたのか。そうと考えるだけで、狂気の一端すら感じられた。

「もう普通に食べられないの? 飽きたの?」
「そのような訳では…、」
「少なくともスープの中へオーロラソースとオリーブオイルを入れるのは普通じゃないの。…ねえグリム」

名前を呼ばれ、グリムは肩を奮わせた。彼女を見ると、口を噤んでじっとグリムを捉えていた。彼女の狂気を孕ませた視線と恐怖を紡ぐ唇は形容の出来ぬ程に恐ろしく、出来る事なら今直ぐでも逃げ出したいと思える程。しかし足は竦んで動かなく、目を見開いて自分を見るグリムを見て彼女は笑った。一息つき、口を開く。
核心へ触れた。

「貴方、『味覚を壊した』でしょう」
「………!」
「お母様みたいなつまらない事を云うつもりもないけれど、いつもあの子から変な食べ物貰ってたわよね。貴方の味覚に合う筈もないのに」

その悲劇とも云えよう惨劇は、故意的でなく親切として行ったのであれば決して少年の所為ではなく、しかし彼の親切心を断り切れず食べ続けたグリムの所為なのかと云うとその自己責任もあんまりなものであろうし、はたまたそのような食べ物の存在自体の所為なのかと言うとそのような訳でもないだろう。
兎も角堂々巡で不毛なものである責任の追及は置いといて、明確な理由は分からないが、生まれながら『本当の良い物』を食べて生活していたグリムが少年から渡された食べ物をあの日から毎日のように食べる事で、確かにグリムの味覚は『壊れた』。

もしかすると深層へ潜む裕福な家庭と親へのグリムの反発心が自分へそうさせたのかもしれないが、そうだとすると自縄自縛へ無意識の中で陥ってしまったグリムは何時しか今までの料理は愚か普通の食べ物ですらそのままの状態では喉を通らなくなり、嘔吐するまでとなった。恐らくは精神的なもので止まっていたその時医師へと相談すれば未だ治る余地はあったろうに、親へ気付かれる事態を防ぐ為グリムは決して何も云わず、少年の持って来る食べ物へ似た『狂った』ような味を作り出す事で食事を摂取する事を可能とした。そうしてそれを続ける内、舌は正常なものを判断できなくなり、とうとう取り返しのつかぬまま、味覚は破壊された。

核心を衝かれ何も云えない弟の態度で確信を得たキセルは、途端顔を歪めた。

「…ッ…何なのあの子…! 『私のグリム』に何て事をしたのっ!」
「ね、えさん…?!」
「私見たわ、昨日貴方があの子からキスされたのを!」
「!」

距離を詰めた姉がグリムの腕を掴み、悔しさから腕へと爪を立てる。その痛みへ危うく声を出しそうとなったが堪え、普段はろくに立てもしない彼女の身体を引き離しては恐らく彼女が大変な事となる事、何より今まで愛してくれていた彼女を裏切ってしまったとさえの一種の罪悪感へ捕われて抵抗もしないでいる。
初めての彼女のその本心からの苦しさで塗れた顔を見て、キセルが何よりも怒っているのは今までの密会でもそれを秘密とした事でも味覚が正常な機能を損なった事でもなく、昨日の行為なのだと至った。味覚は大分前から壊れていた事と、他でなくて今日と云う日責められている事はそれを見事裏付けた。
グリムはそこで、彼女が自分を弟ではなく1人の男として見ていた事実へ行き当たった。彼女の異様なまでの独占欲と執着、今でも結婚しようとしない事、彼へ怒りを見せる事。まさかそんなと瞳を揺らすが彼女は思考を巡らせる余裕を与えずに、哀しみと怨みと様々な感情の混ざった声で吠えた。

「信じられないわ、庶民の分際で汚らわしい!」
「姉さんっ」
「貴方は知らないだろうけど戦争が始まるの、グリム。この戦争は今までの戦争とは比べものにならないの、お願いだからあんな子の為に危険な外に出歩かないで!」
「姉さ、」
「『貴方は私のもの』でしょう…?!」

まるで嘆願するように、キセルはそう云うと恐らく自分の持てる力を全て使ってグリムを隣室の中へ押しやった。他人からすると大した事がなかろうが、彼女が此処までの力を出したのは人生で初めてである。
彼女がそのような力を使うだなんて予期もしなかったグリムは油断したまま、されるがままその部屋へと入らされ――、そこで漸く彼女の今の此の行動の意味が分かり、グリムは急いで振り向いて部屋の中から出ようとする。
しかし、弟を突き放して扉の前へと立つ姉の行動の方が早かった。体力を消耗したのか、彼女は激しく咳き込んだ。

「グリムは、誰にも渡さない…!」
「待って下さい、姉さん!」
「貴方はずっと此処に居るのだから!」
「姉さんっ――!」

重厚な扉が閉まる音。次いで、鍵を閉められる音。
握った拳で扉を強く叩いて出すよう強く訴えたが、開く気配は基よりあちらから反応が返って来る気配もない。此処は練習用の小さなピアノ室、則ち決して音が漏れる事のない『完璧な防音部屋』だった。
鍵を開く術もなければ窓もない。部屋の中へあるのはあるのは今は意味を成しはしない、見慣れた白のグランドピアノと楽譜の山だけである。

今日は青年が来て欲しいと、話があると云った日で。
何としても行かなければと焦燥感へ駆られたグリムは無駄だと分かってはいながらも、声を張り上げ扉を必死で叩いた。強靱な扉は微動だにせず、拳と擦れる音のみが響く。無慈悲なもので、その音が聞こえるのは同じ空間で佇む白のピアノだけであり。

どさ、と振動で楽譜の山が崩れた。


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