煌めきツインズ




5.双子は危険なので相手にしてはいけない




アリスが身体が怠い事から一応と思い、無人の医務室で拝借した体温計の液晶に映し出された「38.7」の数字を見たのは今現在朝のこと。音が鳴るや否や取り出したそれをもしや見間違いではないかと凝視するが残念ながらそれは決して幻覚でもなくて、アリスは抑揚もなくああ、と小さく呟いた。それから体温計を元に戻そうと頭を上げるとこれまた小さな声で、

「気のせいか」
「紛うことなき熱ですね。」
「っわあ?!」

後ろから出された声と顔に予想すらしなかったアリスは大きな声を出し振り向くと、そこには絶えない笑顔を惜しみなく出すグリム、と真反対に不機嫌さを全開にした仁王立ちの女王様が居た。見たぞと訴えるその鋭利な視線に顔を引き攣らせるが、対してグリムの方は穏やかに、

「見なかったことにするのは良くありませんね、アリス。治るまではゆっくり休まれて下さい」
「や…あれだ、体温計が壊れていたんだろ、多分。うん」
「下手な嘘は止めて寝る」
「でも仕事が」
「さっき丁度予定が皆無な誰かさん達が遊んでたから彼等に頼むよ」

どうせ頼んでた物を取りに行くだけでしょう、とあの幹部様に云われては二の句が告げず、アリスは渋々と苦渋の顔で半強制的に体温計を元の場所に戻し、大人しく医務室の扉に手をかける。どうせ女王様が部屋に戻るまでは着いて来るのだろうと分かりきった事実に溜め息を吐きたくなるのはアリスが他でもない仕事人間であるからであり、根が根っからの真面目人間であることなのが起因する。因みに本人、この性格が体調を崩すのだとは分かってないので、次からはどれ程怠かろうが医務室に来るものかと心の底で誓った訳なのであるが。
扉に触れた時、そういえば、とアリスは振り向いて、

「…代わりって誰」

仕事が頭から抜け切らないが故にしたこの質問の答えを聞いて、アリスは今日医務室に来たことを本当に後悔した。

「白兎最年少の双子様方」






「お仕事だねドルディー!」
「頑張ろうねドルダム!」

本当に物を取りに向かうだけなのだから張り切る必要性など皆無に等しい訳なのであるが、それでも年齢の問題で今まで葬式の仕事に携わったことのなかった双子にとっては今回の思わぬ幹部命令は願ったり叶ったりなものである。無論、アリスが熱が出たからとはクイーンが云わなかったのは、云ったらお見舞いをすると云って仕事どころではなくなるだろうと予測したからであり、その読みは決して外れではなく正解と云っても何ら支障はないので賢い選択であったのだが。だからこそ2人はお揃いのボーダー柄のセーラーカラーを着て笑顔で外出出来たのであった。

「仕事ちゃんと出来たらアリスたんに褒められるかなぁ?」
「撫でて貰って、ぎゅ〜ってして貰えるかもよ!」
「わあい楽しみだねドルディー!」
「早く終わらせて帰ろうねドルダム!」

アリスからのご褒美を頭の中で描いては顔を綻ばせる双子の様子は大変可愛らしいものであり、周囲の大人達も思わず双子を抱きしめたい衝動に駆られる。因みに男の子のドルディーとは違って女の子であるドルダムがあわよくば頬にキスをして貰えるかもしれないとほんのり期待を胸に抱きニヤついてしまうのは、致し方のないことであろう。両手で口元を抑え頬を紅潮させながら首を照れて振る双子の片割れを、ドルディーは不思議そうに見ていた。
さて、そんなドルダムの肩からは蛙の顔をしたポシェットが掛けられており、我に返ったドルダムは気が付いたように(若しくは隠すように)そのファスナーを開けて中から1枚の紙切れを出す。それは手書きの地図であり、目的地…つまりは仕事で行かねばならないそれを見たが、

「…ドルディー、北ってどっちかなあ」
「うーん。こ、こっち?」

適当に指差した前には建物が連なっており、そちらで本当に良いものか双子は顔を見合わせて唸る。教養があまりないものなので、地図の見方も分からなければ方向感覚もないのである。

すると双子が互いに半分こをした星型のイヤホンからよく知った声がして、その声が右だよ、と云うものだから、双子は嬉しそうな顔でお礼を述べながらスキップをして迷うことなく右に向かう。それはよく声の主は2人にとっては絶対的な存在であり、疑いをすることなんか有り得なく、例えば声の主が己の喉仏をナイフで切り裂いてご覧と云うものならば、躊躇もなく刔ってみせるだろうことを示唆するように反映していた。双子にとっては声の主がルールブックなのである。
暫く歩くと云われてた建物の特徴と全く同じ建物が見え、双子は嬉々として声を揃え建物が見えたことを報告し、声の主にもう一度お礼を述べた。

『有り難う、お兄たん!』





「お嬢ちゃん達が、白兎の社員?」
『そうだよ!』
「…。あそこも大分、人手が足りないと見えるな」

野放しに生やされた顎髭を弄りながら聞こえぬよう小声で云った高身長の木のような男は顔をしかめたが、それでも双子が白兎の者であると証明するカードを最初に見せたので、それが本物か偽物かは見分けのつく男は仕方なしに壁と密着した一面の木の棚の引き出しを1つ開け、そこから真っ白の四角い箱を取り出した。取っ手のあるそれを双子の前に出して、

「こないだ亡くなった野郎の遺族が欲しがってた物だ」
「…箱?」
「大切なのは中の指輪だが、こっちは詳しい事は知らん。帰ってからあのクインテット様が何かやるんだろ」

パイプを銜えて煙を吐き出す男の前で、宝石に目のないお年頃な双子は目を光り輝かせて机上に置かれた箱を見る。その中の指輪に思いを馳せながら感嘆の声を出し、互いに目を見合わせて箱に手を延ばした、その時。

机上から箱がパッとなくなり走る音。それに驚いて双子が後ろを見れば箱を抱えて逃げる大きな男の背中が見え、ドルダムは反射的に男の背中に笑顔の描かれた大きなバッチを投げ付けた。それが見事命中したのと同時気が付くこともなかった男は扉から外へ出て姿を消した。

「ありゃ、盗みだな。戦争があってから餓えた奴等も増えて、ああして盗む奴が出て来た」

追いかけて捕まえて『返して貰った』方が良いなと呑気に云う男の声をBGMに、双子は各々の太股と腰に巻かれたシースからトレンチナイフを取り出して、獲物を捕えるハンターのよう、顔付きを変えて建物を後にした。






「え、泥棒。…ああ、だからバッチが反応してるの」

大きく無骨なヘッドフォンから隣に座る者にまで漏れて聞こえる程の甲高く騒がしい声に不快な様を一切見せることもなく、真っ赤な棒付き飴を舐めながら大理石柄のパーカーを羽織ったジャバウォックは返答した。片手で棒を持ちながら片手で目の前に広がる機械のキーボードを機械的な動作で叩き、真ん中に映し出された点滅する大きな赤色の丸を見る。それから離れた先には小さな水色とピンク色の点滅があり、ジャバウォックはそれを見ながら、

「数百M先に居るよ、うん、その道を真っ直ぐだ」
「泥棒だって?」
「うーん。故人の指輪盗まれたってさ」

困った手癖の人だよね、と肩を竦めて云うジャバウォックの前にラビは床に落ちていた恐竜の縫いぐるみを置いた。ジャバウォックはそれを右手で掴むと子供のように「どーん」と声を出し、そのまま玩具が散らばった机上の一体のヒーローのフィギュアを叩く。ラビは小さく笑みを浮かべながら、

「チミだって昔はパンや果物を盗んでたろうに」
「まあねえ。だって、働いても労働者を奴隷のように扱う工場だから賃金なんてあってないようなもんだしさあ。家族も居たから」

何が正義とか道徳だとかを考える余地もないよねえ、と呟いた時恐竜はヒーローを尻尾で叩き、フィギュアは床に放置されたグミの袋の上にガサリと音を立てて落ちた。相変わらず雑誌やお菓子や玩具で汚くなった正に玩具箱をひっくり返したような部屋をラビは見渡して、

「またアリスに怒られるよ」
「お母さんかあ…。うん、まあ今日は大丈夫だよ。何たって彼は今寝て」
「ない。ジャバウォック、お前はまた放送室を散らかして」

予想しなかったその声にジャバウォックが驚愕して放送室の扉を見ると、そこには熱で少し顔を赤らめ怠そうにしたアリスが立っていた。それからお世辞にも綺麗とは云えず、まるで空き巣に入られたような汚さを見せる室内を見回す。ジャバウォックはまた拳骨を見舞われると無意識に頭に手を乗せ自己防衛を行うが、どうやらアリスは叱る元気もないようで、何も云わずに室内へ上がって来る。

「…アリス、熱があるのだろう?」
「双子が心配で寝られないんだよ、様子モニターで見たら帰る…」

ラビがどれどれと額に手を当てるとそこは大層な熱さを孕んでおり、どうしてこれで寝てないのだと呆れたが、アリスは冷たいと云って手を振り払う。そうして虚ろな目でモニターを見るとそこには赤色の丸が点滅してるだけであり、それが何を意味するのか今の頭では処理出来ないアリスが目を細めてジャバウォックに声をかけようとした時、

「何事もないさ、双子はそろそろ戻る」

アリスの視界が真っ暗と化した。それがラビの左手で視界を遮られたのだと直ぐさま理解したアリスは眉を顰めて左手を退けようと試みたものの弱った体力ではその抵抗はないものとされ、逆に後ろからガッチリと右手で身体をホールドされたかと思うと、

「ならアリス、部屋に戻ろうか」
「はあ? ちょっと待、」
「行くよ」
「だから待てって、おい、ラビ!」

そのまま腕を引っ張られ強引に部屋に戻されるアリスを見て、ジャバウォックは目が合ったラビに笑顔でそっと手を振ってさよならをした。扉が閉まるとアリスからのお咎めが殆どなかったことに安堵の一息を吐いて、それから暫く放置していたモニターに目を遣った。だがもうとっくに赤色の丸は消えてるかと思いきや未(いま)だそれは色付いており、ヘッドフォンの向こうの音に意識を集中させると中々ターゲットが捕まらなくて苛立ちを隠せない双子の悪口雑言が聞こえて来た。

「…殺さなきゃ良いけど」

人事のようにあっけらかんと物騒なことを呟いて、ジャバウォックはお気に入りのファッション雑誌を1冊取りそれに目を通し始めた。






「んっ、のぉ…、待てえぇえ!」
「豚さんのくせにすばしっこいんだから!」

双子が助走をつけて壁を蹴り跳んで男の背中にナイフの切っ先を向けるものの、男は紙一重でそれを避ける。今まで呆気なく相手が仕留まっていたものだから攻撃を避けられること自体が至極苛々するものであり、我慢の効かない双子はそろそろ苛立ちが限度に来ていた。
ドルダムが舌打ちをしてもう片方の太股のシースからトレンチナイフを出して男の脳天目掛けて投げたが、

「なっ…んで避けるのぉお!」

当たれば一発即死にも関わらずドルダムは顔を歪めて右手のナイフに力を込めた。因みに先程から左耳のイヤホンから殺しちゃ駄目だよとの兄の声が聞こえて来るのだが、沸点を迎えたドルダムの耳には既に届きはしなかった。
男が道の分岐点で通路を左に曲がろうと差し掛かった時、ドルディーはピン、と音を立てて蛙のポシェットから取り出したロシアのRGD-33手榴弾の安全装置を歯で抜いた。そして相手に向けようとそれを投げようと右手を振りかざした時、

『ドルディー、今の音は手榴弾?』
「そうだよお兄たんっ」
『それを投げたら指輪まで木っ端微塵だ』

そこでドルディーは我に返り、次いで右手の手榴弾をどうしようかとパニックに陥った。威力は本物と違わないが双子の沸点の低さを考慮してジャバウォックが改良し、遅延時間は数秒から数十秒となっている。が、余裕の状態でそれを処理出来ることなど混乱した双子では到底不可能で、天に向かって遠く投げて!との兄の焦った声も聞こえない(そもそも、先程のジャバウォックの声が届いたことも奇跡に近かった)。ドルディーが発狂しかけたその時、

「え」

右手から手榴弾のなくなった感触がし、風が吹いたかと思うと双子の目の前を見知った出で立ちの少年が走り抜けた。ピンクと黒の混ざった髪を揺らした少年ケイティが手榴弾をドルディーの手から奪い取り空に向かって彼方へ投げたのだとドルダムが気が付いたのは斜め上から膨大な爆発音がしたと同時であり、ドルディーはケイティが跳んだ体制で男の背中を棘のないナックルで容赦なく殴打しその場の地面にたたき付けたのを視界に捉えた。地面を揺らし男がその場にめり込んだのを特に興味もなさげにケイティが確認すると、双子の方を見て。

「…、これで良かったでありんすかね?」

事情も知らぬままで無表情に首を小さく傾げたケイティに、双子は互いに顔を見合わせて苦笑を漏らす他なかった。





「えぇえ、アリスたん寝てるのお?」

帰って来てからクイーンに指輪を渡し褒められた双子は得意な顔でアリスの部屋の前まで来たのだが、そこに居たのはラビとグリムであり、熱があるから部屋には入ってはならないと云う2人に期待してた分ドルディーは眉を下げた。対して、以前ラビと一方的な喧嘩をして惨敗し痛い目に遭ったことがあるドルダムは以来ラビを嫌っており、アリスの部屋の前に彼が居ることすら大層不快に感じ牙を向く。

「良いからどいてよ化け物っ!」
「漸く寝たのだから寝させてあげないと酷だろう」
「うぅ、煩い! 指図される筋合いないもんっ!」

落胆と悔しさにとうとう涙目になりながら吠えるようにラビに云い、ドルダムはシースからトレンチナイフを抜く。驚いてグリムはラビを見たが、ラビはおやおやと大して驚きもせず彼女を見るだけである。その余裕綽綽の態度がまたドルダムの苛立ちを増長させた(ただでさえ先程の盗人にナイフを避けられた苛立ちも未だ残っていたのであるからして)。

「あれから懲りたのでは?」
「ドルダム、止めなよ無理だよっ」
「ドルディーは黙ってて!」

本気で襲い掛かりそうなドルダムにこの場を果たしてどう収拾つけて良いものかとグリムが思っていると、扉の開く音がした。見るとそこにはアリスが居て、ドルダムは彼を見るや否や急いでナイフをシースに終う。ドルディーが満面の笑みでアリスの腰に背伸びをして抱き着くものだから、ドルダムも続いて抱き着いた。お帰り、と云って双子の頭を撫でるアリスに、

「寝てたのではなかったのかい?」
「あんだけ大声で部屋の真ん前で騒がれたら起きる」

そうと返してから双子からアリスが離れるので彼等はもっとと不満を漏らしたが、今は熱があって咳はないけど近付かない方が賢明で完治したら遊ぶこと、今日は本当に助かったことを伝えると双子は嫌々ながらも納得し、絶対遊ぼうねと云ってその場を後にした。モテるじゃないかと冷やかすラビに双子限定でなと返すと、前方から足音がする。ケイティである。よく見ると彼の右手には何か重厚感溢れるものが一杯一杯に詰められた白色のビニール袋が存在した。
疑問を顔全体で表すアリスの前で止まったかと思うと、

「…お見舞いでありんす」

それを薮から棒に眼前に突き付けられたのでアリスは思わずえ、と漏らした。一先ずと受け取り袋の中を確認すると、そこには大量の桃の缶詰。十は超えるであろうそれをどう食べ切るかと思ったが、それでも有り難かったので笑んでサンキュ、と述べるとケイティは頷いて踵を返しその場から居なくなる。
喋り方と云い相変わらず謎な存在であるなあと暫くそれを見送っていたが、その袋を持って安静にしているようグリムから云われてしまいアリスは溜め息を吐いて再び部屋の中へと戻った。そんな彼の態度を見て笑顔だがやれやれとの顔をしたグリムの右手には鞘も唾も真っ黒な日本刀。全ては部屋の中で素振りをしないようにと考えての事である。

「アリスと誰かさんの性格を、足して2で割ったら丁度良いのかもしれませんね」
「…誰のことだろうか」
「訓練もせずに庭で野良猫と戯れる、元軍人さんではないですかね」
「………」

笑顔でそう云ったグリムの厭味にラビは肩を竦めた。その、眉を下げながらも口角を上げた表情にはどうやら改善する意思は見てとれなかった。






「ロイヤル・ストレートフラッシュだ」

澄んだ声が静寂とした室内に反響する。声の主である人物の外見は明かりが燭台だけの地下室では確認出来ないのだが、微かに見える郭からして未発達かのような外観であると取れる。そのような体格とは不釣り合いの(寧ろ声の主が似つかわしくないだけであるのだが)体格の良い数名の男の内の1人のモノクルがズル、と下がった。蝶ネクタイをしたスーツ姿の彼を口元に弧を描いたまま一瞥すると、声の主は己の頭に乗せたミニハットの上質なリボンを弄りながら、声の主の見せたトランプが信じられなくて目を見開いた対峙する男に視線をやった。そうして高圧的な喋り方で、

「貴殿、フォアカード『ごとき』で自分に勝てるとでも? 甘いなあ」
「…イ、イカサマだ! 有り得る筈が」
「あるさ。それとも貴殿は自分がイカサマをしたと云う確固たる証拠が提示できるとでも?」
「っ…」
「無理だよなあ、だって『自分は本当にイカサマをしてないから』無理に決まってるよ」

その程度は理解出来るだろうとのニュアンスを含んだそれを云い、誰も動かないので自らが手を伸ばし賭けとなるチップの山を己のチップの方へ寄せる。するとチップの全ては声の主の元へ行ったこととなり、愉快そうに小さく笑った。そうして隣に立つ男を臙脂色の椅子に座ったまま、

「それではお金を貰おうか」
「無理だっ、今直ぐには払えない」
「ええ? 自分の母国の単位に直したらもう億は超えてるんだが…、…貴殿ら、自分への借金を帳消しにしようと勝負するのは良いんだが」

『イカサマを使用しても』勝てないとか終わってるし借金を増やしてどうするんだい、と云った時、丁度声の主の携帯電話が鳴った。無機質な初期設定のままの音である。
失礼、と云って出ると途端携帯から大きな怒声が聞こえて来る。それは未だ声変わりが完璧にしきっていないのではと思える幼さの残る、けれども男だとは分かる少年の声であった。まくし立てているのではっきりとは男達には聞き取れないが、どうやら遅いから早く帰って来いだとかそんな内容である。状況が分からず当惑を見せる男達に馴れたように適当に相槌を打つ声の主は話しながら椅子から立ち上がったかと思うと、椅子の背に掛けたキャメル色の革のコートを羽織り、足元に置いていた同様のキャメル色の革のトランクを持って、

「では次、自分が来た時にはお金を用意しときたまえ。白痴君の相手も疲れるんでな」

電話から顔を離してそう云ったかと思うと靴の音を立ててそこから颯爽と出て行く。悔しげにトランプを撒き散らした男の姿に気付きはしたものの彼を見ることなく、すっかり電話口の相手との会話に意識を持って行く声の主が扉を開けるとそこに広がるのは月光と街灯と云う薄明かりしか存在しない真っ暗闇な外であった。嫌な音を立てて扉を閉めると辺りを動くのは上を旋回する蝙蝠しかおらず、

「ああ…本当に遅くなったな。エンプソン、空を鳥と獣からのけ者にされた可哀相な生き物が飛んでるよ」
『蝙蝠が飛んでるのは分かってますから。全く夜遊びも大概にですね…、危険ですし迎えに行きましょうか?』

先程の怒声とは打って変わり心配する声色で云う電話の相手(尤も、怒ってたのは相手を心配してるからに他ならない訳であるが)に否大丈夫だと返すと、そのまま月に手を伸ばす。それは月を掴む筈もないのだが承知の上で握った。結果当然ながら何も掴まなかった手を戻し、携帯を耳に当てたまま、

「蟋蟀のように、蝙蝠に月を食べて貰うよう頼めないかな」
『は? 今何て云いました?』

どうやら聞き取れなかったらしい電話相手の少年に見える筈もないのに声の主は笑顔を作り、そうして矢張り、見える訳ではないのに可愛らしく小首をこてんと傾げて。


「帰ったら温かいシチューとクランベリー入りのベーグルが食べたいと云ったんだよ。宜しくな、家政婦君」



通話の切られた音がした。



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