※高校生パロ その人を初めて見たのは、雨の激しく降る睦月の或る日の事だった。 雨の音で外界の音は遮断され、視界は霞み、荒く呼吸をする度に白い息が出た。そのような環境だったからかどうかは定かでないが、だからか一層、彼の存在が際立って見えたようだった。 帰路の途中の小さな公園で、一人雨宿りをしている彼は同じ高等学校の制服に身を包んでいた。特に目立った特徴がある訳ではない制服だが、此処らで学ランの制服は、自分の通う学校だけだった。見た事のない顔だった。同学年の顔は大体把握出来る程の規模の学校であったから、違う学年なのだろう事は解った。 線の細く、肌の白い男だった。彼の鎖骨まで伸びた黒髪からは水が滴り、紺色の学生鞄は底まで濡れていた。 俺も傘は持ってなく、彼同様靴下が湿る程に靴も濡れていたが、何故だか気付けば惹き付けられるように彼の傍に立ち、そうして彼が不審そうに俺を見上げると同時、学生服のポケットから取り出したハンカチを差し出した。 彼は予想だにしなかったその事に、 「…ハンカチ? 何で…」 「濡れていたので」 「…。…お前も、濡れているだろ…」 彼はハンカチを受け取ろうとはしなかった。俺の事をまるで変な者でも見るかのような目付きで見て、それから興味もなさそうに視線を反らし、そうしてやや鬱陶しそうに「放っといてくれ」と云った。俺は人の善意くらい受け取っても良かろうと面白くなかったが、然し彼が俺の勝手にした行動にどう反応しようとも、確かに彼の自由に違いなかった。 その為、俺が彼の反応にこれまたどう反応しようとも、俺の自由である事に相違なかった。俺は無理に彼の手にハンカチを押し込むと、彼の隣に立ち、そうして彼の顔を見ないままで、 「風邪引きますよ」 「…何なんだ、お前」 「一年生の小鳥遊、と申します。貴方は?」 「…二年の髑蠱だけど」 「見ない顔だから上級生だとは思いました」 「………」 彼は俺の事を訝しそうに眺めたが、白い小さな息を口から吐くと、俺の差し出したハンカチで俺の肩を拭き出した。俺が思わず彼の方を見ると、彼は変わらず俺に対して何の関心もないような顔を向けたまま、つっけんどんにハンカチを返し、 「…風邪を引くのはお前だ。俺の事は構わないで良い」 「家が遠いんですか」 「初対面なのによくもずけずけとまあ…。…いや、近い」 「帰らないのですか」 「…関係ないだろ」 突き放した口調だった。その口調が彼が俺と関係を持ちたがっていない事を裏付けていた。家に帰りたくないのか、然しそれならこのような寒い場所ではなく学校の図書館にでも居るべきだ。それならば何故わざわざこのような人気のない公園に居るのだろう。 少し考えて、一つの事に思い至った。俺は何も考えず、その事を口にした。 「誰かを、待っているのですか」 彼は鬱陶しそうに目を細めた。それから隠しもせず眉を顰め、責めるように「あのな」と云った。 「俺はお前に関係ないと云ったんだ。…俺が此処で何をしてようが、お前には関係ない。解るか」 「ええ、でも俺が此処に居ても関係ないですよね」 「…お前、小学生の時、教師を困らせるタイプだっただろ」 「まさか。そんなガキみたいな」 彼は呆れたように何かを云いかけたが直ぐに口を噤み、俺から視線を離した。依然として強く降る雨を見ながら、若しくはその先の何かを見ながら、閉じていた口を開いた。 「お前、友達居ないだろ」 「そうですね。貴方も居なさそうですが」 「…悪かったな」 それから彼は何の意味もないような、取り留めのない会話をするようになった。俺はそれが格段楽しい訳でもなかったが、不思議と不快ではなく、どころか愉快とも不快とも異なる心地良さのようなものを感じていたので、それに嘘を吐く事なく淡々と答えを返していった。 俺から何かを問う事もあった。彼はその度に少し黙ったり考えるような素振りを見せたが、それが真かどうかは置いておいて、一応形の上では答えを口にした。 気付けば時間は大分経ち、辺りは暗くなり、雨も小雨になっていた。彼は明らかに厭そうな顔をして、俺の前で何度かしたように、また白い息を吐いた。吐息を出した唇は薄くて寒さの所為か微かに色付いており、男のものとは思えない唇だった。 矢張り帰りたくないのだろうか、と俺は思った。彼の家庭環境だろうか、それともそのような重いものではなく、単に親と喧嘩でもしたのだろうか。俺は何となく軽い調子でその言葉を口にした。 「…俺の家に来ますか?」 「はあ? …絶対厭だ」 「何で」 「初対面の奴の家に、どうしてのこのこ行くと思う。…それに俺の親だってもう夕飯を作ってくれているんだ」 「何だ、親とは仲が良いんですか」 「寧ろ何で悪いと思った…」 俺の邪推だったようで、彼は別に家に帰りたくない訳ではなさそうだった。それでは別の悩みだろうか。思えばこの多感な時期に、何の悩みもない事の方が不思議だろう。彼だって色々とあるに違いなかった。 彼は俺に声をかける事もなく、恐らく彼の家の方向に向かって歩き出した。俺はそれに着いて行く。 「帰るんですか」 「帰るよ、お前も帰れ」 「はあ、そうします」 「…変な奴」 彼の俺に対する態度は良くなる訳でもなく、相変わらず冷たい目線を俺に投げかけた。…その瞳がほんの少しだけ濡れているように見えた俺は思わず彼の右手首を掴み、それから彼の顔に己の顔を近付けた。彼はそれに大きく目を見開いたが、 「…あれ、泣いてるかと思ったんですが」 「ッ…阿呆か! 雨か何かと見間違えたんだろ、離せ!」 「す、すみません」 「ったく…」 彼は本気で怒ったようで、俺の手を強く振りほどくと踵を返す事もなく、そのまま歩いて行ってしまった。俺は暗くなりゆくその中で、彼の後ろ姿を見送りながら、ふと可笑しな事を考えていた。 彼は男であるし、彼は俺に全く興味がなさそうだったのに、何となく、俺がもし恋をするなら、あのような人だろうと。 次の日の同じ時刻、彼はそこには居なかった。その次の日も、矢張り居なかった。その次の日だって居なかった。 然し彼と会って5日が経ったその日、雨の降るその日は、全く同じ時刻にそこに彼が居た。俺は差していた傘を閉じて、即座に彼の元に駆け寄った。彼は走る足音に顔を上げたが、俺だと解ると、あの日と同じ心底厭そうな顔をした。 「…何でお前が…」 「はあ。貴方は何故此処に」 「…関係ないだろ。傘があるんだから帰れよ…」 「いやいや」 「…莫迦にしてんのか」 彼は頭が痛そうな素振りを見せ、それから俺が帰らない様子を見ると、本当に何の気もなさそうに、その言葉を口にした。 「お前が居ると…、」 「? 俺が何ですか」 「……いや、何でもない」 彼はよく云い淀み、隠し、何も俺に見せなかった。勿論2度しか会っていない男に何を話す義理もないだろう。俺だってその事はよくよく承知していた。 俺は眼前で降る雨を見ながら、 「…この間は天気予報でも云ってませんでしたが、今日はちゃんと、雨だと明言されていましたよ。何故傘を持たなかったんですか」 「別に…」 「傘、貸しましょうか。ああ、近いなら入れて送るとか…」 「要らない世話を焼くな」 そんな、と云おうとした時だった。彼のその表情が、この間別れた時に見たものと、全く一緒のものだった。だから俺は口を開く事が出来なかった。 「本当に、要らないから」 俺は彼の事情を何も知らなかったが、彼が雨の日に、この時刻に、この場所に唯一人で居たいのだという事が解った。雨の日に何かあったろうか。俺や他の者にはなかろうが、少なくとも彼にはあるのだろう。 疎外感を覚え詰まらなくなった俺は、空気を読む事がないまま、黙って彼の傍に居た。彼も何も云わなかった。この間と違い、会話はなかった。彼が口を開く事はなかったし、俺も口を開く事はなかった。実に無駄な時間だったが、俺は時間を無駄にしたとは思わなかった。彼の隣に居るだけで、何かをしたような気になれた。 暫くして手元の腕時計を見ると、彼がこの間帰宅した時間まで、後30分残っている事が解った。ならば少なくともそれまでは此処に居るだろう。そう思って左手を下ろした時、彼が俺に話しかけてきた。 「…お前、何で居るんだ。傘、あるだろ」 「え。ああ…、…貴方が居たので」 「……同性愛者か、お前」 「そういう訳では」 「女を愛する奴は男にそんな事は云わない」 「そうでしょうか」 俺には人を愛するという事が、未だよく解らなかった。この間、何となく恋をするならこんな人だろうと思った。然し今まで俺は、誰かに対してそのように思った事すらなかった。 彼の顔を見ると複雑そうな顔をしていて、彼が何を思っているのか、俺には判断する事が出来なかった。彼は考え倦ね、 「…お前、恋人は」 「居ません」 「だろうな。…作らないのか」 「何故」 「何故、って」 そのような話題になった理由が、俺には解らなかった。彼には思うところがあるんだろうか。彼は出来るだけ言葉を選ぶようにして、 「周りは、そういう奴多いだろ?」 「…俺には、人を愛するとか、未だ解りません」 「…。まあ、そんな気はする。…悪かったな、変な話を」 「いえ、…ただ」 「ただ?」 下心など何もなく、単なる一つの会話を弾ませる手段として、俺は前に思った事を口にした。それが如何に相手に奇妙に聞こえるか、或は周りがどう思うかは特に気にする事がなかった。 「恋をするなら、貴方のような人が良いと」 彼は照れた様子もなく、かと云って驚いたという様子でもなく、どちらかと云うと、若干呆れたような、或は怒ったような様子で、俺の顔を見た。その後の彼の声を聞いて、後者である事を知った。 「…俺の事、何も知らないのに、よくそんな事を云えるな」 失言だったのだろうか。誰かを愛するという事が矢張り理解出来ていなかった俺は、彼が好意を向けられて何故怒るのかがよく解らないでいた。彼はいっそ軽蔑するかのような視線を最後に向けて、それからそのまま前と同じ方向に向かって居なくなってしまった。 そう云えばこの間も帰りは彼を怒らせた。そのような積もりなど全くないのに、俺は彼を怒らせてばかりだな、と思った。 その4日後にまた雨が降った。あのような事があったから彼はもう居ないかと思ったが、変わらず彼はそこに居た。俺は傘を差したまま、走る事なく、彼に近付いた。彼は俺の姿を一瞥したが何を云う事もなく、俺から視線を逸らした。 俺は彼の前に立ち、 「…すみません。この間は、失礼な事を」 「…帰ってくれないか。迷惑だ」 「俺、貴方を怒らせる積もりは…」 「解ってる。でも…何であれ、俺はお前に居て欲しくない」 「どうして」 「1人が良いんだ」 彼が此処で何をしている訳でもない。誰が此処に来る訳でもない。一体彼は何を待ち望み、一人待ちぼうけているのだろう。 帰ろうかと思った。彼が望むのならそうした方が良いだろうと思った。然しどうも足がそこに根を張った動かず、俺は俺よりも小さい彼を上から見ていた。 俺は彼と向き合ったままで云った。 「…貴方が本意を遂げたら居なくなります」 「? …どういう意味だ」 「貴方はずっと此処に1人で居る。然し…それに意味がない訳ではないでしょう」 「それは…」 「なので…貴方の意図した事が叶ったら、居なくなります。それまで一緒に居ても良いでしょうか」 拒絶を表す怒声を浴びると思った。然し彼の返事は思ったよりも真摯的なものだった。彼は軽微に心苦しそうな顔をして、 「…そんな大層なものじゃない。何の意味もない、この事には」 「そうでしょうか…」 「だから、叶う時なんてない。俺は、俺が満足したらやめるんだ。この無意味な事を」 「…それでは、貴方が満足するまで、俺は居る事にします」 彼は何か不服の一つでも云いたそうだったが、俺に何を云っても無駄だという事を、早くも思い知ってしまったのだろう。溜め息を吐いて、「好きにしたら」とだけ云った。 彼の吐く息は、何時だって白く冷えきっていた。 睦月が終わり、如月が始まった。彼は月が変わってもそこに居るのをやめなかった。但し雨の降る日だけだった。 俺と彼は何度もそこで会い、彼は俺に対して冷徹な態度を取る事もなくなって、普通に挨拶をして俺を迎えるようになった。それが俺にとっては望ましい事でも、彼にとって喜ばしい事なのかは、俺には解らなかった。 俺達は様々な事を話した。お互いの高校生活、家族構成、得意な科目、教師、好きな書物の事。同じ学校に通う者だからか話題に困る事はなく、例えそれが枯渇したとしても、別に困る事はなかっただろう。彼の隣は酷く心地が良く、何を話さないとしてもそれはそれで良かったからだ。 如月はあっという間に過ぎた。弥生に入り、彼は依然としてそこに居た。俺も彼が居る限り、そこに通い続ける筈だった。 或る豪雨の日の事だった。既に中旬は過ぎていた。 その一生忘れる事のない特別な日、彼に格段変わった様子はなかった。或は気が付かなかっただけかも知れなかった。普段通り取り留めのない話をし、その時、あまりに雨が激しくなって、俺が彼から視線を逸らして「雨が強くなってきましたね」と何となしに云った時だった。 彼の手が俺の腕を掴んだ。それは掴むと云うよりも、縋るようだった。彼の声だって、ないものを絞るように、頼りないものだった。 「…小鳥遊、お前、恋をするなら俺のような人間だと前に云ったな」 「ええ」 「今まで恋をした事もないんだよな」 「ええ」 彼はその返事に何を思ったのか。俺の顔を手で手繰り寄せて、自分からも俺に近付いて、まるでそうするのが当然だと云うように、実に自然に俺の唇に彼の唇を重ねた。 表面が触れ合うだけだったそれは直ぐに深いものとなり、彼の舌が俺の口内に入ってきた。俺もそれに応じようと唇を動かすと、思わず歯が当たった。 彼は唇を離し、 「…下手だな。本当にキスすらした事もないなんて」 「…駄目ですか」 「別に。…でも、思春期の男子高校生なんて、そんな事しか考えていないだろ」 彼は一つしか変わらぬのに自棄に俺よりも年上であるかのように蠱惑的な声でそう云うと、雨に濡れた髪を片方の耳にかけ、それから薄く綺麗に笑った。その笑みと声、そして次の言葉は恋を未だ知らぬ俺を落とすには充分なものだった。 「…しようか」 明言している訳ではなかったのに、その意味するものが顔が火照る程に解ってしまった。彼は俺の腕を慣れた様子で引き、激しい雨の降る中、俺を彼の家へと連れて行った。 思えばその慣れた様子に俺は戸惑いを覚えるべきだったが、すっかりそのような事を考える事も出来ず、俺は彼に引かれるがまま鼓動を激しくしていた。 彼はかつて俺に「家には両親と兄と、妹が居るんだ」と云ったのに、彼が帰ったところは小さなアパートの一室で、そこには親すら居なかった。彼が俺に話していた事は全て嘘で、俺は彼の何も知らず、それが俺に一種の孤独さを与えたが、彼はそのような感情に俺を耽させない為なのか何なのか、部屋に入ると性急に俺を組み敷いて、さきのものとは比べ物にならないような熱いキスをした。 下手だな、と俺に云っただけあって、彼は何度も誰かとキスをした事があるようで、慣れたように俺の口内を好きに舌で弄った。全てが初めての俺は目の前の大きな誘惑に劣情を刺激され、身体中が熱く、何も正常に考える事が出来ないままでいた。 彼は俺の制服の釦に手をかけながら、それから顔を無花果のように赤くしたまま、小さな声で俺に囁いた。 この時彼の顔が赤くなっていた理由をまともに考える事が出来たなら、俺は彼との行為を止める事が出来たんだろうか。 「…俺の下の名前はアリスって云うんだ。アリスって、呼んでくれるか」 俺は考えようとする事もなく、浮かれたまま彼も俺が好きなんだと思って、彼の名前を呼び、初めての行為に耽った。 行為の事は鮮明に覚えているが、その日の夜、俺はどう自宅に帰ったのかをよく覚えていない。人生で初めての快楽に夢現になっていた。 俺は幸福だったし、だから彼も幸福だと信じて疑わなかった。今まで雨の降る日にしか考えていなかった彼の事で頭は一杯になり、翌朝を迎えてもその幸福の余韻は冷めず、次の雨の日まで待ちきれず、俺は昼休みに2年の教室に行って彼が居るかどうかを尋ねた。 …然し、驚くべき事に、彼は今年に入ってから学校に来ていないのだと聞かされた。雨の降る日の放課後に決まって公園に居たくせに、登校していないのだという。 放課後、俺は彼のアパートの部屋を尋ねた。誰も出なかった。今は居ないのかも知れないと思った。 仕方なく、俺は雨の日を待つしかなかった。 不運な事に、雨はあの日から中々降らなかった。 雨は直ぐに降るだろう、と思ったのがいけなかった。降らない雨にしびれを切らし、彼の部屋の前でひたすら彼を待たなかったのもいけなかった。 俺は結局地に足がつかないまま、多分な幸福の中に居て、彼の事など何にも見えていなかった。 1週間以上経ち、漸く雨が降った時、彼はもうそこには居なかった。待っていても来なかった。アパートまで行った時、彼は引っ越した後だという事を大家から聞かされた。 思えば俺は彼の名前しか知らず、後の事は何一つ知らなかった。それなのに俺は誘われるがまま彼と身体の関係を持ち、そして掴む事もなく、彼を失くしてしまった。 あの時彼の顔が赤かった理由を正しく知って、本当は哀しくて泣き出してしまいそうだった彼を只々優しく抱きしめてさえいれば、彼は居なくなる事がなかったんだろうか。 彼が雨の降る日にずっとあそこに居た理由を正しく理解出来たのは、俺が高校を卒業して、成人した後の事だった。彼は以前燃えるような恋をして、その恋が不本意に終わって、それでもその恋を捨て切れず、何時までも来ない待ち人を待っていたんだろう。 何の意味もないと云ったように、来る事のない事を知りながら。何時か愛する人と契った約束を忘れる事が出来ず、直向きに、凍えるような寒さの中で1人待っていたんだろう。 数年経った今でも、俺は激しい雨が降る度に、名前しか解らぬあの人の事を思い出す。 あの人が愛した人の事を忘れる事が出来なかったように、俺もまた彼を忘れる事が出来ずに、何時までも来ない人を待つのだった。 |