※妄想


 墓の周りを掃除するだけの生活を送って来た私が、こうして筆を取るというのは初めての事です。ですから、少々拙い表現があるかも知れません。それでもこの私の拙文に付き合って頂ければと存じます。私が守って来たこの墓地で起こった、些細な、然し一度しかなかった椿事です。

 その異国の外套を羽織って来た男性は、何処か物哀しさを帯びておりました。初めて見る顔でした。肌は今の季節によく空から降って来る雪と混合してしまうかのように白く、唇は男性のそれであるのに真っ赤で美しく、目尻は有名な画家が描いてやったかのように綺麗な線で出来ておりました。誰が見ても美しいと云うような、そんな美麗な方でした。
 彼は銀色の雪がこんこんと降る中で、一つの墓を探しておりました。初めて此処に来たであろう彼が一つの墓を中々見付けられない事は、道理でした。少し時間をかけて、漸くその目的の墓を見付けると、彼は寂しそうに目を細め、それからその前に立ちました。彼は右手に梔子の花を持っておりました。…寿命を全うしない内に死んで行った者へと贈る、その白い花の上品な香りは、距離のある私の元までも香ってくるようでした。
 彼は墓の前に座り、それから墓の中に眠る者に語り始めました。
 その墓に眠り込む軍人の名は、教育を受け始めた男児なら、恐らく知らされている者の名前でした。この日本に大きく貢献し、最期は病に倒れてしまったが、力強く、誰もが賞賛の声をあげた者。彼に憧憬し、軍に入った者も少なくないと、耳に何度も挟みました。
 彼はその者の知己だったのでしょうか。優しい声色で、隠す事なく、言葉を紡ぎます。

「…驚いたよ。あんな物騒な事を云い残した奴が、迎えにすら来てくれないなんて」

 彼の顔は此処からでは見えませんでした。どのような顔をして彼が話をしているのか私には解りませんでしたが、声は掠れる事もなく、震える事もなかったので、彼が友の死に泣いている訳ではないという事だけは解りました。
 面識のない彼等の会話を私が聞いて良いのかは解りませんでした。然し、梔子の香りがそうさせたのか、或は見る者を魅了するような容貌の彼がそうさせたのか。私の足はそこに根っこを張り、目は彼を捉えたまま離れる事がありませんでした。
 彼は続けます。

「病なんてなあ…。お前みたいな身体が資本の奴でも、病には勝てないんだな」

 その事には私も思うところがありました。この国は全てが古く、医療技術もまた、多くの国に引けを取っておりました。もしかしたら、異国ならば治ったかも知れない。或は戦争が起こる前の医師達なら、彼の病を治せたかも知れない。そう思うと、どうにも遣る瀬が無い。又、文豪のような華奢な体格の者でなく、彼のような身も心も屈強な軍人すら、病に倒れる事がある。私達は自然の前では無力なのだと、皆が思い知った事でしょう。
 彼等の会話はそのまま暫く糸で刺繍をするように静かに続きましたが、雪が強く降り、彼の外套や髪の黒色を銀色に徐々に染めゆく頃、会話は途切れました。そうして会話が終わると、彼の言葉は、独り言に変わって行きました。それは独り言と云うよりも、慨嘆と表現した方が的確かも知れません。彼は独りで、嘆き始めました。彼の背中が、突然大層小さく見え始めてしまいました。

「……唯一の友が。俺の友が、居なくなってしまった。…友なんて云うと、お前はきっと不服に思うだろう。でも、お前にとって俺が友でなくても、俺にとっては大切な友だったのだ。御免な…」

 彼の声が掠れ、震え始めるのを聞き、私は彼が最初泣かなかった理由が解りました。彼は友の前では泣きたくなかったのだろう。会話が途切れ、独りになった時、初めて泣く事が出来たのだろう。
 私は彼等が知己だと思っていましたが、恐らくそれは違ったのでしょう。それでは彼等の仲は何だったのか。…私には、彼等の仲を表す言葉が解りませんでした。否、そんな言葉は無いのかも知れません。人がこの世の全ての事象に言葉を与えるにはあまりにもこの世に物事があり過ぎる。それに、言葉で表さない方が良いものも、恐らくこの世にはあるのでしょう。
 彼の言葉は最後には懺悔のようになりました。聞いていて苦しい言葉ではありましたが、それでも私はそこから離れる事が出来ませんでした。

「お前の隣には、優れた人間が居て然るべきだったのに。俺みたいな詰まらない人間が、その機会を奪ってしまった。俺は……、」

 ……そこからの言葉は、私の耳には届きませんでした。もしかしたら彼は続きを言葉にしなかったのかも知れません。私には彼が何と続けようとしたのかも、想像も出来ませんでした。只、長い長い懺悔のように感じました。彼の心の底からの後悔が、私の方まで伝わり、冷たい氷柱が胸を刺すようでした。

 懺悔が終わると、彼は雪の上に白い花々を置き、そうしてまた墓の文字へと向き合いました。彼の最後の言葉は凛としておりましたが、何とも哀しいものでした。それは恐らく、会話だったのでしょう。私には墓の中の男が何と答えたのかは見当もつきませんが、花を手向けに来た彼の耳には、どんな声が聞こえたのか。

「リデル、お前が居ないのなら。…もう、日本に来る意味も。なくなってしまったなあ……」



 その言葉の通り、彼はもう、この墓地に来る事は二度とありませんでした。墓に眠る男と会話しに来る軍人は多く、時には着物を着た女性や教師も訪れました。誰もが何度も訪れて、彼に花や線香を贈りに来ました。生前に受けた賞賛の声の多さと違う事なく、彼の墓からは色が絶える事はありませんでした。
 然し唯一、異国の外套を羽織った男は、一度しか来ませんでした。誰よりも親密そうで、誰よりも墓の中の男と長く話して、誰よりも傷んだ声を出していたと云うのにと、私は何度も来ない彼を薄情だとも思いました。…然し、彼の代わりに梔子の花を手向けている時に、私は不意に思いました。
 哀しいから来られないのかも知れない。離れたくなくなるから来ないのかも知れない。死を感じたくないから来たくないのかも知れない。
 来ない理由は多くあって、彼は彼なりに、墓の中の男を想っているのだと。



 桜が散る中、緑葉の影が伸びる中、枯れ葉が落ちる中、銀雪が降る中。今日も私は梔子の花を手向ける。
 梔子の香りが舞う此処に、異国の外套を身に纏う彼は、もう居ない。


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