「アリス、君の生まれ変わりに何度も愛を囁いたよ」

 季節が変わり、寒い風が吹くようになった。この墓地に通う者を、僕はこれまでに誰一人として見た事がない。街外れの丘の上にひっそりと並べられたその墓石達は、多くが白兎に居た者達の物だった。この近辺には何の建物もなく、また人の住む家もない。この墓地はクイーンの持つ土地で、管理は親族の者がしていると、生前に聞いたような気がする。
 アリスの墓石の隣には、クイーンの墓石がある。聞かれたら怒られるだろうか。別にアリスに愛を囁いた訳ではないし、アリスは結局クイーンの隣に居た。少しくらい目を瞑って欲しいと思うのは、僕の我が儘だろうか。
 僕はアリスの墓石の前に屈み、彼の前に梔子の花束を添える。噎せるような花の香りが、僕の鼻孔を擽った。

「君は怒るだろうか。やめろと云うだろうか。…それとも興味もないだろうか」

 誰も何も云わず、静寂だけが辺りにある。風が吹き、僕の髪を撫ぜ、髪が僕の頬に触れる。
 閑静で寂しい場所だった。死者が眠るのに相応しい場所でもあった。そして生きるという事は虚しく、儚く、何を残す事もないのだという事を、思い知らされる場所でもあった。
 僕はクイーンの墓石に視線を向けて、彼の方にはピンク色の花束を添える。機嫌をどうか直してくれれば良いがと思い、クイーンに向けて微笑みかけた。
 ジャバウォックもグリムも過去には因われず、そしてエバも、全てを忘却してしまっていた。まるで僕だけが未だメアリで居るようで、僕は何時迄も過去の亡霊だ。
 だとしたらこれは矢張り僕への罰だった。エバは決して貴方ではなかった。貴方はもうこの墓の中に入って永久の眠りに就いている。それにも関わらず僕はエバを愛した。然しエバの表情や仕草の端々から、ふと貴方を思い出し、貴方を抱いているような錯覚に見舞われて、その度に目の前に居るのはエバであると思い直し、貴方はもう居ないのだという事実を思い知り、脳裏に浮かんだ貴方をもう一度殺した。それはエバと居る限り、何度でも行われる殺人だった。彼と貴方が重なる事がないが故に、切り離してしまうが故に、必ず生じてしまう事。まるで地獄の永久の業火のよう。僕は断罪を受ける咎人だった。

 風が少し湿気を含んでいる。また雨が降るな、と僕は思った。








「……そう。お前がそうしたいなら、それが良いと思うよ。…元気でね」

 シャルルはジェームズの言葉を、譜面に目を走らせながら聞いていた。直ぐに扉を閉める音とジェームズが部屋へと戻ってくる足音が耳に響いて、シャルルは顔をそちらへと向けた。ジェームズは自分を見ている彼と視線を合わせると、大仰に肩を竦めてみせ、

「ラビ。アイルランドに帰るって。結局軍人に戻るそうだ」
「…そうですか…。彼らしいと云えばそうですが…」
「もっと今の時代に合った生き方をしても良いと思うんだけどね、俺は。…可哀想な奴だね」

 シャルルはそれについて何も云わなかったが、肯定するかのように痛ましい顔をして顔を俯かせた。ジェームズは冷めてしまった珈琲の入ったカップをキッチンへと持って行き、中を捨てると冷水を入れた。洗う事なくそのままにして、それからシャルルの元へと戻る。シャルルは楽譜を閉じて、

「…アリスとは会ったんですよね」
「ああ、…でも彼には記憶が無い」
「それでは確かに…ラビは複雑でしょう。記憶があれば或は…彼は軍人に戻る事もなかったかも」

 ジェームズはその言葉を「そうだね」と返したが、その話が只の机上の空論であり何の意味もなさない事も、お互いに解っていた。同情は出来ても結局彼等は何をどうする事も出来なかったし、ラビの決めた事に口出しする権利が無い事だって、よくよく解っていた。それでもシャルルは或は都合の良い奇跡が起こりはしないかと、少なからず思ったりした。
 シャルルは少し考えて、それから何となしにその言葉を口にした。

「…ねえ。貴方は私の記憶が無ければ、どうしましたか」
「…前世の記憶が?」
「ええ。アリスと同じで、記憶が無ければ。それは私であって、私ではなかった筈。…貴方がラビの立場なら、どうしたのだろうと思って」

 ジェームズは迷わずに直ぐに答えた。その言葉はシャルルが予期したものと全く同一であり、そして恐らく例えジェームズの記憶がなくとも、自分がするであろうと思った事と同じでもあった。故にシャルルはその返事に非常に満足したし、眼前の彼とは恐らくどんな境遇でも何時だって一緒なのだろうと思った。
 満足したその後で、視界に入った窓から曇り空が見えた。
 今日もまた雨かと思い、雨続きの天候を憂いた。


「例え記憶が無くなっていても、魂が同じだとしたら、誰にもやる気はないからね。…記憶が無くても、何になっていても、俺は貴方をずっと離さないよ」








「もう珍しくもないですが、最近外泊の頻度が益々増えましたね。…一昨日も貴方の家に行ったんですが、居なかった」

 アランの詰るような刺のある物言いに、エバはどう云えば角が立たないか、何時もより言葉選びに慎重になった。
 エバはラビの家に足繁く通うようになり、ラビも別にそれを咎めたりはしなかった。然しそれを歓迎したかと云うと、それはエバには解らなかった。受け入れるが、積極的にラビから動く訳ではない。然し期待をしているようにも、好意を持っているようにも見える。少なくとも嫌われていないのは確かだった。
 幾多も身体を重ねる事に、罪悪の意識がない訳ではなかった。アランを見ると自己嫌悪に駆られたし、全てを吐き出してしまおうかと思ったのも一度ではなかった。然しそれをする勇気はなかった。彼を傷付けてしまうからだ。否、彼を傷付けて、怒られて、自分が嫌われる事が何よりも怖かった。散々人を裏切っておきながら、自分は誰よりも傷付きたくないと云う。何と勝手な話だろう、とエバは自嘲した。
 エバは口を開き、

「最近勉強で解らない事が多くてな。友人に教えて貰っているんだ」
「俺が教えるのに」
「お前だって忙しいだろ? それに専攻が違うんだ。お前の手を煩わせる訳には…」
「…でも、」

 アランの右手が、エバの手首を掴む。エバは心の臓が冷えるような心持ちがした。アランの口から強い言葉が出て、右手に力が込められて、自分に激情がぶつけられるのを、極端に恐怖した。
 然しアランがそのような事をする事はなく、代わりに不安そうな顔をした。エバはそれを見て、さきまであんなに恐怖したのに、いっそ自分を詰ってくれればどんなにかと、思わずにはいられなかった。

「…不安なんです。貴方が何処で何をしているのか…、…俺から離れて行かないか」
「アラン…」

 その時アランの顔が近付いて、エバは思わず顔を背けた。エバは自分の無意識に肝が冷えるような気がしたが、幾ら悔いても顔を背けた事実は変わる事がない。アランの顔を見る事が出来ないまま、腕を強引に振り解き、それから自分の鞄を掴み、玄関の方へと駆けた。
 エバは靴を履きながら、

「…ごめん。今日は帰る」
「どうしたんですか、待っ…」
「用事を思い出したんだ。…また連絡するから」

 エバは後ろを振り向く事もなく、靴を履ききらないまま扉に手をかけて、走って部屋から出た。外は何時の間にか雨が降っていた。後ろから聴こえる声は雨の所為で聴こえない振りをして、濡れるのも厭わずに、そのまま一つの場所へと向かって走る。
 エバはもう、アランと恋人のように笑い合う事が出来ないように思われた。今や彼の心の中にはラビの事しかなく、誰でもないラビを確かに自分は愛しているのだと、この時初めて確信した。
 出会いの所為だろうか、彼の話す落ち着いた言葉の所為だろうか、それとも自分を見る瞳の所為だろうか。エバには何故彼に此処まで惹かれるのかという事は解らなかったが、然しこのような愛は初めてだった。これが愛と云うのだと理解をし、そして今までの人生で、自分は誰一人として愛した事がなかったのだと思った。アランに抱いた感情は、これとは違うのだと今なら断言出来た。



 冷えた雨の所為で吐く息は白く、服も自分の身体に張り付いてしまっていたが、エバはそれを厭わなかった。何度も訪れたラビの部屋のベルを鳴らす。少ししてラビが出ると、ラビは驚いた顔をした。

「…ご、ごめん。急に。…入れて貰っても良いかな」
「…勿論。そんな格好じゃ風邪を引く」
「ありがとう、……?」

 エバが部屋に上がると、その部屋が平生よりも更に簡素になっている事に驚いた。見ると幾つかの箱があり、その中に荷物が入っている。
 彼がこの部屋を出るのだという事を、エバは直ぐに解った。エバは濡れた右手でラビの服を掴み、ラビ、と彼の名前を呼んだ。その声は不安げに微かに震えているようだった。

「…ど、何処に行くんだ。近く…?」
「…いや、アイルランドに戻る積もりだ」
「どうして。大学は…」
「もう必要が無くなった」

 自分の身体が冷えゆくのをエバは確かに感じたが、それは雨で濡れたからではなかった。エバは何を云えばラビが思い留まってくれるのか解らずに一瞬怯んだが、兎に角何か異を唱えようとした。

「何で。じゃあお前は何をするって云うんだ」
「軍に入る積もりだ。僕にはそれしかない」
「軍って。…別に大学を辞めなくても、」

 エバの言葉はそこで途切れた。ラビは左手にM19を持っていて、その銃口を突然エバの眼前に突き付けた。
 エバはあまりの事に動揺し、自分の手が小さく震えたのが解った。その様子を視認したラビは、少しだけ自分が期待を抱いてしまっていた事が解った。銃を下ろさぬまま、

「……何かを思い出す事は?」
「な、何かって、……。…何も、解らない、そんなの…」
「…だろうね。…それに僕は、君に銃を突き付けた事なんて無かった」

 ラビは銃を下ろし、そのまま興味が無さそうに机上へと置いた。エバは初めて目にした銃に慄き、ラビが話をする間も、その銃から目を離す事が出来なかった。
 箱に入れていたタオルを取り出して、ラビはエバにそれを差し出す。エバは何も云わずそれを受け取ったが、直ぐに銃へと視線を戻した。ラビはそれに構う事もなく、先程までの作業を続けるべく、本棚の本を取り出して、それを箱に入れ始める。
 時計の秒針の音だけが部屋の中に響く。エバは白いタオルを強く手で握り、それから絞るように声を出し、

「…俺は、お前が好きだ」
「…うん。僕も好きだよ」
「なのにお前は俺を置いて行くのか。…それに、お前は何時も俺を見ていなかった」
「………」
「…初めて会った時に云った、『アリス』の代わりでも良かった。…それでも良いんだ」

 かちり、と無機質な音がした。ラビがエバの方を振り向くと、エバの右手にはM19が握られていた。
 ラビは動じる事もなく、立ち上がってエバへと近付いて行く。エバは怯んだが、それでも銃口の向きをラビから変える事はなかった。

「行くなら、俺も連れて行って欲しい。…好きなんだ、誰よりも。アランとは別れる、だから…」
「…エバ、君には撃てないよ。君は銃の扱いが下手だった。教えても上手くならなかった」
「だ、誰の話をしているんだよ…」
「…君が云った通りの人だよ」

 ラビはエバの右手に触れて、包むように手を重ねた。ラビの言葉が自分の胸を刺すようで、エバは苦しさに唇を噛んだ。愛する人に裏切られる事とはこんなにも辛いのだと、エバはその時初めて解った。…自分を愛するアランはもっと傷心したろうか。怒り、傷付き、それに疲労したんだろうか。然しエバにはそれがどれ程の苦しさだったのか、推し量る事は出来なかった。
 ラビは右手を上げ、エバの髪にそっと触れる。雨で濡れた髪は冷たく、重く、愛し合う時に触れる時とは全く違っていた。

「僕はアリスが好きだった」
「ッ…別に、それでも良…」
「…でも、君を代わりだとは思わなかった。君はアリスとは違う。だからエバ、君に云った事で嘘なんてなかったよ。君の事だって…確かに…愛した」

 エバの右手から銃が落ち、銃は音を立てて床に落ちた。ラビの言葉は愛を示したが、それが他の何でもない拒絶である事が解った。エバの双眸からは涙が零れたが、それは雨で濡れたままの顔では雨なのか涙なのか、判断がつかなかった。
 エバの泣く姿はアリスのそれと全く一緒に見えた。その事はラビの罪悪感を駆り立てた。相変わらず彼の泣く姿だけは何時迄も苦手だと、ラビは思った。その嫌いだった姿が全く変わる事がなかったのは、ラビにとって何よりも残酷な事に思えた。
 ラビはエバの目元を拭うように優しく触れて、それから云った。

「…エバは女の名前だね。不思議の国に来ても可笑しくない名前だ」
「……? 何の話を…」
「君がもし、傍若無人な女王や、継ぎ接ぎだらけの猫の事。そして白い兎に『不思議の国へようこそ』という言葉で歓迎された事を思い出したら」
「………?」
「その時は、今度こそ僕等は一緒になれるかも知れないね。…まあ、全部思い出したら、僕はまた振られるんだろうけど」

 エバはラビの言葉の意味が全く解らずに、涙で濡れた瞳を不思議そうに瞬かせる。彼の言葉の意味など何一つ解りはしなかったが、只、本当にこれで最後であり、もう二度と彼とは会えないのだろう事は解った。
 最後の言葉を、白い兎のような彼が紡ぐ。それは童話やお伽話の最後を綴るような柔らかな言葉で、哀しい筈なのに何故だか心地良く耳に残った。…一瞬何かを思い出すような気がしたがそれは直ぐに露となり、流れる涙と共に床に落ちたようだった。

「……その時までさよなら、エバ」







「………探しましたよ、エバさん」

 雨は既に上がっていた。アランは濡れたままのエバを見ると呆れたような顔をして、鞄に入れていたタオルを差し出した。
 エバはそれを受け取ると、何かを云いたそうにアランの顔を見る。然し感情は言葉になって出ない。アランはエバの言葉を待っていたが、それが何時迄も出る事がないのを悟ると、踵を返して歩き出す。エバは慌てて後を追い、

「アラン…」
「……早くシャワーを浴びないと風邪を引きますよ」
「…ッ…アラン。…その、」
「…? はい」

 アランが足を止め、エバの顔を見る。エバはアランの目が自分を真っ直ぐに見ているのが解ると視線を外し、それから首を横に振り、「何でもない」と云った。アランもそれ以上何かを云う事はなかった。
 エバの右手がアランの服の裾を掴み、2人は並んで歩き出す。

 ややしてエバが小さな声で礼を単簡な言葉にして述べたが、アランはその言葉に軽微に微笑んだだけで何も云わなかった。
 梔子の香りが一瞬だけ香ったが、直ぐにその香りはしなくなり、其処此処の玉響のように消えて行った。



END
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