自己の欲望が他者の欲望を満たす事を目的とする時、初めて人間は人間となる。その時のみ僕等は忌むべき獣から尊ぶべき人間へと化し、醜悪な本能の枷から逃れる事が出来る。その瞬間の、何と美しい事だろう。愛とは、恐らく神の創造したものの中で一番に美しいものだろう。自分を愛するように人を愛せよ。それは自分を愛する量で愛せよという事ではなく、自分を愛する種類で愛せよという事だろう。人は自分の事を何の見返りも求めずに、何よりも大事にする筈だ。そしてその無条件の奉仕が、自分ではなく、誰か1人の、他者に向かうとするのなら。その事が出来たのなら。
僕等は人として生まれた意味がある、と初めて云える事となる。







「大罪を犯したいと思った事は?」

寮のベッドは年代物だから、座ると高い厭な音がする。大体の部屋の床は、踏むとお化けが鳴いたような音がする。僕の居る部屋の床は、扉を開けて3歩歩くと、お化けが声を出すようになっている。普段は何とも思わないけれど、夜中に同室の人間が入ってくると、少しだけ驚いてしまう。決して怖いという事ではないけれど。だって僕はその声の正体を知っているのだから。
或る木曜日の夕方の事。ミサを終えて部屋に戻り、部屋を共にする者全員が黙って課題に勤しんでいたところ、先程の有り得てはならないその言葉が、沈黙を破ったのだった。その言葉を発したのは、部屋の中で1番の悪戯好きな赤毛の男。その言葉が、敬虔で信心深いと毎日のように揶揄される僕に向けられているものだという事は、確認しないでも直ぐに解るものだった。
僕は課題から目を逸らさないまま、

「…ある訳ないだろ。呆れたな、そんな神に背くような発言を」
「本当かしら。どんな優等生でも、罪を犯さないなんて出来っこないのに」
「それは君が不真面目だからだ。僕はそんな事…」
「情欲もないってのか?」

本をなぞる右手の人差し指が、何者かに抓られたかのように、小さく動揺した。情欲。何と罪深い響きか。大罪の内の1つ、最も忌むべき罪。それが故に甘く、枯れた喉を潤すような、果物の瑞々しい果汁のような、恐ろしい誘惑。毎晩のように僕の肩を叩いては、振り向くようにと囁く、そんな誘惑。
今の人差し指の動きを、見られてしまっただろうか? 僕が実は毎晩懸命に悪魔と闘っている事を、赤毛は気が付いてしまっただろうか? いいや、そんな筈はないだろう。僕は至って平静を装った。

「下らないな。そんなの、弱い心の奴が唆されるだけだ」
「そうか? そうかな。そうかもな。あの監督生だって、そうだろう」
「…監督生。監督生が、どうかしたの」
「別に、何も。さあ、それより課題だ」

厭な事を云った。僕の思考は彼の言葉の所為で、すっかり監督生と情欲、その2つが訳もなく繋がるようになった。僕よりも上の1番のクラスで、校長先生にも一目置かれているという、東洋から来た黒髪の男の子。僕と同い年の男の子。彼にも情欲なんてものがあるのかしら? そんな、まさか。彼のような人間が、そんな獣らしい欲を持ち合わせているなんて、どうにも思えない。
でも、もし、彼がそういった行為に及ぶとしたら。……首筋に汗が滲み、僕は浮かびそうになったその考えを即座に振り切った。こんな事、許される事ではない。想像すらもしてはならない。僕の為だけではない。彼の為にも。失礼な事だから。侮辱的な事だから。



朝日が眩やかに差し込む中、校舎の中庭で、司祭と監督生が仲睦まじく話している。僕はその後ろ姿を、唯1人羨みながら、口を噤んで見守っている。この学校で唯一の東洋人。東洋人というだけで、彼の風当たりが強くなる事もある。彼の優秀な成績を妬んだ生徒が、噂を囁く事もある。陰湿な話だ。窓から外を眺めている僕の後ろを複数の生徒が通り過ぎる。彼等は談笑している。そう、丁度そんな風だった。あれは一週間前の事だったろうか。
東洋人である彼が監督生になったのは可笑しい事であると、数名の生徒が囁き合っているのを聞いた。恐らく校長先生にまるで娼婦のように取り行ったのであろうと、彼等は罰を恐れずにそのような恐ろしい事を口にした。彼等の口からは次々と悍ましい単語が飛んで、僕の脳を強く刺激した。
娼婦? 彼が? あの射るような慧眼の、力強く、規範を守り、秩序立てられたあの彼が、我等を堕落させる悪臭にも酷似した花の香りを身に纏っただらしのない身体の娼婦と同じような真似を、果たしてするだろうか!
然し僕は、あの背筋の伸びた白い肌の美しい彼の制服が女子のスカートのように風に靡き、隠れた肌をそっと見せて唇を動かす様を、とうとう頭に浮かべてしまった。それからそれが僕を堕とさせる事以外の何物でもない事を思い出し、慌てて両手を合わせ、おおどうか今の頭をもたげた小さな罪を(小さな罪だと僕は思いたかった)、どうかお許し下さいと、もう二度とそのような事を考えたりはしませんと、必死に祈り、悔んでみせた。
厳格な様の彼が娼婦だなんて、全く見当違いも良いところだ。……でも、彼の耳元から仄かに香る白い梔子の花が、娼婦のようだとは思えないかしら? そんな、まさか。僕はまた彼を疑ってしまった。彼は聖人だから、あのような香りがするのだ。聖人である証拠。良い香り。甘い香り。娼婦とは違う。甘い、自然の香り。




神の愛は人の愛に酷似しているという。それは神からの愛と、神への愛、どちらにも当て嵌まるんじゃないかしらと僕は思う。前者は確固たる愛で、裏切りがなく、大きくて温かい。後者は心からの愛だ。僕等は罪を犯し、その罪を懺悔する時に、神への愛がなければならない。神を想う気持ちがなければ、罪はなくなった事にならない。それは人への愛でも同じ事が云えるんじゃないかしら。例えば姦通なんて恐ろしい事。そんな罪を犯した時、僕等はもし本当に悔いていて、どうしても許しを請いたいと思った時に、彼女への愛がなければならない。でも愛があるのに、どうして彼は姦通なんてしたのだろう、と人は云うのだろう。その通りだ。愛がなければ恐らくしない。だから罪は許されない。だってそこに愛なんてないのだから。
女性は愛される事が幸せなのだそうだ。両手一杯に溢れる、色鮮やかな花束のような幸福を貰ってこそ、彼女は心から笑顔になれる。だから僕等は女性に対して誠実でなくてはならないし、愛を沢山あげられる度量を持たなければならない。幸せにするよ、と約束したのだから。司祭になると絶対に司祭の職を抜けられない。それと同じ事。
…それでは同性は? 同性に対して、どちらが愛を多く持って、どちらが愛を多く貰うべきなのかしら。同性なんて、考える事は許されないのに。僕の頬は誰にも知られず紅潮しゆく。ううん、誰にも知られないなんて有り得ない事を、僕は知っている。僕の後ろには守護天使が居る。守護天使が僕を見ている。神様だって。僕を見ている。僕の眼の奥に、ちかちかとルビー色の業火が浮かぶ。司祭の声が、僕の脳髄を強く刺激する。



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飽きた。ちゃんとしたカトリック系の学校のお話が書きたいです
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