気が付けば俺は迷路の中に居た。どうして此処に居るのか、或はどうやって此処に来たのかは解らなかった。然しその場所が少なくとも俺に対して敵意は無く、また愉快な場所である事が解った。何故なら上からは軽快なメロディーが流れているし、迷路の中は明るく、壁や床は可愛らしい撫子色で塗りたくられている。そして俺の目の前には、黒色のスーツを着た兎頭人身の怪物が立っていた。
 その頭は被り物ではなく、本物である事が直ぐに解った。兎の鼻は軽微に動き、真っ白な髭も上下に動いたりする。頭は見るだけでも至極柔らかそうで、双眸の赤色はお姫様の首を飾る綺麗な宝石のように、光を乱反射して輝いていた。
 俺はその怪物に近付いて話しかけてみる事にした。彼に敵意が無い事は直ぐに解った。何故なら彼の左手には床や壁と同じ色の風船が持たれていたし、首からは『歓迎』と書かれたプレートがかけられていたからだ。俺が彼に近付くと、彼は嬉しそうに耳を揺らし、それから左手の風船をくれた。それが何だか嬉しかった。

「なあ、此処は何処だ?」
「………」
「…。お前の名前は?」
「………」

 彼は俺の質問に答えてくれなかった。此処の決まりで言葉を発しては駄目なのか、或は彼は人語を発せられないのか。若しくは人語を理解出来ていないのかも知れない。
 然し何故だかそれはどうでも良かった。彼の傍は不思議と落ち着いて、例え懐中時計の針が遅刻すると鳴いていたとしても、それにバターや砂糖を塗って壊してしまって、時間なんて忘れて長居してしまいたいと思える程だった。
 だから俺は彼にその心情を素直に吐露した。言葉が右に行ったり左に行ったり、或は真反対に行かずに済んだのは、全て彼の傍の居心地の良さが為すものだった。

「傍に居て良いかな」
「………」

 彼は頷いた。どうやら言葉は理解出来るらしい。それなら俺が相手に伝えたい事は全て漏れなく伝わる筈だった。表情や動きで相手に理解を促しても良かったが、矢張り意思疎通のツールとしては、一番言語が楽だった。言語では誤解のないよう数多の言葉から選択をする事で、細かな思いを伝える努力が出来る。
 彼は俺の右手を引き、迷路の奥の方へと誘った。一体何処に行くんだろうと思ったが、この可愛らしい迷路の中の事だ、きっと楽しい場所に決まっていた。そしてそれは合っていた。彼が俺を連れて行ったのは池の前のお茶会場で、長テーブルの上には様々な国のお菓子や飲み物が置かれている。貝の形を象った椅子には妖精や天使、鹿などが座っている。めかし込んでいる彼女達の睫毛は長く、リップの色は薄い綺麗な薔薇色だった。
 池の傍には眩く輝くクリスタルが何本も生えていて、生い茂った木には多種多様なお菓子が実っている。兎の彼は俺をテーブルの一番良い席に促した。

「良いのか? 座っても」

 彼は頷いた。天使達は拍手をして、妖精達は歌を歌って、鹿は笑顔を作って俺を出迎えてくれた。何だか気恥ずかしかったが、それが許されるような場所だった。



 俺が席に着いてからどれ程の時間が経過したのかは解らないが、テーブルの上のクッキーが全てなくなった時、彼は俺の肩を壊れ物に触れるように優しく叩いた。その意味が何となく解ってしまって、すっかりこの場を楽しんでいた俺は、思わず何時もなら云わないであろう言葉を口にした。

「…帰らなきゃ、駄目なのか」
「………」

 彼は頷いた。俺は帰りたくなかった。そもそも一体何処に帰ると云うんだろうか。帰る場所は何処だったか。思い出せないが、然し帰る場所は確かにあった気がする。俺はそれを感覚で覚えている。
 俺が子供のように気を塞がせていると、斜め前に座っていたカチューシャを着けた緑色の妖精が『大丈夫よ。また明日も来れるから』と云った。妖精や天使や鹿は皆人語を話せた。だから話せないのは兎頭の彼だけだったのだ。

「明日も? …本当に?」
『ええ。だって此処は貴方の世界だもの』
「俺の…」
『望むものは何でも手に入る。明日も楽しい時間が待ってるわ』
「そ、そうか。なら…」
『ええ。また明日、アリス』

 彼は俺の手を引いて、抜け穴まで誘ってくれた。抜け穴は先程までのお茶会場とは違って暗く、入るのが躊躇われたが、彼は無言で俺を促した。
 この迷路に未練がある訳ではない。妖精達も勿論素敵な存在だったが、別に二度と会えないからと云って哀しい訳ではない。俺が後ろ髪を引かれたのは、他でもない兎の彼だった。
 俺は抜け穴に入る前に、未練がましく振り向いて、

「明日も本当に、お前に会えるのか?」

 と聞いた。彼は重々しく頷き、それから左手で俺の頭を撫でた。何故だか知っているような体温と、手の大きさだった。その手を俺は知っているような気がした。然しとうに忘れた温かみである事も悟った。
 俺は抜け穴からあるべき世界へと帰った。





「お早う、アリス」

 目が覚めた時、夢の世界の出来事を酷く鮮明に覚えていた。だから今日が終わり、ベッドの中に入るのが非常に待ち遠しかった。彼や妖精を信じるのなら、俺は今日の夢でも彼の傍に居られる。時間制限こそあるが、その世界では疑いようもなく、彼は俺だけのものだった。

 今日の現実世界では朝から不機嫌だ。俺に挨拶をして来るばかりか前の席に座ってきたラビの隣には、何時ものようにグリフォンが居る。別にわざとらしくこちらに来なくても良いのに、彼の存在そのものが鬱陶しい。
 ラビはそんな俺の苛立ちに気が付いたのか、

「何だい。今日は朝から機嫌が悪いじゃないか」
「早く寝たいんだよ」
「おや。ケイティのような事を云う。珍しい、睡眠不足かい?」
「…そんなんじゃない」

 緑のリボン、大きな軍手、黒色のガスマスク。その隣には両耳のピアス、包帯、苺のケーキ。ガスマスクからは白髪が覗いている。今日の仕事は何だったか。今は何時だろう。視界がぼやけ、霧の中に居るように白くなっていく気がした。
 現実の情報はこんなにも騒がしかっただろうか。






「お前に名前を付けようと思うんだ。呼ぶ時名前が無いと不便だろ?」

 その日の夜、俺は再び女の子の玩具箱の中のような、幻想的な迷路の中に来ていた。兎の看板の文字は『大好き』に変わっていて、スーツも紺色のストライプ柄のものに変わっていた。ネクタイも水玉模様になっていて、昨日よりも多少浮かれたような彼の心情が、外観となって表れているようだった。
 その様子にこちらまで嬉しくなりながら、

「ラビ、ってどうだろう。良い名前だと思うんだ」

 彼はその名前が気に入ったようで、両耳を忙しなく動かした。耳は自分の意思で動かせるものなのか、或は犬のように無意識に尻尾を動かしてしまう感じのものなのか。どちらでも良かった。彼が喜んでいるという事実には変わりが無いからだ。

「じゃあ決まりだな。ラビ、うん、しっくり来る」
「………」
「今日は何処に行くんだ、ラビ」

 ラビは俺の手を引いて、今度はパレードに連れて行ってくれた。ピエロや踊り子が紙吹雪の中で楽しそうに踊り狂い、妖精はそれに歓喜する。俺もその華やかな光景に目を奪われて、年甲斐もなく喜んだ。
 パレードの最中、彼がその場を抜け出して森の奥に入るのを俺は見た。少し悩んだが、直ぐに後を追った。彼は森の奥で1人で屈み込み、大きな箱の中を漁っていた。

「何してるんだ」

 ラビは驚いた様子もなく、俺を手招くとその中を見せてくれた。中にはサファイアだとかルビーだとか、鮮やかな宝石が所狭しと入っていた。ラビはその内のアクアマリンを手に取って、自分の口の中に放り込んだ。固そうな音がするのかと思ったがそんな事はなく、美味しそうだ、なんて思った。
 俺は中の小さなトパーズを1つ指さして、

「俺もこれ、食べて良いかな」
「………」
「え、駄目? …ならこのオパールは?」

 ラビは全てに首を横に振る。どうやら種類の問題ではないらしい。ラビは宝石をまるで俺から守るように、音を立てて箱の蓋を閉じてしまう。
 昨日の妖精は『望む物は何でも手に入る』と云ったのに、と思う。ラビはそのような不満を見て取ったのか、代わりにズボンの中の小さな飴をくれた。苺の絵が書かれたピンク色の飴だった。可愛らしい飴も良いが、宝石を食べてみたい。そう云っても、ラビは首を横に振るだけだった。それから諭すように俺の頭を撫でる。慈しむような動きだ。俺は目を閉じて、その温度に全てを委ねる。
 この体温を、俺は矢張り知っている。





 その日から眠って夢を見る事が、何よりの楽しみとなった。現実で厭な事があっても、劣等感に苛まれても、綺麗な薔薇に嫉妬して腹の中が黒くどろどろとしたもので一杯になったとしても、夢の中では何もかもを忘れる事が出来た。早く眠りたがる俺を他の者は呆れたような、また心配がった者もあったかと思うが、それは何でも良かった。他者の目なんて今の俺には気にならなかったし、ラビが居ればそれで良かった。
 ラビは俺を色々な場所へと連れて行ってくれた。大きな劇場でのミュージカルや洒落たブティック、だだっ広いシアター、古びた図書館、一面に広がるラベンダー畑など。迷路が終わる事はなく、此処には無限の可能性があるのだという事が何日かして解った。
 或る日ラビは、俺に対して1着の服をプレゼントしてくれた。それは女物のワンピースで、ピンク色のそれには豪華なフリルと大きなリボンがついていた。何時もならこんなものは莫迦げたものとして捨ててしまうが、この世界だけでは別だった。俺はすっかり嬉しくなって、

「似合うかな」
「………」
「…俺は、紫色の薔薇とか、緑色のリボンに、嫉妬しなくても済むんだろうか」

 ラビは頷いた。それが俺を満足させた。我ながら醜く、その事実は俺を疲労させた。どうして望んだ訳でもないのに毎日厭な気分にならなければならないのか、俺には解らなかった。
 然しこの世界では、俺は疲れる事がない。何の差異にも落胆する事はなかったし、それに絶望する事はなかった。
 この世界での不満点は1つだけで、それはラビが宝石を食べさせてくれない事だった。何故俺には食べさせてくれないのだろう。それを聞いてもラビは人語を話さない。他の場面では彼の言葉なんて不要だったが、それに関してだけは彼の言葉が欲しかった。それを人は身勝手と云うのだろうか。
 妖精や栗鼠に話を聞いても、彼女達は『あの人がアリスにそれを勧めないぐらいだから、きっと酸っぱくて、美味しくないんだよ』と云った。そうかも知れない。味覚の相違が引き起こす単純な問題なのかも知れない。然しそれだけでは不満が解消されなかった。
 朝から夜になるように、徐々に黒いものが俺を蝕んでいく。どうしてこの世界ですら、そんな感情がふと過ぎってしまうのだろう。それは俺が厭な人間だからだろうか。それともラビの所為なんだろうか。相手や自分に責任をなすりつける事自体、間違っていると云うのだろうか。
 多分俺は宝石の味が知りたいのではない。ラビが俺に1つの事でも隠すという事実そのものが、堪らなく厭だった。





「…アリス! 幾ら何でも可笑しい、どうしてそんなに寝たがるんだ、」
「離せ、お前には関係ない…ッ!」
「目に隈が出来て、顔色だって悪い。そんなに寝ているならどうしてそんな顔を…!」

 左手と、黒色のタイと、それから左目。現実の情報は相変わらず煩わしかった。ラビの声がどうしようもなく鬱陶しい。この世界のラビだってあの世界のラビのように、言葉を話さなければ良いのに、なんて思うようになった。
 ラビは俺の手を離さないまま、

「医務室で診て貰おう。異常だ」
「ッ煩い、お前に異常だなんて云われたくない…!」
「アリス、こっちを見るんだ」
「見たくないっ。構うな…、」

 ラビの手に力が込められて、痛みに少し唸った。無言になったラビに恐れ、肩を若干震わしながらラビの顔を見る。
 …見上げた先で見た彼の顔は、見たくないような顔だった。彼は心の底から心配してくれているような、そんな顔で俺を見ていた。俺の口からは言葉が出なくなった。

「構うさ。…心配なんだ、」

 その言葉を聞いた時、俺が彼の言葉を聞きたくなかった理由が漸く解った。実に簡単な理由だったが、信じたくなくて俺はそれを見ないふりをした。
 だって仕方ないだろう、それが一番楽だったのだ。





 その日の夜、迷路は外観をすっかり変えていた。灯りは頼りないランタン1つしかなく、壁や床は黴臭い土で出来ていた。俺はこの迷路の正体を、何もかも知っていたような気がした。知っていて、それでも見なかった。現実と同じだった。
 ラビの姿も変貌を遂げていた。否、正しい形に戻っただけだった。頭は牛で、身体は人間の巨大な怪物だ。牛頭人身の彼は誰からも恐れられる怪物だったが、その瞳は何処か寂しそうにも見えた。
 怪物の足元には、例の宝石の姿である少年や少女の遺体や骨が、無残に散らばっていた。彼が俺に宝石を食べさせたがらなかった理由は、それが全てだった。彼の優しさに俺は不満を覚え、憤り、不信感を根付かせた。それが失礼な事だという事も解らず、愚かな話だ。

「…俺は英雄では無いんだろうな。大工の息子といったところだろうか」
「………」

 怪物は何も答えなかった。怪物の首には好意を示す看板はもう掛けられていなかったし、彼が手にしているものは風船ではなく斧だったが、それでも彼からは矢張り敵意は感じられなかった。それどころか、この最後の逢瀬を惜しんでくれているような、そんな様子が見て取れた。
 俺は怪物の前に立ち、

「俺の翼は、矜持の所為で溶けてしまって、墜落死するんだろう」
「………」
「それなら矜持を捨ててしまえば、死ななくて済むのかも知れない。…そんなの、解らないけど」

 怪物の手を握る。最早俺の知る彼の手ではなくなっていたが、今では彼の体温を、この世界ではなく本当の世界で思い出す努力をしてみようかと、そのような事を思う事が出来た。
 彼とはもう二度と会えないが、それを名残惜しいと思う事はなかった。何故なら此処は俺の居るべき場所ではないからだ。
 …例え望むものが手に入らなくても、現実と空想の差が大きくても、幾ら苦しくても、薔薇にはなれずとも。
 どうしようもなく傷付いたとしても、それも悪くないかも知れない。






 次の日俺は、朝早く目を覚ました。昨日の夢の事はあまり覚えていなかった。昨日の夢どころか、昨日寝るまでは鮮明に覚えていたその前までの夢の内容すら、記憶の奥底へと沈んでしまったようだった。それで良いのだろう。
 部屋の扉をノックする者があった。自惚れでなければ、大体誰かは予想出来た。扉を開けるとそこにはラビが居て、彼は俺の顔を見るなり少し驚いた顔をした。

「…驚いた。顔色が随分良くなってる」
「ああ、もう大丈夫だ。…治ったから」
「そうかい。なら良いんだが…、」
「そうだ。…ラビ」

 ラビが不思議そうな顔をする。俺は少しだけ頑張って、その言葉を口にした。長く発せなかったその言葉は、口にしてしまえば簡単な事だった。

「良ければ、今度の土曜日、何処か行かないか。…2人で」

 ラビは目を瞬かせて、それから少しだけ意地の悪そうに「おやおや」だなんて云う。彼は余計な事を云うし、このように性格の悪いところもあるが、それでもそれを包めて、俺は確かに彼が好きだった。

「随分と嬉しいデートのお誘いだ。…本気にしても構わないんだろうか?」

 此処は夢の世界ではないし神話の世界でもないから、俺は蝋の翼を溶かしたりはしない。
 俺はラビの肩を叩き、「好きにしろよ」と云った。
 


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