幼い娘のクリスマスプレゼントにしたらきっと喜ぶだろう人形のような姿形をした少年が、産卵しに砂浜に来ていた或る海の生物のつがいを見て「これはなあに」と珍しそうに聞いた。その生物を見た黒髪の青年はつがいだと解ると、まるで親のように「そんなものに関心を示すなよ」と云って少年の手を引いた。
 少年は青年に手を引かれながら、名残惜しそうに後ろを振り向いて、小さなつがいをもう一度見た。つがいは砂浜に穴を掘っているところで、直ぐに姿を消して見えなくなった。何の生物だったのかしらと思って青年に今一度聞くと、青年は大した興味もなさそうに「兜蟹と云うんだ。知らないのか?」と答えた。蟹、という言葉が引っかかって、「蟹の仲間なの」と聞くと、違うと答えた。それから青年は少年の更なる質問を回避する為に、若干困ったように、「俺には人並みの知識しかないから、詳しい事が知りたいなら帽子屋にでも聞くと良い。辞書よりも役に立つから」と云った。
 兜蟹は或る程度地中に潜るとそこで動きを止めて、産卵を開始する。生物が皆そうするように、身体を密着させ、接合し、丸くて白い夥しい数の卵を産卵する。

 兜蟹の一方はその行動に勤しみながら、美しい緑色のエメラルドに想いを馳せた。






「…ちょっと。何これ」

 或る日の昼の事だ。クイーンは白兎の玄関で目を閉じて横たわっているアリスの身体を見てそう云うと、アリスの元に駆け寄った。どうせ疲労のあまり倒れたのだろうと思ったが、屈んで彼の身体に触れたところで、そのあまりの冷たさに驚いた。まるでさきまで海の奥深くで生活していたようなそんな冷たさは、明らかに生命の温度を保ってはいなかった。
 首に手を当ててみるが、矢張り一切の動きが無い。無論呼吸をしている様子も無い。クイーンの顔色が、傍から見ても蒼白なものへと変わっていく。クイーンはアリスの頭部や胸元を確認したが、外傷らしい外傷は一切確認出来なかった。
 故に益々理由は解らなかったが、紺色のズボンのポケットから兎の形をした小さな機械を取り出して、医務室に連絡を取ろうとした時だ。聞き馴染みのある声が、クイーンの頭上から星のように降って来た。

「何だこれ、何で俺の死体が?」

 クイーンは耳を疑った。次いで目を疑った。然し幾ら疑おうと、そこには間違いようもなく確かに何時もと変わらぬアリスの姿があった。クイーンは死体と呼ばれたものとアリスの姿を何度か見比べたが、猫のように吊り上がった目もよく通った鼻の形も、少し骨ばった身体付きも何ら違うところがない。
 クイーンは暫しの混乱のあまり、どう説明して良いのか解らなかったが、一先ず本物のアリスは眼前に居る彼に違いはなく(何故ならクイーンはよりによって彼が死んでいるなんて思いたくなかったからだ)、よってこの死体というのは誰かの悪戯だろうと思った。
 ならば動揺する事もない、クイーンは先程まで焦燥のあまり手が汗ばんでいた事なんて悟らせようともせず、威厳をもってその場に堂々と立ち上がった。そうして眉を必要以上に吊り上げて、全く莫迦らしい子供の悪戯を窘める教師のように、

「さあ、僕も知らないよ。どうせ暇をしたジャバウォックの悪戯か何かでしょう?」
「あ、アイツ…。流石に悪趣味過ぎるぞ、妙に凄くリアルだし…」
「ねえ。余程暇なんだろうけど…。…兎に角、あんまり本物のようだし、このまま此処に置いたら騒ぐ子も居るだろうね。罰としてジャバウォックに片付けさせよう」

 クイーンはそう云うと玄関先の電話に歩み寄り、放送室の電話へと繋げてジャバウォックと話をする。アリスはその間、自分の遺体という事で関心を唆られるものがあるのか、最初は上から見下ろすだけに留まっていたものを、徐々に腕、上半身、顔、と一つ一つを確かめるように触れていく。
 電話を終えたらしいクイーンは受話器を直し、それからアリスと一緒にその場に屈み込む。クイーンも先程はよくよく見られなかったアリスの遺体に少しずつ関心を抱いたようで、新作のゲームを手にした子供のようにその指に触れた。

「ジャバウォック、惚けてるよ。そんなの知らないって。怒られるの厭なんだろうね」
「益々怒るのにな…。それにしてもアイツ、本当に此処まで本物みたいな死体を作れるのか? 細部まで完璧だぞ」
「映画の特殊メイクを手がけている友人が居るって云っていたから、頼んだのかも」
「…何だい、その随分と悪趣味な物は」

 電話で呼び出したジャバウォックが来るよりも先に、仕事で外に出ていたラビがその場に来る事になった。クイーンは余程死体が気に入ったらしい、ラビの方に視線を遣る事もなく、遺体の手首や肩を不躾に触りながら、

「ジャバウォックがアリスへの日頃の恨みを具現化したもの」
「お、俺はそんなに恨まれてない…!」
「ああ…凄く納得する。へえ、よく出来てる。然し本当悪趣味な…」

 ラビもまた遺体に関心を持ったらしく、興味深そうに左目を動かして感心した声を出す。アリスはそれを咎めようと思ったが、それよりも先程から気になっていた事をしなければならない気になって、とうとうそれを実行する。
 自分の遺体の首に右手をやって、それから親指の爪を思い切り食い込ませる。クイーンはそれを見るなり驚いたように、

「な、何やってんの、君」
「いや、身体の中が気になって。何もないんだろうけど、案外此処までリアルだと血とか臓腑とかあるかも、と」
「…アリスも悪趣味だな…。よく自分を傷付ける気になれると云うか、本官には無理だ」
「寧ろ自分だから傷付けたいと云うか…」
「とんだマゾだね、君」

 アリスがそれに異論を唱える前に、アリスの爪が遺体の皮膚をぶつりと切った。途端に爪に生々しい感触が這い、アリスはそれに驚いた。それを見たクイーンもラビも同様に、一瞬言葉を失った。
 …アリスの遺体からは青色の液体が、まるで本物の血のように薄く流れ、アリスの爪を青く染め上げる。まさか中に「何かが入っている」なんて思わなかったクイーンは、直前まで弄っていた死体から気味が悪そうに手を離し、

「…青い血なんて、幾ら何でも気持ち悪いよ。此処まで作り込む必要性があったのかな」
「さ、さあ…。…この分なら、心臓もありそうだな。切り裂くか」
「莫迦じゃないの?! 幾ら作り物でも、自分の身体を裂くなんてどうかしているよ!」
「そ、そうか? でも…」
「本官も同意見だな。やめた方が良い。それとも自分を殺したい願望でも?」
「そんな訳じゃ、ないけど…」

 アリスは少し忸怩たる思いをしたように、黙って俯いた。その時漸くジャバウォックがお出まししたが、死体を見るなり実に厭そうな顔をした。それは本当に彼がこの悪戯の首謀者だと云うのなら、恐らくしないであろう反応でもあった。
 ジャバウォックは舐めていたグレープフルーツ味の棒付き飴を口から取り出して、生物室の人体模型を初めて見た時の小学生のような、そんな気味の悪いものを見るような目で死体を見つめたまま、

「…これ作ったのお兄たんじゃないってー」
「本当に? でも君以外こんなの…」
「お兄たんは血とか死体とか、無理なの。フェイクでも嫌いなんだから、わざわざ作ろうなんて思わないよ」

 その事実は確かに白兎の誰もが認める事実であった。となると誰がこの死体を作ったのか? その意図すらカーテンを閉めるように、或は魔法にかけられたように、一気に姿を晦ました。
 然しクイーンはその犯人探しや真相を探求するよりも、この死体をいち早くどうにかしたいという願望があった。此処まで細部まで丁寧に作り込む事もだが、血のような液体を詰めたり、しかもその色が青色だったりとするなんて、アリスに対する憎悪だか何だかは知らないが、少なくとも強い負の感情を抱いている事は確かに感じられたからだ。
 その考えはラビも同じだったらしい。クイーンがラビの顔を見ると、ラビは直ぐに頷いてみせた。クイーンはそれを確認するやいなや立ち上がって、

「…先ず、この遺体を何とかしよう。焼却炉で焼くのが良いと思う」
「や、焼くって。お前も随分だな…」
「じゃあ何、棺桶に入れて埋める? それも厭でしょう。跡形もなく消してしまうのが良いんだよ」
「まあ、確かに…」
「ラビ、始末をお願い」

 クイーンはそう云うともうアリスの死体なんて見たくなくなったのか、ジャバウォックの肩を叩いて「悪かったよ。戻って良いよ」と云うとその場から去ってしまう。ジャバウォックはラビとアリスの顔を見ると、余程死体の類が苦手なのか、「悪いけど、後は任せるよ」と云うと、彼もまた踵を巡らせて放送室へと戻って行った。
 後にはラビとアリスだけが残されて、アリスは困ったようラビの顔を見る。然しラビは当惑する事もなく、直ぐに「戻って良い。本官が後はやるから」と云って、死体をその腕に抱えた。アリスは焦ったように、

「や、悪いし、俺がやる」
「………。却下」
「な。何でだよ」
「…アリス」

 ラビはアリスの黒色の双眸を、疑わしい眼(まなこ)で見た。アリスはそれに思わずたじろいで、何か疚しいものを見られた時のような、萎縮した態度を見せる。
 ラビからしたらその反応で証拠としては充分で、呆れたような顔を少しすると、死体を抱えたまま焼却炉に向かう。アリスはそれを慌てて追って、

「そんなに自分の死体を傷付けたいのかい、悪いが変わってる」
「そんなんじゃ…」
「じゃあ何だ」
「だ、誰かに自分の遺体を破棄させるなんて、気分が悪い。それだけだ」

 ラビはアリスの言葉なんて聞いていないように、焼却炉に行く足を止める事がない。アリスはラビの服を掴み、「なあ」と云う。ラビは止まりはしなかったが、アリスの顔を冷たく一瞥した。アリスは自分の心臓を、冷たい手で鷲掴みにされたような心持ちがした。ラビにそのような目を向けられる事など、恐らく初めての事だった。

「…本官は、今のアリスを信用出来ないな」
「じゃ、じゃあ、焼却炉の部屋の扉の外で待っててくれ。自分が放るから」
「見ないと信じない」
「俺からしたらお前が変だ。そんなに俺の死体を処理したいのか」

 ラビの足が初めて止まる。それからアリスの死体に視線を落とし、自分の服を掴んだままのアリスへと視線を移した。
 その言葉を吐かれるまで全く意識していなかったが、途端にその「アリスの死体を放る」という現実味が、火が燃え移る時のように、ラビの手足を蝕むようだった。
 アリスはラビの目から目を逸らさないまま、その答えを一種不安そうに待っている。ラビは目の前のアリスを信じて良いものか、そしてその決断が自分を後に苦しめないかという事で悩んだ。そもそもアリスが仮にアリスの死体を切ろうが食らおうが、恐らくそれは誰に迷惑をかけるようなものでもなかったのであるが、然しラビからしたらどうしようもなくそれは「異常な」行為だった。だからラビはそのような事をさせたくなかったし、可笑しいという事実を、どうしても解って欲しかった。
 それは例えるなら赤ん坊が自分の顔を手で引っ掻くような無意識の自傷の行為を、「そんな風に掻くものではない」と窘めるような、そんな親の気持ちだろうか。
 ラビはアリスから視線を逸らし、

「…解った。扉の外で待っている。直ぐに出て来てくれ」
「あ、ああ。…悪い」
「いや、ただ、約束してくれ。本当に何もしないと」
「ああ、約束する」
「頼む。…本官は、」

 アリスは安堵して顔を綻ばせたが、ラビの次の言葉を聞いて直ぐにその表情が固まった。視線を外し、再び焼却炉に向かって歩き始めたラビの後ろ姿からは、ラビがどのような表情をしてその言葉を発したのか、忖度する事が出来なかった。
 ただアリスの身体は一気に冷却するようで、小さな罪の意識と罰の恐怖はこんなにも人を脅かしただろうか、だなんて思った。

「あまりアリスにがっかりしたり、厭になったりしたくないんだ」






 焼却炉の扉を隔ててラビが待つ中で、アリスは自分の懐に何時も忍ばせている懐刀を素早く抜いた。ラビの言葉がアリスを咎めない訳ではなかった。然しその罪の深さよりも何よりも、「自分の遺体を切り裂いて、臓腑を見てみたい」という好奇心が勝った。それが何故なのかはアリスにも解らなかった。
 解らないと云うのなら、ラビやクイーンが「自傷行為に酷似しているそのような行為は異常だ」と云う理由だって、アリスには解らなかった。別に自分を傷付ける訳ではないのだから、誰が構う事もないだろうと思った。否、もっと踏み込んで云うのなら、自傷行為が咎められる理由すらもアリスにはよく解らなかった。それは彼が左手をかつて自分でいとも簡単に切った事からも、窺える事実だった。
 無論アリスには、他の誰かが自傷行為をしているのを見たのならそれを止める自信があったし、それを異常だと思える自信もあった。然し自分の事となると話は別だった。まるで自分はその人間一般には当てはまらないような、棚に上げるどころかそもそも棚に上げるものが存在していないような、そんな感覚を持っていた。
 懐刀を深く遺体に食い込ませるその手前で、クイーンとラビの責めるような声が耳の奥で聞こえるようだった。然しアリスは「誰も気付かない」という事を確信していたし、それが彼に安堵感を齎した。どうせこの死体はこれから焼かれ、塵となるのだから、腹がかっ裂かれてようが内蔵が出ていようが、それは何の意味も為さない筈だった。誰も見ていないのだから、という感情が、アリスの罪の意識を軽減させるようだった。
 アリスは意を決し、懐刀を持つ手に力を込める。抉る、と決めたその瞬間、然し予想外の出来事が生じた。

 …アリスの死体が突如目を開き、懐刀を掴むアリスの手を思い切り掴んだ。アリスは怯みながらも相手の次の動きに応じようとしたが、それよりも速く、向こうがアリスの首を掴み、後ろの焼却炉に容赦なく打ち付けた。
 懐刀がアリスの右手から離れ、床に音を立てて落ちる。アリスの頭は焼却炉の扉の上の部分に思い切り打ち付けられ、ぐらり、と大きく脳が揺れた。

 開いた焼却炉の扉から火の粉が飛び、アリスの背中に業火の熱の温度がじりじりと伝わっていく。そのあまりの熱さにアリスは思い切り蒸せながら、この場を切り抜けようと相手の腕を両手で目一杯掴んだが、相手の力は緩まない。大きな火の粉が己の背中に飛んだ時、アリスの目からは思わず涙が出た。
 そのようなアリスの姿を見て、首を絞める側の『アリス』は嘲るように笑んで、

「…知っているか? 『俺達』は生きた生物を食べるんだ」
「ぐ…、は、離ッ…」
「お前が環形動物なら食べてやったけど、…生憎、哺乳類は食べないんだ。残念だな」

 首を掴む力に一層力が込められて、アリスの身体が徐々に焼却炉の中へとねじ込まれていく。火が身体に点いた途端アリスは悲痛に叫んだが、その声は直ぐに身体そのものと共に焼却炉の奥へと消えた。
 残された方の『アリス』は焼却炉の扉を閉めて、奥から微かに聞こえる声や音を満足そうに確認すると、床に跪いて手を這わせ、懐刀を探す。見付けると拾って自分の懐へと入れて、それから髪や身なりを素早く整えて、壁に触れながら手探りで見付けた部屋の扉を開けた。部屋の壁には、腕を組んだラビが寄りかかっていた。
 ラビはアリスの姿を見ると、

「…終わったかい」
「ああ、悪かったな。付き合わせて」
「アリス、懐に入れてるものを見せてくれ」

 アリスはその言葉に動じずに、先程入れた懐刀をラビに渡す。ラビはその刀を抜き、刀身に何も付着していない事を確認すると、「疑ってすまない」とアリスに返そうとする。
 その時アリスの首に小さく傷が付いている事に気が付いて、怪訝な顔を示す。然しアリスはその視線に気が付く事もなく、出された懐刀を目を細めながら受け取った。
 ラビは口を開き、

「アリス。その首の傷は? さっきまで無かった筈だが」
「え? …ああ、さっき焼却炉の上の方で引っ掛けたんだ。…自分の死体を傷付けた、罰が当たったな。よりによって同じところを怪我するなんて」
「…確かに。変な事を思った罰だ」

 アリスは小さく笑うと、若干不都合そうに目を細めたまま周囲を見渡した。
 それからラビの腕を掴み、「なあ」と云うと、

「火を見て目が眩んだみたいなんだ。…悪いけど、クイーンの部屋まで手を引いてくれるか」
「クイーンの? 構わないが、どうしたんだ」
「ちょっとさんら…、…アイツが知りたがってた事があったから、教えようと思って」
「ふうん?」

 ラビはそれ以上何も聞かず、頼まれた通りにクイーンの部屋に向けて足を運んで行く。只、今のアリスが確かにアリスなのに、何か厭な感じがするのはどうしてだろう、と思った。
 それは死体の所為か、或はアリスが死体に対して傷を付けようとした所為か、或はその行為を自分が咎めた所為だろうか。クイーンの部屋の前に着いた時、ラビは少なくともこのままでは申し訳が立たないと思い、アリスに「さっきはすまない」と云った。するとアリスは少しだけ嬉しそうに笑い、「俺も悪かった」と云うと、手探りでクイーンの部屋の扉のドアノブを掴み、クイーンの部屋に入って行った。

 その行為に矢張り何処か違和感を感じたが、ラビはあまり2人の邪魔をしても悪いだろうと思い、クイーンの部屋の前から立ち去った。


 後日白兎の近くの砂浜の奥深くで、クイーンの死体と1匹の兜蟹の死体が発見されたが、姿を晦ましたアリスの死体が発見される事は無かった。



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兜蟹…青い血をしており、視力があまり良くない。つがいで砂浜に穴を掘り、1箇所に500〜600個の卵を産む。
正直ごめんなさい
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