※ジャックとアリスが絡んでいるので注意 此処はあまりにも眩しくて下品なところだ、とジャックは思った。 人が生きる為に必要とする以上の光がそこにはあった。その光は傲慢にも思えたし、権利の象徴みたいで不快になった。 天井の上から垂れ下がるシャンデリアは蝶と云うよりは蛾のようだった。鱗粉のような毒々しいこの光の下で生活するのなら、未だカジノのミラーボールの方が些かマシだとすら思った。そもそもジャックは光があまり好きではなく、どちらかと云うと薄暗い売春宿や教会の方が好きで、薄暗い中に居る方が生きている心地がした。 その日は珍しくジャバウォックが深い眠りに就いていた。昼間だと云うのに放送室の電気を消し、毛布を頭から被り、背骨を折っててしまいそうな程に大きく丸まって目を閉じた。それが何時迄も起きる気配が無かったから、たまには起きても良いだろう、とジャックが目を覚ました。 ジャバウォックにはこのような時があるのを、ジャックだけがよく知っていた。何時も健康的で誰からも向日葵のようだと思われるような、太陽を背負った男が、ふと部屋の電気を消すかのように太陽を失くしてしまうのだ。そうして世界から逃げるように、或はそのまま目を覚ましたくないとでも云うように、殻に閉じ込もってしまう。 頻度は昔に比べると格段に減りはしたが、それでも未だ存在はした。だから自分とジャバウォックとの付き合いがまだまだ長くあるであろう事を、ジャックは理解していた。 そして放送室を出ると同時、絢爛豪華なシャンデリアがジャックの薄い水色の目を容赦なく刺した。ジャックは過多を嫌悪したからこのような屋敷が反吐が出るほど嫌いだったし、これなら未だ路地裏でホームレスと寝る方を選ぶだろうと思った。 別に何かを起こす積もりは無かったが、かと云って何もしないで居るのも面白くないと思ったジャックは、その場で辺りを見回した。通路には見知らぬ人間が何人か歩いている。ショーウインドーの商品を品定めするように、一人一人に漁るような目を向ける。 隣を横切る花を両手に抱えた少年は好みじゃなかった。別に綺麗な顔をしていないし、目だって宝石のように輝いていない。それに肌が荒れている。何よりも身体が薄い。 その後ろを歩くメイドは然しジャックの好みだった。豊満な胸に女性らしい体躯。輝く眼光だって少年と比べたら雲泥の差だったし、肌も薄い真珠貝のようだった。 ジャックが彼女に手を伸ばしかけた時、然し彼の手を掴む者があった。ジャックが後ろを振り向くと、そこには黒髪の東洋人の青年が1人立っていた。 「ジャバウォック。丁度良かった、捜してたんだ」 「……やあ、アリス。どうしたの? お兄たんに用があった訳?」 「ああ、渡す物が…。ちょっと待って…、…あれ?」 「お兄たん」なんて以前より莫迦みたいな一人称だと思っていたが、ジャックはそれを使うのに然程抵抗を感じなかった。彼は愛想良く振る舞う事が野菜を切るよりも楽な事に感じていたし、虚言も考えるより先に口から出る人間だった。 アリスが『ジャック』に気が付いた様子はなく、渡す物を探すように手に抱えた書類を何枚か捲っている。然し何度確認しても無いようで、アリスは申し訳なさそうに顔を上げ、 「…渡す物があったんだけど。悪い、今持ってなかったみたいだ。…取って来るからちょっと待って…」 「それならお兄たんも着いてくよ」 「そうか? 悪いな」 アリスは申し訳なさ気に優しく笑む。踵を返して歩き出したアリスの身体をジャックは暫く眺めていたが、直ぐにその後に着いた。アリスの身体はジャックからしたら枝のようで格段興味は持てなかったし、顔だって別に好みかと聞かれればそうではなかった。ジャックはどちらかと云うとパグのような顔付きが好きであり、ああいった顔が切られる瞬間に残す苦痛の表情が、脳裏に劇的に焼き付いて真っ赤な花を散らすのだった。 だからアリスには興味が抱けなかったけど、然しアリスの国籍には若干の興味があった。東洋人など欧羅巴では極めて珍しいし、その中でも大日本帝国の出身なんて一生目にかからない者の方が多いだろう。 魚を生で喰らう東洋人の血は何色なんだろうか、とジャックは思わずには居られなかった。赤色ではないだろう。それでは青色だろうか、それとも黄色だろうか? 肉の色だって違うかも知れない。真っ白な魚のような肉かも知れないし、腐った植物のように黒黒しいかも知れない。そう思うとジャックの目にはアリスが美しい白い花のように映った。 アリスは宝石の埋め込まれた鍵を取り出して、自分の部屋の扉を慣れた手付きで開ける。それからジャックを手招きし、チェストに書類を置いた。 棚を漁っているアリスをその場で見つめながら、ジャックは気付かれないように後手に部屋の鍵を施錠する。それから左手に着けているカレッジリングのストーンをゆっくりと押し、小さな機械音と共に針のような銀色の鋭い突起をそこから出した。 見付けた書類をアリスはジャックに差し出して、 「ほら、これ」 「ありがとう。アリス」 「ッ…痛…?!」 アリスの右手がジャックに書類を受け渡した瞬間、鋭い痛みがアリスの指に走った。アリスが手を引っ込めて見てみると、自分の人差し指には何か鋭利なもので刺されたような痕がついており、指からは赤色の血が流れていた。 「な、何、何処で切れて…」 「大丈夫、アリス?!」 「ああ、…え?」 ジャックは書類を床に置き、アリスの手首に両手を添えて心配するように覗き込んだ。アリスは彼らしからぬその行動に動揺し、何かを云おうと口を開く。然しその後のジャックの行動に、アリスの口は意図していた言葉を紡ぐ事はなく、その口を開けたまま何も出ないでいた。 …熱い舌がアリスの指を這い、流れ出る血を舐めている。アリスはその光景に目を開いたまま、指を少しでも動かす事が出来なかった。ジャックは血を舐め取るとそれだけでは飽き足らないように、傷口から更に血を吸うように深くアリスの指を咥え、執拗に舌を這わせた。口からは興奮したような吐息が漏れ、唾液が指をそっと伝う。 そこでアリスは漸く気が付いたように、焦燥して声を出す。 「お、おいっ…お前、何やって…ッ」 アリスは手を引っ込めようとするが、その指から流れる赤がまるで甘美な蜜だとでも云うように、ジャックの左手に力が加わって中々離そうとしない。 アリスの身体に厭な汗が滲む。少ししてジャックは愛おしそうにゆっくりと舌を指から離したが、アリスの手は依然として掴んだままだった。 「…甘いね、アリス」 「…何、云ってるんだよ…」 「普段何食べてるの? 凄いや。猫よりも子供よりも甘い。コンフィズリーみたい」 「おい、ジャバウォック…」 恍惚とした表情だった。ジャックは血の付着した口元を歪め、アリスの背を壁に押し付けると、包帯の巻かれたアリスの左手首をじっと見た。 アリスは思わず確認した部屋の鍵に気を取られ、ジャックの目が何処に向いているのか気が付くのが遅れてしまった。部屋の鍵がジャックによって一度締められている事に顔を若干青ざめさせた刹那、アリスの左手首に思わぬ激痛が走った。その痛みに気を取られ、包帯の落ちた感覚を感じる事はなかった。 「痛ッ…?! な、何…?!」 「この傷、未だ癒えてないね」 「待て、お前、目が可笑しい…ッ」 「…鮫になった気分だ」 「何して、やめ…ッ?!」 ぎち、とアリスの傷口に深くジャックの爪が立った。傷口を大きく広げるような動きにアリスは思わず悲鳴に似た声をあげ、一瞬眼の奥に熱い光が照った。 ジャックは宝石を採掘する奴隷のようにその傷口を深く掻き毟り、血が流れる度にダイヤモンドを手にした時のように嬉しそうにする。 我慢出来なくなったのか直ぐに傷口に顔を寄せ、舌で愛撫するようにそこを舐め回す。渇いた獣が漸く水を飲んだ時のように、ジャックは床に落ちる一滴すら惜しいようにアリスの血を卑しく愛しんだ。 「やめろって、おい…! ひ、痛…ッぁ!」 唾液や舌の先が開いた傷を的確に痛め付け、アリスの顔が苦痛に歪む。その内血だけでは飽き足らなくなったのか、犬歯が肉を噛み始める。己の皮膚を喰われた感覚にアリスの身体が恐怖で跳ねた。 「ッ! …こ、の…っ!」 そこでとうとうアリスは自分の右足に力を込め、ジャックの脇腹を思い切り蹴る。ジャックの身体がアリスから離れ、数歩よろめいた。 ジャックが顔を上げた瞬間目にしたのはアリスの顔ではなく、鈍く光る日本刀の切っ先だった。 「…お前、…本当にジャバウォックか…?」 「…。他の誰に見えるって云うの?」 「…ジャバウォックは血が苦手なんだ」 アリスの向けた日本刀が揺らぐ事はない。ジャックは然し一切の動揺を見せず、目を細めたかと思うと、口元に付いた血を犬のように舌で舐めた。 「こんな風に興奮するから、普段は見ないようにしてるんだ。驚くでしょ」 「…。お前、さっき書類を受け取る時『左手』を差し出したな。右利きのお前が、何で咄嗟に左手を出したんだ?」 「……」 目の前の餌にあまりにも必死になっていた事に、ジャックは少し後悔した。アリスの問いに対して元々両利きで矯正したのだ…と云っても良かったが、アリスの目はジャックを不審者として捕えて離さなかった。此処で恐らく何を云っても信じては貰えないだろう。彼の疑問は最早単なる疑問を超えていた。 然しそのような事はどうでも良かった。元よりこうして血を舐める事自体、只の味見で終わるとは思っていなかった。ジャックは日本刀を手でそっと退かし、アリスに一歩近付く。アリスは動揺しながらもジャックの首元に日本刀を素早く密着させ、 「待て、近付くなっ…」 「…アリスって、白兎で結構なウェイトを占めてるよね」 「近付くなって…!」 「居なくなったら皆大騒ぎするんだろうか、…何処に行ったと云うんだろうか」 ジャックの首筋に薄い線が引かれ、赤黒い血が垂れてシャツを汚した。然しジャックが止まる事はなく、またアリスの右手が彼の首を跳ねるべく動く事もない。 ジャックはアリスの右手を強く掴み、アリスの目を覗き込むよう顔を近付けた。東洋人の瞳は何を考えているか解らない色をしていると思っていたが、今アリスが抱いている感情だけは、気持ちが良いほど解るようだった。 「…刃物は人を傷付けるものだ。それを何も出来ない子供が持ってちゃいけない」 「ッ…それくらい、解ってる…!」 「いいや、何も解っちゃいない。坊主には斬る勇気が無いんだ。知らない奴は斬れるかも知れない。でも殺す事は? 知人に至ってはその刃物は棒じゃないか。幾ら可笑しいと異変を感じても、外観が同じで確信が持てない限り何も出来やしない」 アリスの顔が恥で赤くなる。咄嗟に否定の声が出た。 「違う…っ」 「違わないさ。それじゃあ刃物が可哀相だ。肉の味を知らない、用途通りに使って貰えない。まるで指の無いピアニストだ」 「何が云いたい…!」 「何時か坊主はその弱さに死ぬだろう。それが2年後か、明日か、今か? …皮肉だな。この世は何時だって優しい奴が早死にするし、狡猾な奴が生き永らえるんだ」 アリスの瞳が動揺で揺れる。 ――その時、扉をノックする音がした。 ジャックはアリスから目を離し、黙って扉を見つめていた。アリスも何も云わず日本刀をそっと下ろし、鞘に音もなく収めると、 「…アリス。居るかい? クイーンが一緒に来いと」 「…解った。ちょっと待ってろ」 アリスはジャックを一瞥だけすると、床に落ちた包帯を拾って乱暴に左手首に回す。血が滲んで酷く不格好だったが構う事なく、赤い包帯を誰からも見られないようにスーツの袖の下に隠した。 チェストの上の本を掴み、床に滴り落ちた血の上に無造作に置いて蓋をする。それから扉を開けると「ラビ」と扉の前で待っていた者の名前を呼んだ。 ラビは部屋の中に居たジャックに直ぐに気付き、 「…2人で居たのか」 「ああ、渡す物があった。…ジャバウォック、開けたままで良いから後で出といてくれ」 「…オッケー、アリス」 アリスの身体が部屋から出て行って、ラビもその後ろに着いて行った。ジャックは扉の前まで行き、居なくなる2人の後ろ姿を見送った。アリスが振り向く事は一度も無かったが、ラビだけ一度振り向いた。その赤色の目が自分を思いの外鋭い目で見ているのが解ったが、ジャックは何時もジャバウォックがするよう、困ったように肩を竦めてみせた。 部屋の中に戻って鏡を見てみると、思ったよりシャツの襟に付いた血が目立っていた事を知った。自分を射るようなあの赤色の眼光の意味をこの時理解したが、特に何を思う事もなかった。 シャツから自分の目に視線を映し、薄色の双眸を見つめながら、ふと同じ色の目をした人間を思い出す。…死神のような黒い青年の血は存外甘かった。それならば毎日甘いパンやケーキを食べていた蜂蜜色の髪をした青年の肉はシフォンケーキのように柔らかく、血は苺ジャムのような香りがするのだろうか? ジャックは血の味が残る唾を飲み、来るであろう未来に思いを馳せる。 それは柄ではなかったが、例えば此処に雪が降っていて、ガラスが曇っていたのなら、ハートのマークを描いても良いと思った。 --- ジャックは切るのも好きだけど食べたり飲んだりするのも好きそうだと思って。それでいてジャバウォックとのあれがあるからステイしているグリムの肉には他よりも思い入れがあると良いとも思って。 |