※不快表現




 或る一人の少年が、教会の中で泣いていた。外は既に暗く、皆も今晩は雪が雨のように降るという報道を聞いていたから、教会には少年以外に誰も居なかった(尤も、懺悔室の中には少々怠慢な神父が一人居たのだけれども)。だから少年の泣き声以外に近くで聞こえる音といえば猫の鳴き声くらいのものだったし、猫だって寒い中裸で路地裏を歩きたくなかったから、その内温かい方へと向かったようで、直ぐに鳴き声も聞こえなくなった。
 赤毛の少年はダッフルコートを着ていたが、そのコートはあまり防寒性に優れたものでもないようで、肩は寒さで震えていた。手袋なんかは嵌めていなかったから、指先は真っ赤になっていて、少年の哀れさを更に助長させていた。
 マリア像が少年を静かに見下ろしている中、教会の扉が開いた。床を歩く音が、教会の中に大きく反響する。少年は然し後ろを振り向く事もなく、ただ一心に、泣かなければ死ぬとでも云うように、声を張り上げて泣いていた。生まれたての赤子だって、もう少し遠慮して泣くだろう。
 反響していた足音が鳴り止んだ。足音の主は暫く少年の後ろに立っていたが、少年が泣き止む気配が無いのを見て、呆れたように溜め息を吐くと少年の隣の席に腰掛けた。
 少年はそこで漸く、涙で溢れた両目で隣に座った男を見た。男は真っ黒なロングコートを羽織っていて、手には革の手袋を嵌めていた。足には焦げ茶色の革靴が嵌められていた(それが上等なものかどうかは、少年には解らなかった)。
 金色の髪と、薄い水色の瞳を持った男だった。少年は男を見て恐怖も何も感じなかったがただ、今までの大人とは違う何かを感じた。非現実的とでも云うのだろうか。彼からは少し異世界の匂いがするようだった。もしも彼がキリストと同じ服装をしていたなら、その者だと信じたかも知れない。男は真っ直ぐに少年を見ていた。

「…坊主。教会で何泣いてやがる? 此処は祈りをするところだ。罪の深さに耐え切られなくなったのなら、そこの懺悔室に行けば良い」
「ち、違うんだ。…哀しくて、泣いてるんだ」
「ほう?」
「…母さんが、子供を産めなくなったって、云って。生まれる筈だった僕の弟妹が…神様の元に行っちゃったから」

 少年の右目からまた涙が溢れ出た。少年は翡翠色の両目を乱暴に擦り、しゃくれた声で「だから泣いてるんだ」と云った。男は少し考えるようにして、少年から目を逸らし、マリア像を見つめた。
 少年も男の方を向かぬまま、天を仰ぎながら、

「…母さんがそう云ったんだ。子供は神様に愛されたからその御元に行ったんだって…。…でも僕、それなら、神様は意地悪だって思うよ」
「何故だ?」
「だって、母さん楽しみにしていたもん。僕も…。…それがきっかけで、父さんはよくお酒を飲むようになっちゃった。神様がそんな我が儘を云うからだ…」

 暗がりの中で、ステンドガラスが鈍く光を発していた。マリア像は2人の子らを何も云わず見下ろしたままだった。
 男は黙ったままだったが、少しして「それは違うな」と云った。少年は驚いて男の方を見た。少年はてっきり同調して貰えると思っていたので、驚きで涙が一瞬止まってしまったほどだ。

「神は我が儘でも意地悪でもない。それが全ての者にとって正しい行いだったんだ」
「…お兄さんは、神様が好きなの」
「俺か? …そうだな。おこがましいだろうが、確かに愛している」
「僕には解らないよ…」
「解る解らないという話じゃない。神は真実なんだ。この世の全てのものに神が表れている」

 少年は男の云っている意味が解らなかった。それを何時か解る事が出来るかしらと思ったが、そもそも理解したくて此処に来た訳ではなかった。それでは何故教会に来たのだろうか。丁度泣く場所に良かったからだろうか。それとも神の近くに居たく感じたのだろうか。
 それが信仰という事なのかしら。少年は考えたが、彼の小さな頭で解る事は本当に知れていた。何故なら少年には、隣に座った男の名前を聞くという発想すら沸かなかったからだ。

「それにな。坊主にそういった課題があったとしても、今度は良い事だってある」
「? …なあに」
「さっき『産めなくなった』って云ってたろ? 違う。その子供を産めなくなっただけで、また産めるのさ」
「…! 本当?」
「ああ。帰ったら『また産んで!』と両親に笑顔でおねだりしてみろ」
「…うん! ありがとう、お兄さん!」

 少年は突如元気になり、目元を赤く腫らしたまま勢い良く扉に駆けて行った。扉が閉まり、教会が一気に鎮まり返ったところで、男はマリア像を見上げた。その表情は普段通りのものだったが、男には別の表情に見えたらしい。男は突然可笑しそうに肩を震わせ、気味悪く小さく笑うと、椅子に行儀悪く凭れかかった。
 それから敬虔なクリスチャンが聞いたら思わず卒倒してしまいそうな、暴力的な言葉を吐く。男の目は汚く淀んでいて、口元は隠しようのないくらい歪に歪んでいた。
 恐らく男の今の姿を見た者は皆、教会がこれほど似合わない人間も居ないと口を揃えて云うだろう。

「…そんな顔するなよ。俺はアンタを愛しているんだぜ? なのに心外だな、怒ってやがる。…機嫌直せよ。望むなら俺はアンタにパンでもワインでも何でも捧げてやるからさ」








 朝早く、少年は教会近くの路地裏に蹲っていた。警察が見付けて声をかける前に、男が少年に声をかけた。
 少年の顔には昨晩なかった痣が出来ていて、目は比べ物にならないくらい赤々と腫れていた。少年は男の顔を見ないまま、全てのものを恨むような声色で叫ぶように云った。

「…もう産めないっで、何度云っだら解るのっで、父ざんと母ざんに殴られたっ。…もう戻っでぐるなっで…お前なんが、顔も見だぐないっで……」
「…ソイツは非道いな。非道い事をしやがる」
「産めるっで、云っだのにっ!」
「ああ、云ったさ。だからお前の両親は嘘つきなんだ。お前が要らなくなったから、嫌いだから、嘘を吐いたのさ」
「そ、ぞんな…」
「解るだろ? …思い出してみろよ、昨日の両親の豹変した顔を。人間のものと思えるか? さぞかし怖かったろう」

 少年は昨晩の出来事を思い出した。両親に「また子供を」と云った途端、彼等は悪魔が降りたかのような顔付きになり、テーブルの上のお皿を掴んで少年に投げ付けた。
 何も悪い事をしていないし、間違った事も云っていないじゃないか。少年の哀しみと怒りは益々深まり、たがが外れるように泣き出したかったが、奥の方から声が出ないようになっていた。少年は声が枯れてしまう程に、泣きすぎてしまったのだ。
 男はその場に屈み、少年の頭に優しく触れる。少年は目を見開いた。このように頭を優しく撫でてくれるような人など、今まで居ただろうか。昨日は薄暗くてよく解らなかったが、男は友愛に溢れた、慈悲深い顔をしていた。

「…坊主。俺と一緒に来るか」
「…お兄さんと?」
「ああ。戻ってくるなと云ったんだろ? 戻る必要はない。俺と一緒に来れば良い」

 男は左手を差し出した。少年はその時、昨日の男の言葉を思い出した。『今度は良い事だってある』。そうだ、彼と一緒に行けば、良い事があるかも知れない。帰ってもどうせ母親は毎日泣いているし、父親はお酒に溺れて大声を出すのだ…。その点、目の前の男は慈愛に満ちているし、信仰についてもきっと多く教えてくれるだろう。
 少年は少し躊躇いがちに、男の手を取った。男は優しく笑んで、立ち上がると共に少年を引き上げた。
 男はポケットに入れていた左の革の手袋を少年に分け与えた。『左手』は少年とつないでいるから要らない…という事だ。少年はとうとう手が温かくなって、何だかとても嬉しくなった。分け与えるという精神は尊いと思った。

 今度こそ良い事がありますように。









「あ、貴方、小さな男の子を見ませんでしたか」
「少年? …知らないな。どうしたんだ?」
「昨日家を出たきり、戻らなくて。私あの子に非道い事をしたの…。本当に居なくなるなんて思わなくて、」
「そうか。ソイツは大変だな…」
「ああ、どうしたら。罰があたってしまったんだわ。…ありがとう、時間を取ってごめんなさい。見付けたら教えて頂戴」
「必ず。…そうだ、これをやるよ」
「? これは…赤ワイン?」
「彼女に捧げる積もりだったんだが、要らないみたいでな。精神安定剤として使えるだろ? パンもあったんだが、さっき野良犬にあげてなくなっちまった」
「…ありがとう。頂くわ」
「なあに、困った時はお互い様だ」

「…見付かる事を祈っておくぜ。アンタに神のご加護がありますように」


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ワイン=血、パン=肉のそのままの意味って事でお察し下さい
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