「ーー道は六百八十里、長門の浦を船出して…」

「…古い歌を口ずさむんだな」

彼だった。彼は俺が平生揶揄される歌声を指摘するのではなく、俺がその歌を選び歌う事を指摘して、「お前らしい」と感想を付け加えた。
だから、誰に聞かせる訳でもなく歌っていたそのものを聞かれた事に対し、格段恥を覚えたりはしなかった。そもそも俺は音楽を学んだ事もなく、大して興味も沸かなかったので、それが稚拙であるからと云って俺の自負や矜持を傷付けたりはしなかった。それに音楽がさして大きな力を持つとも思えなかったのだ。そう云うと彼も特に異論があるようでもなさそうに、

「そうだな。音楽は個人の世界観の押し付けかも知れない。それにその時の記憶を引き起こすものだから良くない」
「記憶を呼び起こすのはお嫌いで?」
「…思うのは勝手だが、正しく思い出す事に意味はないと思っている。沈んだなら沈ませたままであれば良い。過去の事実は何もしないから…」

少し意外なような気がした。彼は事実を事実のまま受け取れる人だと思ったからだ。そして少し意地の悪い事を云いたくなった。彼の言動が俺の理想のものではなかったからだろうか。

「例えば俺の事も、改ざんするのですか」
「ん? …そうだな、場合によっては。…お前は人間だが、例えば、怪物だったと思っても良いだろう」
「…勝手な事をするんですね。俺を否定しているようだ」
「誰に云うでもなく、自分だけで思うなら自由だ」
「そうですか? 俺はそう思わない。貴方に赤色を塗り付けたとしても、それが青色になるんですか。俺の居た意味などないではありませんか」

彼は黙った。それから少しして「そうかな」と小さく云った。何故だか彼を突然傷付けたい衝動に駆られた。俺が付けた傷ですら、彼は「転んだ」と記憶を塗り替えしてしまうんだろうか。
彼は俺をよく腹立たせた。それは俺の所為だったのか、彼の所為だったのか俺は解らない。俺の理想であって欲しいが為に俺が作った形であって欲しかったのか、それとも本当に彼は人を不快にさせる人だったのか。
以前彼が読んでいた本を、黙って読んでみた事がある。随分と甘く、女学生が好みそうな本だと思った。だから俺は少し驚いたのだ。普段は硬派な本ばかり読んでいるくせに、色の違う本も読む。それが俺を惑わせる。俺が彼の像を形成したと思ったら、また彼はその像を破壊しているのだ。
人を形成するなどは不可能な事なんだろうか。彼は俺が作ったものではない。ならば彼は誰が作ったのだろうと思う事がある。彼は彼だけでは出来るものではない筈だ。周囲が彼を形成する。…然し記憶を塗り替える彼に、事実が何か影響する事があるのだろうか?




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飽きた
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