「何を読んでいらっしゃるのですか?」

男の声がした。それは沈黙を打開しようと試みる何と無しの発言でもなく、ふと気が向いたといった気まぐれな発言でもなく、心の底から相手の嗜好や現状を出来るだけ知りたいといったような、そんな愛から成るような言葉だった。
それを発せられた側の男は顔を上げると、世界で一番愛おしいものを見るような目で(それは例えば恋人や子供といった)相手を見て、

「グレアム・グリーンの情事の終わり。…グリムに似ていると思って」
「名前が?」
「名前と、宗教の思案に沈み込んでいる辺りが」

ジャバウォックは本を閉じ、買って来たばかりの珈琲屋の袋を持ったばかりのグリムの手を、慈しむようにーー或は縋るように触れた。グリムは帰って来て直ぐこの部屋に来たようで、未だ外出用のピーターシャム地のコートを羽織っているままだった。

「私も事件の核心なんかは読みましたけど…。カトリックの人ですよね、それなら失礼な気も」
「失礼? 何故」
「私はそれだけを信仰している訳ではないので。例えば縋るなら…」

悪魔でも良かった、という言葉が出かけ、直ぐに唇を噤んだ。彼が心より信ずるものはないかも知れないとは云え、その言葉を口にするのは抵抗があった。
ジャバウォックはグリムの顔を数秒見ていたが、視線を隣の椅子へ遣ると「座ったら」と促した。グリムは微笑むとコートを脱ぎ、一先ずといったように背凭れに掛けるとそのまま座った。
口を噤んだまま珈琲屋の袋を開けるグリムの姿を数秒黙って見ていたが、やがて唇を開き、

「…日本のグレアム・グリーンと呼ばれる人を知っている?」
「? …いえ。あまり知識がないので…」
「遠藤周作という人だ。彼の沈黙と、グレアム・グリーンの権力と栄光の関連なんかも面白いんだけど…まあそれは兎も角、彼は日本人だがキリスト教徒だった。故に矛盾に苦しんだらしい」
「……」

袋の中からは、珈琲豆が入った小さな透明の瓶が一つ出て来た。ビロードのリボンで飾られたそれはまるでポプリだといっても下手すれば信じて貰えるような、そんな可愛らしい小ぶりのものだった。
日本か、とグリムは黒髪の青年の事を思った。かつて神の話を少しだけしたような気もした。彼は無論キリスト教徒だと云うでもなく、仏教徒であるとも云わなかった。あまり信心深い方では無いのだ…と云っていた気がする。神や地獄などあるかも知れないものを考える事に時間を費やす気はないといった彼の言葉を聞いた時、彼らしい、と思った記憶だけが確かにあった。

「然し彼はジョン・ヒックの宗教多元論に救われた」
「?」
「宗教は対立しませんよ、様々な宗教があって良いんですよ、というもの。…だからグリム、グリムの中に宗教が多くあったって、きっと罰は当たらないと俺は思うね」

ジャバウォックがそう云った時、グリムは思わず手中の瓶を落としてしまいそうになった。折角買った物を早々に割ってしまわぬように、とグリムは机上にそれを置き、それからまるで暗いところから突然明るいところへと出た時のように、眩そうに目元に手を当てた。

「…貴方はどうしてそんなに…」
「? どうしたの」
「いえ。…何も」
「あ、そうそう。グレアム・グリーンと云えば」
「…云えば?」

使い古された陳腐な言い回しになるが、共にある彼が自分にはあまりにも眩しすぎると思う事が、グリムには何度もあった。人は自分の手に奇跡を掴んだ時、そのあまりの恐れ多さに怯んでしまうものなのだろうか。あんなにも欲していたものが手に入った途端、突然泣きたくなるような、或は逃げ出したくなるような感覚に陥るなど、莫迦のようだと思えた。
ジャバウォックはそんな恋人の可愛らしい艱苦にも気付かずに、知ったばかりの単語を母親に教える子供のように、実に得意気に云ってみせる。

「『僕は平和も愛も欲しくない。ただごく単純な、容易い事を望むだけだ。一生涯の間だけ彼女を欲しいと思ったのに。』」
「…作中の、台詞。ですか?」
「そう。凄く共感出来る言葉だね。人は唯一無二の、味方をして欲しいと思えるその人からの愛だけが欲しいんだよ」
「……」
「俺もグリムだけが居れば良いし、グリムを奪うなら、神だって確かに狂おしく恨むだろう」

グリムはその瞬間席を立ち、ジャバウォックの顔も見ずリビングへ行ってしまう。ジャバウォックは慌てて声をかけ、それから自分も後を追おうと立ち上がったが、

「料理っ。…今日は、私だけで作るので、ゆっくりしていて下さい」
「え。でも…」
「良いから!」

そう強く云う彼の耳が赤い果実のように熟れている事なんて、ジャバウォックでなくても誰が見ても解る事だった。
可愛いね、なんて揶揄したくなったジャバウォックも、実は思わずつられて顔の奥が熱くなっている。まるで初恋を覚えたばかりの子供だと思うけど、事実彼等は互いに相手が初恋であり、その想いを色褪せもせず持ち続けているのだから、仕方のない事なのかも知れない。
顔の赤らみが引いたら手伝いに行こうと思いながら、ジャバウォックは一先ず座ってグリムの後ろ姿を見る。リビングに立っている彼の姿は確かにそこにあるものだった。

幸せだな、とふと思い、突然どうしようもなく泣涕しそうになるのを、一人静かに堪えていた。



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連載が終わったらひたすらジャバグリブーム…。お互い相手が神様みたいで何かあれ(愛欲と神への愛には相似性があるとか何とか…)宮沢賢治や福永武彦、遠藤周作と来て漸くキリストを信仰した人の小説が好きなんだな〜って今更気付きました
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