目が醒めた時、視界が真っ暗だった。
照明が無い訳でも、夜な訳でもない。感触で私は目隠しをしているのだと解った。
然し椅子に縛り付けられている訳でもなく、私の身体はベッドの上に何の束縛も無く横たわっている。身体の上には毛布がかけられている。毛布は薄く、ベッドは固かった。何処からともなくシチューの匂いがする。
目隠しを取らない事には始まらない、そう思ったが右手も左手も動かなかった。それなら声は出せるだろうか。然し声を出して「家主」に殺されたらどうするのだろう。いや、殺すものならとっくに殺しているだろう。私は久々の感覚に戸惑いながら、自分の口から声を絞り出した。

「あの、すみません」

カタン、と何かの音がした。恐らくシチューを回す手を止めてこちらを見たのだろう。心地良い足音が数回した後で、まるで妖精のような、聞いては素直に何でも聞いてしまえそうな、そんな男性の声がした。

「…起きた?」
「ええ。…私は何日?」
「5日間寝込んでいた。…森の聖獣を見たのでしょう」
「ええ、…あまり思い出せませんが…」
「彼等は姿を見た者の記憶を消すからね。…ちょっと待って、」

そこで彼が私の元を離れる足音。またカタン、と音がする。周りは他に何の音もない。精々右側から微かに聞こえる風の音がする位のものだった。
少しするとまた足音がして、何かを置く音、そして何かを引きずる大きな音がした。…少しして、横に人が座る気配がした。

「未だ身体が動かないでしょう。…ちょっとごめんね」
「…あ、…ありがとうございます」

彼が手を優しく伸ばし、私の身体を起こすと壁に背をもたせかけた。私が一息つくと、今度は顔に少し温かい湯気が辺り、シチューの香りが強く香った。

「お腹空いてるよね。…茸と人参と、じゃが芋と、玉葱とブロッコリー。お肉は入ってないけど」
「あ…。良いのですか?」
「勿論。君の為に作った」
「ふふ…。…それでは、遠慮なく」

口を開けると、彼が口の中にスプーンを入れてくれた。木のスプーンによって運ばれたそれは、余程飢えていたのか、酷く美味しく感じた。
そこで男はスプーンを抜くと、

「…っと、ごめん。先に水を飲ませるべきだった」
「いえ、そんな…」
「はい」

今度はコップが唇に微かに触れる。水がゆっくりと私の体内に運ばれるにつれ、私は自身の喉が枯渇していた事を知った。思わずコップの水を全部飲むと男はコップを離し、またポットか何かから水を注いだ。

「…貴方は?」
「俺はジャバウォック。山奥に一人で住んでいる。職業は物書き」
「物書き? …こんな辺境で?」
「昔アメリカにも、小屋に篭った人が居たでしょう。そんな感じだよ。…君は? 綺麗な顔立ちをしているから、あまり山賊の類には見えないけど」
「私はグリム。…旅人です」
「…へえ?」
「色々なものが見たくて、家を出て、それから放浪を」
「成る程。だから向こう見ずにもこんな場所に来て、住民から恐れられている聖獣にも出くわして気絶していた訳だ」

彼の声の調子には、怒ると云うよりは些か呆れたようなそれが含まれていた。
差し出されたシチューを食べ、胡桃のパンもご馳走になった。ジャバウォックは「当分身体を動かすのは困難だろうから、好きなだけ居ると良いよ」と云った。
お互い相手を知らない間柄なのに、此処まで良くされては示しがつかない。お金は今は持ち合わせがないが、自分のポケットにあるブレスレットなら、売れば幾らかのお金にはなる筈だった。それを云えば彼は苦笑して、

「そういうの、あまり人に云わない方が良いと思うけど。…俺が山賊だったら、身包み剥がされて、死ぬよ」
「貴方は山賊ではなく物書きでしょう?」
「…驚いた。こんな世間知らずが居るなんて」

彼の声色は優しかった。今まで優しくしてくれる人間は何人か存在したが、彼は一等情愛に満ちた人間のように感じた。
私は嬉しくなったが、然し長居してはそんな彼の負担になるだろう。何日で回復出来るだろうかと聞くと、

「…そうだね…後…3、4日で立ち上がる事は出来るだろうね」
「そしたら3日後に出て行きます」
「…。俺は一人で此処に居るから、人が居る事は喜びでもある。だから全然居てくれて構わない。…でも、」
「でも?」
「…お勧めはしない」

どういう意味だったのだろう。その時は意味を理解する事が出来なかったが、その後彼から聞いた後でも、矢張り意味を正しく解していない気がする。
ややして彼が離れた気配と、水が流れる音。食器を洗っているのだろう。この小屋がどんな家具を置いているのか、どんな姿形なのか、そして彼の顔はどんなものなのか。
早く見てみたいと思ったが、眼の奥が焼けるように、元気な星々が煌めいては苦しめる。聖獣の姿を見た戒めなのだろう、そう云えば目は身体と同時期に回復してくれるのだろうか。
散々な事には違いなかったが、少しだけ嬉しかった。人の優しさに触れたからだ。勿論皆が皆良い人ではない事を経験から知っている。人間は聖人と思われている人でさえ、所詮は人でしか無い。だが私はかつて居た教会の者のよう、神の姿なぞ何にも求めていない。
求めていたのは人の愛だ。それはアガペーとは違う、八方美人ではない唯一の人に注がれる、偽りのなき愛だった。





それから毎日彼の作るご飯を食べ、彼と一緒に話をした。彼は物書きと云うだけあって実に知識も語彙も豊富で、魅力的な口調で私に様々な話を語ってくれた。それは聖獣のような生体であったり、草花の事であったり、伝承であったり、料理の事であったり、近くの村の人の事であったり。また、彼の小説の話もしてくれた。彼は純愛文学を書いているのだそうだ。私はそれを聞かせて欲しがったが、彼は笑って「恥ずかしくて駄目なんだ。…もし見たければ、俺が食料を調達している間でも、机の上の本から俺のペンネームを知って、それで本屋で探してみて」と答えた。私はそれに少し笑った。
彼は様々な話を聞かせてくれたが、然し政治の話だけはしなかった。「昔の有名な映画に『女と政治の話はするな』という台詞があったでしょう。あれは本当だよ、政治の話は駄目だ」と彼は答えた。世捨て人のような彼だが、然し政治の事を知らない訳でもなさそうだった。たまにそれを入り込んだジョークを放つからだった。
直ぐに3日が過ぎた。私の指は動くようになり、食事も自分で出来るようになったが、未だ目の奥が痛く、身体も無理をしなければ動かせそうになかった。彼は身体を無理矢理動かそうとしている私に慌てて云った。

「無理はしないで」
「…でも、」
「グリムと居るの、楽しいんだ。…全然負担なんてないんだ、俺の我が儘だろうか」
「そんな…。…私、私も、貴方と話す事が…。変な話、これまでの人生で一番楽しいんです」
「…本当に?」
「ええ。幸せだと思えるほど」
「…。そんな事、初めて云われたよ」

何処か寂しそうな声だった。私は意識せず横に座る彼の頬に触れ、それから少し撫でた。包帯を巻いたままの私は彼の姿形を依然として知らぬままだったが、私が触れた彼の頬は、柔らかくて愛おしさを喚起させた。
少し依存性がある行いだった。何故だろう、母と姉の目を盗み、桃の木から熟れた桃を1つだけ取った、あの時の感覚に良く似ていた。身体の何処かが少し震えた。
ジャバウォックは黙って私の行いを甘受していたが、少しすると私の手をそっと掴み、それから今までとは少しだけ違う声色で云った。

「…罪深い撫で方だね」
「罪深い?」
「過ちを犯させてしまいそうな、思い上がらせてしまいそうな、…人を破滅させて、自分すら意図せず堕とさせてしまうような、そんな撫で方だ」
「…詩人のような事を云うんですね」

ジャバウォックは口を噤んだ。彼の右手がそっと私の頬に触れたが、それが長く居続ける事はなく、また、撫でる事もなかった。彼は右手を離し、椅子から立ち上がるとそのまま外に出てしまった。
時間的に恐らく食料の調達だったが、私は何故か今までにない気持ちになった。この気持ちは生まれてこの方陥った事はなかったので、何と名付けて良いか解らない。只、彼の顔を見たい、と強く願った。早くこの包帯が取れ、身体が自由に動くようになったなら、どんなに歓喜するだろう、と。


そして異変はその夜に起こった。





知らない声だった。ジャバウォックの声とは似ても似つかない、品の無い、耳障りな声だった。
その者は私の首を絞めながら、何か解らぬ事を口に出していた。私は死ぬのだろうか、と死を覚悟したが、その時ジャバウォックの顔を未だ見れていない事に気が付いた。

「ジャ、バウォック…!」

彼の名を呼んだ。彼が何処に居るかは解らなかったが、その時、手が緩んで、私の首を締めていた者は走るように居なくなって行った。
何がどうなっているのか解らない。そもそも不審者が入った時、ジャバウォックは気が付かなかったのだろうか。手探りでランプを探そうとサイドテーブルに左手を翳していると、私の左手を掴む者があった。また先程の不審者だろうかと身体を強張らせたが、

「グリム! …落ち着いて、俺だよ。…大丈夫?」
「ジャバウォック…! …良かった、無事だったんですね」
「うん。…不審者の顔を、見た?」
「え? …いえ、目隠ししたまま、明かりもなかったので」
「そう…」
「只、声は聞きました」

ジャバウォックは少し間を開けて、それから落ち着いた調子で「どんな?」と聞いて来た。私は彼を全面的に信頼していたし、不審者に対して憚る事など無論なかったので、「酷く醜い声だった」と話した。
他に思った事は、と彼は聞いた。その声が何処となく何時もと違う事が、私には解らなかった。私は何も無い、と返したが、あんな恐ろしい不審者は初めてか、と尋ねた。

「…いや。たまに出るんだ。だからあまりお勧めしない、と。…でも…どう謝って良いか…」
「そんな。貴方は何も悪くない、悪いのは不審者ではありませんか」
「……」
「人を殺そうとする人がたまに、の頻度で出て来られては。私、身体が治ったら急いで警察に云います」
「…やっぱり、彼は居るべきではないと思う?」
「何を云っているのですか。当然ですよ、そんな可笑しい人、居て貰っては困るでしょう」

変なところが1つもない全うな意見だった。然し彼の声色は、何処か憂いを含むようなものだった。そうだね、の肯定の言葉がこんなにも儚さを帯びるのを、私は初めて聞いた気がする。
もう遅いから寝よう、と彼は云い、私の左手をそっと握ると「お休み」と云って手の甲に唇を落とした。あんな目に遭って変な話だが、不審者の事など忘れるほどに、そのところが熱くなり、私は高揚した。






次の日の朝の事。キッチンで料理を作る音が何一つしない。ジャバウォック、と彼の名を呼んでも、何の返事も返って来ない。
身体は未だ痛んだが、眼の奥の痛みは大分マシになっていた。目隠しを外すと明るさに目が眩み、光に慣れるのに暫く時間を要したが、数分すると違和感を残しながらも周りが見られるようになっていた。
シンプルながらも暖かみのある木の家具が見える。机の上には本が一冊置いてあった。「怪物の恋」という題名のその著者名はジャック・ドールとある。彼のペンネームだろうか。
痛む身体を無理に起こし、姿勢を変に曲げながらもキッチンに行く。そこに彼の姿は無かったが、机の上には私一人分だけの料理が載せられていた。
彼は何処かに行ったんだろうか、だが置き手紙のようなものもないし、この時間に彼が居ない事なんて初めてだった。
彼の顔を見たい。私は誘われるように、誰も居ない小屋から出ると森を見渡した。よく地面を見てみると、恐らくジャバウォックのものだろう足跡が、本当に微かに残っていた。それを追うように歩き始めるが、少しして、それが麓ではなく奥の方に向かっている事を悟る。一体何の用があって深くまで行くのだろう、そう思い始めた時、案外早く足跡はなくなった。傍には湖があった。
水浴びでも、そう思ってそこへ出た瞬間、私の顔が強張った。

ぐるり、ぐるりと、木に引っかかったロープと、ロープに首を巻かれた人間の死体が、踊るように回っている。金髪の青年の死体だった。

「…ジャバウォ、ック?」

私はこの死体の名前を知らない。彼かどうかも解らない。近付いて、頬を撫でれば解るだろうかとも思ったが、変色し、形も変わったそれを見る限り、例え彼がジャバウォックでも確証は持てない気がした。
気分が悪くなり、湖を後にすると希望を持って「ジャバウォック」と彼の名を呼んだ。小屋に帰るまでの道程で何度も呼んでは辺りを見ていたが、返事は何も無かった。



それから数日、彼の小屋で待ってみる事にしたが、ジャバウォックは現れなかった。そしてあの不審者が来る事もなかった。
私は森から離れ、近辺の村の人に「森の男を知っているか」と尋ねた。すると鶏の世話をしていた女性が「ああ、ジャック・ドールさね」と云った。

「彼は相当な変わり者だよ。弟と妹を亡くしてから気が触れたとかでねぇ…。人と会おうとせず、ずっと引き篭もってる」
「弟妹が?」
「彼のドール、は弟妹の名前から取ったって話は有名だよ。然しアンタ、彼に会ったのかい?」
「…声だけ…」
「だろうね。私も何年も顔を見ていない。…昔見た時は、綺麗なブロンド髪の、良い顔をした男だったけど」

髪色が気にかかったが、然し彼が、あの彼が自殺をするんだろうか。変わり者と云うなら、突然気が向いて、何処かの街に行ったのではないだろうか……。
私が黙り込んだのを見て、女性は「そうだ」と云うと家の中へ入り、少しして私に一冊の本を渡してくれた。

「あげるよ、これ。何度も読んだから汚いけど」
「これは…」
「彼の処女作さ。…天才ほど変人ってね、変わった人だが、確かに素敵な小説を書く。…結婚当時、その小説に何度心を打たれたか。レトリックもだが、何より、人の心がよく解っている。なのに何であんな性格なんだろうね…」

彼女が私に渡した本は深緑色の装丁がなされた美しい本だった。机の上にあった本と同じものだ。私は電車に乗りながら、その本を開いた。
詩的な彼から想像が容易い、繊細な硝子細工で出来たような、脆くて儚い言葉で紡がれた丁寧な文章だった。一人の男が恋をして、知的な女性と交際を始めるが、その男が普通の人間ではないが故に、恋も何もかも終わってしまうような、悲恋ものだった。交際期間の愛は何よりも華やかに、そして終焉は惨めで無残に描かれていた。これが心を打つ、という事だろうかと私は思った。
彼の頬を触れた後に生じた感情の名を、今なら云える気がした。今更彼の本によって気付かされた、私は彼に恋をしているのだった。


また会えるだろうか、そんな事を考えながら、頭の揺れる感覚と混濁とした記憶がどうも私を苦しめて、気付けば涙を一筋流していた。
涙は本の上に落ち、じんわりと滲むだけ滲むと、何事もなくゆっくりと乾いていったのだった。


END

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ハピエンで本編を終わらせつつ平常運転の文を投下する。題名と作家はソロー
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