遠い昔の記憶だ。俺が未だ女として兄から可愛がられていた頃、兄は俺に「一緒に縁日に行こう」と云った。それを聞いていたノエルも良い事だ、と云って快諾した。
横笛の音や太鼓の音がけたたましく鳴る中で、桃染めの着物を着た俺は、鶸色の着物を身に纏った兄に右手を引かれながら、初めての縁日に胸を高鳴らせていた。俺の踊る心を表現するように、頭に挿したびらびら簪が音を立てながら大きく揺れた。
兄と共に縁日に行ったのは、その日が後にも先にも最後であった。そして今思い返せば、あの人の異常さがよく解るような、そんな気味の悪い夜であった。

兄は俺を自ら誘った癖をして、縁日を有象無象であるとでも云うように、実に下らないものだと見下すような眼差しで見つめていた。対して俺は初めての祭りに興奮を隠せないままに、辺りを忙しなく見回していた。
あの初めて見るお菓子はどんな味がするのだろう、大人達が集まって飲んでいるあの飲み物は何と云う名なのだろう、あの覗きからくりの中にはどんなものが入っているのだろう。
俺は期待して兄を見上げるが、兄が止まってくれる気配はない。そして俺がわざわざ兄に言葉で強請る事は無い。俺は口を噤み、黙って従順に兄の後ろを着いて行く。
端に近付いて行っているからか、人が少しまだらになって来た時、『それ』は存在した。他の屋台とは明らかに違う異彩を放つその小屋の壁には、おどろおどろしく妖怪の絵が描かれている。その小屋の前には一人の男が立っていて、「お代は見てのお帰りだ」等と訳の解らぬ事を云っている。
兄はそのものをそもそも知っていたのか、はたまた何となく興味を抱いただけなのか。当時は後者だと思ったが、今思えば前者だったのだろう。兄は俺の顔を見ないまま、俺の手を引きながらその小屋の中に入って行った。

「に、兄さん?」
「アリス、面白いものが見られるぞ」
「面白いものって…」

子供心ながらに、そんな面白いものがあるとは到底思えなかった。好奇心と云うよりは早く此処から出なければという気持ちが俺を駆り立てた。後ろを見ると男が小屋のテントを閉めてしまっていて、どうしようもない後悔か何かを覚え、「兄さん」と云ったが、兄はその時には俺の手を放してしまっていた。
暗くて狭い空間だった。俺の右手側には、大きな板が一枚壁にかけられていて、その板の表面には血がべっとりと付着していた。一瞬それにたじろぐも、看板に「オオイタチ」と書かれているのを見て、合点が行くと同時少し安堵した。
その隣には「蛇女」と書かれた看板があり、そこでは憂いたような顔をした一人の美しい女性が、未だ動く蛇をそのままで食べていた。女性は俺と目を合わせると、嫣然と笑ってくれるものだから、何だか見てはいけないものを見てしまったような、或は背徳感やらを覚え、俺はいたたまれなくなって彼女から視線を逸らした。
あの時解らなかった感情の名を今になって知る事が出来、そしてそれに対して疚しい気にもなるのだが、当時はそれがあってはならぬものだと信じて疑わなかったので、益々その小屋から出なければ、と思った。
兄を求めて顔を動かした時、俺の視界に入ったのは兄の姿と、その隣に佇む身体を縄で縛られた老婆、そして兄の前に居る一人の女性だった。…その女性ははだけた着物を直さぬまま、兄の眼前に、両の手を向けていた。
暗がりで解らなかったが、兄の傍に立った時、兄の口が大きく弧を描いているのは解った。それを見た時、自分はその女の手を見てはならないと思い、兄の手を引いてその小屋を後にした。
小屋を出た時、男が指でお代を示した。俺はノエルから預かった巾着袋を出し、そこから相応のお金を払うと兄の手を引いて、来た道を歩いた。兄は暫く何も云わなかったが、不思議な玩具を置いている屋台の横を通り過ぎた時、何ともない調子で云った。

「アリス。あの女の手を見たかい」
「…ううん」
「そう、良い子だね。でもアリス、お前は損をしたよ」
「損…?」
「俺が得た気持ちを、感情を、味わえなかった」

俺は兄の云っている事が解らずに、止まって後ろを振り向いた。…無論、今ならあの女性がどんな人であったかはよく解るし、恐らく当時だって解っていただろう。
然し俺は兄とは違うと思ったし、今だってそう信じている。然し他の誰かに人間の本質とは同じものであり、お前は只々綺麗事を述べているだけなのだと、兄と変わる事がないと云われてしまうなら、俺は恐らく黙るだろう。何故なら俺はこの世の醜悪や人間の欲深さを熟知しているからだ。
それでも、俺にも醜いところは多々あるが、兄とは違うのだと、否、兄は人間とは違うのだと願わずにはいられない。

「…俺達は、只生きる他の獣とは違うんだ。理性があるから、苟も求めて醜く生きるんだ。生きるだけでは飽く事が無い、人間には生きる上での糧が必要なんだよ」
「兄、さん、」
「それに罪悪感を味わうか否かは些細な問題だ。…理性なんて、本能の前では赤子なのだから。覚えておくと良い、アリス」
「何を…」
「人間は非道いものなんだよ。俺も、…お前もね」

兄はそう云うと優しそうに笑み、俺の頭を撫でた。俺には目の前の兄が非道い人だなんて信じられなかったが、小屋の中での兄は、確かに別人のようだった。…醜い生き物だと云われたら、簡単に納得してしまうような。
兄も俺もそういう生き物なのだろうか。俺は塞ぎ込んでしまったが、兄はそんな俺を見ると「お前には未だ早かったね」と云った。そうしてもう一度頭を撫で、何が食べたいか、と尋ねた。
俺はその日の暗闇を林檎飴と共に胃袋に押し込んで、帰ってからもノエルに何も云いはしなかった。眠るとその時の出来事は夢のように思えた。次の日も遊びに来た兄の笑顔を見たら尚更だった。





それから年月が経ち、その日の記憶が薄れた或る日の事。

「お前、気持ち悪いね」

…地下に閉じ込められた俺を見る兄の顔は、その時と全く同じものだった事を、その日の俺は思い出した。



---

昔の小説とか読んでると結構小屋の事書いててうおお…ってなる。イギリスの小説に「赤い目をした婦人」ってあってどきっとしました
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -