アリスの部屋には、只一つの物を除き、過去を表す物が無い。彼が着て来た蛮カラとか外套とか云う衣服や、ポケットに入っていた万年筆などは、全て何時の間にか捨てられてしまっていた。代わりにクローゼットの中にはクイーンが用意したスーツやジャバウォックがやったお下がりの服が、そしてポケットには僕が昔プレゼントした万年筆が入っている(それを指摘すると、多分怒って捨てるかも知れない)。彼が日本から来たと云う事実は、部屋と彼を見るだけでは、到底思い起こされない。

「何故?」
「何故、って…どうしたんだよ、急に」
「前々から疑問だった。本官だって、軍に居た頃の物は取っているから」

アリスが日本を嫌っていた訳ではない事は、話を聞いて明らかだった。忘れたい何かがある訳でも、逃避した訳でも、抑圧した訳でもない。何故、と言葉が出てしまうのも、至って自然な事だった(とは云え、その関心が出るにあたり、彼への興味がある事は必要不可欠なのだが)。
アリスは少し空白を置いてから、僕への質疑に答えてくれる。その言葉はあまりにゆっくりだったから、目の見えない者が、手探りで割れ物を捜しているかのようだった。

「…昔、」
「?」
「日記を書いていた。小さい手帳の後ろに書いていたから、何時も外套の衣嚢に入れていた」

僕が何かを尋ねる時、彼は何時も丁寧に物事を教えてくれる。そんな真摯なところが敬愛するに値するし、皆の好意を集める一つの要因なのだと思う。
アリスは一つ一つの砂粒を、顕微鏡で覗き込むように、言葉を大切に紡いで行く。

「英国で外套が水に濡れた時、手帳も濡れてしまって、文字が滲んでいた。…でも、書いたのは俺だし、読めた。そして、日本での出来事をまざまざと思い出した」
「良い事?」
「…いや、記憶では良かった事ばかりだったが、案外厭な事だってあった。記憶なんて、頼りにならないと云う事が、よく解った」

人が記憶を改竄して事実を捻じ曲げてしまう事は、昔からよく云われる事だった。…僕だって、コーカス軍の事を思い出せば光輝した記憶ばかりが浮かび上がるが、不快な事だって少なからずあったろう。然し何故か思い出す事が出来ない。防衛機能だろうが、それが不必要だったり矮小な事だったのかは、生憎今では解らない。アリスは続ける。

「だから、日記を書くのをやめた」
「…何故」
「自分の記憶が幸福だったのなら、事実を思い出して、敢えて塗り潰す事は好きではないと思ったから」

成る程アリスらしい考えだった。…そして、僕とは違う考えだった。
アリスはそこで押し黙る。もうそれで話は終わりなのだろう。然し、それならば益々疑問が残る。――彼の部屋に、何故写真だけが残っているか。それも焼くか破るかすれば良いのに、なんて只の私怨だろうか。
意地悪だが、単に思い付いたように、「写真は」と口にした。すると彼は決まりが悪そうな顔をして、手元のカップの取っ手を人差し指でなぞりながら、

「…日本での、最初で最後の写真なんだ。焼き増しもしていないし…」
「…ふうん」

ならばあの写真の上に紅茶を垂らしてみれば、アリスはどんな顔をするだろうか。想像して少し好奇心に駆られない訳ではなかったが、虐めたい訳ではなかったので、それは行動には当分起こさないだろう。それにしても、こういったアリスの部分は、少し気に入らないと云えばそうなんだろうか。
僕が黙ってテーブルの上のアイスボックスクッキーを摘まむと、アリスは少し僕の顔色を窺うように、

「…そんなにあれ、変か」
「…写真が?」
「捨てた方が良いんだろうか」

多分僕が肯定したのなら、彼は直ぐに立ち上がって目の前で破り捨ててくれるんだろう。然しその表情は、僕からは見られないように俯かれて隠されてしまうのだろう。
考えれば彼は未だ幼くて、故郷を捨てて異国に一人で居る身なのだった。そんな彼に腹の内で黒いものを薄く蕩揺させている僕と彼の、どちらが幼いのだろう。
僕はアイスボックスクッキーを口元に持って来て、それから言葉を口にする。

「持っておくと良い。だって、」
「…だって?」
「思い出は所詮思い出で、今に勝る事はない。その思い出が何かのきっかけで目の前に出て胸を痛めたとしても、矢張り過去に過ぎない。だから誰が何を思ったりもしない」

アリスは少し驚いたような顔をして、僕の顔をまじまじと見つめている。何か、と尋ねたが、彼は「いや」と云うと椅子に凭れかかり、微笑を漏らしてこう云った。僕もそれに対して薄く微笑んで、漸くクッキーを口に含む。少し焦げたような、苦い味がした。

「その通りだな、と思った。…お前には敵わないな」




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何だかアリスが元彼の写真を捨てられない彼女のようだ…笑、とは云えやっぱり良い気はしないラビさん
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