1.小鳥遊と五百蔵


「おや、こんにちは。…アリスさん、ですっけ」

 梅雨入りする前の少しだけ蒸し暑い平日の事、橋の上で犬の主人に会った。彼は今日は犬と一緒ではないようで、一人竹刀を肩に掛けていた。恐らく道場に向かうところだったのだろう、然し彼が何時何をしていようが俺からしたらどうでも良い。犬は彼に随分と従順に尻尾を振るが、俺からしたら彼がそれに値するとは到底思えはしなかった。
 彼は俺を見ると人当たりの良い笑みを向け、「五百蔵だったな」と云う。覚えられている事に多少驚くが、それを噫にも出さず彼の前に立つとそこで止まった。

 どうせ時間はあるんだ、折角だから種蒔きを含んだ多少の意味ある雑談でもかまそう。





「…五百蔵、貴様アリスさんに変な事を吹き込むな!」

 種は直ぐに花を作る。俺はあんまりに必死な犬に哄笑しそうになるのに堪え、鷹揚に構えて「何が」と尋ねる。わざとらしい俺の態度に単純な犬は尻尾を踏まれた気にでもなったのだろう、眉を大きく顰めると俺の前まで力強く歩み寄り、

「俺を『苦労の人だ』と」
「…。本当の事だろ? 貧乏子沢山、才能も環境もない、然し涙ぐましい努力で今の場所に居る。お前を苦労の人と呼ばず何と呼ぼう」

 小鳥遊は苛立ちの募った顔で品もなく舌打ちすると、「余計な事を云うな」と矢継ぎ早に云う。何様になった積もりなのだか、人に命令してみせる様は非道く腹立たしくて腸も煮え繰り返る。俺は「やれやれ」とでも云わんばかりに首を横に振ると、犬とは違って冷静に話を進めて行く。そもそもお前を悪く云ったのではない、と。

「俺はお前が嫌いでね」
「…奇遇だな、俺もだ」
「でも、お前の傾向で一つだけ嫌いじゃあないものがある」

 小鳥遊は理解しかねるように聞き返して来るが、俺は焦らすように「まあ聞けよ」と云う。犬は聞きたくなさそうに首を横に振るが、俺が椅子を勧めると苦渋の顔でそこに腰掛けた。存外素直な奴だと嘲笑を漏らしそうになるのを堪え、俺も背もたれに寄り掛かると足を組み、右足の爪先を犬の方へと向け、

「俺は『頑張らなければ』と表に出しては躍起する者、及び『限度』を『甘え』と勘違いさせて人を雑巾のように絞るこの世の風潮が嫌いだ」

 少し脱線して思える話題に訝しかったよう、然し苛立ちはさして表に出さず犬は「…だから?」と云う。犬は愚かだが聡いからもう既にこの話題の意味するところ、及び俺の本当に云いたいところが解るのだろう。
 それでも敢えて聞こうとするのは人の性か。犬もまた足を組み、偉そうに腕を組んで俺の方を見る。

「後者で何人がその命を犠牲にしてきたものか。それに前者、何がしたいんだろうな? 醜くて仕方ないよ。」
「…端的に物事を話せ」
「急くなよ、今云うさ。…その点お前は良い。お前は天才では有り得なく凡人だが、努力を決して表に見せない」
「……」
「服の縫い目は表に出したら美しくない、俺達が見たいのは舞台裏の役者ではなくて劇であると云う事を、重々に承知している。他人に努力を強要もしない」

 犬は黙って俺の話を聞く。莫迦にされているか、はたまた賞賛されているのかが今ひとつ判断に困るらしい。実のところ俺自身も犬を小莫迦にしているのか、或はけなしているのか判別しがたい。然し一つだけ確実である事は、俺は犬を手放しで褒めている訳ではなかったし、褒める気は毛頭ないと云う事だ。

「お前は白鳥だよ。水面下で憐れにも必死でもがき、表は実に凛としている。見事に天才を装ってみせる。嫌いじゃない」
「…要するに天才の自慢話か。下らん」

 犬にそう云われ、漸く俺は小鳥遊を見下しているのだと気が付いた。成る程俺は天才で、小鳥遊は可哀相な事に人一倍の努力を求められる凡人だ。俺は『努力をしている』『頑張っている』と大仰に示す者が好かないが、それはそもそも凡人を莫迦にしているからに他ならない。…とは云え、俺は一応その『汗くささ』を見せない犬の事は故に認めているのだし、一種感服もする程だ。

「お前の価値観で物事を捉えるな、傲岸極まりない。第一お前に好かれたとて俺は迷惑だ」

 かと云ってそれが見下さない事に繋がるかと云えば、それはまた別問題だろう。生意気な今の犬の発言に、己の顔が意識せず引き攣った。
 椅子から立ち上がって背中を向ける犬に、俺は最後の野次を飛ばす。

「俺は何時か、お前が大人になったら案外呑める奴なんじゃないかと思うよ」



 ほざけ、と吐かして小鳥遊はその場を後にした。




何が書きたかったのか…。

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2.帽子屋組

「マッダーさん、エアコンのフィルタ汚過ぎます!」

或る日曜日の朝の事。帽子屋で働く青年、纜エンプソン――は埃まみれのフィルタ片手に仁王立ちでそう云った。対して煎餅を齧りながらパソコンに向かっていたマッダーは、まるで鼠のようなそのフィルタとエンプソンの修羅のような顔を見ると実に厭そうな顔をして、

「……そう云うのは貴殿の仕事だろぉ。自分に云うなよ」
「アンタが此処の主でしょっ」
「何の為に貴殿を雇っていると」
「当方は家政婦じゃ…」

ないんですけど。そう云った主張はマッダーの嘲笑によって呆気なく吹き飛ばされる。パスタをフォークで食べるように、マッダーは髪の毛をくるくると人差し指で弄りながら、

「貴殿は家政婦同然だ」
「なっ。そ、そう云う云い方…」
「不満かね」
「そりゃそうですよ! 第一、こんな薄給で家事全般と仕事も押し付けられるって有り得ません! 1つの身体じゃやって行けない」
「…ふーむ」

何時も何時も文句は云うけれど、こうも食いついて来るのも珍しい。どうやら日頃の不満が溜まっているようである。
女か、とマッダーは突っ込みたくなったけど、それを云うと更にヒステリックが助長するだろう。
仕方ない、そう思ってマッダーは黒色の回転椅子に深く座った。

「…解った」
「え、待遇を良くしてくれるんですか」
「いや。…その代わり、」

否定にエンプソンの心が折れる。エンプソンの気持ちを代弁するようにフィルタの埃が少しカーペットに落ちてしまった。
マッダーは机上の万年筆を手に取って、先端でエンプソンの顔の方を真っ直ぐ指した。

「新しく社員を増やそう」
「………は?」

エンプソンの大きな黒縁の眼鏡が、ずるりと顔から落ちた。





「そんな訳で、新入社員のロバート君です」
「………」
「こちらはエンプソン」

マッダーの言葉は本気だった。翌日の月曜日、オフィスには見知らぬ青年が1人立っていた。彼の目元はエンプソンと同様に長い黒髪で隠れており、然程高くもない身長は猫背によって更に小さく見える。シャツから覗く両腕は細く、ジーンズで覆われた下肢だってとても細い。ロバートは手に抱えたノートパソコンを開くと、突然タイピングを始め、打ち終えると同時エンプソンに画面を突きつけた。

『宜しくお願いします』
「え。…ああ、こちらこそ」
「ロバートには主にプログラミングの仕事をして貰う。故にエンプソン、貴殿は家事に専念してくれたまえ」

エンプソンの顔が固まった。要するに、昨日エンプソンが「家事も仕事もするのは厭だ」と唱えたから、なれば家事だけをしたまえと云う事であるらしい。出来れば家事ではなく仕事に専念したかったエンプソンではあるが、こうして新入社員が来てはその抗議も難しい…気がした。
エンプソンは洗濯物を入れる前、今まで空いていたデスクに座るロバートの顔をさり気なく一瞥する。銀のフレームの奥の双眸はどちらも綺麗な藍色で、自分のように目を抉られるなんて非人道的な事はされなかったらしい。
世の不条理を垣間見た気がしたが、一先ず大量のシャツを手にアイロンのある部屋へと向かう。何時も2人だったから、もう1人の誰かが居てパソコンに向かっているのは、何だか変な心持ちがした。





「デミグラスオムライスが、出来ましたよー」

昼餉の時間。割烹着を着たエンプソンがお皿を片手にそう云うも、オフィスから返事がない。見るとマッダーとロバートがパソコンを使って会話をしているようだった。さきもそうだったけど、ロバートは普通に話す事が出来ないのだろうか。エンプソンがそう思いながら近付いても、一向に彼等が気が付く様子はない。パソコンを後ろから覗いてみると、

『で、この2人の組み合わせがまじ萌えなんだけどどうよロバ』
『女体化して百合なら萌えです』
『薔薇のままのが旨くね』
『俺は腐男子じゃないんで』

「………」

てっきり仕事の話かと思いきや、エンプソンが理解しかねる趣味の話をしていたらしい。彼もマッダーさんと同類だったのか、そう落胆まじりにエンプソンが肩を落とすと漸くマッダーが彼の存在に気が付いた。

「うおわっ。見るなよエッチ」
「…昼ご飯。出来ましたよ」
「まじ? サンキュ」
『ありがとうございます』

ロバートがパソコンに打った文字に、エンプソンは苦笑を漏らす。もしや午前中仕事は何もしていないのでは、とロバートの机上を見てみたが、何とマッダーの判子が押された書類が綺麗に纏めてある。その量に驚いて目を丸くする程である。
あんまりに優秀な仕事ぶりに、エンプソンは肩身が狭くなる。もしかすると自分は思ったより役立たずで、マッダーに切られる日も近いかも知れない(家事なら恐らく誰だって出来得るし)。
その考えは、日を重ねる毎に自分を蝕むようだった。




「…新入社員?」
「おーう。ロバートって云うの」
「…エンプソン1人で充分って前云ってなかったか」
「そのエンプソンが所望したんですよ」
「で、仕事は」
「ロバートに任せまくり。エンプソンは家事に専念」

新入社員がきてから一週間が経過した。白兎の大広間で、その話を聞かされたアリスの表情はあまりよくはない。アリスは無糖の珈琲を口に近付けて、

「あんなに仕事が出来るのに、家事だけは酷だろ」
「ふむ」
「…その状態が続くなら、エンプソンを貰うけど」

チーズケーキを切る帽子屋の手が止まる。冗談ではなさそうなアリスの黒色の瞳を、オッドアイで静かに見据えた。

「…あんまりBL的に美味しくない」
「茶化すな。クイーンが優秀な人材を欲しがっていたところなんだ、エンプソンなら願ってもいないところだろ」
「アリスって贔屓するよな、エンプソンを」
「お前の対応は見兼ねる」

マッダーは暫し無言で居たけれど、突然フォークをチーズケーキの上に勢い良く刺した。装飾の派手なそのフォークを力一杯握ったまま、アリスの方をじっと見て、

「…アリスでもエンプソンを取るのはちょっと頂けない」
「それを本人に云ってやったらどうだ」
「やだね。解るだろ、遊んでいるんだって」
「解るからこそだ。…それに、そのロバートって奴はどうするんだ。そいつも駒扱いか?」
「駒? まさか」

マッダーは口角を大きく歪めると、まるで爬虫類が笑った時のような歪な笑みを作る。アリスはそんなマッダーを見て、彼女は普段無害なように振る舞うが、案外底が見えない程に底意地が悪い事を、改めて思い知るのである。

「彼もプレイヤーさ」

アリスがそれに対して何かを云いかけると同時、マッダーは素早く席を立ち上がる。そうしてテーブルに身を乗り出すと、驚愕するアリスの前で突然大きく手を振りながら、

「おーいラビ、アリスが今から貴殿と気持ち良い事したいってー!」
「は…?! げ、ラビ…っおい帽子屋、何ふざけた事を…ッ」
「早くこっち来てくれよ、アリスが待ってるぞー!」
「待ってない…! ッ帽子屋、後で覚えておけよ!」
「あっはは。またなー」

ラビが来る前にと素早く席を立って逃げたアリスを見送ると、マッダーは入り口近くのラビに手を振った。そのままラビの方へ歩み寄り、近くまで行くと挨拶をして、

「アリスが素直になれないそうだ。今晩相手してやれよ、溜まってるから1人遊びしそうって云ってたぞ」
「そうだと良いんだが。…帽子屋、アリスであんまり遊ばないように」

釘を刺されると、マッダーの笑みが若干消える。マッダーは自分の髪を人差し指で弄りながら、何時もより多少低めの声で、

「…貴殿のそう云う、自棄に聡いところはあまり好きじゃない」
「褒め言葉として受け取っておこう」
「そう云うところも。…まあ、本当に応援はしているがね」
「何の?」

ラビがそう尋ねると、マッダーは大仰に肩を竦める。彼女はラビのそう云ったところが好きではなかったが、それは多分同族嫌悪と同じ感覚と云えた。

「解っている癖に。見ないフリはもうしないんだろ、そう云うの、わざとらしいからやめ給えよ。…切り刻みたくなる」




飽きました。因みにロバートは本当は帽子屋の取引先の社長でエンプソンを揶揄しているだけ、普通に話せる意地悪な好青年キャラでした。

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3.日本話


 アリスは朝起きて、枕元に己の愛刀が無かった事に酷く動揺した。師匠から托されたそれを今まで側から離した事は無かったし、そもそも誰かが愛刀を奪うまで接近してきたら反射的に身体が起きるように厭と云う程師匠から散々仕込まれてきた筈だった。
 日本刀を置いていた場所には代わりに一枚の紙がある。それを拾って見ると何処かの家紋がでかでかと印刷されてあるも、文字等は一切無い。アリスは見覚えの無いそれを訝しむが日本刀を捜す事が優先だ、部屋を見渡して日本刀が矢張り無い事を確認すると慌ただしく襖を開ける。
 白米を茶碗に盛っていたエディスは乱暴に襖を開けてきたアリスに驚くが、彼の寝巻は何時もよりも粗末に開けている。無防備に見える彼の上半身にエディスはみるみる耳まで無花果のように赤くなるが、アリスはそんな彼女の様子には気が付かないようで、

「エディスっ、日本刀を知らないか」
「へ、へ? 妾は知らな、いえその、先ず、服を――、あ、」
『…何みっともない恰好をしておるこの莫迦弟子』

 既に黒色の軍服を着たロリナから頭を新聞で叩かれて、アリスは漸く気付いて寝巻を直す。エディスは顔を火照らせながらも平静を装って茶碗に白米を盛るが、全然平静ではなくて茶碗に盛られた白米は茶碗の二倍も三倍もあった。
 ロリナはアリスの右手に握られた紙を見ると黒の目を鋭くし、その紙を奪い取る。家紋の印刷されたそれを見るや眉を大いに顰め、不思議そうな顔をするアリスの胸元に紙を押し返すと、

『莫迦弟子、何かなくしたな』
「…え? ああ、日本刀を…」
『盗られたな。莫迦者が』
「え、ええ?!」
『それは忍術使いの仕業だ』

 忍術使い。アリスは過去の遺跡に思えるそれに反応が遅れたが、ロリナの顔は至って真摯的なもので冗談を云っているとは到底思えない。
 こちらもさも当然そうな顔をしたエディスは膳の用意を終えたようで、だし巻き卵と焼き魚と漬物と蜆の味噌汁の用意された机上を手で示して「どうぞ」とアリスに云う。至極当然に腹を空かせたアリスは一旦座って箸置きから箸を取るが、今の時代果たして忍術使いなんて居ようか――と思う。ロリナに聞こうと隣を見たが、彼はどうやらアリスを手伝ってはくれないようだった。

『日本刀を取り返したいのなら自分でどうにかせいよ』
「……はい?」
『ワシはもう、あのような輩共に関わるのは御免だからな』

 まるで以前彼等と関わった事があるような云い草に、アリスの不可解さは益々色味を増した。然しそれきりロリナは何も云いたくなさそうな気配を見せるので、詳しく尋ねたかったアリスは白米を嚥下すると共に言葉も嚥下する。
 唯一の友人に今日尋ねてみようか、そう考えながらアリスは胡瓜の漬物を美味しく咀嚼した。







「…え、アリスさん忍術使いを知らないのですか?」
「お前も知っているのか、と云うか知ってて当然なのか?」
「そりゃあ…、有名ですから」

 アリスが知らなかったのを信じられなさそうな顔で見る小鳥遊に、アリスは自分の世間知らずさに厭になる。小鳥遊曰く忍術使いとは絶滅してなんていないそうで、代表的な甲賀と伊賀の里も未だ現存するそうだ。
 忍術使いは普段人里離れて暮らしているそうだが、稀に人里に降りて来もするし、中には普通の人間と結婚してそのまま暮らす者も居ると云う。その際は忍びの掟に従って幾つかの厳密な儀式が行われるのだと。



忍者と闘うお話が書きたかったのですが、1年近く放置されていたので。この後は忍者屋敷とか投げ苦無使う小鳥遊とか小鳥遊の忍者のお祖父ちゃんとか出す予定だったんです…

終わり。


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