彼に僕の部屋でキスをした。
 唇が触れた瞬間彼は何時ものように抵抗を試みたが、僕が彼の頬を押さえて口付けを深くすると、彼はその内大人しくなった。先程一緒に食べた苺のケーキの甘い匂いが充満する中で水蜜桃を貪るように唇を飽くまで潤わせていると、彼はさきまで拒否を表した手を僕の背中に回し、縋り付く動作で受容を示した。単純なもので(まるで骨を与えられた仔犬のように)僕はすっかり機嫌を良くして、空気中に分散された生クリームの味を味わうと同時に彼の舌を絡め取る。小さな呻き声は聴くに当たって非常に心地好く、何時まで経っても初々しい反応を示す恋人が愛おしい。愛娘へのその溺愛さ故に「食べてしまいたい」等と云う父親が世の中には居るが、正に僕もそれだななんて莫迦な事を考える。柔らかな髪を掌で味わいながら、僕は唇の角度をそっと変えて恋人を愛した。
 長い愛情表現が一旦途切れて彼と目を合わせた時、おや、と僕は思った。僕を見上げる彼の双眸はよく澄んだ藍色だったのだ。可笑しいな、彼の瞳の色は深海の色ではなくて全てを呑み込むような深夜の色だった筈だけれど――だなんて僕がじっと考えていると、彼は僕の背中へ回した腕の力を強くした。

「アリス?」
「……」
「…アリス、」

 どうかしたのだろうか、と僕が彼を抱き締めようとした時だ。
 ゴポ、と背後から不気味な低音が耳の直ぐ側で鳴り響き、僕は反射で後ろを振り向いた。そこでは締めた筈の水道から藍色の水が音を出しながら徐々に流れて来て、どんどん落ち行くそれは際際を知りもせず只ひたすらに溢れ出す。とうとう水道管を破裂させてしまうのではないのかと思える位に勢力は強くなってきて、何かをする暇もなく蛇のような水は僕の足に牙を立てた。
 アリス、と彼の名を呼んでこの現状をどうにかする前に、藍色の瞳を僕から外そうとしない彼の濡れた唇が薄く上がる。そうして彼は確かに 沈もう と美しく囁いた。水が僕等を呑むと同時彼は僕の唇を奪って、不思議な事に苦しさは何もなかった。唯唯触れた唇が気持ち良く、 ああこんな死に方もあながち有りかも知れない 等とふざけた考えが頭を支配した僕は、そうあるのが当然のように左目をゆっくりと閉じた。驚く事に冷たさは感じなく、まるで胎内に回帰したかのような酷く安心する感覚に見舞われる。コンセントをぷつりと抜いたテレビのように、僕の意識はそこで途切れて真っ暗を映した。




---



「…ビ、ラビ、」

 何度か貴方の名を呼ぶと、ベッドの上で瞼を優しく閉じた貴方はまるで宝箱がゆっくりと開くように静かに目を開けた。貴方は未だ眠そうな顔をしていたけれど、俺を認識すると執拗に瞳を覗いて来る。自棄に念入りなそれに俺が居心地の悪さを感じて視線を逸らすべきか否かで少し悩んでいると、彼は桃色の唇を薄く開き、

「……黒い」
「は? ……そりゃあそうだろ、…って、んっ、」

 突然手を引かれたかと思うと唇を重ねられて、驚愕した俺は貴方を突き放そうとしたけれど、貴方の舌が俺の舌を構うと突然動けなくなって――腕の力は何時しか抜け、貴方のシャツの端を申し訳なさ程度にそっと掴んだ。ああまた揶揄されるのではと羞恥と愉悦の葛藤を憶えていると、余韻を残してお互いの唇が離れる。此処で貴方は何時もなら飽きもせず愛の言葉を耳元で囁くか瞼の上にでもキスをしてくる筈なのに、貴方は迷わずキッチンのある後ろを振り向いた。一体何があるのだろうとつられて俺もそちらを見るけれど、生憎変わったものは何も見えない。それは貴方だって同じなようで、貴方は少し納得が行かないように俺と向き合った。

「……どうしたんだよ、」
「……いや、只、」
「只?」

 少し心配になった俺に、貴方は不思議な事を云う。

「沈んでみようかと思って、」

 その言葉の真意が分らず俺は呆けたが、ややして貴方に 何に? と尋ねた。尋ねてから沈むと云うなら海等ではないかと至って、己の莫迦さ加減に愛想を尽かすと共に益々不可解になる。キッチンと沈む事と、果たして何の関係性があるのだろう。
 然し貴方はそんな懊悩する俺に、いとも簡単に当然のようにそのとんでもない言葉を口にした。

「愛に」

 真意を突き付けられた俺は咀嚼すると同時耳まで真っ赤になったのが分って、貴方に思わず可愛げもない(なくて自然なのだけど)暴言を吐くところだったけど、疲れてそれもままならない。雑言を吐く代わりに俺は貴方の顔を覗き込み、目を硬く瞑って軽くキスをした。
 目を合わせるのが恥ずかしくてそのまま俯いてしまい、とうとう顔を上げるタイミングを逃す。今この時にも貴方が俺の名を呼ぶにも関わらず、俺は首を小さく横に振る。だって貴方は狡いのだ。俺のこの些細な行動で困る位はしてくれたって良いだろう。


 ……だってそんなの、俺だって沈んでしまいたい。



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